2013年10月31日木曜日

永遠のいのち(上)

今の読んでもらいました箇所をもう一回読みます。ロマ書5章の18節(です)。

こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

このいのちとは単なる生命ではない。言うまでもなく、「永遠のいのち」です。21節を見るとわかりますね。

それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

言うまでもなく、「永遠のいのち」は聖書の中で、もっともたいせつな真理なのではないでしょうか。どうして(でしょうか)。三つの答えがあります。第一番目、「永遠のいのち」を持っていない人は誰でも天国に行くことはできないからです。第二の理由として「永遠のいのち」はイエス様がこの新しいいのちを与えるために、この世に来られなければならなかったから、たいせつです。三番目に「永遠のいのち」は、人間の永遠の運命を決定しますから、聖書の中のもっともたいせつな真理です。この三つの点について簡単に一緒に考えて見たいと思います。

先ず第一番目、「永遠のいのち」を持っていない人は誰も天国に行くことはできません。天国には主なる神のいのちがあるだけです。そのほかのいのちは天国にはありません。この「永遠のいのち」すなわち、「主なる神のいのち」を持っている人だけが天国へ行きます。そうでない人は天国へ入れません。ですから、「永遠のいのち」が聖書の中で一番たいせつにされていることなのではないでしょうか。どんな人間も「永遠のいのち」を持たなければならない。ですから、これは欠くことのできないものです。

聖書によると、すべての人々は、「永遠のいのち」を持っていないから死んでいるのです。すなわち、霊的に死んでいるのです。一ヵ所読むとわかります。エペソ書2章、342頁になります。エペソ人への手紙の2章1節から3節までお読みします。パウロのエペソの兄弟姉妹に書き送った文章です。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

ロマ書6章の最後の節23節に、皆さん何回もお読みになった箇所ですが

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

「永遠のいのち」とは、勉強した結果、努力した報いではなく、賜物です。最高の宝物です。ここで 「罪から来る報酬は死である」と言っています。死ぬであろう、なのではなく、「死んで、現在(いま)死んでいる」と言っています。この死は将来のことでなくて、今ある死です。この死はわれわれの葬式を意味しているのではなく、罪に死んでいる人間の今の状態を言うのです。

人間は三つの要素から成っています。それは精神と魂と肉体です。創造主が人間をそのようにお造りになったのです。けども、主なる神がエデンの園に人間を置き、その園を耕し守らせられた時、主なる神は、人間に「善悪を知る木」を注意するようになさったのです。主なる神は、人間に、(創世記2章17節を見ると)次のように言われました。

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。

けども、3章を見るとわかります。人間は主なる神の言うことを聞こうとしなかった。聞く耳がなかったから、取って食べました。その第一の人が罪を犯したとき、その人の何が死んだのでしょうか。「食べると死ぬ」と言われた。彼は取って食べた。けど何が死んだのでしょうか。体でしょうか。もちろん、そうじゃない。アダムの体は以前と全く同じように生きていました。それともその人、アダムの魂が死んだなのでしょうか。アダムの理解力が死んだのでしょうか。感情が死んだのでしょうか。決してそうではない。アダムはまだ考えることができたし、感ずることもできたし、計画することもできたんです。前と全く同じです。そしたら、何が死んだのでしょうか。聖書によると、精神が死んだんです。

アダムは自分の精神によって主なる神との交わりを持っていたんです。罪を犯す日まで主との交わりを持っていました。しかし、罪を犯したその時、主なる神とつながりが消えてしまいました。交わりがなくなったのです。ですから、人間の精神は生き返らなければなりません。生まれながらの人間の体は生きています。魂も生きていますけど、精神は死んでいます。そしてその精神を新しいいのちで新しくされなければなりません。生まれながらの人間は主なる神によって永遠のいのちを精神にもらわなければなりません。さもないと、永遠に死ななければなりません。「永遠のいのち」がなぜ聖書の中でそんなにたいせつな真理であるか、そのわけは、どんな人も「永遠のいのち」を持たなければ、永遠に死んでしまうという点にあります。

(昨日の昼間行なわれた家庭集会の聞き書きである。二年前の10月一人のご高齢の方が病床で息を引き取られた。しかしその二日前やはり家庭集会に来られたベック兄から慰問を受けみことばを聞かれた。もはや会話はできなくなっていたが、意識の朦朧としている中で、奥様からペンをもぎとるようにして手にされ、「これで十分だ」と書かれた。主イエス様を受け入れることによって「主なる神のいのち」をいただかれたからだ。)

2013年10月30日水曜日

「宗教」と「啓示」(最終回)

再び浅間山 2013.10.12
神は第一に自然界の被造物を通して、第二に御子イエス・キリストを通して、第三にみことばを通して、ご自身を「啓示」して下さいました。第三にみことばを通して、ご自身を「啓示」して下さいました。しかしこの神の「啓示」も人間がそれを信じなければ、何の意味も持ちません。信仰がなければ、神を知ることはできません。信じたいと願う人には、神は助け主である聖霊を送って信仰を与えて下さいます。この信仰によって私たちは被造物に現わされた創造主なる神を知ることができます。またこの信仰によって、私たちは御子イエス・キリストに現わされた、神ご自身の本質を知ることができます。またこの信仰によって私たちは聖書に現わされた神のみこころについて知ることができます。これらは、上から、つまり神の側から人間に与えられた三種類の啓示であり、人間はこの啓示を幼子のような素直な心で受け入れるならば、神ご自身を体験的に知ることができるのです。神の力は被造物に現わされており、神の愛は御子イエスに現わされており、神の義はみことばのうちに現わされています。

神を知りたいと思う者は、神に近づく必要があります。そして、神に近づくためには、自分が神の前に罪人であることを認め、その罪を悔い改めることが必要です。しかし、聖霊が働かれなければ、人は自分の罪を認めることも悔い改めることもできません。そして悔い改めには信仰が伴わなければなりません。罪を悔い改め、イエスを救い主として信じた者の心には聖霊が宿り、新しい生まれ変わり「新生」を体験するのです。聖霊は理性に光を与え、魂に喜びを与え、人間に正しい判断力を与えてくれます。こうしてイエスを救い主として受け入れた人は、今までとはまったく違う新しい人生を歩むようになるのです。そして、真理に対して心を開く者は、必ず次のように言うことができるようになります。

私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。(ヨブ40・4)

私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ42・3)

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。(ヨブ42・5、6)

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1・12)

しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3・7、8)

(「実を結ぶいのち」146〜147頁より引用。先週火曜学び会でKさんたちとお出会いする中で、この「宗教」と「啓示」の文章をもう一度確かめてみたい思いになって五回に分けて載せさせていただいた。ところが昨日の学び会によもやと思われたKさんが再び現われた。今回は前回と違って、集会開始時間11時に間に合い、メッセージも証も聞くことができたと言われた。そして再び、「啓示」のすばらしさ、みことばのすばらしさを賞賛された。ベック兄は人々には未来は不確かである、それゆえ不安・恐れが伴う。しかし主イエス・キリストを信ずる信仰者にとって未来は確かである。どこに根拠があるか、それは主のみことばである。そしてみことばは「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」と約束してくださっていると前置きしてテサロニケ第一4章から先週に引き続いて語られた。再びKさんは私は今まで集会の冊子を見る度に学歴の優秀な人ばかりが証をしていて、私には関係ないと思っていた。しかしそれは私が劣等感に囚われていただけで、そんなことは主の前には何の関係もないのだ、悔い改めさせられたと言われた。私は先週ベック兄が語られた主の怒りの日に主を信じないすべての人がその怒りから守られようと岩の間に身を隠すと紹介されたくだりを思い出した。黙示録6・15〜17である。「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」そして七という完全数が示すように、ここに出てくる7種類の人々はすべての人間を代表する者だと言われた。学歴があろうとなかろうと、善良であろうとなかろうと同じように主の怒りは燃えあがる。あだや啓示のみことばに不忠実でありたくない。)

2013年10月29日火曜日

「宗教」と「啓示」(4)

朝ぼらけ 秋明菊 輝けり
第二に、神は御子イエス・キリストを通してご自身を「啓示」して下さいました。私たちが自然界を通して知ることのできる神は、「全知全能なる神」、「裁き主としての神」であり、この神の前に私たちは畏れおののかなければなりません。しかし、一方で、神は、私たちの罪の問題を解決して恵みを与えて下さる方であり、主イエスの贖(あがな)いのゆえに、私たちの状態をのろいから祝福に変えて下さる方であり、私たちの霊の父となって下さる方です。ですから神がご自身を御子イエス・キリストのうちに「啓示」して下さることがどうしても必要なのです。

神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1・1〜3)

