2009年12月31日木曜日

Se son rose, fioriranno.


 あわただしかった一年、それが凝縮されたかのような12月になった。

 年末、12月23日次男が結婚に導かれた。多くの人々の祝福と祈りをいただいた結婚式だった。式では双方で6人余の方から祝辞をいただいたが、その中のお一人が標題のイタリヤのことわざ(もしそれが薔薇ならば咲くだろう)を紹介してくださった。

 ところが、それで終わると思いきや、その方は思わず次のように言って祝辞を閉じられた。信夫さんの「信」とは信ずることでしょう、恵さんは「恵み」です、これは何か偶然とは思えません、お二人の結婚の宣誓を聞いていて、そう思わざるを得ませんでした、お二人が末永くお幸せでありますようにお祈りします、と。

 次男の名前が小説『塩狩峠』の主人公にちなんだ名前であることは、以前紹介させていただいた。ところが、新婦の恵さんはお祖父様を通して、幼き時から、目に見えない神様に仕える信仰を体得したということだった。ご来賓の祝辞はその「信夫」と「恵」という両者の名前が切っても切れない関係にあることを慧眼にも見抜かれてのご挨拶であったように思う。ところがこの両者の関係を物の見事に作品化している文章に一昨日出会った。マルチン・ルターの「ガラテヤ大講解」の以下の文章である。直接には「(彼らは)キリストの福音を歪めようとした」(ガラテヤ1・7)の註解ではあるが・・・。

 律法の義が支配するならば、恵みの義は支配できない。反対に、恵みの義が支配すれば律法の義は支配できない。一方が他方に譲らなければならない。神がキリストのゆえに罪をゆるしてくださることを信じることができなければ、あなたはどのようにして、律法の行ないかあなた自身の行ないによってゆるしてくださることを信じるのか。このように、恵みの教えはどのようにしても、律法の教えと両立できない。律法の教えが全く否定され、取りのけられて、恵みの教えが確立すべきなのである。

 ルターのこれらのことばに若干の注釈をつけ加えさせていただくならば、「恵み」とは神が私たちのわがまま(=罪)のためにご自分の独り子イエス・キリストを十字架にかけられた事実を指している。本来私たちが罰せられるべきなのに、その身代わりとしてイエス・キリストが罰せられた、だから「恵み」であるのだ。この「恵み」は、このイエス・キリストの恵みを「信仰」をもって受け入れる者をとおして体得される。「律法」の教えとは、これに反して、このイエス・キリストの十字架は無用・無意味とし、自分の力、徳行で神の前に十分正しくなれるという考えである。 ルターは、この「律法」の教えがいかに強力に人を支配しているかに言及しながら、さらに次のように続ける。

 こうして、恵みと信仰の義が放棄され、律法と行ないの、いまひとつの義が高められ、守られることになる。だがキリストは彼に属する者ともども、弱くあり、福音は愚かな説教である。逆に、この世とその君、悪魔は強力であり、さらに肉(=キリストを認めない、生まれながらの人間のこと。引用者註)の知恵はよりよい外見をもつ。だが、悪魔がその手下とともに、欲するものを打ち立てることができないことは、われわれの慰めである。彼は何人かの人を撹乱することはできるが、キリストの福音を覆すことはできない。真理は危険にさらされることはあるが、滅びることはない。攻められることはあるが、征服されることはない。なぜなら「主のことばは永遠に存続する」(1ペテロ1:25)からである。

 律法と行ないを確立するよう教えることは非常に小さいことのように見えるが、それは、人間の理解力が理解できる以上の害をもたらす。それは恵みの認識をあいまいにするばかりでなく、キリストをそのすべてのいつくしみともども取り除いてしまい、パウロがここで言っているように、福音全体を歪めてしまう。このような大きな悪の原因はわれわれの肉であって、それは罪の中に沈んでいるから、行ないによる以外に、そこから出るほかの手段を見ることがない。こうしてわれわれの肉は律法の義のうちに生き、自らの行ないに信頼を寄せようとする。だから、信仰や恵みの教えについては全くか、ほとんど知らない。だがそれなしでは、平穏な良心を得ることは不可能である。(『ルター著作集第2集11巻』1985年刊行、84~85頁から引用)

 二人が恵みの認識をあいまいにするのでなく、福音に全幅の信頼(信仰)を抱いて結婚生活をスタートしてもらいたいと思う。それが、主イエス様の恵みをまだご存じないご来賓の方をして、咄嗟のうちに思わず言わしめた祝辞の本意ではなかっただろうか。

 式後のあわただしい一週の間に、両人は沖縄に出かけ、さらには一昨日は病臥中の私どもの祖母を滋賀に訪ねた。また昨日は新婦のお祖父様ご夫妻を千葉のお宅、西荻の私の従兄宅などを訪ね、夜は長男主催の家族全員が集合する会食会に出席できた。そして今朝、新婚生活の拠点となるパリの家へと旅立った。恐らく今頃は疲れでぐったり来ていることだろう。しかし、そこには心地良い主のあわれみと守りがあることと信ずる。

 寄り添うて 恵みと信仰 百合の花

 最後に愛する兄が結婚式の冒頭で読み上げられた聖句と二人が結婚のために導かれた聖句を掲げておく。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103・2)

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。(1ヨハネ4・16)

2009年12月4日金曜日

クリスマスと涙 クララ


 クリスマスと言う夜のかげに、いかばかり多くの涙が注がれたことでしょう。サタンのしえたげに泣く人類の涙、み心込めて創造された父なる神の憂いの御涙から生まれたその夜!

 天使のみ告げに服従し、神のみ手に身を委ねしよりのマリヤが恥と苦しみの涙、ヨセフが彼女のただならぬを知れる時の苦痛の涙、主が天の宝座を捨て罪ののろいにある肉体に、限りなきご不自由とご苦難の生活に移り給うその夜よ! 揺籃の上に指す十字架の閃きよ!

 罪の犠牲に定められ給いしこの君のご誕生を見て、のどかな喜びをしておられるでしょうか。死に定められた小羊を見てさえ、わたしたちがあわれみの心は動くではありませんか。なおさら、愆(とが)なき神の御ひとり子が犠牲の御門出に涙なきものがあるでしょうか?

 天の万軍は恐れかしこみ、賛美の声を涙にうるおしたことでしょう。地の万象は涙の露に夜をうるおしたことでしょう。ああ、クリスマスの夜! われらが罪の生みしこの夜! 神のご愛の現れしこの夜よ! さりながら、罪のあがなわれんため、唯一の道なるこの夜よ!

 恐れをもって感謝し おののきをもって喜び
 聖き聖名に感謝せん

1 愛はこの世にくだって来られた
  かわいた土から若木のように
  われらが慕うべき美しさもない
  これぞわが主のみ姿である
   愛はこの世にくだって来られた
   かわいた土から若木のように

2 主は侮られて人に捨てられ悲しみの人で病を知っていた
  かくもなやめるわが愛の主を
  ああわれさえも彼を尊ばなかった

3 われわれのとがのために傷つけられ
  われわれの不義のために砕かれた
  迷い迷って背けるものの不義を
  主は彼の上におかれた

4 暴虐なさばきによって取り去られ
  生けるものの地から絶たれたのだと
  よろこび給う神のみ旨は
  彼の手によって栄え行く

5 ああ死に至るまで魂を注ぎ出し
  とがある者と共に数えられ多くの人の罪を負い
  とがある者のためにとりなしをした

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネ3・16)

(文章は聖書を除いて、『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著の12月1日の項から編集引用。写真は古利根川の鴨二羽。「鴨二羽と 眺めし川面(かわも) 天の雲」)

2009年12月2日水曜日

病床にあった妻の夫への手紙(2)


 いつの間にか、師走に入ってしまった。私たちの親しんできた、あの遠い昔の異国の一女性の果断なく続く病との闘いは、その後どうなったであろうか。

 前回お載せした彼女のその後を、簡単にスケッチしてみよう。「彼女はまた新たに、専門医の診断を受けねばならなかった。」のだ。しかしその間も彼女を愛する人々の祈りは続いていた。彼女はその事を感謝する便りを夫に次のように記している。

 (ジュネーヴにて、1930年11月11日)
・・・それから皆さまがわたくしのために、お祈り下さったのでございます。このやうな啓示の対象となるために、わたくしのやうに苦しむといふことは、苦しみ甲斐のあることではございませんでせうか。わたくしの心は感謝で一杯でございます。もしまた神様のためにお仕事が出来るやうになりましたら、それを大きな愛をもってすると、お誓ひいたします。

