上海のある人がウオッチマンに小型自動車フィアットをあげた。自動車は車庫にしまわれてほとんど使い古したものだったが、彼は時々長い足を折り曲げては、数人の仲間の同労者と宣教に車で走った。あるとき、マラヤから訪ねて来たフェイスフル・ルカと一緒に杭州に一人の若い同労者、ステファン・カウング(彼らは、彼の聖書教師としての賜物は将来大きく実ることに意見が一致していた人だが)の宣教を知るために車で出かけた。ステファンと彼の妻はしばらくシンガポールの働きを助けるために教会によって派遣される予定だったが、侵攻する日本軍を前にしてかろうじてそこから逃げて来ていた。
神様がニー夫妻を懇ろに取り扱われる幸福なしるしもあった。ある日、二人は一人のご婦人にお茶に招待された。彼女はチャリティーに小包を手渡してびっくりさせた。開いてみると、ウオッチマンが結婚記念に贈った聖書だった。その聖書は日本軍が上陸してから家から姿を消していたものだ。これには一つの話があった。一人の中国人宣教師がアイルランドの集会で話していて、その話の途中で「もし中国語の聖書がありさえすれば、このくだりははるかにもっとはっきりと説明できるのですがね」と思わず叫んだのだ。ところが驚いたことにすぐ中国語聖書が差し出されたのだ。「どのようにしてあなたはこの聖書を手に入れたのですか」とその中国人宣教師は尋ねた。明らかになったことによると、友達の息子が租界地のイギリス軍にいたが、略奪品を得ようとして空の部屋に入って一
冊の本を取りあげたのだった。本の見返しのところに英語が読めた。「この本を読むことはあなたを罪から守る。さもなければ罪はあなたをこの本から遠ざける。」これは聖書に違いないと彼は思い、それを記念として持っていたのだ。
宣教師は献辞を見て、そこに中国語の名前があることに気づいた、それは「ウオッチマンからチャリティーへ」と認めてあった。宣教師は頼んで、すぐに返してもらう許可が与えられたのであった。
ニーお母さんは、絶えず動き回っており、香港で夫とは離れて長女のクウェイ・チェン(チャン夫人)と一緒にいたり、しばらくは上海のウオッチマンとチャリティーのところに滞在したりしていた。教会の中では一人の姉妹に過ぎなかったが、家に帰ると依然として支配的な母親であった。彼女はいつも病人のために福音を伝えたり、祈ったり、専門職にある人からアヘン中毒者にいたるまでの人に証をするのであった。しかし彼女は息子を大切にし過ぎ、彼が自分で訪問に出かけるとき、誰も彼に食べ物を与えようとは思いもしないのではないだろうかと心配するのだった。このことは彼をいらいらさせたことであろうが、今にいたるまで彼は先祖や親のしつけをいさぎよく受け入れて来た。
「時々私たちは間違った家庭に生まれて来たにちがいないと思うものですよ、」彼は1940年6月に仲間の同労者に話したことがある「けれども、神様は私たちが誰それの子どもとなることを決めておられたのです。主のために特別な働きをなしたヨセフは違った兄弟たちを願ったこともあったかも知れません。しかし「神は」とヨセフは言うことができたのです「私をあなたがたのいのちを守るためにあなたがたの前に遣わされたのです」と。私たちの全生涯はまさしく、単に私たちの救いの時からだけでなく、神様によってご自身の最高の目的を達成するのにふさわしく準備されているのです。サムエル、イザヤ、エレミヤ、パウロ、すべての人は必要が生ずる前に長い長い準備がなされた神の人だったのです。「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(註:ローマ9:16)
1941年12月7日、土曜日、日本軍はホノルルの真珠湾を攻撃した。まるで天が上海の五百万人の人々を嘆くかのように、霧雨の降る中、翌朝8時に、日本軍はアメリカ軍、イギリス軍の黄浦江に停泊中の小型砲艦を沈めて、入港し上海の公共租界地やフランス租界地を占領した。行動は素早く完全であった。有刺鉄線のバリケードが道路を横切って投げ出され、車は徴発され、自転車が貴重品になり、バスは姿を消し、食料価格は直ちに高騰した。難民の間の死亡率が増すにあわせて、倉庫には遺体がうず高く積まれた。町で亡くなった人は誰一人として埋葬するために運び出されることはなかった。犯罪がたちまちのうちに増えたが、日本軍は構わなかった。中国人の恐ろしい報復の恐れが犯罪者を守ったのだ。
1941年12月18日香港で、ウオッチマンの父は突然心臓マヒで亡くなった。ちょうど一週間前は日本軍が香港を占領した時だった。彼は64歳であった。日を置かずしてウオッチマンは現地へ出かけ葬儀の準備をすることができた。ニー・ウェング・シュー(Ni
Weng-hsiu)は神様のまことのこどもとして亡くなった。
(『Against the tide』by Angus Kinnear 165〜167頁。今日のところで第13章Heydayは終わった。今日の火曜の学びはネットで参加した。重田さんは1テサロニケ5:16〜18を語られた。「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「すべての事について感謝しなさい」いったいそんな事が人にできるのであろうか、と多くの人は思われることだろう。しかし、偶像の神でなく、全知全能の主に祈る私たちはそのことが可能である、と語られた。ウオッチマンの今日の記事もまたやはり重田さんのメッセージと全く同じである。一方今日の証者は私と郷里が同じ方で、主にある愛をとおして昨年末から交わりをいただいた方だった。そしてこの方の背後にも主の大いなるご計画があったこと、これからもあることを感じることができた。)
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