自然界は神の造られた作品ですが、御子イエス・キリストは、「神の本質の完全な現われ」です。これこそ、上から与えられた神の偉大なる啓示です。主イエスについて知ることによって、私たちは神を知ることができるのです。これこそ、神の側から私たち人間に与えられた「上から下へ」の道であります。主イエスは「ヨハネによる福音書」の中で、次のように語っています。

あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。(ヨハネ8・23)

神の本質がどういうものであるかということを、私たちは主イエスを通して知ることができます。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1・18)

御子イエスは神ご自身の完全な現われです。私たちはイエスを通して、主イエス・キリストの父なる神、愛と正義の神、生けるまことの神、また聖なる神を知ることができます。これは主イエスを救い主として受け入れた者だけに与えられる特権です。神の愛をとらえるのは、人間の理性ではなく、感情でもなく、霊です。この霊によって私たちは、御子イエス・キリストを通して現わされた神の愛を知ることができるのです。イエス・キリストを通して、主なる神は、私たちひとりひとりに、個人的にご自身を現わしたいと願っておられるのです。

神はこのように御子イエスを通してご自身を「啓示」しておられるのですから、人間にはこのイエスを受け入れるか拒むかという決断をする責任があります。イエスを受け入れる者は、新しい生まれ変わりを体験します。聖霊によって、その人には、新しい人生の目的と価値観が与えられます。またこの聖霊は、日々救いを受け入れた者と共にあって、真理に導いて下さいます。ところがイエスを拒む者は神の愛をも救いをも拒むことになり、その結果、自ら滅びの責任をとらなければならなくなります。私たちは、御子イエスを通して、贖いを成就して下さる方としての神をはっきりと認めることができるのです。

それでは、一体どうしたら私たちは主イエスを知ることができるのでしょうか。これはみことばを通してです。私たちはみことばを通して主イエスをはっきりと 知ることができます。これが第三の「啓示」です。主イエスはこの地上におられたときは人間の目に見えるかたちでご自身を現わしてくださいましたが、今日では、聖書を通してご自身が全人類の贖い主であることを明らかに示して下さっています。聖書は、聖霊によって記された神のみことばであり、私たちはこの聖書によって、主なる神のみこころを知ることができ、贖いの意味について知ることができ、万物の存在の目的について知ることができるのです。神が人間に望んでおられることはみことばを通して人間が神のみこころを明らかに知ることができ、自分のわがままな意志に従って生きる生き方を捨てて、神のみこころに従って生きるようになることです。神のみことばを拒む者は、神とのあらゆる交わりを閉ざしてしまうことになります。

(「実を結ぶいのち」143〜146頁より引用。「御子は神の本質の完全な現われである」とは上述のみことばが示すイエス・キリストである。古今東西様々の画家がイエス・キリストを何とか描きたいと作品にするが、どんな画家の力作をもってもあらわしえないのではないだろうか。映画『ベン・ハー』が成功しているのはイエス・キリストを俳優をもって表現しなかったところにある。しかし、私たちが素直に聖書の表現するイエス・キリストを受け入れ、信頼するとき、私たちの霊はイエス・キリストを体験できる。神のことばである聖書の「啓示」に心をしたがわせる時にまことの自由を人は体験できる。)

2013年10月28日月曜日

「宗教」と「啓示」(3)

海辺※ 2011.12.11
私たちは科学的な方法によっては、神を完全に把握することはできません。人間の理性には限界があり、無限の存在である神を百パーセント理解することは不可能なのです。人間の努力によって、すなわち、「下から上へ(地上から天へ)」という方法では、神に到達することは決してできないのです。それにもかかわらず、人間が有史以来試みてきたことは、何とかして人間の側からの努力によって神に到達しようとする試みでした。

人間が神に近づこうとするとき、ふつう次の三つの方法を試みます。第一の方法は、理性による方法で、哲学の目的はここにあります。第二は、感性によって、神をとらえようとする方法です。これは神秘主義と言われます。第三は人間の意志によって神に到達しようとする試みです。ところが第一の方法である「哲学」は必ず乗り越えることのできない大きな壁に突き当たり、第二の方法である「神秘主義」は方向性を見失った自己満足に陥ってしまい、そして第三の方法である「修行」は人間の尺度による間違った希望を目標としがちであります。つまりこれらの三つの方法によっては、神に到達することはできないのです。確かに人間はこのような方法をもって自分自身の神概念をつくりあげることはできるかも知れませんが、それでは生けるまことの神に到達したことにはなりません。

「下から上へ」すなわち人間の努力によって神に到達し、神を理解しようとする試みは、結果的には、人間を偶像礼拝へと導いてしまいます。偶像礼拝とは、唯一のまことの神以外のものを神とすることであり、偶像は人間が造り出したものにほかなりません。「下から上へ」という方法に基づく宗教や世界観は、私たちを真理へ導くものではありません。まことの神は人間によって造られたのではなく、人間が神によって造られたのです。ですから、人間が造った神は、まことの神ではなく、偶像にすぎません。偶像にはいのちがなく、私たちに永遠のいのちを与えることもできません。

これに対して、生けるまことの神は、ご自分のほうからご自身を「啓示」してくださり、人間に求める心さえあれば、神に出会うことができるように道を備えて下さいました。まことに神は人間がご自身に出会われることを切に望んでおられるのです。神が愛をもってご自身を現わしてくださること、これを「啓示」と言います。

この「啓示」には三種類のものがあります。第一に、神は自然界の中にご自身を現わして下さいました。

なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1・19〜20)

このように、私たちは自然界の中に創造主なる神を見出すことができるのです。いかなる人間も、自分から新しいものを創造することはできません。人間が発明・発見と呼んでいることがらは、すでに神によって創造されているものを発見すること、また、それを活用することにほかなりません。たとえば、今世紀になって発明されたとされている電気や原子力なども、この例にもれません。大自然を見て、私たちがなすべきことはただひとつです。すなわち自然界の個々の被造物を通して、それらを造られた創造主である神を認めるということです。神は被造物の中に、神ご自身、神の力、神の知恵、神の配慮、神の真実、そして神の限りない愛などを「啓示」しておられます。また一方、罪を決して見すごしにはされない神の峻厳さも、同時に「啓示」されています。被造物は罪のゆえにのろいのもとにあるということも事実だからです。被造物はこぞって神を証ししています。自然科学者は、自然を研究すればするほど、自然の背後にある創造主の存在について認めざるを得ないと言います。自然を知ることは、神を知ることにつながるのです。正しい自然科学は、私たちを神への礼拝へと導きます。

しかし人間は、この神からの「啓示」に対して、どのような反応を示してきたのでしょうか。大部分の人間は神の作品である自然を認めていながら、その造り主である神を認めようとはしませんでした。その結果、神に対する畏れも知らず、神を礼拝しようともしませんでした。神を認めないということは、神の裁きのもとにあるということを意味しています。

愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。(詩篇14・1)

つまり、神を認めないことは、自らを愚か者に定めていることにほかなりません。彼らに弁解の余地はないのです。人間は、神を認めることを拒否した結果、自らを霊的な盲目状態に陥れてしまい、神について何も理解することができなくなってしまい、その結果、「神はいない」と主張するようになってしまったのです。しかし人間は、この盲目の状態から回復され、霊的ないのちを再び与えられなければなりません。そしてそのための道をも、神は私たちに与えて下さっています。

以上でおわかりのように、神は自然界を通してご自身を「啓示」しておられます。

(『実を結ぶいのち』140〜143頁より引用。
※ニュートンは「世の人は私をどんなふうに見ているか知らぬが、わたしはただ真理の渺茫たる大海を前にして、めずらしい貝、美しい小石をひろいながら浜辺に遊ぶ子供たちのしているようなことをしてきただけだ」と言った。その墓石には次のように刻まれているそうだ。Nature and natural law lay hid in night! God said let Newton be! And all was light! 自然と自然の法則が暗夜の中にかくされていた! 神「ニュートン出でよ」とのたまい、かくてすべては光かがやいた!〈信仰偉人群像27頁より〉)

2013年10月27日日曜日

「宗教」と「啓示」(2)

浅間山             2013.10.11
また、インドでは、他の東アジアの国々(註1)と同様に偶像礼拝すなわち誤った祖先礼拝も広くおこなわれています。聖書は死者を礼拝したり、香をたいたりすることを固く禁じております。(死者を礼拝してはならない=出エジプト20・2〜6、申命11・16、17、26、27、28。死者に香をたいてはならない=出エジプト30・34〜38、レビ10・1、2)それらは、死者を葬っているのではなく、悪霊を礼拝しているのだと、聖書は警告しています(1コリント10・19〜22)。死者の霊は神のもとに帰っているのであり、私たち生きている者が死者の運命を左右することなどできません(伝道者の書12・7「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」)。それをあえてしようとすることは、神に対する冒瀆にほかなりません。人々はこうして、真の神から隔たった存在になってしまうのです。数々の、いわゆる宗教の特徴はそれを信じる人々をまことの救いから遠ざけ、さらには、人々が自分で気付かぬうちに、悪霊の支配下に置いてしまうところにあります。