 そして今一度ローザンヌに引き返された。そして同じように病と闘っている友人の手紙を引用しながら彼女は夫に次のように認める。

(ローザンヌにて、1930年11月14日)
・・・ピエチンスカ夫人はその手紙の一つの中で、大体次のやうなことを書いて居ります。「すぐに今のこの瞬間をこえたところを眺めようとするわたくし共の想像力を用心しませう。そしてこの想像力が神様の御心の先回りをしないやうに、今のこの祝福を神様に感謝することで満足しませう。」・・・本たうにさうでございます。どうぞ神様が力をお与え下さって、神様がお送りになるものは良いものであれ、苦しいものであれ、それが御心である限りは受け容れることが出来ますやうに。その秘訣は絶えず祈って神様に近く身をよせて、事情が良くなったからと言って、すぐ簡単にやめてはならないといふことだと存じます。苦しい時に神様に向かって呼ぶことは、比較的やさしうございます。それは自然なことでございます。けれども、すべてが具合よくいってをります時には、怠惰がすぐに訪れます。・・・・

 その後も病状は一進一退する。ある時には外出できた。それはニフェネジュの街角だった。家族連れの子どもたちを見、ロンドンの夫のもとに残してきたわが子を思い出し、涙を人知れず流す。母親ならではの悲しみだ。こうして彼女の品性は大いに練り清められてゆく。それとともに、意外や彼女の健康は日一日と確実なものになっていった。ジュネーブから来た専門医が、驚嘆してそれを保証する。この間、夫への手紙は11月10日、20日、22日、24日、26日、30日と認められている。メールもない時代、かえって手紙を通してゆったりとした人々の愛の交流があった。その良き時代をはるかに想い出させられる、というものだ。今から79年前の今日認められた彼女の手紙を載せよう。

(ジュネーヴにて、1930年12月2日)
・・・さうでございます。わたくし共のお祈りは聞き届けられたと申してよいのでございます。わたくし共には救いが与えられた―しかも、わたくし共自身もお医者さま方も二月前には本たうに予期していなかったやうな、大きな救いが与えられたと申してよいのでございます。G先生のところへ参ります前に、わたくしはベッドの前でひざまづきました。そして帰りました時にも、またさういたしました。

勿論、「すっかり癒りました。すっかり決定的に癒りました」と、あなたに申し上げられましたら、本たうによろしうございましたでせう。けれども今の状態はわたくし共の信仰生活にとりましては、それよりも多分ずっと尊いのでございます。

それはパウロの場合と同じやうに、「肉体の刺」ではないでございませうか。そしてわたくし共もパウロのように、「汝の恩寵(めぐみ)われに足れり」と言ふことを学ばねばならぬのではございませんでせうか。また活動をはじめるかも知れないかういう病気の源を、自分は相かはらず身中(みのうち)に持っている、しかもやはり神様は自分を支へて強くして下さる―このやうに考えますことは、良いこと、また素晴らしいことでさへございます。

・・・そして身中(みのうち)に持って居りますこの危険物は、わたくしを絶えず目覚ませておくのではございませんでせうか。また、自分が日毎に、いえ、一瞬毎に、圧し迫られて、神様の方へ向けられるやうに感じるのではございませんでせうか。わたくしを(人間的に申しまして)破滅させかねないものから、その御恵みだけが日々護って下さる(さうわたくしは心の底から信じます)あの神様の方へ、自分が向けられるやうに、感じるのではございませんでせうか。

もし急にすっかり癒るやうなことになりましたら、わたくしは神様に溢れるやうな感謝でお礼申したことではございませうが、また次第にそのことをすっかり忘れてしまったかも知れません。今のやうな状態なのでわたくしはそれを忘れないのでございます。このこと、おわかりになっていただけますでせうか。さうでございます。神様はわたくし共に大きな救いをお与え下さったのでございます。この救いは体をすっかり癒していただきましたよりも、多分そのままで、ずっと大きな救ひでございます。

どうぞわたくしのためにお祈り下さった皆さまに、皆さまのお祈りは聞かれた、聞きとどけられたと、おっしゃって下さいませ。二月前の死の怖れの後で、仕事をまた始め、また子供たちのところへ帰って育てることが多分出来る、といふ可能性を眼の前に見るとは、何といふ救ひでございませう。いいえ、すべてあれで良かったのでございます。すべては良いのでございます。きっとあなたも、わたくしに賛成して下さることと存じます。

私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。・・・このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(新約聖書 2コリント12・7~9)

(明日は寒くなるらしい。二三日前の拙宅のオキザリス。朝日を浴びているところを撮影した。)

2009年11月30日月曜日

魁皇と「ウルフの目」


 大相撲が終わった。優勝は白鵬で15戦全勝であった。私のひいきの力士は魁皇である。やっとこさ千秋楽に勝って、給金を直した。ほとんど駄目かなと思わせながらこの一年間勝ち越してきた。特に今場所は十日目に通算805勝をあげ、力士記録第二位になった。

 その日は一方の古参力士千代大海が負け越してしまい、大関陥落の日になってしまった。東京新聞の見出しは「大関明暗」と主見出しを付けた。いつも読む元横綱千代の富士の相撲評記事「ウルフの目」は両記事の対角線上にあり、いやが上にも私の目を引きつけた。千代の富士は807勝で第一位の記録保持者であり、一方、千代大海の親方である。このコラムを私はNHKの北の富士や舞の海の解説と合わせて愛好している。彼らの愛が紙面にまた声にあふれているからである。

 ウルフ(元横綱千代の富士のこと)はその日、「地元で新記録を」と九州場所で九州出身の魁皇が残り5日間で自分の記録を塗り替えてほしいと書き、一方で大関陥落の千代大海に次のことばを書いた。

 残念ながら、私の弟子である千代大海が大関を転落することになった。長い間、大関を務めてきたライバルが大記録をつくろうとしている。千代大海も魁皇の姿を見て、もう一度頑張ろうとしている。その意思を尊重して、来場所を見守ってやりたい。

 いい親方を持って千代大海も幸せな男だ。ところで、今日のウルフの目は、「魁皇、記録が励みになる」と自身の記録にあと一勝と迫った後輩力士に賛辞の言葉を送っている。

 最後の最後で魁皇が勝ち越し、かど番の危機を脱した。立ち合いで右上手を取りに行ったが、琴光喜が前みつを狙って出してきた左腕を抱えて瞬時の小手投げで一蹴(いっしゅう)した。これで幕内勝利が806勝となり、来年初場所でわたしの記録(807勝)が塗り替えられるのが確実となった。・・・808勝から積み上げる新記録が37歳の体を刺激してくれるはずだ。左四つから得意の右上手を取れば、まだまだファンを楽しませる相撲がとれる貴重な存在だけに、一番でも多く、その相撲を見せてほしい。

 これはこれで魁皇という年齢とともに衰えてゆくしかない大関に最大限の励ましの言葉を送っている。角界には私の知らない問題が隠されているのかもしれないが、こうした記事を読んで、励まされない人はいないのではないか。たかが格闘技ではない。大相撲と違い、ボクシングでは内藤選手がチャンピオンの座を亀田選手に奪われたのも昨日のことであった。

 パウロは2000年前、闘技、ボクシングをする選手を引き合いに出しながら自分の人生を次のように語った。もって銘とすべきことばでないか。

闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは、朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は・・・空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に(福音を)宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(新約聖書 1コリント9・25~27)

(写真は栃木県大平下近辺の山々。車窓から紅葉にまみえる風景を撮影しようとしたが、これが精一杯だった。「霜月の 錦秋残し 師走へ」)

2009年11月27日金曜日

生命の躍動


 昨日、今日と暖かい日和である。今年は暖冬らしい。

 このところ、毎日のように古利根川の土手を歩いている。川は温(ぬる)み、春のような気配すら覚える。桜の木々の咲き揃うころは残念ながらまだ見たこともない。そのころはいつも関西にいて、気がついたら、桜の花がすっかり散ってしまった後に、決まって川にやって来るからだ。

 それとはちがうが、晩秋も終わり、初冬に向かっている今、季節はずれの桜並木をひたすら歩くのだが、中々いいものだ。今は花でなく、葉っぱが色づきながら散って行く季節だ。土手を染める枯れ葉は散歩を決め込み、行き交う一人一人の足もとで、かさこそと音を立てる。静寂のうちにもその音が人の息遣いとともに近づいてき、人の暖かさを覚えるからだ。

