正しい者のくちびるは多くの人を養い、・・・正しい者のくちびるは好意を、知っている(箴言10:21、32)
「われらのくちびるはわれらのものだ」(箴言12:4)と言っていた日々は永遠に過ぎ去りました。今ではくちびるは私たちのものでないことを知っております。しかし、読者のうちでどれだけの方が「くちびるが軽率に話してしまった」ことにみじめな思いをされているでしょうか。どれだけ多くの方が、くちびるがもっともしたくないと思っていることはくちびるの戸が閉じられることだと知って、「私のくちびるの戸を守ってください。」(詩篇141:3)と祈られていることでしょうか。
くちびるはわざと心で決心して、軽はずみな言葉や愚かな言葉あるいは大げさな言葉がそれぞれの誘惑にしたがってそのとびらをそっと抜け出て行き、その結果助けられない状態になるのです。そのような者の祈りのほんとうの目的はそれほど多くの言葉が抜け出て来ないようにというただそれだけでありました。信仰が進まなくなると同様に、その答えも進まなくなり、それゆえくちびるの戸は守られませんでした。
問題にまっすぐ向き合いましょう。私たちは自らのくちびるを主にゆだねてきたのでしょうか、それともゆだねてこなかったのでしょうか。この問題がまず解決されねばなりません。そうしないで、さらに時をすごすことのないようにしましょう。
くちびるをイエス様のところにあずけ、イエス様に取り上げてもらえるように頼みなさい。けれどもくちびるを主におゆだねした時、こんなふうになっていませんか、はたしておゆだねしたくちびるを主は守ることができるのだろうか、できないのではないのだろうか、と。もし主がおできにならないのなら、もちろんあなたはただちにあきらめたほうが良いです。なぜなら、あなた自身の経験によれば、あなたはできない、それゆえ助けようがないということは何度も明らかだったからです。
でも、もし主ができるなら、いいえ神に感謝しなさい。「もし」ということはないのです。主はおできになる、むしろ、この永遠に続く失敗が避けられないという必要性はどこにあるのかと言いなさい。あなたは事実上自分はそうなるように運命づけられていると考えたのです。それがために、いかなる時も主の御腕は救えないほど短縮されることがないのに、ただあなたがイスラエルのきよい方の力を制限していたのです。
正直なところ、今日あなたは主にあなたのくちびるを守っていただくように信頼しましたか。信頼には私たちがゆだねたものが守られるという期待が必ずふくまれています。あなたは何度も一生懸命試してみたかも知れません。けれどもあなたは信頼しなかったのです。ですから、あなたは守られなかったし、これまであなたのくちびるはあなたのたましいのわなとなったのです。(箴言18:7)
主を読みなさい
コニー
主をもっとも愛する、そうです
あなたよりももっと愛する方について
読みなさい
その愛、すぐれた真実な
とこしえに続く、いつまでも新しい愛を
読みなさい
主の心以外の誰のために勝利が得られると
話すことができましょうか
主を読みなさい
コニー
日曜学校の本は
導く星から流れて来る
確かな銀色の光線のように
記念となって光り輝きますから
冬の海の波を横切って
はるかにはっきりと
コニー
主をもっとも愛する、そうです
あなたよりももっと愛する方について
読みなさい
その愛、すぐれた真実な
とこしえに続く、いつまでも新しい愛を
読みなさい
主の心以外の誰のために勝利が得られると
話すことができましょうか
主を読みなさい
コニー
日曜学校の本は
導く星から流れて来る
確かな銀色の光線のように
記念となって光り輝きますから
冬の海の波を横切って
はるかにはっきりと
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-28-our-lips-for-him/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97344です。随分内面的な長文の文章である。くちびるの動きにこれほど敏感になっている文章は読んだことがない。ハヴァガルがいかに繊細であったかということだろう。しかもこの文は「コニー」が登場する。どんな女性か分からない。日曜学校の生徒であったのだろうか。
マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(2)
私の最大の霊的恵みは神の永遠の愛を体験したことだった。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。 」〈エレミヤ31:3〉私の最大のこの世での最大の恵みは人生の防波堤となるべく訓練をしてくれた賢く、愛情深く、純潔な両親を抱いたことだった。しかし、私はあまりにもしばしば自分かってな道を選び、全面的に主に自分の意思をゆだねることに随分と遅れたことであった。
私たちの教会の祈祷文には多くのあやまちをできるならば救おうとする意欲が正確に表現されている。「おおー神よ、私たちはあなたなしにはあなたをほめあげることができないのですから、あなたの聖霊が恵みによって万事において私たちの心をまっすぐにし、またご支配してくださいますように」
今も私は主に対して無価値なしもべの一人として、へりくだって心から神への感謝に参加することができる。「 私たちはあなたをほめたたえます。私たちの創造、保持、この生涯のあらゆる祝福ゆえに、さらにはなかんずくあなたの測り知れない愛のゆえに。それは私たちの主イエス・キリストによって、恵みの管、栄光の望みとなるために、この世を贖ってくださったことです」)
マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(2)
私の最大の霊的恵みは神の永遠の愛を体験したことだった。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。 」〈エレミヤ31:3〉私の最大のこの世での最大の恵みは人生の防波堤となるべく訓練をしてくれた賢く、愛情深く、純潔な両親を抱いたことだった。しかし、私はあまりにもしばしば自分かってな道を選び、全面的に主に自分の意思をゆだねることに随分と遅れたことであった。
私たちの教会の祈祷文には多くのあやまちをできるならば救おうとする意欲が正確に表現されている。「おおー神よ、私たちはあなたなしにはあなたをほめあげることができないのですから、あなたの聖霊が恵みによって万事において私たちの心をまっすぐにし、またご支配してくださいますように」
今も私は主に対して無価値なしもべの一人として、へりくだって心から神への感謝に参加することができる。「 私たちはあなたをほめたたえます。私たちの創造、保持、この生涯のあらゆる祝福ゆえに、さらにはなかんずくあなたの測り知れない愛のゆえに。それは私たちの主イエス・キリストによって、恵みの管、栄光の望みとなるために、この世を贖ってくださったことです」)
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