ところが、現代の私たちの周辺には、宗教と名の付かない宗教がはびこっています。それは、仕事であり、趣味であり、慣習であります。仕事に関して言えば、聖書は怠惰を禁じています。「働かざる者は食うべからず」と最初に語ったのは、聖書です(2テサロニケ3・10)。しかし、仕事や会社が人生のすべてになり、それによって支配されてしまうなら、これは神の喜ぶことではありません。よき趣味を持つことは、すばらしいことです。しかし、趣味や遊びによって、自分が支配されるというなら、これも不幸なことです。また、自分の判断を持たずに、ただ、多くの人がするから自分も行ない、それで正しいと考えている人も不幸です。これらの人々は、私たちの身辺にも意外と多いものです。これらの人々の特徴は、人を恐れて神を恐れないということであり、その原因はまことの神を知らないところにあります。人々の顔色をうかがうことに一生懸命になっている人は、生けるまことの神との結びつきを持っていません。

主イエスは次のように言われました。

わたしは人からの栄誉は受けません。互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。(ヨハネ5・41、44)

私たちは、あわれな「人間の奴隷」となるか、または、何物にも束縛されない「神の僕(しもべ)」となるかのどちらかの道を選び取る必要があるのです。

私の書斎にはかなり部厚い聖書大辞典がありますが、ある時思い立って「宗教」という項目を探してみました。この本には、聖書に出てくるすべての項目が網羅されていますが、「宗教」という項目はついに見出すことはできませんでした(註2)。つまり聖書は「宗教」と全然関係がないということがいえるのです。それでは、聖書はまことの神について、また、上からの「啓示」について何をいったい私たちに教えてくれるのでしょうか。このテーマで次に考えてみることにします。

(『実を結ぶいのち』ゴットホルド・ベック編著138〜140頁から引用。
註1 インドが東アジアの一員と考えられていることに抵抗を感ずる方もおられるであろう。これは編者がドイツ人であり、ドイツから見たインドの地勢観によるものと思われる。アジアに位置する私たち日本人から見るなら、インドは南アジアであるが、アジアを風土・文化を加味して大分類するなら西アジア〈乾燥アジア〉と東アジア〈モンスーンアジア〉の二大分類ができなくもない。そうするとインドも日本もやはり東アジアとして共通項にひっくるめることができる。
註2 私の手もとにある文語訳聖書語句事典1955年聖書図書刊行会版には「宗教」という一行項目があるのみだが、それにはsectと言う英語表記が併記してあり、使徒26・5、使徒28・22があがっている。むしろ「信心」という一行項目にreligionと英語表記の併記があり、新改訳聖書では同じみのヤコブ1・26〜27があげられている。だからこれも編者がここで言われていることと大差はないと言える。

2013年10月26日土曜日

「宗教」と「啓示」(1)

「風の歌Ⅰ」 吉岡賢一 二紀展より
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1・12)

人々は、いわゆる「宗教」と「イエス・キリストに対する信仰」とは同質のものであると考えていますが、これは大きな誤解です。「宗教」は人間が作り出したものであり、「イエス・キリストに対する信仰」は、上からの啓示によって与えられたものです。そこで、いわゆる「宗教」とイエス・キリストによって与えられた「啓示」がどのように本質的に異なるかということを、この章(註1)を通して明らかにしてみましょう。

ロシア革命の指導者、レーニンの有名なことばに「宗教は人民にとって阿片である」(註2)というものがあります。ここでレーニンは「宗教」ということばを使っていますが、彼はいわゆる宗教信者だけではなく、真の信者をも念頭においてこのことばを用いました。確かにレーニンは、心の支えを持っている人間は、まことの神を礼拝することや真理に従うということに関しては絶対妥協しないということを知っていました。まことの信仰を持っている人は、主イエスに不従順な道を歩むよりは、喜んで殉教の死を選ぶからです。レーニンは、革命を遂行するために、人間をあやつり人形のように自分の思う通りに従わせたかったのです。レーニンの必要としたのは、自分自身で考え、行動する人間ではなく、彼の指図通りに動く人間でした。ですからレーニンは心の支えを持った人間を憎まざるを得なかったのです。

同時にこのレーニンのことばは、いわゆる宗教信者に対しても当てはまることばであるとも言うことができます。仏教、神道、儒教、イスラム教などはもちろんのこと、キリスト教でさえ宗教としての側面を考えるとき、このレーニンのことばは、鋭く一面の真理を指摘していると言わざるを得ません。なぜなら、これらの「宗教」の特徴のひとつは、「阿片」のように、人々の判断を麻痺させたり、霊的に盲目にしたりしていることであり、この結果、人々は真の神から目をそらし、永遠の救いに至る道を見失い、本来神でない神、すなわち、偽りの虚しいものに、根拠のない希望を置くようにされてしまっているからです。

いわゆる「宗教」は、キリスト教、仏教、神道、儒教、イスラム教、その他種々の宗教も含めて、すべて人間が作り上げたものです。これに対して「まことの啓示」は、上から与えられるものです。「宗教」は人間を永遠のいのちに導き入れることはできません。「上からの啓示」だけが私たちを滅びから救い出し、他の何ものによってもゆるがされない「喜び」と「希望」と「平安」を与えることができるのです。聖書も語っているように、すべての人間には、例外なくまことの神を慕い求める思いがあり、(伝道者の書3・11註3)この思いを、多くの人々は、種々の「宗教」を通して満たそうとしています。人間の側から神に近づこうとすること、これが「宗教」の本質です。これに対して、「啓示」とは、まことの神が、ご自分の側から人間に対してご自身を現わしてくださり、人間が体験的に神を知ることができるようにして下さることを言います。このことを具体的な例をもって考えてみましょう。

インドは世界中で、最も貧しい国のひとつであると言われています。六億の人口をかかえ、子どもたちの50パーセントから70パーセントは、慢性的な栄養失調に陥っているのが実状です。インドは世界各地から毎年莫大な小麦を輸入しています。ところがある学者によれば、インドは本来十分な食糧を自給できる国であり、さらに、それを輸出することさえできるはずであるとのことです。それでは、一体何がインドをこのような貧困に陥れているのでしょうか。それはほかならぬ「宗教」なのです。インドには約50億匹のドブネズミがいます。つまり、インド人ひとりに対して8匹のドブネズミがいるという勘定になります。ですから、インドのドブネズミは、すべてのインド人よりもたくさんのものを食べていると言うことが言えるのです。インドの宗教によれば、ドブネズミは神聖なものであり、殺してはならないとされています。ですから、インドのドブネズミは撲滅されずに増える一方です。そしてその代償として多くのインド人の子供たちが餓死してゆくのです。私たちはここに「宗教は人民にとって阿片である」ということの一例を見ることができます。

(『実を結ぶいのち』ゴットホルド・ベック編著136〜137頁から引用。
註1この本は三部に分かれており、上述の文章は最後のⅢ光を見上げて—宗教から救いへ—の第二章からのものである。ちなみに第一章は「みこころに反する祈り」、第三章は「仰げ主を」である。
註2このことばは厳密にはマルクスのことばである。しかし、レーニンもこれに似たことばを用いているようだから大意としては差し支えないであろう。
註3「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」

2013年10月25日金曜日

刎頸の交わり(その1)

交わりに参加し、鳥かごから出て来たインコ Tさん宅で
表題は「ふんけいのまじわり」と読む。国語辞典によると「首を切られても悔いないほどの、生死を共にする親しい交際」とある。このような語彙はかつて田中角栄氏と小佐野賢治氏との交わりなどを表現する場合に使われていたように記憶する。

今週火曜日に定例の集会に出席して、そのあと二人の方とお交わりした。一人の方Kさんとは二回目、もうひとりの方Tさんとは三回目であろうか。KさんとTさんはお互いに初対面であった。私を介してのお交わりになった。ほぼ一時間ほどの昼食をともにするお交わりであった。お互いに主イエス様を若い時に信じ(Tさんは19歳、Kさんは25歳、私は27歳)、教会生活も送ったが、今は教会には集っていない。

あまりお互いの素性は知らない。ただ主イエス・キリストを救い主として信じ、永遠のいのちをいただいている確信のある者同士である。Tさんは1950年生まれ、Kさんは1947年生まれ、私が戦前だから一番年長になる。ここ二三年に集会に来られて知り合った間柄である。ところがいずれも教会を経由して来ているので、「宗教」の恐ろしさを体で体験している面々である。「宗教」にはだまされないゾという覚悟が互いにある。