 そんな平和なさなか、昨日は思わぬものを川中に見てしまった。最初遠く土手から見えたのは、川の真ん中辺りで泉がわくかのように下から水が絶えず上がってくる光景だった。不思議に思い、近寄って見るとそれは泉でなく、大きな魚が水の中で動いているためであることがわかった。一匹か二匹かつかめなかった。時おり腹も見せる。さかんに体を動かしては、またもぐって水面に浮かび上がるが、一点にとどまっていて泳いでいるような気配はない。産卵なのだろうか。

 確かめようと石を投げたが私の石はあらぬ方向に飛び、しかも半分ほどの距離を飛んだに過ぎなかった。二三回試みた。比較的近くまで飛んだか、と思いきや、その瞬間、空から一羽の鳥がその近くに飛び降りた。鳥もまた私と同様にどこか空から見ていたのだろうか。それとも私が投げた石が落ちるのを遠くで見ていたのかもしれない。あとで、魚には悪いことをしてしまったと思った。

 その鳥は水面に顔を出し、のたうちまわっているその魚に近づいていった。その後、数十分の間その鳥は果敢にもその魚に挑戦していき、ついに自らの獲物としてしまったのだ。そしていつまでもその場から離れず、とうとう動かなくなったその魚を嘴で引きずっては、もっと浅瀬に運んで行った。どうしてその魚が泳いで逃げてゆかなかったのか、今もってわからない。また鳥が近づく前に、なぜあのように川中で身を持て余していたのかもわからない。

 一方川面には、まるでそのような惨劇があるのも知らぬげに多くの鴨が編隊をなしてその近くを泳いで行った。白鷺やかいつぶりも川を歩いたり泳いだりしていた。私たちもその場を離れた。改めて川の中をじっくり眺めてみると、今の時期、川の深さはそれほどでない。と同時に川中に大きな魚が何匹も泳いでいることに気づいた。道理であんなにもたくさんの鴨をはじめとする水鳥が川に成育しているのだと合点した。

 散歩から離れて帰ろうとして再びあの格闘の場面にもどってくると、まだ鳥はそこにいた。ところが今回は私が近寄ると後ずさりし、魚から離れ、川中に入って行き、盛んに口をすすぎはじめた。それも一度や二度でない。その所作は何回も何回も続いた。そしてそのあげくには羽根をきれいに洗い清めているのだ。それは大仰とも思えるが実に丁寧な仕草であった。そして居ずまいをきちんとすると、その鳥は羽根を拡げ空高く飛翔していった。鳥には鳥の礼儀があるのだろう。そんな厳粛さを感じさせられた。

 弱肉強食とは言え、都市空間の中でこんなに豊かな自然の息吹が川にあることを改めて感じさせられた散歩だった。

 家に帰り、夕食の膳になぜか「飛魚」が出た。鳥がどのように魚を食べるかつぶさに観察していただけに、いつになく真剣に食べざるを得なかった。「飛魚」は種子島のMさんのご両親からいただいたものだった。思えば去年の今頃は病床のMさんを何とか訪ねてお見舞いできないかと祈り、最後のお交わりができたように思う。若くして30代で召されたMさんを思い、一見弱肉強食に見える川中で見た自然の摂理をも思わずにはおられなかった。そんな私に聖書は語りかける。

狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(旧約聖書 イザヤ11・6、8~9)

2009年11月22日日曜日

神と偕に歩む生涯 クララ 


 「サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう」(黙示録3・4)

 よい習慣が品性という衣をきるように、真の信仰は必ず実践(歩み)という衣をまといます。生きた信仰に徹底した一人の人がいます時、世界は改革されます。

 十六世紀、あの腐敗した宗教界のただ中に立ちあがって「義しき人はその信仰によって生きる」と生命を賭して叫んだ信仰の勇者ルターによって世界は目ざめました。

 十八世紀の英国は機械文明の危機に際し、あわや血の革命が起ろうとした社会状態の瀬戸際に、ウエスレーのメソジスト運動が起り、英国は破滅より救われましたのみならず、生命の流れが世界をうるおしました。

 サルデスの人たちが白い衣をきて神とともに歩みつづけたとありますが、歴史に輝く信仰の勇者たちはみな神とともに歩んだ人たちです。ヤコブは「霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである」と言っています。

 主イエスは神の愛の証明者として僕のかたちをまとわれました。葡萄の木につながっている枝が実を結ぶように、主と歩む者は輝きます。

 エノクは神とともに歩んだと記されています。彼は大家族の中に在りて三百年、神に喜ばれる生活をしました。三百年と言えば世代もうつり、思想も変化し、言葉や信条を越えて生活の事実においてどんなに恵みを要し愛情の知恵を要したことでしょう。新約に教えられていますように、互いにゆるしあいなさい。互いに忍び互いに愛しあいなさいとは、家族生活の大切な法で、エノクは神とともに歩んだがゆえに勝利を得たのです。

 ノアの時代は悪い時代で悪が地にはびこり、暴虐が地にみち、恵み深い神も遂に洪水をもって滅ぼされたほど、悪の時代でしたが、ノアはその時代の流れのうちに在りながら、押し流されず神に従い、洪水の後人種の始祖となって、嵐にも風にも倒されませんでした。神とともに歩むならどんな時代にも勝てるのです。

 サムエルの伝を見ますと「わらべサムエルは育っていき、主にも、人々にも、ますます愛せられた」とありますが、サムエルは幼くて最悪な環境の中に送られました。エリの家庭の不道徳な息子たち、悪しき習慣のうちにある人々、まことに理想的でない環境の中に在りながら神の前に育って大いなる神の人となりました。大家族の中にも、悪しき時代にも、不信な環境にも信仰は勝利の力です。

 セント・パウロ寺院を建設中、一人の石工が厳密に寸法を正しく仕事しました。なぜそんなに寸法を注意するのかと問われました時、「神の宮を建てているのです」と答えました。私どもの信仰はやがて金の測りざおをもってはかられる時が来ます。神の聖言の寸法に無関心であってはなりません。日々の生活が聖言の実践の舞台であることを覚え、神と偕に歩みつづけ、どんな立場にも勝利者であり得ますように!

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著11月21日の項より引用。写真は昨夕の古利根川。今や川は鴨とかいつぶりの天下だ。「河岸に 鴨並びたり 水の幸」)

2009年11月21日土曜日

結婚生活の意義(仮題) 畔上賢造


 以下の文章は畔上賢造氏がパウロのコリント人への第一の手紙7・25~31をテキストにして「時は縮まれり」と題して書かれたもののうち、附論として置かれた文章である。書かれた年代は大正12年から昭和4年までの6年間のいずれかの時期に書かれたものである。ほぼ80年前の文体は今の読者にとっては読みにくいと思うが、そのまま再録した。(『畔上賢造著作集第5巻』256頁以下)

 今や世界の混乱は日に増し甚だしく、不義罪悪はいたるところに横行し、道義は腐って泥土に塗れ、狂乱の舞踏全地に漲る。かくて人類はただ悪魔の冷笑と歓喜とに糧を送りつつあるに過ぎない。誰かこれをもって滅亡の前の乱舞狂踏と見なさざるものぞ。げに世の終末は近よりつつあるではないか。げに今は「現在の危急」を経験しつつあるではないか。げに「時は縮まっている」ではないか。さればパウロのこの戒めは、今において甚だ有力である。われらは今の時を知りて確信をもってするところの独身選取者に向かっては大なる敬意を払わねばならぬ。

 しかしながら、同時にわれらはすべての未婚なるクリスチャンに向かって独身をすすめることはできぬ。より重き責任に当たり、より大なる義務を取り、より深き経験を味わわんために、積極的の結婚生活選取をなすも、また大いに有意味である。無意味にして軽率なる結婚はむしろ為さざるを可とする。今や一時の感情を基礎として率急なる結婚生活に入り、百年の悔いを身に招くもの甚だ多い。かくの如き生活は、単純にして平和なる独身生活に劣ること万々である。人は妻を娶るとき、また人に嫁せんとする時は、慎(重細)密なる注意を要する。信仰と祈りとは第一に立つ。そして常識もまた充分に用いられねばならね。而して主の導くところに喜び従うの用意深からねばならぬ。人のすることなればわれもしてみんというが如き心をもってせられたる結婚は、全然無意味である。積極的なる確信に立ち、より重き責任に当たり、より豊かなる経験を味わい、よりよく神と人とに仕えんとの心をもってしてこそ、真にクリスチャンらしき結婚というべきである。

