2024年10月15日火曜日

同窓会出席(下)

秋深し 青鷺一羽 佇みぬ(※1)

 今回の八潮高校第4期の卒業生の方が開いてくださった同窓会に出席して改めて自覚させられたことは、教職につくことの責任の重大さでした。会が始まって間もなく、一度も担任になったことのないTさんがツカツカと歩み寄って来て、「先生、Tです。授業中、先生に注意されましたよ。(他の科目の勉強をしていて・・・)」と言って来たことでありました。そう言われても、私には覚えのないことでした。しかし、高校時代の彼女の面影を懸命にたどって行くうちに、そのシーンを何となく思い出せたのです。およそそのようなことをするはずがないと思っていた、彼女にその行為が見受けられて注意したのだ、と(※2)。私は何しろ社会科の教員としてスタートしたばかりで己が授業が十分でないという負い目を抱いていましたので、そうされてもやむを得ないと内心では思っていたからです。

 そうかと思うと、やはり担任をしたことのないO君が快活に「先生、先生が『人には甘く、自分にも甘いのは一番よくないことだよ』と言われたことは卒業以来忘れたことはありませんよ」と言ったことです。私にはこの言には正直参らされました。自分がそのようなことを言った確信が全然なかったからです。そのあと、彼は「そうだ、先生は『倫理・社会』の先生だった!」とも言いました。それまで、その場にいた卒業生の間では、「地理」だとも「世界史」だとも意見が分かれていた中での彼の断言でした。私にとってはこのO君の言には大いに励まされて、何か新しい力を得たような気持ちにさせられました(※3)。

 肝心の6人のクラスの人ともきちんと話しすべきだったと帰ってから悔い改めさせられています。ただ最初私が担任だとは知らなかったH君とはじっくり話すことができました。現在、段ボールのデザインをやりながら、コロナ禍の大変な時も通信販売が盛んになり、かえって仕事が与えられたことなど、話してくれました。S君からは年金生活が始まりそうだということや自己の資産運用などを聞かされました。女性陣の中ではSさんと少し話ができただけでした。

 私以外の3人の先生は、どっかと座っており、クラスの生徒と交わっておられるのに、私と来たら、懐かしさのあまり、日頃会っていない先生や生徒諸君と交わりたくてクラスから離れてしまっていました。一方では、総計273名の入学者が一年、二年、三年と三度クラス替えをしており、いずれの生徒諸君も私たち担任にとってクラスを越えた関心の的でしたから、このこともやむを得なかったのかと今では思っています。

 最後に特筆すべきことは、Eさんのように今回来れなかった担任の先生のことを心から心配する姿、一方ではクラスの生徒が亡くなったことをその場で初めて知って愕然としている担任の先生の悔恨など、師弟の枠を越えたその愛情の深さに接することができたことです。またHさんのようにかつて私のクラスにいた彼女が、在学中の私に対する思いを(不満をふくめ)卒業以来体当たりにぶつけてくれたことです。同窓会を通して、過ぎ去った月日の重さを実感しながら、高齢者の鳥羽口にいる彼らと、まさに老境に入り、死さえ間近に覚える私も、他の3人の年少の方々と担任として一緒に招かれ、座談に興じている姿は、私たちの学年「6人委員会」が理想した境地でなかったかと思うのです。

 この八潮高校も2026年度には、八潮南高校と統合されて新しい高校に再編成されようとしていますが、時世上やむを得ないのでしょうか。しかし、この4期生を初めとして、この学び舎で50年におよび青春をぶっつけあった仲間がいたことは忘れられることがないでしょう。

※1 昨日は久しぶりにいつもより下流の古利根川を歩きました。いつもの上流に比べ、鷺が多いように思いました。

※2 言外に、その注意のおかげで以後気をつけるようになりました、という意味が込められていたように思います。

※3 大学では経済学を専攻しましたが、社会科の各科目は無免許運転の嫌いが多分にあり、すべての授業が手探りで、これと言って自信の持てる科目はありませんでした。その私は一年で地理、二年で倫理社会、三年で世界史と担当しました。社会科の先生方の間では特に「倫理社会」を持つことが敬遠されました。それは生徒諸君に道徳めいたことを話すのを由とされなかったのだと思います。その社会科教員の中に急にキリスト者である私が新たに加わったので、当然私がそれにふさわしいと考え、歓迎されたのでした。しかし、私にとっても悪戦苦闘しながらの「倫理社会」の担当でしたから、O君の話は私にとりまことに慰めになりました。

あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。・・・あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(新約聖書 マタイの福音書23章8〜12節)

2024年10月14日月曜日

同窓会出席(中)

秋深く 過越思い 月仰ぐ(※1)

 ところで、この八潮高校は私が埼玉県の教員採用試験に合格し登載されてから、正式に赴任が決まった高校であリました。それまで9年間栃木県で商業科の教員をしていました。その私が埼玉県の社会科の教員になろうとしたのは、とどのつまり、日曜日の礼拝のために栃木県足利市から出席していた教会が埼玉県春日部市にあったからです。課外とは言え、日曜日以外も教会の奉仕が忙しくなり、いっそのこと、足利市から春日部市へと住居を移してはと思い、三年前にすでに大胆にも実行してしまったことにあります。

