2012年3月10日土曜日

ウオッチマンが必要とした交わり

 一人の中国人として彼が西欧の宗派が輻輳して過剰に存在することを大きく否認したとき、共感する読者は賛意をあらわしたが、「地方性」すなわち、世界のどこにおいても一都市、一教会だと彼が厳格に強調するとなると躊躇した。それは聖書からする可能な結論であり、それだけにすぎなかったのだが。 新約聖書の書き手は誰もそれを原則だとは断言していない。ある聖書学者がそうなると新約時代おそらく百万の住民がいる一つの市にあてて書くことになると鋭く指摘したように、パウロの手紙は「ローマの教会へ」というふうには宛名書きしていない。ニーは何百万という西欧の都市の信者にとにかく新約聖書の経験を取り戻すためには、新約聖書の人口数に戻すことを求めているように思えた。
 
 多くの人はこの問題を半生以上にわたって考え抜いた。それは、自ら手にする聖書と数世紀間にかけ新たな始まりから生じ大きくなっていく複雑な証拠とを正直に謙虚になって神様の前に持 ち出すことだった。私たちのすべてにとって基本的に小アジアかあるいはイギリス・サクソニアの「理想的な」社会状態に戻らないことが前進であったのか、と彼らは問うた。このようにして、たとえば、ウオッチマンの友人であるT・オースティン・スパークスは、むしろキリストのからだの奥義と今日この世で様々な体験を与える聖霊の自由、天にあるかしらであるお方に対する証を強調する道を選んだ。「ひとつのからだとしての教会、個々の教会、からだとしての教会の秩序、教会の働きを理解するためには」(と、彼は「私たちの宣教に関して」という彼自身の原稿に書いたのだが)「キリストである神の包括的観点から始めることが肝要である。あらゆる神の分野、道においてキリストを知ることは教会がどうあるべきかを知ることである。すべては『キリストのうちに』あるのだ。」

  12ヶ月のち上海において私たちはニー自身が教会に対してやや類似した観点で表現していることに気づく。「私たちの立場は、それゆえに、いかなるところにあっても、主のものであるすべては、私たちのものであるということだ。なぜなら私たち自身がキリストのものだからだ。そして主のものでない人しか私たちのものではない。もしハードーン・ロード※がそもそも働きの一つの方法となり、その方法にしたがって地方教会に対する関心が単なる地域主義の概念に道を譲るとするなら、その時神は私たちをあわれんでそれを粉砕するかもしれない。なぜならそれは霊的な価値を持たなくなるであろうからである。私たちは決して次のことを忘れてはならない。つまり主が自由に働かれるすべての人は主にある私たちのものであるということであり、いかなる場所においてもそれはひとつの霊的な地方教会ですらなく、私たちが築き上げるように召されている教会という、それこそキリストのからだそのものであるということである。」※上海、1940年7月11日
 
 しかし、この二人の間の理解と暖かい友情は深められたが、この特別な論点に関しては、それぞれが同じ考え方にいたるまでには少し時間がかかった。二人は新しいぶどう酒については何ら相違はなかったが、ウオッチマンの関心はぶどう酒を入れる皮袋にあった。彼の特別な問題は健全で神的な様式に対して伝統に左右されない働きを広げ、拡大するように調整することであった。来る年も来る年も彼はそのことに取り組まねばならないことを予期していた。しかし、もし西欧で彼が望んでいたすべての実践的な助言が得られなかったとするなら、質問する時点では、彼が求めたことはどこにあっても十分な答えが得られなかったということが認められるに違いない。
 
 上海に戻って数ヶ月、ウオッチマンはオースティン・スパークスに自分が一人の指導者として孤独を訴える便りを返事として書いた。「あなたが知っておられるようにここにいる兄弟たちは年少なので主の御心を求めることは除いて 私の言うことはどんなことでも通るのです」それゆえに、非常に短い期間のうちに二人の間で成長して来た交わりについて、彼は言うのであった。「主はいつも 私に話してくださいました。年少の者として、あなたが同じ証を持つ年上の兄弟だとわかっているので、私はあなたとの大変生きた交わりを必要としているのです」なお実際に彼らはよく手紙のやり取りをしていた。依然として中国には彼と同じ水準の人で、必要な時には相談できるような中国人にしろ西洋人にしろ現われてこなかった。まことに私たちにとっては悲劇であるように思われることは彼に対する主な影響は非常にしばしば女性であったということであった。ドラ・ユー、 彼の母、マーガレット・バーバー、ルツ・リー、エリザベス・フィッシュバッハーすべてしかりである。そして彼が本格的な学びをするために自らに課した制約のため、熟練した人たちとの刺激的でかつ切磋琢磨する友情が彼から奪われたことも数えられるかもしれない。

(『Against the tide』by Angus Kinnear154〜156頁。※のハードーン・ロードとは上海におけるフランス租界地のようだ。今日の箇所はウオッチマンが教派の教会の存在を否定していることとオースティン・スパークスのキリストのからだの奥義の理解とがどうつながるか、また彼らの間の親密な間柄を知る上で重要な目撃証言だと思う。このことは第 8章The old wineskinsでくわしく扱っており、その知識が必要な気がした。取りあえず第12章Rethinkingは今日の所で終り。次回は第13章Heydayに入る)

こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。(新約聖書 使徒9:31)

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