 私はアメリカ最初の東洋伝道者アドニラム・ジャドソンの結婚について思う。彼がビルマ伝道に志して、一小帆船に身を託して、当時の危険なる東洋航海をなせしは、なお未だ若き二十五歳の青年の時であった。この時彼はすでにアン・ハセルチンと呼ぶ二十四歳の婦人と婚約の間にあった。出帆に先立ちて二人は結婚し、その新婚の旅はカルカッタ行きの二檣(にしょう)帆船カラバン号をもってする大西洋およびインド洋上の航行であった。

 時は1812年の春いまだ浅きころ、最初のビルマ伝道に二人協力して当たらんがために結婚および新婚旅行をなしたのである。世にかくも意味ふかき結婚がかつてあったであろうか。しかもアン女史は外国宣教師ジャドソンの妻としてよりも、むしろ、自ら一個の外国宣教師として出発したのであった。そして米国においてはそれまでに、女性の身にして外国伝道のために国を出でし者一人もなかりしため、彼女の東洋行きについては世論囂々(ごうごう)としてこれを非難したのであった。当時にありては女性の外国伝道などは甚だしく生意気であると見られたのである(百年前の米国にこのことありしを知りて、われら今日のヤンキー・ガールを思うとき、失笑を禁じえないものがある!)。もって彼女の勇気を知るのである。かかる重き責任を分担せんための結婚ならば、よし囂々たる世人の反対あるとも、主の嘉(よみ)し給うところであることをわれらは知る。

 ジャドソンのビルマ伝道は幾多の苦難が伴った。若き妻の苦心もまた一通りではなかった。夫は誤解のために入牢し、彼女は身重の体をもって異人種の冷たき眼にとり囲まれて、全き天涯の孤客たりし間も永かった。ジャドソンのすべての努力において彼女はその補助者として働くこと十四年、遂に1826年10月24日、夫の不在中に病んで斃れた。時に三十八歳であった。二人の間に生まれし一女も間もなく世を去った。

 孤独の活動八年の後、ジャドソンは一宣教師の未亡人を娶りて再び家庭を造った。彼女また努力奮闘の性格を備えて伝道上に多大の貢献をなし、白人中ビルマ語に最も精通せる人として、彼の聖書の土語翻訳を助くること多大であった。しかも遂に疲労は病を持ち来りて、彼は彼女の回復を計るべく、一先ず相携えて本国に帰ることとなった。しかも夫のこの心づくしも空しく、船が孤島セントヘレナの沖を航行せる時に遂に彼女は斃れた。

 その翌年彼は米国において第三の妻を娶った。彼女は文学者として名ある婦人であったが、幼時より宗教的傾向強く、ことに一生涯に一度は外国伝道者たらんとの志を抱いていたため、遂にジャドソンの第三の妻となりて、ともに東洋伝道のために出発した。二人の結婚については、宗教界にも文学界にも賛成する者は一人もなかった。宗教家たちは、彼が小説作者の如き軽佻(けいちょう)の女を娶ることをもってその晩年の光輝を蔽うと難じ、文学者らは、彼女が年老いたる一外国伝道師に嫁してその天才を消耗するを惜しんだ。

 しかしながら外国伝道という共通の一目的のために結びて、二人の結婚は幸せであった。彼女また彼の良き妻として、彼の多難なりし晩年をよく助けたと言う。彼は三度妻を娶りて、何れも皆東洋伝道のための結婚であって、かかる積極的意味を持つ結婚なりしゆえ、いずれも幸いなる結婚たることを実証した。軽率にして無意味なる結婚をわれらは排す。クリスチャンはクリスチャンらしく結婚すべきである。

 以上が、畔上氏の文章である。私はこの著作集をKさんから今秋譲っていただいたが、この巻のみボロボロであり、形がくずれている。その上、多くはないが随所に薄く赤線が引かれていた。それだけこの本がよく読まれた証拠であろう。Kさんのお母さんは山梨で英語の先生をなさっており、畔上氏の弟子筋に当たる藤本正高氏の講筵に連なっておられた方である。ちょうどこの本の出版は昭和16年であり、前年ロンドン勤務のお父さんと結婚なさっていた。ご両親が互いに読まれたのではないか。

現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。あなたが妻に結ばれているなら、解かれたいと考えてはいけません。妻に結ばれていないのなら、妻を得たいと思ってはいけません。しかし、たといあなたが結婚したからといって、罪を犯すのではありません。たとい処女が結婚したからといって罪を犯すのではありません。ただ、それらの人々は、その身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのようなめに会わせたくないのです。兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は妻のない者のようにしていなさい。泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。(新約聖書 1コリント7・25~31)

2009年11月19日木曜日

結婚とは


 人ありて、男・女として互いに結婚に導かれることは大きな幸せと考える。しかし、果たしてそれは無条件で幸福を保障するものだろうか。私はそうとは思わない。何しろわがままだらけの男と女であるからである。以下に紹介するのはほぼ20年前に書かれた、ある方の文章である。

 私たちが出合ったのは、四年前の十月、私が二十歳で彼女は十九のときだった。 私はそのころ、自動車免許取得の為、埼玉県新座市にある合宿制の教習所にいた。そこは、障害者が自立をする上で第一関門となる移動という事を解決する為の教習所であった。私の目的もそれと同様に自立をし、社会の中で自分を試したいと思い、まずは車ということにしたのだった。私にとってそれは、至極当然のことであって、人間が人間として社会につながる手掛かりを、得ようとしていたのである。

 かくして私は、「○○」自動車教習所で、合宿生活をすることになった。免許取得まで一月というのが私の予定であったが、思うように捗らずに、暦は九月から十月になっていた。そこで一日一時間の教習を二時間にしてもらい、自分が車を動かしているんだという感覚を身に付けようと、もがいていた。

 十月に入って、また何人が教習生が増えた。その中に、とても考え深げな目をして、物事を率直に話す少女がいた。歳は私と同じ位だろうが、その姿から、そういう印象を受けたのであった。又、同時に私は、不安や悲しみの中にいる本当の彼女を見ることが出来た。何故なら彼女は自分自身さえも否定するような、そんな物悲しい顔をしていたからである。それはまるで、自分の気持ちを押し隠し、全く別の人間を演じる俳優の姿に似ていた。

 実は私も数年前まで、もう一人の自分を持っていた。弱い自分を決して人には見せまいとして虚像をつくり上げ、それを自分以外の人に印象付けさせた。ところが、いつしか虚像が一人歩きを始め、周りに虚像だけしかいなくなってしまって、本当の自分は、私の中で寂しく微笑むだけだった。

 彼女の場合の虚像は、自分というものを、全く否定するものであった。そんな彼女を見ているうちに、私は微力ながら、力になってあげたいと思うようになった。

 そこから、すべてが始まったのである。

 それから私達は、いろんな話をした。お互いの生き方についてとかいうような、青年の主張ばりの、話から、道端に咲いている小さな花の話までといったふうに、二人の会話は、無制限に広がる感じだった。私達は、よく教習所の周りを散歩をした。あの辺りは、畑や緑に囲まれていて、その光景は、私の生まれ育ったところに似ていた。そんな話を、焼き芋をかじりながらしたりしたものだ。

 彼女はとても感受性が、豊からしく、又、それを言葉にする表現力も、かねそなえているようだった。いつしか私は、そんな彼女に、逆になぐさめられる様になっていた。 実は私は、彼女と出合う前の一月間、全くといっていい程、人と話をしていなかった。それは自分と全く違う考えの人達の中で過した一月間だった。つまり、かなり保守的な障害者の集団だったということだ。今にして思えば、貴重な経験をさせてもらったと思えるが。その時は、そんなことを思えるはずもなく、「四面楚歌」という状況だった。 そんな私を知ってか知らずか、彼女は、私を見た第一印象を、後日、「寂しそうな影の見える人」と言っている。それを聞いた時、私は苦笑いをしてしまった。二人が同じ時期に同じ印象を、お互いに受けたということは、ひじょうに運命的な出合いを感じる。神の、「おまえらを一人にしておいたら危なっかしくて、見ちゃおれん、お前らは二人で一人前なんじゃ」と言う声が聞こえたような、そんな気がする。

 私が、その言葉を、そのまま受け入れようと決心したのは、教習所を出てからである。それまでの私は彼女に対して女性として見るよりも、人間として見ていたのだった。人間○○○○○の成長に少しでも、役に立てればと思い、私の数少ない経験の中から、数えられるものがあれば、教えたい。そういう思いで、接していた。ずいぶん自信過剰で傲慢な奴と思われたかもしれないが。もっとも今まで、女性に縁遠かった私にとって、女性としての見方自体が、なかったのかもしれないが、・・・・・