談たまたま、その日の短いベック兄のメッセージの話になった。当日の題名は「もうちょっと」で第一テサロニケ4章13節から18節が引用聖句であった。「もうちょっと」とは主イエス様が再び来られるのは、もうちょっとという意味である。そのような話になったとき、Kさんが頭を抱え込んで言い出した。「ちょっと、待って。俺は毎日これは自分が正しいと思ってやっているけれど、ほんとうにそうでなかったらどうしよう。主に裁かれ、お前なんか知らないと言われるかも知れない。やはり『主よ、これはどうなんでしょうか、まちがっていないでしょうか、教えて下さい』と祈って行動しなければ」

あとでわかったのだが、Kさんは仕事が忙しく、やっとの思いで集会場に来たのだが、メッセージも証も聞いていない、私に会いに来たのだと言う(私が集会に来ているかどうかも分からないのに・・・)。その彼がすぐそのように反応したことに私は正直驚いた。メッセージをじかに聞いていても私はそうは思わなかったからである。彼の純粋な信仰に目を見張らされた。

Kさんも、Tさんも、今のご時世、年金生活を送るわけに行かず、毎日生活のために日曜日もなく働いている。たまたまご両人の時間が割ける日がこの日だったと言うわけだ。集会出席は年に数回ではないだろうか。そしてそれほど会う機会のある方々ではない。しかし、ひとりひとりその日は示されて集会場に集まって来たのだ。Kさんにいたっては前言したように、集会場をあとにしようとするとき、誰かがあなたのことを捜していましたよ、と言われて大ぜい集まる人々の中でやっとお会いできたのであった。

Kさんとは昼食のあと別れ、示されてTさんのお宅に急遽行くことにした。もちろん前もって決まっていたことではない。家には病気の奥様が伏しておられるとは聞いてはいたが。目的は彼にパソコンとネットを教えるためであった。でも、それだけでなく彼の純真な気持ちと交流をともにすることに喜びを覚えたからである。そして奥様ともお会いできた(普通、そのような訪問はすべきでなく、先方も突然の珍客はいくら何でもお断りしたくなるものだ、しかしそんな気配は感ぜず、そこでさらに一時間ほど豊かなお交わりになった)。

キリスト者とは不思議な民だ。「刎頸の交わり」とは主にある兄姉の交わりにこそふさわしい。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(第一ヨハネ3・16)

2013年10月24日木曜日

我は汝により、我が事業を為すを得べし

国王の宝
金銀珠玉に等しき、
多くのもの我が手に満ち
これらを貴しとして我は握りぬ。
主は来まして我が手に触れ、
(主の聖手には傷ありき)
我が財宝(たから)を聖足(みあし)もて
一つ一つに踏み砕き給えり。
「我れ空虚(むなし)き手を要す」と主は宣(のたま)いぬ、
「其を以て汝(なれ)により、我が事業を為す」と。

『我が手は労役に汚れ
泥土(でいど)に塗(まみ)れたり
しかも我が労作(はたらき)は往々穢(けが)れて
何らの価値もあらざりき。
主は来ませり、我が手に触れ給いぬ
(主の御手は紅に染みたりき)
しかも我が手を見れば驚きぬ、
見よ、汚れはことごとく我が手を去れり。
「我れ潔き手を要す」と主は宣いぬ、
「其を以て汝(なれ)により、我が事業を為す」と。

我が手は熱病のごとくなりまさり
多端のことに煩わされたり!
繁忙と噪急とに打ちわななきつつも
祈祷に支えられるること無かりき。
Trembling with haste and eagerness, Nor folded oft in prayer. 
主は来ませり、我が手に触れ給いぬ、
(その聖手に医治の力をもて)
かくて我が手はその聖旨をなすよう
穏やかにまた静まり—その熱は去れり。
「我れ柔和なる手を要す」と主は宣いぬ、
「其を以て汝(なれ)により、我が事業を為す」と。

我が手は空想を以て力あり、
しかも神のことには弱かりき。
神のためならず、己れのため
事業をするに甚だ大胆なりき。
主は来ませり、我が手に触れ給いぬ
(主の聖手には能力〈ちから〉ありき!)
かくて我が手は衰えたり、
ただ主の聖手はその手に置かる。
「かくのごとくしてのみ」と主は宣いぬ、
「我れは汝(なれ)により、我が事業を為すを得べし」と。
 I can work My works through thee.

(いささか古風だが、ほぼ100年前に日高善一氏をとおして訳された、S.D.Gordonの名著QUIET TALKS ON POWER〈邦訳著作名「能力に充つる生活」〉https://archive.org/stream/quiettalksonpowegsd00gord#page/n5/mode/2up中に載せられている詩である。なお、日高善一氏は「フランダースの犬」の本邦初訳を試みた人であると言う。)

2013年10月14日月曜日

三題噺(主の恵みは尽きない)

Bさんおめでとう! 2013.10.12
Aさんは1930年生まれだから、もうとっくに後期高齢者の域に達しておられる。ところが若い私たちの誰よりもその働きぶりは群を抜いている。先週土曜日の朝も某所でこの方のその日のスケジュールを思うて、ある方が、私に語るともなくおっしゃった。ある時、Aさんに、そのお体を気づかって「そんなに働いて大丈夫ですか」と問うたら、即座に「生きている証拠だよ」と答えが返って来たそうだ。間髪を入れずにその場で当意即妙に返って来た日本語の巧みさとその心の非凡さに舌を巻いたということであった。

ところが昨日日曜日、某所を離れ別の地に出かけた私は、遠くAさんのことを思って、私の見聞した土曜日の働きぶりや日曜日の働きを予想して別の方にそのことを話したら、今度はその方が「(とっくに)Aさんは死んでますよ」と言われた。私はその方には珍しい余りにも過激な言い方にびっくりしたが、簡潔なその表現ぶりに痛く感動し、「死んでますね、(確かに)Aさんは!」と相づちを打った。その方は笑いながら「そうですよ、Aさんは死んでますよ」と再び繰り返された。二人がすっかり意気投合して話す話を傍で聞いていた方が、「いったいAさんは病気持ちだと言うが、本当はどうなのですか」と問われる。「(自分に)死んでますよ」と先程言われた方は「三つの病気を持っておられるが治っていないでしょうね」と付け足された。

イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(ヨシュア14・10〜11)

Bさんは1978年生まれの女性だが、土曜日結婚された。中々の才女の方であった。その方が就職先の採用主と結婚された。その方の採用の面接を新郎となった雇い主の方がなさったのが機縁であった。ところが、その面接時に雇い主である新郎は採用するのに迷ったと言うより、採用する意志はなかった。それほどその女性の面接時の答えぶりはなっていなかった。何を聞いても不安気であり、自信に満ちた答えが帰って来なかったったことによる。しかし、新郎の方が言われるのにはペーパーテストの出来が抜群であり、応募者の誰よりも優れていたので採用せざるを得なかったと言うことだった。こんな彼女であったが交際して6年だったか、結婚のプロポーズを受けた。しかし彼女はキリスト者でことごとく主の恵みを体験して来た。ところが相手の男性はキリスト者でなかった。

迷いはあったが、祖母の召天に身近に接し、「折角、この方と結婚しても天国でこの方と一緒になれないなら何にもならない」と思い、それからこの方がイエス様を信じ救われるまで結婚を待とうという思いが明確に与えられ、必死になったと言うことだった。そして三ヵ月ほど前、新郎になる方がイエス様を受け入れ、この日のスピード結婚式となったと言うことであった。新郎は結婚式の日取りは10秒で決まったと言われた。しかし結婚の証の話の時、新郎は自らの人生を振り返り、随所随所にイエス様の導きがあったと繰り返された。ご両人が結婚にあたって選ばれたみことばは以下のものであった。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3・5〜6)

ご両人の証のことばに嘘偽りはなかった。昔、異邦人の女ルツは雇い主ボアズのもとに身を寄せた。ボアズとルツは結婚した。ご両人もまたこの古の人々の信仰の跡を歩まれるのだ。土曜日、日曜日とそれぞれちがったところではあったが、主は必要な恵みを私に与えてくださった。

そう言えば、日曜の夕方遅くなったが、延々と電車を乗り継いで都下の病院に入院しているCさんを見舞うことができた(Cさんは次男の妻であり、今日月曜日でちょうど入院生活も150日を数える)。結婚4年目にして訪れた最大の試練である。前途に希望と不安の交錯する病室で、私たちは詩篇119・73〜76を開き、ともに祈ることができた。主のあわれみ・恵みは尽きない。

どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、あなたの恵みが私の慰めとなりますように。(詩篇119・76)

2013年10月11日金曜日

「家庭集会」って何なのだろう

始まりがあれば、終わりがある。私の家で「家庭集会」が始まったのは1990年の5月23日が最初である。それ以来、今日まで続いている。いや、続かさせていただいている。しかし、段々こちらも歳を重ね、いつかは閉じる時期が来るんだろうなとは思う。

