ウオッチマンがいない間にほんのしばらく兄弟間に仲違いが生じたが、説教の間隙はジョン・チャング、それにとりわけ眼科医であったC.H.ユー博士によって埋められた。ユー博士は背丈は小さく、繊細で上品な物腰の態度だったが、音楽好きでもあり、時々歌い手に加わってバイオリンを奏でたりもした。話し手として彼は末頼もしい素質を現わした。彼は主を愛しており、主のみことばに敏感な人であった。
1939年9月の第一日曜の朝に、ウオッチマンは教会にヨーロッパの緊張状態のために祈ることを要請した。数名の兄弟たちがその集会を導く上でウオッチマンと一緒に行動することを求め、彼は「教会を彼と一緒に神様のご臨在のもとへと歩を進めさせた」。彼の主張はこの危機においては主の御意志以外の何ものもなされるはずがないというものだった。かなり多くの人が参加した、この非常に印象深く過ごした時の終りに「主なる神様、あなたはあなたの教会が祈らなかったとは決しておっしゃらないでしょう」という祈りのことばで締めくくった。
月曜の祈り会と日曜の夕べのパン裂きの両者が今や町の数軒の家庭で分けて持たれ、
信者たちは神様が日本の居留地に向けての侵略を抑えてくださるようにと強い執り成しの祈りを始めた。そのために、ウオッチマンは彼らの考えが明確になるのを手助けするために、1940年の初頭には「中国人(あるいはイギリス人またはアメリカ人)に対してではなく、キリストにある男性や婦人へ」という、神様は世の統治を用いられるというテーマで話をした。ペルシャのクロス王からスペインの無敵艦隊にいたるまでの幅広い範囲で、彼は神様による世俗の歴史の整序がどのようにしてご自身の民と本質的に関係しているかを示した。
「だから、私たちは祈り方を知らねばなりません。イギリスとドイツ、中国と日本のキリスト者が一緒に膝をかがめて祈り、全員が求められていることにアーメンと言うことができなければなりません。もし可能でないなら、私たちの祈りに何か間違いがあるのです。私たちは神様に日本がどんな態度を神様に取っているかを思い出させるようにするでしょうが、私たちもまた中国のキリスト者や宣教団体のうちに(この世の)国家とはるかに親密関係を持っていることを思い出していただかねばなりません。先の欧州戦争において神様の御名が汚された祈りがたくさんありました。私たちは同じ過ちをしないようにしましょう。教会は国家問題の上に立ち、『私たちは中国の勝利を求めているのでもなく、また日本の勝利を求めているのでもありません。たとえどんなことであっても、あなたにとって大切な一事やあなたの御子の証の益になることを求めているのです』
と言わねばなりません。そのような祈りは決して空しい言葉ではありません。もし全教会がこのように祈るなら、戦争はすぐ神の方法で解決するでしょう」
(『Against the tide』by Angus Kinnear第13章「Heyday」158〜159頁より。今日の箇所を通してウオッチマンが日本との戦争の中で中国人キリスト者として何を考え、どのように行動しようとしたかを知ることができる。
今日も火曜の学びに出させていただいたが、「もし政治家が聖書のことばがとこしえにかわらない絶対的真理だと認め、それに従おうとすれば、この世界の問題はいっぺんに解決されるのに」と言われた。ウオッチマンの上記の行動と一脈相通ずるものを感じた。学びにおいて、肝心要〈かんじんかなめ〉なこととは、先ず私が神に対して叛く罪人であり、神の前に失われた者であることをはっきり認め、そこからの救いが聖書には約束されていることをつねに知り続けることだと教えられた。次回ご紹介するウオッチマンの行動とも関係することだ。今日の学びの引用聖句のひとつを下に掲げさせていただく。)
今日も火曜の学びに出させていただいたが、「もし政治家が聖書のことばがとこしえにかわらない絶対的真理だと認め、それに従おうとすれば、この世界の問題はいっぺんに解決されるのに」と言われた。ウオッチマンの上記の行動と一脈相通ずるものを感じた。学びにおいて、肝心要〈かんじんかなめ〉なこととは、先ず私が神に対して叛く罪人であり、神の前に失われた者であることをはっきり認め、そこからの救いが聖書には約束されていることをつねに知り続けることだと教えられた。次回ご紹介するウオッチマンの行動とも関係することだ。今日の学びの引用聖句のひとつを下に掲げさせていただく。)
みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。(旧約聖書 詩篇119:160)
みことばのすべてはまこと…嬉しいです。
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