 そして二人の間には、やすらぎと思いやりが生まれ、いつしか、互いの中に住んだ。 今、結婚を前にして、四年の月日を思うとき、決して、どちらか一方が先導し続けて来た道程ではなかったように思う。全く、助け合いそのものの道程であり、だからこそお互いをよく知り合えたのだと思う。これからの結婚生活においても、私達は、そうでありたいと思っている。結婚生活というものは、二人で築き上げていくものであって、どちらかが、つくろったのでは、砂上の楼閣の如しだと思うのである。だから私達は、いつでも話し合っていたいと願っている。そして、歳をとって、お爺ちゃん、お婆ちゃんになった時、のんびりと縁側に座って、昔話をしてみたい。

 そんなことを思っている私に、又、神が言われた。「あなたがたは、もはや二人ではない、一人である」と。

 ほぼ20年ぶりにこの文章を読み、夫婦の間のいたわりについて深く考えさせられた。そしてこのいたわりは主のみことばに従いつづけるときに初めて可能だと思うのである。イエス様の結婚に関するみことばの原点を記す。

パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(新約聖書マタイ19・3~6)

(写真は一昨日の古利根川の夕景。飛翔するは鴨である。河岸にたむろする鴨はなかなかカメラに納まってくれない。近づくとこのように一斉に飛び立つ。)

2009年11月18日水曜日

1984年12月24日のクリスマス・イヴ


 先日ある方からお電話をいただいた。数年来、会わず仕舞いで、一度お訪ねしたいと思いながら、果たせないでいるご家族であった。ご夫妻には今二人のお子さんがいらっしゃる。私はそのご夫妻の独身時代からの知り合いである。

 今から四半世紀前に新座の自動車教習所(身障者のために開設されていた)に出かけて行き、クリスマスをともに祝ったことがある。彼らはその時、二人して身体に障害を持ち、運転免許を取ろうとしていた時だった。所内ではじめて出合った彼らの間には恋が芽生えたようであった。私はそのことは何も知らず、不慮の事故で障害を持った女性(実は私の教え子)をお見舞いに出かけ、はからずもその男性(その時が私は初対面であったが)もその場に同席した。小さな持参のクリスマスケーキを前に賛美をし、ささやかな交わりを持ち祈ったように覚えている。

 その二年前、彼女が高校三年の二学期の終業式の当日であったと記憶するが、救急車で東京の日本医科大学に搬送される事態が起こった。その時、先生方が車に同乗し付き添って出かけた。当時、副主任の先生が学年主任の私に向かって「先生、あなたの出番ですよ!」と言われた。日頃、イエス様の福音を同僚にも伝えていた私がその場に最もふさわしいと考えられて咄嗟のうちに言われた言葉であった。尻込みをする私は後から背中を押されるようにして、祈りながら、自転車、電車を使って千駄木まで急行した。

 幸い手術はまだ始まっていなかった。突然の出来ごとで気も動転していた、彼女のおじいさんに、「私はキリスト者ですが、病室に入って祈らせていただけないでしょうか」と申し上げたところ、応諾を得た。病室には顔にも擦り傷があり、血の気をなくした彼女がいた。彼女に「希望は失望に終わることがない」(ローマ5・5)とみことばを読み、主イエス・キリストの御名によって祈ることができ、病室を出た。いのちは取りとめたが一時は半身不随になるとも言われていた。ところが、手術は成功し、一年半後には装具をつけながら歩けるまでに回復した。

 その時をきっかけとして、私は彼女の救いを祈り始めた。彼女は何度かお見舞いするうちに、手術時の激痛をはじめ、自分でどうしようもない時、頭に大きな字で「希望」と書いて耐えられたことも話してくれるようになった。私は聖書の言葉が彼女を支えてくれたことを知って嬉しかった。ところが彼女がイエス様を信ずるには時間がかかった。彼女は自分が神様の前でとんでもない罪人であり、自分なんかは赦されないと考えていたからである。のちに彼女にみことばの光が差し込み彼女は信仰を抱くようになったが・・・。

 教習所で出合った彼は、生まれながら障害を持って生まれたが、神様を求めて教会に通ったことのある人だった。そののち二人が結婚するので証人になってほしいと言って来た。私は内心不安であった。障害を持っている人同士がどうして結婚できるのか、と思ったからである。(結婚式は私たちが集っていた教会でしていただいた。)結婚後、この私の思いが全く人間としての浅はかな思いにすぎなかったこと、神様の深い計画があったことを知らされた。肉体的には障害の程度が重度である彼こそ肉体的に障害の程度の軽い彼女の心の痛みを受け入れることのできるのに、もっともふさわしいパートナーであったことが次々判明したからである。

 その後、教会には出席することは年に数えるほどであった。二人とも信仰がハッキリしなかったからである。ところが、私たちが教会から集会に出てすぐに彼らを招いたらやってきて、ベックさんとお交わりをし、その日のうちに救われた。不思議なことであった。彼女にとっては、救われないと思っていた自分の罪のために、イエス様が十字架にかかってくださったことが瞬時に受け入れられたようであった。一方、彼の方は小さい頃から不自由な体で友だちにいじめられ、親に話すと悲しむと思い、誰にも言えずにいた。その悲しい、口惜しい思いを、空を見上げ、「神様!」と訴えていたそうだ。そのお方がベックさんとの交わりを通してイエス様であることを知ったのだ。彼らが喜びにあふれて拙宅を後にしたのを思い出す。

 実は最初「尻込み」と書いたが、それは当時彼女は私の在籍する高校の中でも中々の努力家で成績も最優秀の部類に属する生徒であった。それに対して私は学年主任であり、本来なら彼女にとっては尊敬の対象であったかもしれない。ところが当の私は何となく後ろめたい思いをもって彼女に日頃対していたのである。それは彼女に世界史を教えていたが、私の知識は少なく教える自信もなく、いつも申訳ないという思いがあったからである。だから私は自分のようなものがイエス様を伝えることはできないと思っていた。ところがそのような無価値な私でなく、聖書のみことばが彼女を救うことを私はこの経験をとおして教えてもらったのである。

 最近、聖書の中でパウロについての記事を読んでいたら、次のように書いてあった。「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した」(1コリント2・2)パウロは私と違って大変な博学であった。にもかかわらずその博学を捨て、「十字架のことば」を伝え続けた。今日私が述べたことは私の拙い経験であったが、このパウロの言葉が何となくわかるような気がして一連の出来ごとを書いてみた。

キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならない・・・十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1コリント1・17~18)

(写真は林立せるカラマツ。長野県御代田町にて。)

2009年11月16日月曜日

尽きることのない泉 カウマン夫人


 士師記1章には珍しい物語がしるされています。アクサは父から贈り物として土地をもらいました。彼女が自分の新しい地所を調べてみると、驚いたことに、井戸が一つもないことがわかりました。それは不毛の荒地だったのです。
 アクサは父に会って話したいと申し送りました。父は彼女を呼んで尋ねました。
 「あなたは何を望むのか」。
 彼女の答えははっきりしていました。
 「あなたは私に南の地を下さったのですから、泉をも下さい」。
 彼女の願いはすぐに聞き届けられました。カレブは彼女に「上の泉と下の泉」を与えました。
 この惜しげもなく与えられた贈り物は、彼女の期待をはるかに越えたものでした。土地はこれらの泉のおかげで、実り豊かな肥沃な土地となることでしょう。その時、彼女が早くから人生の最大の教訓の一つ(もし祝福を享受しようとするなら、それをわかたなければならないという教訓)を学んでいたことが明らかになりました。他の人々もこれらの泉から飲んでかわきをいやす機会を持つべきです。彼女は、「さあ、水のある所に来て、大いに飲んで下さい」と言って隣人たちを招きました。

 聖書の記者は、次のようなすばらしいあかしの言葉を記録に残しています、「主が彼らを導いて、さばくをとおらせたとき、彼らは、かわいたことがなかった。主はかわいた地を泉に変わらせ、淵から飲むように豊かに彼らに飲ませられた」。彼らが荒野や砂漠を歩いている時、主は彼らの杯を満たされました。小さなため池からではなく、限りない大海から満たされたのです。あなたは地の深い所からわき出る泉を飲み尽すことはできません。彼らは「彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない」。主はこの地上のすべての数えきれない人々のために、尽きることのない供給を用意しておられるのです。

 アクサは、かわいた不毛の土地で満足してしまっていたかもしれません。しかし、彼女が「わたしに贈り物をください」と言うことのできる信仰を持っていたことは、彼女にとってどんなによかったことでしょう。 このような泉なしには、人生はなんと実を結ばないものとなってしまうことでしょう。祭りの終わりの大事な日に、イエスは言われました。

