2016年6月13日月曜日

腐敗せる者の間にある聖なるお方

合歓の木の 花弁あざやか 吸い込まる 虫あまたあり 造化妙なり(図書館前)※

 神のことばは、私たちに主の生涯の初期のころについて次の一つのことを語っていたに過ぎません。すなわち、主は一人の聖なるこどもであったということです。聖とは何でしょうか。聖とはすべて汚れるものが何一つもなく、完全に美しく、良く、愛すべき存在だということです。これは主が子どものようであったことです。

 主は、やさしく勇敢であり、思いやりがあり無欲であり、気高く真実で、従順で愛情あふれ、親切で寛容であります。あなたがかつてどんな他のものよりも敬服でき愛することができると考えたことがすべて、主のうちには、そして外見だけでなく内面にいたるまで、すべて見出されたということです。まさしく主は聖かったのです。

 そして主の善いことと聖さはすべてあなたに当てはまるのです。なぜなら、あなたはあなた自身のものは何も持たないからです。神様は主のためにまるであなたが全く従順で誠実で無欲で善いかのようにあなたに微笑みかけ、あなたには決してふさわしくなくても、あなたのために主がふさわしいとされるイエス・キリストの報酬を与えようと願っておられます。

 十字架の上で主はあなたの罪を受けられましたが、今やあなたに主の正しさを与えられます。主はあなたの懲らしめを受けられましたが、主の報酬を与えてくださるのです。もし、あなたがその交換を受け入れるなら、あなたは全く(聖なる人として)転換されるのです。

あなたの受ける分は 解放のともなわない せっかんであった
それに対して 私の受ける分は 平和
傷つき残酷な縞は あなたのものだった
それに対して 癒しが私のもの
あなたのものは 刑罰であり 有罪宣告であった
私のものは無罪放免であり 完全な救い
あなたには悪態 ののしりの群衆
私には天使の歌
あなたには顔をしかめ 顔を隠される
私には恵みの笑み
地獄の悲しみともっとも厳しい死が あなたに
そして天国と永遠のいのちは 私に

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-13-unspoiled-among-the-spoiled/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97329です。

The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(8)
 けれども、危険状態は過ぎ、母は時たま再び私たちに加わることができたのです。日曜日には教会の礼拝の集いに耳をとおして参加することが母の喜びでありました。聖ニコラス教会にある母の窓の一つは教会に向けて開かれていました。それは聖書朗読や讃美が聞こえるようにするためでした。そして母は教会で読まれるのと同じ聖書箇所を知り、病室で一人きりであっても、聖徒たちとの交わりを楽しめるのはどんなに大きな楽しみであることでしょうかと言いました。父もまた必ず説教の聖書箇所とアウトラインを母に話すのでした。
 一番上の姉であるミリアムがオークハンプトンから花と果物を持って訪れたことは大いなる喜びでありました。そしてそれらを父が運んで行き、多くの小屋住まいの病人たちにも分けられたのです。
 1847年の8月には母はレインボー・ヒルの転地療養に出かけることができました。新鮮な空気とマルヴェルン丘陵の眺めはたいそう喜ばれました。かつてまだ朝ぼらけの時、立って、流れ行くもやを眺めていた時、母は言いました。「もうすぐ私の影は全部消え去り、私にはとこしえなる夜明けの輝かしい朝がやってきます」またこうも言いました。「聖なる神様と罪深い人間とのへだたりを考えてごらん、大変な割れ目があるのよ!  でも、すべては贖いの愛によって満たされ、橋渡しされるの。生まれながらの心に大きな変化が起こるのです。そうでなければ、神の右の座で喜ぶことはできないのよ。」
 別の時には1ペテロの1章8節あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており」を読みながら母は言いました。「私は昨晩そのことをかすかに経験し、言うに言われぬ喜びと栄光の満たしを味わった。ほんとうに、ほんとうに幸せだった」
 聖ニコラス教会〈今では壊されているのですが〉にもどり、母は再び礼拝に連なり、父の説教壇からなされる話しを聞くこともできたのです。のちに母は言いました。「説教者には祈りが何よりも必要です。神の御霊がその語ることばにともなってくださり、神様が説教者をとおして語ってくださるためにです」

※図書館で『牧野富太郎 なぜ花は匂うか(平凡社)』を借りてきた。久しぶりに名文を読んだ気になった。「花は黙っています。それなのに花はなぜあんなに綺麗なのでしょう? なぜあんなに快く匂っているのでしょう? 思い疲れた夕など、窓辺にかおる一輪の百合の花を、じっと抱きしめてやりたいような思いにかられても、百合の花は黙っています。そしてちっとも変わらぬ清楚な姿でただじっと匂っているのです。(中略)あなた方はただなんの気なしに見過ごしていらっしゃるでしょうが、植物たちは、歩くことこそできませんがみな生きているのです。合歓の木は夜になると葉をたたんで眠ります。・・・」それだけでなく、思わぬ記事を目にした。「イチョウの精虫」と題するイチョウの木の雄木と雌木についての男女の結婚生活に比すべき生態の不思議さを巧みに描き、「花粉が朦々たる煙りのように飛んで来て、よくも狙い誤またずにちょうどその小さい孔に飛びこむとは、じつに造化自然の妙に驚嘆せざるを得ないのである。」と述べる文章だが、その中に我が母校の草創期の教師の一人である平瀬作五郎氏がイチョウの精子の発見者として言及されていた。しかもこの文章は富太郎氏の1953年91歳の文章だと知るから恐れ入る。) 

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