私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。(雅歌1:4)
イエス様に向けられる愛ほど深くかつ広い愛はありません。その愛は主をとおしてのみ流れる時、より豊かに、より徹底的に流れるものであります。その時、その愛はまた主に対する力となるでしょう。愛は必ず無意識に主に向かって働いているのです。
その愛によって他の人々を私たちのところに引き寄せるには、必ず私たちの愛の泉により近く引き寄せることであって、決してそれから引き離すことではありません。唯一どんな心の持主も主のところに引き出すことができるのは主の愛という偉大な磁石であります。しかし、私たちの愛が全くその力ある影響にさらされる時、他の人たちは大変引きつけられるのです。主はこんなふうにへりくだって、人々を用いられるのです。
主イエス様が受け入れ維持されるだけでなく、実際に私たちの愛を用いられると考えることは驚くべきことでないでしょうか。私たちは「御手から出たものをあなたにささげた」(1歴代29:14)のです。なぜなら「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(1ヨハネ4:19)
主を愛するために
また主を知る愛のために
選り分けなさい
過ぎ行くものに
愛情を費やさず
主にいのちと心を与えるために
召されている
隠された宝を注ぎだすために
召されている
他の何物も測る力とてない
主の愛する御手に
三重に祝福される
「 選り分けなさい」
また主を知る愛のために
選り分けなさい
過ぎ行くものに
愛情を費やさず
主にいのちと心を与えるために
召されている
隠された宝を注ぎだすために
召されている
他の何物も測る力とてない
主の愛する御手に
三重に祝福される
「 選り分けなさい」
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-16-the-magnet-of-love/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97332です。
The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(11)
1848年6月
愛する母は申しました。「私は今痛みのどん底にあります。もし私があらかじめどんな痛みを経験しなければならないかを話されていたら、私は痛みに耐えることができるとはとても信じることができなかったでしょう。おおー私は私が召される時、あなたがたが私のために賛美し喜んでくれることを望んでいます。その時私のために鐘は鳴り響くことでしょう。私が罪と悲しみから解放されるので私には死を悲しむ思いはありません。すべて備えられています。私は小羊の婚宴の夕食へと招かれているのですから。」
6月20日
姉のミリアムとその夫が母の体を支えていた時、切れ切れに母は言いました。
「おおーこの痛みは何とひどいことでしょう。でも私は主の恵みが私をだめにしないことを知っています。キリストは私の救いのためにすべてのことをしてくださいました。その他のどんなものも今私を慰めることはできません。私の救い主が私の力です。私の歌です。全くそれはすばらしいので、私には死の恐れは全く消え去っています。私は今死を憧れ望んでいます。なぜあなたはとどめておられるのですか」
愛する父が言いました。「愛するママ、あなたが主にお会いする日はもう間もないよ。」
母は答えました。「主の御名をほめあげます。私がもうすぐ主に、私の(罪の)ために刺し通されたお方にお会いできることを知らされるとは何という栄誉あることでしょう」その晩、母はだんだん楽になり、姉のミリアムがいくつかの賛美歌を弾くのを喜んで聞きました。「いざみなきたりて よろこばしく こえをひとつにし ほめたたえよ こひつじイエスに みさかえあれや(訳注:聖歌477番の歌詞を拝借、ただしメロディーは日本のものとイギリスのものとは異なるようだ)http://www.hymntime.com/tch/htm/c/o/m/e/comeletu.htm」など、そして小ミリアムが母の側で歌いました。「幸せな地に来なさい」
この時を境に母の言葉はきわめて少なくなりましたが、心は聖なる平安に満たされていました。時々母は声高に言いました。「私の主よ、来てください。主イエス様、早く来てください」と。
完全な平安のうちに、私たちの愛する母は1848年7月5日の夕方に召されました。)
The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(11)
1848年6月
愛する母は申しました。「私は今痛みのどん底にあります。もし私があらかじめどんな痛みを経験しなければならないかを話されていたら、私は痛みに耐えることができるとはとても信じることができなかったでしょう。おおー私は私が召される時、あなたがたが私のために賛美し喜んでくれることを望んでいます。その時私のために鐘は鳴り響くことでしょう。私が罪と悲しみから解放されるので私には死を悲しむ思いはありません。すべて備えられています。私は小羊の婚宴の夕食へと招かれているのですから。」
6月20日
姉のミリアムとその夫が母の体を支えていた時、切れ切れに母は言いました。
「おおーこの痛みは何とひどいことでしょう。でも私は主の恵みが私をだめにしないことを知っています。キリストは私の救いのためにすべてのことをしてくださいました。その他のどんなものも今私を慰めることはできません。私の救い主が私の力です。私の歌です。全くそれはすばらしいので、私には死の恐れは全く消え去っています。私は今死を憧れ望んでいます。なぜあなたはとどめておられるのですか」
愛する父が言いました。「愛するママ、あなたが主にお会いする日はもう間もないよ。」
母は答えました。「主の御名をほめあげます。私がもうすぐ主に、私の(罪の)ために刺し通されたお方にお会いできることを知らされるとは何という栄誉あることでしょう」その晩、母はだんだん楽になり、姉のミリアムがいくつかの賛美歌を弾くのを喜んで聞きました。「いざみなきたりて よろこばしく こえをひとつにし ほめたたえよ こひつじイエスに みさかえあれや(訳注:聖歌477番の歌詞を拝借、ただしメロディーは日本のものとイギリスのものとは異なるようだ)http://www.hymntime.com/tch/htm/c/o/m/e/comeletu.htm」など、そして小ミリアムが母の側で歌いました。「幸せな地に来なさい」
この時を境に母の言葉はきわめて少なくなりましたが、心は聖なる平安に満たされていました。時々母は声高に言いました。「私の主よ、来てください。主イエス様、早く来てください」と。
完全な平安のうちに、私たちの愛する母は1848年7月5日の夕方に召されました。)
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