一昨日水曜日は東京からメッセンジャーと証しする方が来てくださった。メッセージは「霊の健康診断」というテーマで1コリント3・16、6・19が引用聖句であった。開口一番、その方は「昨日朝、私は都内某所で普段飲み慣れないものを、それも朝から飲んでいました」と言われた。一瞬お酒かと思いきや、「胃カメラ」であった。肉体の健康診断が必要なように、キリストの御霊をいただいている者は、霊の健康診断が欠かせないのです、とすかさず畳み込まれる。そしてその不健康はたとえば心の平安の無さという症状になってあらわれるのでないか。けれども、心配する必要はない。よみがえりの主イエスは、平安あれと二回三回と語られ、その間にご自身の十字架上での御傷を弟子たちに見せられたので、弟子たちは不安から喜びへと導かれた(ヨハネ19・20〜21、26)。そのように私たちも同じ体験をすることができると簡潔に話された。

次に一人の方から証をいただいた。いつも親しくさせていただいているが、証をお聞きしたのは初めてであった。そこには求めずして得られた救いの恵みが大胆に語られていた。その後、結婚に導かれ、五人のお子さんをかかえてのご苦労の中で特に手狭になった住まいをいかにして解決するかという具体的な問題をめぐる夫君との葛藤を語ってくださった。しかし、夫君から「もしあなたが霊的であるなら家が与えられるように百年だって待つことができるでしょう」と言われる(ローマ8・13)。そして自らのうちにある思いは「むさぼり」から発していて、それが子どもにも伝染していることにハッとされ悔い改めさせられたという内容であった。夫君が開かれたみことばは箴言30・15であった、と言う。

蛭にはふたりの娘がいて、「くれろ、くれろ。」と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、「もう十分だ。」と言わない。

わずか4、50分の間にこのようなお話をお聞きして、そのあと集った方々は、三々五々互いの交わりを楽しまれる。さらに、ここから互いの霊の交わりは進むと言っても過言ではない。とことんお交わりを進める中でお互いに不思議な鉱脈を突き当てるものだ。この日も三時四時をまわっていただろうか、今までお互いに家庭集会に出席して顔を見知っている間柄だけでそれ以上は知らなかった方同士が、最後ふっとした話の緒からお二人が同郷で中学の七年違いではあるが先輩後輩の間柄であったことが判明したのだ。

考えてみれば、証者は10代後半に遠い青森から横浜に出て来て会うはずもない中学の同級生から福音を紹介され、それが主の導きだったと語られていた。それにくらべ、先のお二人はすでに60代、70代の功成り名を遂げた方々である。そのお二人が今日までそのような関係にあるとは知らずに家庭集会に出席しておられたのだ。また新来者の紹介のおりには、台湾出身の方が話されたが、一方には台湾留学6年の方がおられ北京語で会話を交わされたと言う。このような不思議な出会い・交わりが展開するのも家庭集会の不思議なところである。

もちろん大半はお互いに問題を解決できず、同じところをぐるぐるまわりながら尽きない話を繰り返している場合が多い。けれども互いが互いの苦しみを負い合い、喜びを知る場として欠かせないのが家庭集会ではないかと思う。最後にルデヤについて記された記事を紹介する。「ルデヤの心」こそ家庭集会である、と思うからである。

テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた(使徒16・14〜15)

次回の家庭集会は10月30日午後二時からです。 

2013年10月10日木曜日

目標を目ざして一心に走る(結)

エジンバラ市内の彫像 2010.10.3
私たちはピリピの兄弟姉妹たちのように、主の目に喜ばれる人々となっているなのでしょうか。2章ですね。ピリピ書2章25節から、2、3節お読み致しましょう。

しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。

パウロはピリピの教会に属するエパフロデトについてこういうふうに書いたのです。このエパフロデトに対し「私の同労者」「私の戦友」「私の兄弟」と呼びかけています。このエパフロデトとはパウロと同じく永遠に朽ちない一つの目標を目ざして走る競技者でした。この一つの目標を心の眼で見た者は自分自身を顧みません。「自我」という足かせから解放されています。このピリピ書2章21節と30節は実に著しい対照を示しています。。

21節は、はかない人の名声を求めて走る者の姿が書かれています。

だれもみな(自分、自分)自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

30節には朽ちることのない、天の報いを求めて走る人の姿が書かれていますね。

彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。

とあります。パウロ自身次のように言えました。使徒行伝の20章の24節ですね。よく引用されるすばらしい告白でもあり証です。248頁です。

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

エパフロデトもパウロもただ一つの天の賞与を求めて走り続けました。

ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

パウロは有能な主に仕えるしもべでした。もちろん、当時認められた主のしもべだったのです。彼は名声も得たし、残る天の栄誉を目ざして走ることは簡単なことだったと言う人もいるかもしれない。けど、エパフロデトを考えてみたい。彼は名もない、誰の目にも目立たない当たり前の一人の信者にすぎなかったのです。しかし、主なる神の眼からは、パウロもエパフロデトも同じく主に仕える者として見えたのです。問題は私たちが何と何をやったかということではない。私たちがどれほど主に忠実で従順であったかだけということだけではないでしょうか。コロサイ書の中で、3章23節。

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

そうしないと、疲れてしまい、落ち込むようになり、喜びもないし、力もない、ということです。パウロの目ざした目的は何であったか、と言いますと、それはイエス様を知る知識の絶大な価値でした。有名なピリピ書3章8節に

私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

パウロはこのためにすべてのものを捨て去りました。パウロがここで言っている「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」は、イエス様について知る知識とは全く違います。より以上にすぐれたものです。キリストについての知識は、集会に来たり、聖書研究会に出たり、本を読んだりすることにより貯えることができます。パウロはイエス様について知りたいとは言っていません。さらにまさるものを求めていました。すなわち、「私はキリストを得たい」と彼は叫んだのです。これは何を意味しているなのでしょうか。パウロはよみがえりの主のいのちを自分のものとしたかったのです。それでは、このよみがえりの力はどうしたら自分のものにすることができるなのでしょうか。それはイエス様の苦難にあずかってその主の様に等しくなることによってのみ自分のものとすることができます。私たちは、すべてを主にささげた献身者として、自分が持っている考え、意志、感情をすべて主にささげ、また自分の当然持って良いと思われる権利も主にささげたいものです。

御座で主なる神の賞与を得る者は、聖書の知識が豊かな者ではありません。また熱心に奉仕した者でもないでしょう。キリストの霊を豊かに内に宿している者は、イエス様の賞与を豊かに受けるのです。パウロは、ほんとうに刑務所の中で

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

(と、書いたのです。)

パウロは誰が何と言おうとこのただ一つの目標を目ざして走り抜こうと決心していました。パウロは何としてもこの賞与を得たいと願いましたから、他の人の意見には眼もくれず走っていました。

ヘブル書の著者は次のように書いたのです。有名な12章の2節。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

パウロには敵も多かったでしょう。パウロを批評し、小さいことを大げさに話し、あなたがそのようなことをすれば信者は割れる、離れる者もいるかもしれない、あなたは霊的な高ぶりを持っているのではないか、他の信者に命令する者となりたいと思っているの(か)、もっと簡単な福音だけを伝えたらいいだろう、そのような霊的な真理を語るとかえって信者の頭はごちゃごちゃになる、などと言う人々も必ずいました。

このようにパウロは誤解されましたが、これはパウロの十字架の道でした。パウロは別に人とちがった信者になりたいとは思っていませんでした。パウロがただひとつ願っていたのは、すべての主にある兄弟姉妹が主の目的を見、光栄に満ちたこの主の賞与を目ざしてひたすらに走ることだっただけです。パウロはイエス様とともにすべての聖徒が一所(ひとところ)にとどまらず、御座にまで行き着くことができるようにとの重い重荷を担ったのです。普通の競争は何とかして自分だけが早く走り、他の人は遅くなるように心がけます。けど、御座に向かって走る兄弟姉妹の競争は全くこれと反対です。己をむなしくし、他の人々を顧み、助け、仕えて行く時に、(そうして)行く者が一番早く御座に達することができるのです。

パウロはなぜ細かいことまで聖書に書き残して注意しているのでしょうか。主にあるすべての者が御子イエス様の御姿に変えられ、イエス様の御座に達する者となることができるようにパウロは細心に注意を払っていたのです。

私たちも同じ心構えを持つようになればありがたいと思います。

(かくして、このメッセージは終わる。今まで、ここまでみことばの深い意味、愛を明らかにしたメッセージは見聞きしたことがない。しかし、主イエス様が十字架上ですべての人の身代わりとして死なれたことからすると、このメッセージの結論は当然と言える。私をふくめ、己を肥やすことに懸命であることに無自覚であるキリスト者にとって必読のメッセージだと思う。)