「『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである」(ヨハネ7・37~39)

更にイエスは、

「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちに至る水が、わきあがるであろう」と言われました(ヨハネ4・14)

 泉―決してかわいたり濁ったりすることのない泉―これほど単純に、力強く、聖霊を象徴しているものはありません。その澄みきった水源から、地中の隠れた水脈を通して、いのちの水がほとばしり出ています。それは下方へ流れて行くのでなく、上方に上って行き、そして流れ出します。

 ダビデは、「わがもろもろの泉はあなたのうちにある」と言いました。そのすべての泉を神のうちに見いだしている魂は、決してその供給がとだえたり変化したりすることを知りません。私たちには上の泉も下の泉も必要です。生活の最高の領域においても、また最低のレベルにおいても、私たちは同様に神の御霊を必要としているのです。

 ある東洋の隊商が、砂漠の中で、水の欠乏に悩んだことがありました。彼らがよく知っている泉はみなかれ果て、オアシスにも水がなかったのです。彼らは焼けつくような昼ののち、日の沈む一時間前に休息しました。水の欠乏のために死にそうでした。いつもの井戸を尋ねましたが、むだでした。井戸はみなかれていたのです。だれの顔にもろうばいの色があり、だれの心にも失望の色がありました。その時、突然、ひとりの老人が隊長に近づき、こう提案しました。隊長が花嫁へのプレゼントとして家に持ち帰ろうとしている二匹の美しい雄じかを砂漠に放ってはどうですかと。雄じかの鋭い嗅覚は、もし水があるとすれば、きっとそれを探り当てることでしょう。その二匹の雄じかは、かわきのために舌を出し、苦しさのために胸を波打たせていました。しかし、キャンプの端に連れて行かれると、頭をもたげ、空気を吸い込みました。それから、誤りのない本能で、矢のようにまっすぐに、風のように速く、砂漠を横切って走り出したのです。馬に乗った人々がそのすぐあとに従いました。一、二時間すると、彼らは、「水が見つかった」という喜ばしい知らせをもって、急いで引き返して来ました。そしてキャンプの全員は、喜びの叫びをあげながら、新しく発見された泉の所に移動したのでした。

 神と神の満たし―生ける泉から飲むことをかわき求めている人々は、次のお約束が文字どおり真実であることを見いだすことでしょう、「貧しい者と乏しい者とは水を求めても、水がなく、その舌がかわいて焼けているとき、主なるわたしは彼らに答える、・・・わたしは裸の山に川を開き、谷の中に泉をいだし、・・・かわいた地を水の源とする」(イザヤ41・17、18)
 おいでなさい、かわいている人よ、あなたの必要の杯を携えて、神の無限の供給を受けるためにおいでなさい。おいでなさい。そして飲みなさい。そうです、豊かに飲みなさい。

 その泉は決してかれることがない
 たとい幾百万の人々がかわきをいやしても、
 その泉は決してかれることがない
 更に幾百万の人々が飲むためにまた来ても。

(文章は『一握りの穂』カウマン著松代幸太郎訳66~69頁引用。写真は昨日の浅間サンラインから遠望した八ヶ岳連山)

2009年11月12日木曜日

誕生日


 今朝、電話が鳴った。電話口に出た家内がうれしそうに応対している。孫から「ばあば、たんじょうび、おめでとう」と電話がかかってきたのだった。

 その後、別の子どもから昼前には素晴らしい花が贈られてきた。添え書きに「主の御名を賛美いたします。〝主よ。われらの神よ。あなたは栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。〟(黙示4:11)お誕生日お祝い申し上げます。」とあった。普段、こんなことはするはずがないのに。何か心境の変化でもあったのだろうか。家内はひときわ嬉しそうであった。

 昨年は私の方で、手回ししてそれぞれの子どもたちに家内の誕生日を知らせておいたので、全員が漏れなく電話なり、メールなりをくれて効果があったが、今年はやめた。それぞれが忙しい身だから、親の誕生日はわかっていても忘れるのが当たり前だろう。

 それよりも私がしてやれることがあるのに結局何もしてやらなかった。申し訳程度にうどん、それもきつねうどんを夕食に別の仕事が入って忙しくしている家内に代わってつくった。こんなどうしようもない亭主の作品を「ありがとう、自分でつくるよりは他人につくってもらうほうがいい」と言って喜んでいる。

 数年前までは今は病床にある義母が必ず家内に誕生祝を送ってくれた。母親にとって子どもの誕生日は忘れられないと言っても、義母の愛はすばらしいと思う。

 それぞれの日がそれぞれの人にとって思い入れのある日だから、逆に考えて見ると、一年365日一日として記念日でない日はないことになる。一日一日大切に生きたいものだ。

 ひるがえって、今日は天皇在位20周年の記念日だった。家内にとっては64歳の誕生日であった。おめでとう!

ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は主のために守っています。(新約聖書 ローマ14・5~6)

2009年11月10日火曜日

地下鉄に乗り合わせた人たちの人生


 先週の11月6日(土)に各紙とも地下鉄サリン事件でサリンを散布した豊田・広瀬被告の死刑が確定したニュースを報じていた。東京新聞は論説委員の署名入りの解説記事を載せた。いかに重要なことであるかがわかる。その姿勢は他の各紙が無署名であっただけに印象に残った。

 内容は、二人の被告がいずれも高温超伝導研究や、素粒子研究に携わり始めた研究者であるのに、なぜオウムに走ったか、また今どのような思いでいるかを語り、「麻原死刑囚の弟子にならなければ二人は科学技術の発展に貢献する仕事を続けていたはずだ。地下鉄に乗り合わせた人たちの人生。そして自分たちの人生も、二人はサリンの袋と同時に突き破ってしまった。」と結んでいた。

 他紙も大なり小なり同じような内容であった。一方日経は案外簡単な記事であったが、「履歴書」がノーベル賞を受賞した益川さんの話であっただけに、人生におけるコントラストのちがいを思わざるを得なかった。その他では朝日の報道に一工夫を感じた。豊田被告のもとに通う、大学の先生である伊東乾氏のことに触れていたからである。

 それによると同氏は被告の同級生であり、自身のゼミ生をせっせとその接見に行かせており、再発防止に取り組んでいるということだった。伊東氏は豊田被告と大学の同期で、ともにペアーで実験をした仲間であった。私が知らなかっただけで『さよなら、サイレント・ネイビー(地下鉄に乗った同級生)』の本を著しておられた。早速図書館から借りて大急ぎで読みすすめた。

 3年前の11月21日の奥付きのあるこの本の願いは最高裁による終身刑判決である。それから3年後、結局伊東氏はじめとする方々の願いは届かなかった。伊東氏は単に豊田氏の命乞いのためにこの本を物しているのではない。当の豊田氏自身が寡黙で死刑を甘受するのは当然としているからである。だとすれば、何が伊東氏をしてこのようにこの本を書かせ、今も自身のゼミ生を日参させるのか。

 伊東氏も豊田氏も素粒子物理を目ざした。しかし「素粒子物理は最高の物理学であるというドグマは、私たちの世代の純粋な科学少年たちをマインドコントロールした。だが、その背景は東西冷戦の核兵器開発競争にほかならなかった」(同書200頁)ことに気付く、その上、結局彼らが属した学部、修士課程、博士課程と学びすすめる中で「本質」をつかもうとしても大学の制度の与えるものとギャップがあったことが分析される。豊田氏と伊東氏はともに机を並べ、どちらかというと豊田氏は学科内でも最優秀の学生であった。その彼が博士課程に進む段階でオウムに「拉致」されたという。なぜ「拉致」と言えるのか、また今後この悲惨な地下鉄サリンという事件は繰り返されることがないのか、伊東氏は親友ともいうべき豊田氏の過ちを彼個人の過ちにしないためにも国家全体の検証が必要と考える。

罪を憎んで人を憎まずと言う。だが、私は「オウム」という単語が、多くの普通の人を冷酷な批評家にするのを見てきた。「オウムなんか全員、即刻死刑で当然」といった乱暴なもの言いもたくさん聞いた。実際、豊田が犯した罪は大変重い。カルトの犯罪集団を生ぬるく許すつもりもない。だからこそ、きちんと罪は償われねばならないと思う。私は教団時代の豊田を知らない。実行の瞬間も、いまだに想像することができない。それに近づこうとして乗り込んだ地下鉄だったけれど、やっぱり、いま罪を償おうとしている豊田は、20年前とまったく変わらない、私の大切な友だちだ。

