2016年6月26日日曜日

このイエス

初なりの いちじく乗せて ラッパ皿

キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を(神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりを)おささげになりました。(エペソ5:2)

 そうです。ご自身です。花嫁のほんとうの宝、中心である宝とは何ですか。何がもっとも深く、輝ける、甘美な愛と賛美の感動を引き起こすでしょうか。花婿の高価な贈り物ではありません。主のまばゆいばかりの義の衣ではありません。想像できない富の持参金ではありません。花嫁を連れて行く王宮の家のすぐれた様でもありません。花嫁が花婿と分かち合う栄光でもありません。それはご自身そのものなのです。

 イエス・キリスト、「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」(1ペテロ2:24)「このイエス」(使徒1:11)「見たことはないけれども愛しており」(1ペテロ1:8)神の御子、そして悲しみの人の子、私の救い主、私の友、私の主人、私の王、私の祭司、私の主、そして私の神。

 主は言われる。「私も、あなたにそうしよう。」(ホセア3:3)※何という「私」か。私たちは、その言葉の中に、いかなる人間の「私」とも大変異なる何という力とやさしさを感ずることでしょうか。なぜならあらゆる主の神性と主の人間性がその中に集約されているからです。そしてすべての「あなたに」。

 しかも「すべて」だけでなく、あなたのために「とこしえ」なのです。主の不変性はすべての特性のしるしです。主はとこしえに変わることのない「このイエス」なのです。死すべき人間の心はどのようにこの大きな約束を見積もることができるのでしょうか。人の心は「私も、あなたにそうしよう。」ということばのなかに包まれていることをどのように考えることができるというのでしょうか。

「このイエス 」

おお、このことばほど甘く耳に落ちることばはありません
静かで憂鬱な寝付かれない夜にはるかかなたから聞こえる音楽のように
疲れている者にやさしく呼びかけられる主
 「来なさい、そうすれば休ませてあげます」
小さな子ども愛した主は腕に彼らを抱き祝福された

孤独な悲しみの人である主は私たちの罪を負い呪われ低くかがまれ
不誠実な友によって苦しみの最も暗黒な時間に捨てられた
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-26-this-same-jesus/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97342です。

※今日は尊いみことばの取り次ぎのご用を預かった。その中心の一つに「とどまる」〈ヨハネ15:4他〉ということばがあった。帰って来てこのハヴァガルの文章を読んでいたら、その「とどまる」があった。これぞ、「このイエス様」が呼びかけてくださることばだと思い感謝した。記念に書き写しておく。「私は彼女に言った。『これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。』」〈ホセア3:3〉)

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