2013年10月9日水曜日

目標を目ざして一心に走る(転)

アバディーン行きサルベージ船? エジンバラ港  2010.10.3
イエス様はゴルゴタで十字架におかかりになる前に、父なる神に祈って言われました。ヨハネ伝17章の24節

父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

また、よみがえられ、昇天され、引き上げられたイエス様は弟子ヨハネに次のように仰せられました。黙示録3章21節。すごい、すばらしい約束です。

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。 

イエス様とともに御座に着き、主なる神とともに永遠に支配する。これが、パウロの目ざしたまことの目的であり、報いであったのです。何という驚くべき、栄光に満ちた立場でしょう。人からの誉れは小さなものです。主なる神とともに永遠に過ごすという驚くべき光栄がわれわれを待っているのです。

第二番目のまことの報いを目ざすものは自分の持ち物を求めず、自分をむなしく致します。今読みました黙示録3章21節ですね

わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

と。このイエス様のみことばの裏に、わたしを模範として、わたしに従いなさい、という意味が含まれています。このイエス様の勝利の道を歩む模範は、有名なピリピ人への手紙の2章5節から11節までに書かれています。ちょっと読みます。

あなたがたの間ではそのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

主イエス様は主なる神のひとり子であられたのに、天におられたならば何の不自由もなく驚くべき祝福のうちに住むことができたのに、自分をむなしくし、しもべのかたちを取り人間の姿になって、そればかりではなく、己を低くし、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられました。イエス様は人の誉れも名誉も得ようとはひとときだに思われませんでした。また、イエス様は自分のものを求めようとは思われなかったのです。全く己をむなしくしておられました。イエス様は結果を数える奉仕でなく、ただ父に従順に従い、十字架の死にいたるまで従順であられました。

このイエス様の霊は父なる神にことごとく嘉(よみ)せられましたので、イエス様がよみがえられた時、父なる神はイエス様に一番高い御位をお授けになったのです。イエス様は今天の御位に座しておられます。しかし、ただ一人でそこにおられることを願っていません。イエス様が十字架にかかってくださったのは、信ずる者のひとりひとりがキリストの霊を持ち、御座に着くことができるようになるためでした。だからこそ、パウロはその道がどんなに恥と苦しみに満ちていても、御座に続く十字架の道を自ら選びとったのです。この道は、パウロにとって決して気楽な散歩道ではありませんでした。それまで、彼はいろいろなことで苦労しましたし、悩みましたし、けれども、だからこそパウロはその道がどんなに恥と苦しみに満ちていても御座に続く十字架の道を自ら選び取りました。この道はパウロにとって今話したように気楽な散歩道ではなかった。

彼は、主に従おう、自分は別にどうでもいいという態度を取ったのです。パウロにとって栄光への道は孤独の道でした。なぜなら、小羊である主の行く道は恥とそしりとの道です。けど、恥とそしりとに満ちたこの道の終わりは栄光の御座の真ん中に続いているのです。

けど、十字架に敵対して歩いている者はこれと反対の経験をするでしょう。彼らの歩いて行く道は人の誉れと名声を求める道であり、彼らの求めている栄光はやがて恥とそしりに変えられることです。ピリピ書3章、もう一回読みましょうか。ピリピ書3章の18節ですね。

というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

十字架の道は恥とそしりの道です。イエス様は裸にされ、十字架につけられた時、群衆はイエス様を指差し「彼はわれわれと等しく人間ではないか、神の子だと言うのは偽りでないか」と思う存分譏(そし)り、あなどりました。通りかかった者たちは頭を振りながらイエスをののしって言った。「神殿を打ち壊した。三日後に建てる者よ。もし神の子ならば自分を救え。そして十字架から降りて来い。」民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った。「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト・選ばれた者であるならば自分自身を救うが良い」。兵卒どももイエスを罵り、「あなたがユダヤ人の王なら自分を救いなさい」。十字架にかけられた犯罪人の一人が「あなたはキリストではないか、それなら自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と言ったのであります。

十字架の道は恥とそしりの道です。イエス様は十字架の死に至るまで従順であられました。釘がイエス様を十字架につけたのではない、われわれ一人一人に対する測り知れない愛がイエス様を十字架につけたのです。私たちの近くに、真ん中におられるよみがえりのイエス様は私たちが十字架の敵であるか、または十字架をいとわず、恥も死もいとわず、すべてを主にささげているか、すべてをご存知です。

(私が日曜日、年少の友からいただいたみことばの一つはこのベック兄のメッセージの中に出て来るみことば黙示録3章21節でした。このメッセージを聞くより前に、すでに彼からこのみことばをいただいていたのです。何と感謝なことでしょうか。明日がこのメッセージの最後になります。)

2013年10月8日火曜日

目標を目ざして一心に走る(承)

結婚を祝福する花々 2013.10.5
多くのキリスト者はただ自分の祝福を求めて祈り、信仰生活を続けますが、他人の祝福を願わず、自分の祝福だけを求める人は、あたかも登山靴とリュックサッ クを背負って走る競技者のような者ではないでしょうか。このような人々はしばらく走ると疲れてしまい動かなくなってしまいます。

パウロは、当時イエス様のことを宣べ伝えた人々について、悲しいことを書いたのです。ピリピ人への手紙2章21節

だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません

3章18節では、パウロはこのような人々はキリストの十字架に敵対して歩いている人々だと言っています。彼らはイエス様ご自身に敵対してはいません。イエス様を知り、イエス様を信じ、罪の赦しをいただいた人々です。それでもなお、(彼らは)十字架に逆らっている、とパウロは書いたのです。それらの人々は誤解されたくない、あなどられたくない、イエス様のために恥を負いたくない人々です。これらの人々は、人の思いでイエス様に十字架にかからないように諌めたペテロに似ているのじゃないでしょうか。イエス様はあの時、ペテロに言いました。「さがれサタン、あなたはわたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と激しく言われました。

イエス様の十字架の敵はこのピリピの3章18節〜19節によると、地上のことを思っている人々のことを言います。私たちは十字架に敵対しているなのでしょうか。それとも、私たちは神の国とその義とをまず第一に求めているなのでしょうか。

パウロはからだを伸ばして走るようになりました。どうしてでしょうか。言うまでもなく、救われるためではない、地上における名声のためでもない、また自分の持ち物を得ようと思ったからではない。パウロはからだを伸ばして走ったのは、奉仕の結果のためでもなかったのです。パウロは驚くほどイエス様に祝福され、すばらしいご奉仕をしました。しかし、ご奉仕の結果がパウロの目的ではなかったのです。

パウロは今ローマの牢獄でピリピにいる兄弟姉妹に手紙を書き送っています。パウロはそのご奉仕の大部分をもうすでにその時終わっておりました。しかもなお、ただこの一事に励んでいます。すなわち「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む。目標目ざして一心に走っている」と彼は言っています。多くの人々はパウロの奉仕によって救われ、また彼の力に満ちた奉仕によって、人々がたくさん救われていました。けれどもパウロは奉仕の結果を目標にはしていませんでした。

私たちも奉仕の結果を最後の目的にするならば間違っています。誤りです。ある人は奉仕と言って、奉仕に熱中しています。けれども、もし病に倒れて何年間寝たきりにならなければならないとするなら、いったいどうでしょう。必ず絶望してしまいます。もし他の人々は奉仕できる環境にあるのに、自分はできない、他の人々だけ豊かに祝福されて自分は祝福されない、そのような時はいったいどうでしょうか。もちろんイエス様は私たちが真実を尽くして奉仕することを願っておられますけれど、奉仕そのものがまことの妨げとなるならばほんとうに悲しいことなのではないでしょうか。 使徒行伝の20章24節パウロは次のように証しました。エペソの長老たちの前の証です。

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

それでは、ここまでパウロが求めていた報いは何でないかを見て来ましたが、最後にパウロが求めていた報いとはいったい何だったなのでしょうか、について考えてみたいと思います。まずパウロが求めていたのはただ主の誉れです。まことの報いを求めてひたすら走る者は信者や他の人々の栄誉を求めないで、ただ主ご自身の誉れを求めて走ります。ダマスコの途上、よみがえりの主イエス様がパウロをとらえられた時、主は一つの目的をもってパウロを回心させ、主のしもべとしてご奉仕をするために救ってくださったのだと思ったにちがいない。

今パウロは何年もの間ご奉仕を続けた後、囚われの身となってローマの人屋(獄)につながれています。ピリピの兄弟姉妹に手紙を書き送っています。目に見える伝道のご奉仕は大体終わったというのに、彼はなお目標を目ざして走っていると書き送っているのはどういうことでしょうかね。御霊は絶えずパウロを前の方に追いやってこのように言わざるを得なかったのです。