 八潮高校の教頭さんから、「うちに来てくれないか」という打診があったのも、当時、教会で奉仕をしていた時だったと思います。家に電話されたが、私が不在のため、家内から教会の電話番号を聞いてかけてこられたようです。私にとっては待望の知らせでした。私はそれまで2年間、採用試験には合格するが、その後、埼玉県内のどこの高校からも打診がなく、2年間棒に振っていたからです。

 低い小さな声でおっしゃる教頭さんの声は、「ついては一年の担任を持ち、学年主任として働いて欲しい」という知らせでした。私は一瞬戸惑いました。栃木県の現任校では交通事故(※2)に遭ったとは言え、担任も一回だけしか経験しておらず、まるきり自信がない、ましてやその上、責任のある学年主任の仕事を果たせるものか、という不安でした。一方、私は栃木県の組合活動に熱心で、学年主任は担任団の互選が望ましい、それこそ民主的な職場づくりに貢献すると考え、職場で実践活動をしていたからです。だから戸惑いましたが、このお誘いを拒めば、またしても浪人かと思い、そのお電話に結局お引き受けしました。

 こうして1976年(昭和51年)の4月に273名の新入生を迎える学年団の一員となったわけです。同校は新設間もない高校でちょうど4年目に入るところでした。清新の意気に燃えた若い学校でした。私のような若輩者(33歳)でも年次は上から数えた方が早い部類に入っていました。しかし、私は埼玉県の教育界の現況も知らず、落下傘部隊よろしく、すでに五人の方からなる学年団が構成されている中に、追加のように私が一人加わり、しかも学年主任を任せられたのです。管理職の先生方は私の存在をよく知られず、埼玉県に転入して来たばかりで組合に未加入の私が学年主任なら都合良いと考えられたのではないでしょうか。

 しかし、この学年団は副学年主任たる先生の影の力、その五人の先生方の協力もあって、稀に見る結束力を持つ学年集団として成長していったのではないかと思います。学年を卒業させてからも、担任6人は「6人委員会」と称しては飲み会などを課外で精力的に持ち、互いの交流を深めて行ったからです。この「6人委員会」の面々は、当時教会の宣教活動に熱心で、課外にD.L.ムーディーの「科学映画」を私の家で試写した時も、喜んで出席して歓談に加わってくださったほどです。互いの人生観は当然違うのですが、それでもお互いの存在を認め合いながら切磋琢磨していた仲間だったのではないかと思います。

 今回の同窓会で私が経験したことは端なくもその一端ではないかと思っています。明日の項目でそのことに触れたいと思います。

※1上掲の写真は昨夕の古利根川沿いの夕景色です。三、四日前まではまだ蝉の声が聞こえましたが、さすがにこの頃は聞こえなくなりました。

※2https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/04/blog-post_28.html

友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(旧約聖書 箴言17章17節)

2024年10月13日日曜日

同窓会出席(上)


 昨晩は1979年春に卒業していった、高校生諸君の学年同窓会にかつての担任として招待され出席しました。6クラスでおよそ50人ほどの出席者に恵まれましたが、先生方は私をふくめて4人でした。

 考えてみれば1970年代最後の3年間学窓を共にした良き「仲間」でした。私のクラスは6名の出席でした。クラスには14名の出席を数えたクラスもありましたのに、一番少ない参加者数のクラスで、最初肩身の狭い思いでおりました(これでも幹事の方が骨折って呼びかけてくださった結果でしたが・・・)。

 45年ぶりに再会したH君に至っては、私に向かって「お名前は?」と聞いてきました。私は、動揺を隠しながら、「教師なんだ」と答えました。家に帰ってきてから、会を通して醸成された懐かしさのあまり、卒業アルバムを隅から隅まで見ておりましたら、上掲の写真が収められていました。綱引きのクラス対抗の写真でした。何とそのH君は私の下で懸命に綱を引いているではありませんか。考えてみれば、私もH君におとらず、すっかり彼の存在を忘れていて、その名前を失念していたのですから、同罪ですね。

 さて、クラスの出席者6人のうち二人だけが男子でしたが、もう一人のS君も高校時代の顔は何となく思い出せるのですが、あまりにも体型が変わっており、貫禄あり、童顔だった顔と結びつかず、困りました。そのS君はH君の前で腰を下ろして、やはり懸命に引っ張っています。先頭になって全精力を傾けて引いているのは委員長の佐伯君ですが、亡くなったと聞きました。寂しいことで、惜しいことをしました。

 恐らく1978年の秋の運動会の一シーンをカメラがとらえたもので、男性陣の後ろには女性陣が陣取っていたのではないでしょうか。クラス対抗で、当時も決して強いクラスとは言えませんでしたが、そんな評判も何のその、懸命に綱を引っ張っている諸君の意気込みが今も新鮮に伝わってきて、いつまでも眺めていたい気分になります。

私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(新約聖書 1コリント9章26〜27節)