 小さな分岐点がポイントを逆に切り替えていたら、二人の立場は逆だったろう。そして、いまもそのまま、小さな分岐点が私たちの社会に根強く残っている。豊田は私で、私は豊田だ。東大に助教授として招聘が決まったとき、豊田のお母さんはYシャツの生地と仕立券を送ってくださった。それから7年がたった。いまだにYシャツは仕立てられない。」
(同書332頁より)

 伊東氏は戦前の日本の国家体制においてもマインドコントロールは行なわれた。またこの本を物されている2006年のライブドア事件もそうでないかと言う。確かにサイレント・ネービーという言葉があり、それは大英帝国海軍の大航海時代から帝国主義までは通じたかもしれないが、今日それは死語にしなければならない。最高裁のかつてのメンバーであり、今もご高齢の身でご健在の団藤重光氏にも協力を得ながら根気強く事件再発防止のための提言を各所で繰り返しているようだ。

一連のオウム事件から10年以上の月日が流れ、おぞましい印象ばかりが残って、具体的な記憶が風化している今日こそ、過ちを経験した人間自身からの「引き返せ、取り返しのつくうちに」という言葉が、もっと広い層の「わたくしたち」みんなに、もっと形を変えて、もっと言葉を変えて、つねに伝えられてゆくべきだ。それらを確実に生かし、犯罪を防止してゆかねばならないだろう。

 いま多くのオウム事犯は最高裁判所の判断を待つ状態にある。最高裁で問われるのは、極言するなら、憲法に照らして判決の正当性がゆるぎないものであるかという一点である。だから、いま必要なのは、本書で示してきたこと、そのすべてを「憲法解釈の問題」として、厳密に翻案して、法廷で展開することなのだ。

 よく聞かれたい、豊田の弁護団をはじめとするあらゆる弁護士、検事、そしてあらゆる法曹とりわけ最高裁判所第二小法廷の全判事を含む裁判官諸兄姉よ。現行の枠組みの中で、拉致=出家の現場を目撃した私の証言者、その後10年以上を積み上げてきた、問題の所在を示す科学的な根拠を、再発防止のために生かすことができる「憲法解釈の問題」として、正面から論を立てていただけないだろうか。そして、全身全霊をもって、その立証に取り組んでいただきたいのだ。法律のプロフェッショナルでない多くの読者の方々も、自分の問題として一過性の激情に駆られることなく、落ち着いて考えていただきたい。二度と同じ過ちを繰り返さないために、実用に直結する智慧を導き出すこと。これこそ、日本の司法がテロの渦巻く21世紀の国際社会に貢献できる、真に価値ある叡智に他ならない。それは、憲法に照らして最高裁が下す、明確な「最高裁判例」として未来に受け継がれてゆかねばならないものだ。

 未来は決して、裁判官や検事、弁護士だけのものではない。私たち一人一人が選び取るものでなければならない。あなたのいる「いま此処」その地点から、何をすることができるのか。それを慎重に考えようではないか。それは果断に実行に移されなければ、なんの意味もない。そのために、無言のうちに事態を繰り返す「サイレント・ネイビー」の、一見「潔い」姿勢にも、私たちはもうひとつの別れを告げる必要があると思うのだ。黙って責任を取り、あとに同じ過ちを繰り返させるという、「義挙」と誤解される潔い沈黙への別れを。だから私は伝えたいと思うのだ。

 さよなら、サイレント・ネイビー。」(同書344頁以下の抜粋)

 残念ながらこの著者の願いは最高裁には届かなかった。しかし、この本の読者は伊東氏の言を通して真剣にこのことを考え続けることだろう。風化しそうな事件に、そもそも私の耳目をそばだてさせたのは、東京新聞の論説委員の記事であった。それを通して他紙を眺める中でこの伊東氏の著書も知ることができた。それは私自身物理学の入り口にも立てなかった者であるが、その「本質」を理解したいという豊田氏伊東氏また益川氏と共通の願いをかつて持ったことがあるからである。

 伊東氏は豊田氏の真の友となろうとしている。豊田氏にその愛は十分通じているだろう。そして豊田氏は自分の手で人を殺めた己が罪をはっきり悔い改めておられる。それが法廷での他の被告と一線を画した寡黙さにあるという。豊田氏は法廷でいちはやく麻原氏に失望したという。それは真理に殉ずる姿勢のない教祖であったからだという。豊田氏が願ったのは「救済」であったと言う。

 ひとつの事件の背後にどうしようもない人間の罪とそこからの脱却を求めて歩んだ人間の悲劇が垣間見える。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。(新約聖書 ヨハネ10・11~12)
神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7・10)


(写真はチェリーセージ)

2009年11月9日月曜日

『塩狩峠』から


 先週の土曜日、ガン末期の状態で苦しむ畏友Aさんを見舞った。枕元には三浦綾子さんの『氷点』が置かれていた。上巻を読み終え、下巻に移るということ だった。その梗概を彼が私に話してくれた。すでに余命宣告を受けて一年経とうとしている。人生の晩年にイエス・キリストの福音に接し、信仰をいただき、今 またこうして枕元に『氷点』をひもとく幸せを語られた。そしてわが人生には「高慢」しかなかったが、聖書は唯一「へりくだり」の主イエス様を伝えてくれたと喜んで語られた。私もまた福音に接し、彼女の作品『塩狩峠』に深く感動した当時のこと、今から37年前にこの書物を手にしたことを思い出していた。

 2005年4月、痛ましい列車脱線事故が起きた。その当時従兄も某鉄道会社の責任を負っていた。いつもとちがい他人事に思えなかった。ために新聞初め多くのジャーナリストの見る目と一線を画しながら事態を眺める自分がいた。それから四年足らずJR西日本の事故調査に関する姿勢が次々明らかにされている。多くの鉄道マンは今の事態をどのように見ているのであろうか。以下小説『塩狩峠』を抜書きさせていただく

 塩狩峠はいま、若葉の清々しい季節だった。両側の原始林が、線路に迫るように盛り上がっている。タンポポがあたり一面咲きむれている。汗ばむほどの日ざしの下に、吉川とふじ子は、遠くつづく線路の上に立って彼方をじっと眺めた。かなりの急勾配だ。ここを離脱した客車が暴走したのかと、いく度も聞いた当時の状況を思いながら吉川は言った。

「ふじ子、大丈夫か。事故現場までは相当あるよ」

 ふじ子はかすかに笑って、しっかりとうなずいた。その胸に、真っ白な雪柳の花束を抱きかかえている。ふじ子の病室の窓から眺めて、信夫がいく度か言ったことがある。

「雪柳って、ふじ子さんみたいだ。清らかで、明るくて」

 そのふじ子の庭の雪柳だった。

 ふじ子はひと足ひと足線路を歩き始めた。どこかで藪うぐいすがとぎれて啼いた。最初信夫の死を聞いた時、ふじ子は驚きのあまり、自失した者のようになった。ふじ子は改札口で、たしかに信夫を見たと思った。信夫はふじ子にとって、単なる死んだ存在ではなかった。失神から覚めた時、ふじ子は自分でもふしぎなくらい、いつもの自分に戻っていた。大きな石が落ちたようなあの屋根の音は、まさしく信夫の死んだ時刻に起きたふしぎな音だった。改札口で見た信夫と言い、あの大きな音と言い、やはりふじ子は、信夫が自分のもとに戻ってきたとしか思えなかった。そして、そう思うことで、ふじ子は深く慰められた。
 ふじ子は、ふだん信夫が語っていた言葉を思った。

「ふじ子さん、薪は一本より二本のほうがよく燃えるでしょう。ぼくたちも、信仰の火を燃やすために一緒になるんですよ」
「ぼくは毎日を神と人のために生きたいと思う。いつまでも生きたいのは無論だが、いついかなる瞬間に命を召されても、喜んで死んでいけるようになりたいと思いますね」
「神のなさることは、常にその人に最もよいことなのですよ」

 いまふじ子は、思い出す言葉のひとつひとつが、大きな重みを持って胸に迫るのを、あらためて感じた。それは信夫の命そのままの重さであった。

 ふじ子は立ちどまった。このレールの上をずるずると客車が逆に走り始めた時、この地点に彼はまだ生きていたのだと思った。そう思うと言いようのない気持ちだった。だが彼は、自分の命と引き代えに多くの命を救ったのだ。単に肉体のみならず、多くの魂をも救ったのだ。いま、旭川・札幌において、信仰ののろしが赤々とあがり、教会に緊張の気がみなぎっている。自分もまた信仰を強められ、新たにされたとふじ子は思った。ふじ子の佇んでいる線路の傍に、澄んだ水が五月の陽に光り、うす紫のかたくりの花が、少し向こうの木陰に咲きむれている。

