だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。(エペソ5:29)
教会は「ひとつのからだ」であるだけでなく、「多くの部分があり」ます。というのは「からだはひとつの器官でなく、多くの器官からなるからです」そして全体に対して真理であることは、もっとも小さい部分にとっても真理であります 。個人は大きな全体の中で忘れられているとだれかが思わないように、私たちの神のやさしいことばは可能なあるいは束の間のおびえに合わせるためにくだってきて、言うのです。「あなたがたは」キリストのからだであるだけでなく、「ひとりひとりは各器官なのです」(1コリント12:27)と。
あなたを「Cherisheth(養い育てる)」というこの一語をとおしてやさしく輝く愛のすべての啓示を受け取ることをためらわないでください。なぜなら、あなたが自分はキリストの最も弱い器官であると思い、栄光あるからだの一員たる価値がないと感じれば感じるほど、ますますそのことばはよりぴったりとまたやさしく当てはまるからです。
なぜなら、そのことばは一方で必ず、弱さや劣等や欠乏を示唆しているからです。もし私たちが全く強く、有能であり、自分に満足しているなら、私たちにとってそのことばは何の意味も持たないでしょう。主は決してそのような人々のために書き留めようとは配慮されなかったでしょう。そういう人たちはそのことばを必要としないし、またそのために主に感謝しないでしょう。
私たちは樫の木や運動選手や「意志の強い婦人」を「養い育てる」ことについては話をしないものです。この美しいことばを心から待つことやそれを大切にする感覚は、主は他の人たちがたとえ私たちをどんなふうに思おうともお構いなく、小さいものや弱いもののなかにおられる感覚とちょうど合っているのです。結局、何千人を追跡する者であっても、小さな者でないでしょうか。ゴリアテを殺す者であっても、弱い者ではないでしょうか。彼ら自身は偉大で権能あるお方、救い主との真の隠れた交わりを経験しているだけなのです。
キリストにある一人の父、あるいはイスラエルにある一人の母も、やさしく、感謝にあふれ、大変疲れを覚える小さな子どもの心のまま、大事な主に心を向けることでしょう。その結果、すばらしい慰めを得て、新たに元気づけられるのです。そして大変慣れ親しんだ聖句の小さな枕の上に静かに憩うことでしょう。
私はこんなふうになるとは
決して思わなかった
毎月毎月知らされる
あなたにある平安の川が
流れの中に一点の波紋もなく
信頼の中に一度のゆらぎもなく
幸福感の中に一点の陰りも
ないことを
毎月毎月知らされる
あなたにある平安の川が
流れの中に一点の波紋もなく
信頼の中に一度のゆらぎもなく
幸福感の中に一点の陰りも
ないことを
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-25-cherished-and-pillowed-to-rest/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97341です。今日の箇所もやはりきわめて訳出の難しい個所がありました。そのために日本語もおかしくなっています。読者諸兄のご寛容をお願いします。あわせて適切な訳を教えていただければ大変感謝です。内容的には大変すばらしいハヴァガルの霊想になっているように思うのですが・・・。なおpillowはハヴァガル愛用の用語だと思います。)
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