「お母さん、私は宣教師として献身したいと思います。どうか心配しないで下さい、その代わり私は、月給の内を割いて、お母さんのもとに仕送りをいたします。そして妹のスザンとジェニーとが儲けてくるお金と合わせて、きっとお母さんが幸福に過ごせるようにします」
その時の母の殊勝な答えは、
「メリーよ、私は喜んであなたを行かせます。どうか立派な宣教師になって下さい、神さまはきっとあなたをお守りくださいますよ」
という一言であった。
二三の彼女の友達は彼女のそうした決心を怪しんだ。彼らはメリーが特別に勇敢な婦人というわけでもないということをよく知っていた。いいえ、彼女の臆病なことは彼らの間のからかいの道具となっていた程であったのです。
「まあ、メリーさんが? あの人ったら、犬でさえおっかない癖に! あの人は町中で、向こうから来る犬を見つけでもしようものなら、たちまちに路地か物陰に身を隠して、その犬が通り抜けるまで出て来ることが出来ない程の臆病者なのよ」
と彼らは話し合った。たしかに彼女はそれにちがいなかった。けれども彼らは、愛はすべての恐れを除くということを忘れていたのであった。
彼女は自分が送ったエジンバラ市の合同長老教会外国伝道局宛の志願書に対して返事の来るのを、恐れとおののきをもって待っていた。吉報いかにと一日千秋の思いで待っていたその返事が彼女の手に届いた時に、彼女はお母さんのもとに飛んで行って、
「私、受け入れられましたよ。嬉しい! 私はいよいよ宣教師となってカラバーに参ります」
と言いながら、嬉し泣きに泣きくずれたのであった。
長い年月の間、工場の壁の中で働いて、機で織物を一生懸命に織りながら、忍耐して待っていた彼女は、今やアフリカの最も未開な蛮地と言われている所に行き、蛮人の命を新しく美しい模様に織り込もうとしていたのであった。
(『命がけ メリー・スレッサー 原題 Calabar Mission Field in 1875 When Miss Slessor Arrived』W.P.リビングストン著森溪川訳1971年35〜37頁より引用。)
愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。(新約聖書 1ヨハネ4:7、18)
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