主ご自身はパウロよりもっと大きな関心をもってこのまことの目標を達成しようと願っておられました。だからパウロをして目標目ざして励ましめたのであります。問題は、私たちが満足することではなく、主が満足されることです。また、主は私たちが主の示す目的だけに向かって邁進するのを願っておられま す。その時はじめて主は満足なさいます。

パウロの著しい特徴は、ただ主を喜ばせるためにすべてのことをした、と言うことです。回心の時に、もうすでに、彼は「主よ、私はこれから何をしたらいいなのでしょうか」と主の御声に耳を傾けて、それに聞き従いました。パウロは生涯、主の指図どおりに動いていたということです。パウロの生涯、主の指図どおりに動いていたということとはほんとうに恵みそのものです。ですから、主はパウロに御自分の目的を上から教えられました。だからパウロは、まことの目的を知っていたから、ただひたすらにからだを前に伸ばし、それを目ざして前進しました。けれど、この主のご目的とはいったい何だったでしょう。

(続きは明日です。最後に述べられるこの主のご目的こそ、振り返って見ると同じ日曜日に全く別の地で礼拝を持っていた私たちに別のメッセンジャーが示された眼目でもあったような不思議な思いにさせられるのです。キリスト者には時空を超えて同じ血が流れているとしか言いようがありません。)

2013年10月7日月曜日

目標を目ざして一心に走る(起)

結婚式場コーナーの飾り花 2013.10.5
今の読んでくださった箇所(引用箇所:ピリピ人への手紙3・12〜21)は皆さん何回も何回もお読みになった箇所ではないかと思います。どこで、このことばが書かれたかと言いますと、刑務所の中(です)。それを考えると、すごいとしか言えないのではないでしょうか。わたしは目標(を)目ざして走っている、のんびりして何とかなるなのではない。彼ははっきりとした目的を持っていました。イエス様の救いにあずかり、イエス様のものになったということは、これを見ても、戦いの中に自分の身を投じ込んだことを意味します。この戦いに勝つために全力をあげて走らなければならない、それほど激しい戦いです。パウロは別のところで信ずる者の生涯を「競技者」にたとえています。

競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

とコリント第一の手紙9章24節にあります。ヘブル書の著者も同じようなことを思ったにちがいない。

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

ヘブル書12章1節ですね。そして使徒行伝の中でパウロは告白することができました。使徒行伝20章の24節。

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

パウロは人を喜ばせよう、と思わなかった。心からそう思って告白しました。こういうことばを読んで参りますと、信仰の競争を走り抜くには、まつわりつく色々なものを捨てなければならないことがわかります。それは思い煩いである場合もありましょう。憂鬱な気持ち、不信仰、人を恐れる恐れであるかもしれません。また十字架を負うことを拒むことであるかもしれません。

パウロの目指した「目標」「報い」とは、もちろん普通の考えられる救いではなかったのです。なぜなら、パウロはその時すでに救われ永遠のいのちを持っていると確信したからです。パウロは自分のわがままは赦され、忘れられていることも確信し、喜びの声をあげることができたのです。パウロの目ざした目的とは、今話したように、普通の考えられる救いではなかった、それから、言うまでもなくパウロは地上における名声のために目標を目ざして走りませんでした、とはっきり言えます。パウロは生きている間に、もうすでにイエス様のものになっただけではなく、すぐれた人として動かすことのできない名声を獲得していました。そして異邦人に対する使徒としてすべての人に認められていました。しかし、パウロは一度も他の人々に認められたいなどと思ったことはありませんでした。

パウロの時代には自分の栄誉のために働く人々がおりました。これらの兄弟姉妹はねたみや闘争心に、また党派心や虚栄からイエス様を宣べ伝える人々だったと聖書は言っています。パウロの時代にはそうでしたが、この末の世ではなおさらそうではないでしょうか。

信ずる者の中にも、「認められたい」という願いが働き、何とかして信用を得よう、名声を博し、大いなる者と称えられたくて働く人々ももちろんいます。イエス様に出会った者は、はじめイエス様によって救われた時、喜びのあまり自分の持っている物はみなすべてイエス様にささげ、イエス様に仕えたい、この世の名声とは問題ではないと思ったことがあるはずですけれど、そのうちに名誉心が頭をもたげて、自分は何かになりたい、認められる者になりたいと思うようになります。口では、主にすべてをささげて、主に仕えていると言いますが、実際は人の誉れを求める人々がいるなのではないでしょうか。もし人の誉れを求めているなら、肉においては己を喜ばせ、当たり障りのない楽な生活をすることができるでしょうけれど、パウロのようなただ神の誉れを求め、上のものを目ざして走ろうとする者はいろいろな困難が降り掛かってきます。

パウロの証をちょっと見てみましょうか。294頁になります。コリント第一の手紙4章9節から13節までをお読み致します。

私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。 

パウロの目ざした目標はもちろん罪の赦しではなかった。もうすでに赦された、自分の罪はもう永久的に忘れられていることを彼は確信していました。またパウロの目ざした目標は地上における名声でもなかった。パウロの目ざした、走っていたものは、自分のものではありませんでした。自分の持ち物を少しでも多く持とうという願いは、若いころのパウロの願いだったのではないでしょうか。彼は知的にも人よりすぐれようとし、非常な努力を致しました。ピリピ書、353頁。ピリピへの手紙の3章5節6節をお読み致します。

私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。 

間違った自信に満ちたものでした。彼は若いころ持っていたこのような霊は天からのものではありませんでした。したがって天の報いとは少しの関係もありません。

(昨日午前の吉祥寺の福音集会で語られたベック兄のメッセージの録音を夜インターネットで拝聴させていただき、聞き書きしたものである。時ならず、私は昨日年少の友から9つのみことばをプレゼントとしていただいた。そのみことばは全くこのメッセージの結論と同じであった。日本人の宣教のために60年に渡って尽くしておられるベック兄とこの年少の友が指し示したみことばとの不思議な一致に私は深い霊的感動を覚えさせられている。)

2013年10月3日木曜日

美しい日本 パゼット・ウィルクス

2013.10.2 新宿センタービルから※
五月四日(モスクワ)
 ベルリンで静かな日曜日を過ごした後、私たちはモスクワへと急ぎ、ロシア国境の町アレキサンドロポに深夜着きました。ここで旅券や通関の煩雑な手続きを済ませましたが、ロシアの役人のことばが全く理解できない上、あまりの騒々しさに私たちは疲れ果てました。
 モスクワでは英国海外聖書協会のニーダーさんが、親切に私たちのめんどうを見た上、市内を案内してくれました。クレムリン宮殿、ナポレオン戦争の戦利品の大砲の列、博物館、陽に輝く教会の金色の尖塔など、みな興味深いものです。しかし、アテネでパウロが感じた心の憤りを(使徒17・16、17)、私たちはここで体験しました。悲しくも意味のない迷信が至る所で見られ、頭を垂れ、十字を切り、聖画に口づけし、遺物を礼拝する人々の姿が、私たちの目に悲しく映りました。
 教会は、市場と何の変わりもありません。案内人たちはチップをもらうために、教会の特別礼拝を執拗に勧めるのです。

(中略)

五月十二日(ハルビン)
 私たちは、数ヶ月前伊藤公爵が暗殺されたプラットホームの現場を見ました。伊藤公は偉大な人物ではあったが、悲しいことに神とは全く無縁の人でした。その上、うわさによれば道徳性についても問題があるとのことです。されば、地上の偉大なる者よ去れ。有能な政治家として彼が見事に統治した日本と朝鮮にとっては、彼の死は大きな損失です。しかし「天の万象は焼けて崩れ去り」、義だけが住む天と地とを神が創造される日、彼にとっても、その国民にとっても、彼のしたことはいったい何の役に立つというのでしょう。

五月十七日(日本・敦賀)
 シベリアのまだ春を迎えない森林の中を、十日間の旅を続けて来た目には、日本の山の緑滴る景色は美しいものでした。一つの詩が私の心に浮かびました。

 アジアの沖、大洋のただ中に、
 不思議に美しく輝く島国が横たわる。
 アジアの山々に日の光が届く前に、
 日本の島には朝日が照り輝く。
 日の出の輝きを最初に捕らえる、
 朝の島、美しい日本。
 美しい日本、美しい日本。
 朝の島、美しい日本。
 美しい日本、美しい日本。
 ただキリストだけがあなたを救うことができる、
 美しい日本よ。

 一年半前、私が敦賀からウラジオストックへ渡ったとき、三十六時間の予定が三十時間も遅れ、船は台風にあってスクリューが折れ、安全に陸地に着けるとは思えませんでした。しかし今度は、日本海は湖水のように静かでした。神よ、私たちはあなたのみ恵みをたたえます。

