2016年6月2日木曜日

すばらしい同伴者

えをかくせいかつ かんじるこころ 谷口幸三郎展※

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28・20)

 私たちの中には主がともにいてくださることを意識する上で多くのことを考えたり言ったりする者がいます。時には主がいますことを喜んだり、時には主がいまさないと思うので終日嘆き続けたりします。そのために祈りますが、私たちが求めるものが受け入れられるようには必ずしも見えません。

 そうすることによって、私たち自身の立場を悟り、時には他の人の立場でさえ知ります。頂点にいることもあれば、絶望するときもあります。そのことに関して私たちが困惑したり失望することのすべては、主ご自身の簡潔な言葉に直面し、そのことを把握する単純な信仰のうちに、いつしか消え去るものです。

 というのは、もしイエスが「 見よ。わたしは、いつも、あなたがたとともにいます。」と簡潔にして絶対的におっしゃるのなら、私たちはそのことについて感情や「感覚」をもって何かをしなければならないのでしょうか。私たちはそのことを信じ思い起こしさえすればよいのです。私たちがそのことを認識できるのは、このようにして信ずることと思い起こすことによってのみ可能なのです。

イエスは
あなたとともにおられる
あなた自身の主人として
終りまで導き愛してくださる 
喜びを輝かし 悲しみを軽くし
きょうの一日すべてにわたって 
いやさらに明日も

イエスは
王であり 救い主であり
主であり 友であるお方なのだ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-2-wonderful-companion/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97318です。簡潔だが依然として訳出の難しい個所である。ハヴァガルの心を心として訳してみた。

※明日から12日まで谷口幸三郎展開催。場所は東京・杉並・西荻の「数寄和」くわしくはhttp://sukiwa.net/wordpress/archives/2055をご覧ください。) 

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