主がみこころにかなうことをなさいますように。(1サムエル3:18)
エリは自分の家に確実に重い裁きがくだるという恐ろしい状態のもとでこれらのことばを語りました。なぜなら、主がそのことをすでに話されていたからです。しかし、一般に、神に愛されている子が、確実にやってくるそのようなできごとの不安の下にいなくても、無条件に「主がみこころにかなうことをなさいますように」と言うのを恐れていることがどれだけ多いことでしょうか。
主がなさることについて、不安や不確かな時よりは、実際に壊滅的な打撃を受けた時のほうが、そう言うのはもっと簡単であります。多かれ少なかれ、不安と不確かなこの要素がつねにあります。人は頭上高く空がもっとも澄んでいる時でさえ、地平線内に小さかろうと大きかろうと、雲がない人生をほとんど想像することができません。
私たちは絶対的な宝を地上には持っていません。私たちの前にあることが得か損か、失敗か成功か、安楽か苦痛かどうかは決して分からないのです。そして、もし私たちが、不確かだとわかり、私たちが選んだようにそれから向きを変えることが許されたなら、より近いものを獲得することによって、いくつかの究極的な目的を駄目にし、より劣ったものをつかむことによって、いくつかのより大きな価値を妨害することは確かであるはずです。
もし、私たちがそのような経験を試みることが許されていたら、すぐに全く困惑し退屈になり、誤りの混乱に乗ぜられる自らを知らねばならないと思います。もし、いかなる感覚も残らなかったら、父の御手に全部もどすことを求め、「主がみこころにかなうことをなさいますように」と言わねばなりません。そうすれば安心し安らぎを感じることでしょう。
それでは、なぜ、ただちに安心と安らぎがないのでしょうか。なぜなら、なさるのは「主であり」私たちは何も知らないからです。それは豊かです。あなたを愛される主、あなたのことを考え、あなたのために面倒を見られる主、あなたを理解される主、過ちをなさらない主、あなたのためにご自身の御子を惜しまず与えられた主。
あなたは、主に主の良いと思われることをしていただかないのですか。その時、あなたが主にしていただこうと思うのは何なのか考えなさい。恐らく、それはあなたの視点から出ているもので、主の見られる視点からではないでしょう。なぜなら、あらゆる場合に発端となるべきことばは「主の目に良いとされること」であるからです。
主の目は徹底的に、あらゆる周囲のものを見、またすべてを越えたものです。そのように主の目に良いことは絶対的にまた完全に良いもので、私たちの最善のものよりはるかに良いものであるに違いありません。主は正しいことをなさるが、その正しさを良きもので飾られるのがわかると大変な平安があります。そして、私たちがこれを見る時、残りのものは喜びで飾られるのです。その時にはもはや「 主がみこころにかなうことをなさいますように」と言うのは大変むつかしいことではないはずです。
しかし、私たちは心に描く拒絶される良いものを
しばしば空しく求めます
しばしば空しく求めます
それは押し迫った必要が依然として
与えられないままだとみなしたものです
しかし、あらゆる隠された危険から
このようにして私たちの最善の友である方は
盾となられます
主はいかなる良いものも拒絶なさいません
神はあなたがたの必要を全部供給なさるのです
与えられないままだとみなしたものです
しかし、あらゆる隠された危険から
このようにして私たちの最善の友である方は
盾となられます
主はいかなる良いものも拒絶なさいません
神はあなたがたの必要を全部供給なさるのです
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