 あなたは荒れ狂う海に命じ、
 海の面を静められる。
 あなたは眠っている海を逆巻かせ、
 逆巻く海を眠らせる。

(『パゼット・ウィルクスの日本伝道日記』安倍赳夫訳1978年刊20〜25頁より抜粋引用。宣教師パゼット・ウィルクスは1897年から7度日本にやって来たが、これは1910年ロンドン、ベルリン、モスクワを経由してきた時のものであり、同書はその二年三ヶ月の日記である。※昨日は関東地区で虹が各所で見られた。ダブルレインボウも見られたと言う。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。創世記9・13

2013年10月2日水曜日

『なんだベア』おのぐちひとし著 日本文学館 

表紙絵も著者
錦秋の候、到来である。先週著者より、表題の本の進呈を受けた。ここ数年お会いしていない。年賀のやりとりだけは欠かさずしている間柄である。

著者とは20数年前私が障害者のための自動車教習所を訪れた時初めてお会いした。そこには自らの行為により障害を負った教え子が入所していて、確かクリスマスをともに祝おうとして出かけたときだったように記憶するが、私と教え子の様子を遠巻きに眺めていた若い青年がいた。それが著者であった。そののち4年ほどしてこのふたりは結婚に導かれた。

その時、著者が書いた結婚への決意を披瀝した文章を私は今も大事に保管している。原稿用紙にして6枚の文章である。彼は脳性小児まひのために手足、言語が不自由である。しかし、その原稿用紙は香り高い文章とともに筆者の力強い健筆ぶりを今も示していて、私には容易に捨て難くなっている。その末尾で彼は次のように書き記している。

「今、結婚を前にして、4年の月日を思うとき、決してどちらか一方が先導し続けて来た道程でなかったように思う。全く、助け合いそのものの道程であり、だからこそお互いをよく知り合えたのだと思う。これからの結婚生活においても、私たちは、そうでありたいと思っている。結婚生活というものは、二人で築き上げていくものであって、どちらかが、つくろったのでは、砂上の楼閣の如しだと思うのである。だから私達は、いつでも話し合っていたいと願っている。そして歳をとって、お爺ちゃん、お婆ちゃんになった時、のんびりと縁側に座って、昔話をしてみたい。そんなことを思っている私に、また、神が言われた。『あなたがたは、もはや二人ではない、一人である』と。」

2003年から、著者は語り部としての学びを続けられたと言う。ちょうど今年で10年経つから、その成果が一冊の本になったのだろうか、著者の長年の願いが実を結んだのだと思う。

話は、山の食べ物がなくなった熊たちが、人間を相手に一致団結して、里山の栗林からの採集に成功し、ゴンドラで栗を運搬するという奇想天外の物語である。登場人物として五郎熊、サン太熊、長老熊はじめ様々な熊が登場するがそれぞれ人様顔負けの所業の持ち主ばかりで里山の人間の裏をかき、追いつ抜かれつの所業の末、20年来の宿願を果たすという筋立てである。

すべて親しみやすい方言に満ちており、声に出しても調子いい内容である。その中には戸隠あり、甲賀あり、土浦あり、猿飛佐助や「なりこまや」の呼びかけあり、著者の日頃の芸事たしなみが文章の端々にあらわれて楽しい。さしずめ、圧巻の一つは次の箇所であろう。

五郎とサン太はわざわざ鉄砲たちに気付かれる様に、見通しの良いところを、ジグザグに走った。

ズドン、ズドーン。ズド、ズドーン。ドン。ヒュー〜。

鉄砲たちが、一斉に火を噴いた。

ズドズドズッドーン。ドン。パラパラパラパラララララ。
ズッドーン。ドン。パラパラパラパラ・・・・。
ズーズドン。パラパラパラパラ。
ヒュー〜、ズドー〜ン、ドン。パラパラパラパラパラパラパラパラ

夜空に、見事な花火が! 花火が浮かび上がった。

「たまや——————————————————」
「さるとびや—————————————————————」
山の中腹辺りから、まず声が掛かって、間髪入れずして、栗林辺りから声が掛かった。何とも絶妙のタイミング。もし、歌舞伎で、これだけの大向こうからの声が掛かったら、さぞや役者はものすごく気持ちいいことだろう。現に花火も気持ちよさそうに、次から次へと上がっている。

「うわ〜花火だあ、綺麗だな—それにまるで昼間の様に明るくなって栗が良く見える。あっははは、採り放題だ、こら」
なるほど、栗林は、まるで夜間照明が有るかのごとく照らし出されている。

(同書 壱拾五 けがのこうみょう 冒頭の文より)

こんなに楽しい作品ではあるが、私には一点物足りないところがあった。それは「福音」の欠如である。今後著者がそのような作品をものされることを期待している。

狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(イザヤ書11・6〜9) 

2013年10月1日火曜日

真夜中すぎ(最終回) ポーロ・B・スミス

そばの収穫、夏  ミレー
神の御霊の働きを拒んでいる限り、その人は自分の心のまわりに反抗の壁を築き上げていることになり、そのうち彼の心は、もはや変えることができないほど、頑固で無神経なものとなるのです。そして、ついに最後の「いいえ」を言い、それっきり「はい」とは言わなくなるのです。

私は神の御霊が、われわれの生涯に境界線をお引きになるとは思いません。しかしわれわれが、主イエス・キリストを常習的に斥けることにより、みずから境界線を引くことができるものと、固く信じています。

あなたは言うかもしれません。「しかし、私が神に向かって最後の『ノー』を言ったことを、どのようにして知ることができるでしょう。あるいは私は、自分の生涯に境界線を引いたため、すでに機会をなくしているかもしれません。また私の心は、神の御霊の訴えに対して余りにもかたくなになり、かつ無神経、無頓着になったため、もはや私の心がやわらかくされて神に立ち帰ることは、あり得ないかもしれません。しかし、境界線が引かれたのはいつであるか、どのようにして知ることができるでしょう。」

あなたの心はかき立てられるでしょうか。少しでもあなたは、関心を持っているでしょうか。認罪をもたらす神の認罪の力が、多少でも存在している証拠があるでしょうか。あなたは魂の救いに関して、少しでも気をつかっているでしょうか。もしそうであったら、あなたはまだ境界線を踏み越えていません。関心があり、気づかいがあり、なんらかの渇望の印があるなら、まだ遅すぎないのです。

聖書はまだ「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」(使徒行伝2・21)と読むことができます。もしあなたが今日、救いを求めて主を呼び求めるだけの関心があるなら、あなたは救われるのです。聖書は「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハネ6・37)と言っています。もしあなたの側に、主のみもとにくるだけの関心があるなら、あなたは拒まれることはありません。神はあなたを受け入れ、あなたを御自分の子どもにしてくださいます。しかし、あなたが救われるために、今主の御名を呼び求めるように、せつにお勧め致します。神の子どもにしていただくため、今主のみもとにいらっしゃい。そして、このメッセージが語られている時にも、主を救い主として受け入れることを拒み、またもや神に向かって「ノー」を言い、このことによって、あなたの生涯に境界線を引き、夜中の時刻が鳴るのを用いて外に取り残されぬよう、心してください。

いつの日か、あなたが神との正しい関係に入る機会は、打ち切られてしまいます。あなたが祝福の喜びと神の御前における満足をもって永遠の中に案内されるか、それとも泣いたり、叫んだり歯ぎしりしたりしなければならない外の暗黒に投げ入れられるかは、あなたが夜中の前になす決心にかかっているのです。

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』 と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(マタイの福音書25・1〜13)

刈り入れの日があります。しかし、刈り入れが終わりを告げる日もあります。機会に恵まれる夏の時があります。しかし、夏が過ぎ去る時もあるのです。あなたが夜中すぎまで外に取り残され、刑罰の宣告を受けて地獄にいる者らとともに、永遠の暗黒の中から、「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない」(エレミヤ8・20)と絶望の叫びをあげないように、あなたが夜中前に扉の中に入ることを、神が許されるように。

(『真夜中すぎ』15〜17頁より引用。主を受け入れることに関して、自分自身の経験を振り返って見ると、最初から「ノー」と言って、自ら境界線を引く力は強かったように思う。しかしほぼ三年半の抵抗のうちに、いつの間にか主を受け入れていた。もしそれがなかったら、というのは今日それから40数年が経つのだから、主を受け入れることは私にとってより困難になったただろう。かたくなであり、心をセメントにも等しきもので固めていたあの若き時に主を受け入れることができたのは主のあわれみとしか言いようがない。もっとも主にとっては、人が老年に至るまで主に対していかなる境界線を引こうとも、主の愛は変わらないことを、私は自分のまわりにいる、救いを経験したたくさんの高齢者の方々の証を通して今も日々教えられている。「やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた」詩篇107・10〜16。)