2016年6月18日土曜日

私たちのものでない美しさに装わされて


私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。(詩篇90:17)

 「それは、なんと麗しいことよ。」(ゼカリヤ9:17)とゼカリヤは言いました。私たちの上に主のご慈愛はどのようにあらわれるのでしょうか。

 二つの方法によります。それらを理解するようにつとめなさい。それからどちらの方法においても主であり私たちの神である方のご慈愛が私たちの上にあるように求めなさい。

 一つの方法は主がイエス・キリストの義の衣であなたをおおってくださることによります。つまり、あなたが全く罪深く不潔であるあなた自身のうちにいる者としてでなく、まるで救い主の麗しく聖められたいのちが自分のものであるかのように自分を見て、主のために生きるあなたとみなされるということです。

 この方法で主は私たちを「わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物をとおして完全」(エゼキエル16:14)だと呼ばれます。

 もう一つの方法は実際にあなたに聖なる美しさを与えることによってです。なぜならそれが主ご自身の美であるからです。私たちは主をありのままに見るまで、主に決して全く似ない者であっても、主は私たちを今でも主に似る者に作り始めることがおできになるからです。

あなたのうちにある我慢強さは 
主ご自身を反映するために
作り上げられないでしょうか
主のやさしさがあらゆる考え
顔つきそして語調を
柔らかくするでしょう
するとあらゆるまわりのものが
主をほめあげるでしょう
主のへりくだりを見るように

このようにして今この場でさえ
どれほど祝福があることでしょう
それがあなたの確かな報いです

 (今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-18-dressed-in-beauty-not-our-own/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97334です。
 百花繚乱の季節である 。以下は牧野富太郎の1956年94歳の時の文章と言う。様々な花の写真をブログ冒頭に飾らせていただいている。この機会にハヴァガルの文章と照らし合わせて植物学者牧野の文章をとおしても様々なことを考えたい。
          植物に感謝せよ(上)
 植物と人生。これはなかなかの大問題で、単なる一篇の短文ではその意を尽くすべくもない。堂々数百ページの書物が作り上げられるべきほどその事項が多岐多量でかつ重要なのである。
 ところがここには右のような竜頭的な大きなものは今にわかに書くこともできないので、ほんの蛇尾的な少しのことを書いてみる。
 世界に人間ばかりあって植物が一つもなかったならば「植物と人生」というような問題は起こりっこがない、ところがそこに植物があるのでここに始めてこの問題が擡起〈たいき〉する。
 人間は生きているから食物をとらねばならぬ、人間は裸だから衣物を着けねばならぬ。人間は風雨を防ぎ寒暑をしのがねばならぬから家を建てねばならぬのでそこで始めて人間と植物との間に交渉があらねばならぬ必要が生じてくる。
 右のように植物と人生とはじつに離すことのできぬ密接な関係に置かれてある。人間は四囲の植物を征服していると言うだろうがまたこれと反対に植物は人間を征服しているといえる。そこで面白いことは植物は人間が居なくても少しも構わずに生活するが人間は植物がなくては生活のできぬことである。そうすると植物と人間とを比べると人間の方が植物より弱虫といえよう。つまり人間は植物に向こうてオジギをせねばならぬ立場にある。衣食住は人間の必要欠くべからざるものだが、その人間の要求を満足させてくれるものは植物である。人間は植物を神様※だと尊崇し礼拝しそれに感謝の真心を捧ぐべきである。〈※キリスト者としては富太郎博士をしてこのように思わしめている人間に本来備わっている偶像崇拝の根深さを知り、ぎくっとさせられるが、一方全文脈をとおしてこの博士の純真な心を受け取りたい。この項、明日に続く〉)

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