 ふじ子はそっと、帯の間に大切に持って来た菊の手紙に手をふれた。信夫の母親は、本郷の家をたたんで、大阪の待子の家に去った。大阪は菊のふるさとでもある。

「ふじ子さん。お手紙を拝見いたしまして、たいそう安心をいたしました。あなたが、信夫の生きたかったように、信夫の命を受けついで生きるとおっしゃったお言葉を、ありがたくありがたく感謝いたします。信夫は幼い時からキリスト教が嫌いでございました。東京を出る時も、まだキリストのことを知りませんでした。これはすべて、わたくしの不徳のいたすところでございます。ふじ子さんの純真な信仰と真実が、信夫を願いにまさる立派な信者に育ててくださったのです。
 ふじ子さん、信夫の死は母親としても悲しゅうございます。けれどもまた、こんなにうれしいことはございません。この世の人は、やがて、誰も彼も死んで参ります。しかしその多くの死の中で、信夫の死ほど祝福された死は、少ないのではないでしょうか。ふじ子さん、このように信夫を導いてくださった神さまに、心から感謝いたしましょうね・・・・・」

 暗記するほど読んだこの手紙を、ふじ子は信夫の逝った地点で読みたいと思って、持って来たのだった。
 郭公の啼く声が近くでした。郭公が低く飛んで枝を移った。再びふじ子は歩き出した。いたどりのまだ柔らかい葉が、風にかすかに揺れている。

(信夫さん、わたしは一生、信夫さんの妻です)

 ふじ子は、自分が信夫の妻であることが誇らしかった。
 吉川は、五十メートルほど先を行くふじ子の後から、ゆっくりとついて行った。

(かわいそうな奴)

 不具に生まれ、その間長い間闘病し、奇跡的にその病気に打ち克ち、結婚が決まった喜びも束の間、結納が入る当日に信夫を失ってしまったのだ。

(何というむごい運命だろう)

 だが、そうは思いながらも、吉川はふじ子が、自分よりずっとほんとうのしあわせをつかんだ人間のようにも思われた。「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん」その聖書の言葉が、吉川の胸に浮かんだ。ふじ子が立ちどまると、吉川も立ちどまった。立ちどまって何を考えているのだろう。吉川はそう思う。ふじ子がまた歩き始めた。歩く度に足を引き、肩が上がり下がりする。その肩の陰から、雪柳の白が輝くように見えかくれした。やがて向こうに、大きなカーブが見えた。その手前に、白木の柱が立っている。大方受難現場の標であろう。ふじ子が立ちどまり、雪柳の白い束を線路の上におくのが見えた。が、次の瞬間、ふじ子がガバと線路に打ち伏した。吉川は思わず立ちどまった。吉川の目に、ふじ子の姿と雪柳の白が、涙でうるんでひとつになった。と、胸を突き刺すようなふじ子の泣き声が吉川の耳を打った。

 塩狩峠は、雲ひとつない明るいまひるだった。

(写真は彦根城大手門橋から眺めた風景。37年前の今日私どもに一人の男の子がこの城下の病院、ちょうど道路を走っているバスの奥にある病院で誕生した。今はこの病院も移転してない。2月撮影。)

2009年11月8日日曜日

父は栄光を受ける 


「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネ15・8)

 私たちはどのようにすれば神の栄光を輝かすことができるであろうか。それは神の栄光を増そうとするのでもなく、栄光を新しく加えようというのでもない。ただ神の栄光が、私たちの中に、そして私たちをとおして世に現われることによって、光り輝くようにすればよいのである。多くの実を結んだぶどう畑の農夫は多くの称賛を受ける。というのは、それは農夫の技術と手入れのよいことを物語っているからである。それと同じように、弟子が豊かな実を結べば、父なる神はあがめられる。人と天使との前で神の恵みと力との証拠が示されて、神の栄光はその弟子をとおして輝くからである。

 ペテロが、「奉仕する者は、神から賜る力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである」(1ペテロ4・11)と書いていることはこのことを意味するのである。人が神だけから来る力によって働き、奉仕する時、神はすべての栄光を受けられる。私たちがすべての力が神だけから来たことを告白するとき、その働きをする人も、これを見る人も等しく神の栄光を輝かすことができる。なぜなら、それをされたのは神ご自身だからである。人は畑になっている果実を見て、栽培人の腕前を判断するものだ。そのように、人は神の植えられたぶどうの木に実る果実によって神を判断するのである。わずかな実りはぶどうの木にも農夫にも決して栄光をもたらさない。

 私たちは時々、実りの少ないことを私たち自身や仲間の損失として嘆き、その原因は私たちの弱さによると訴えてきた。しかし実りの少ないことから生じる罪や恥は、むしろ神が私たちから当然受けるべき栄光を、私たちが神から盗み取ったことにあると考えるべきである。神が与えられる力を役立て、神に栄光をもたらす秘訣を学ぼうではないか。「あなたがたは何一つできない」というみことばを全面的に受け入れること、神がすべてをされるという素直な信仰を持つこと、そしてキリストにとどまること(神はキリストをとおしてみわざを行なわれるからだ)、これが神に栄光をもたらす人生である。

 神は多くの実を求められ、私たちが神に多くの実を差し出すかどうかを見ておられる。神は少しの実では満足なさらないのだ。私たちも少しの実で満足してはならない。キリストの「実」、「もっと多くの実」、「豊かな実り」というみことばを、キリストが考えられるとおりに私たちも考えることができるようになるまで、そしてキリストが私たちのために結ばれた実を、いつでも受け取ることができるようになるまで、私たちの心にとどめようではないか。そうしてこそ父は栄光を受けられるのだ。ご命令の最高まで実を結ぶことが私たちの義務である。それは私たちの能力をはるかに超えたことであるだけに、キリストの上に私たちのすべてを投げ出さねばならない。主は私たちの中にそれを実現させることができるし、また必ず実現されるに違いないのだ。

 神が多くの実を求められるのは、神がその力を示すためではない。実は人の救いのために必要なのである。それによって神は栄光を受けられるのである。私たちのぶどうの木と農夫に多くの祈りをささげようではないか。父なる神に人の糧である果実を私たちにくださるように一生けんめい願い求めようではないか。キリストがあわれみの心を動かされて重荷を負われたように、私たちも飢えている人や死にかかっている人の重荷を負ってあげようではないか。そうすれば、私たちの祈りの力と、私たちがキリストにつながっていることと、父の栄光のために多くの実を結ぶこととは、私たちが今まで考えることもできなかったほどの現実性と確実性とを持つようになるに違いない。

祈り
「『父は栄光をお受けになる』とあなた言われます。何という恵まれたお見通してでしょうか。神は私の中でご自身の栄光を現わせれます。神は私の中で、そして私をみわざを行なわれることによって、慈愛と力との栄光を示されます。神が私の中で多くのみわざを行なわれるように、私にも多くの実を結べと命じられるのは、何という恵まれた尊いみ教えでしょう。父よ、私の中であなたの栄光を現わしてください。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳 にひきのさかな社刊行75~79頁より。写真はたわわに実るゆずの実。)

2009年11月7日土曜日

Mさんの葬儀


 水曜日、木曜日と召されたMさんの葬儀に出席した。

 Mさんとは礼拝の席でお顔を拝見したり、お越しになったときに握手をし、ご挨拶をする間柄であった。その時はいつもこちらに最大の敬意をあらわしてくださるので恐縮させらることが多かった。

 火曜日の早朝に召された。奥様と前日の夕べに食事をともにし、その後雑談なさっていたが、気分が悪いと言って横になられた。少し異常を感じられた奥様は、心配のあまり救急車でもお呼びしましょうかとすすめられたが、それには及ばないと言うことであった。その後しばらくしてさらに容態が悪くなり、人事不省に陥られたようだ。一緒におられた奥様には大変なショックなことだった。

 Mさんは某会社の営業マンとして会社の発展に貢献され、皆さんに信頼され、愛されたお方であった。仕事一筋に生きて来られた。2000年に一身上に経験なさったことを通して、奥様が受け入れておられた救い主イエス様の前に頭を下げられるようになり、自然と足が私たちが毎日曜日ささげている礼拝場へと導かれ参加されるようになった。今年の2月には会社を退かれ、普段も奥様と一緒に聖書を読み、祈る時が与えられようになった。奥様にして見れば、会社人間として、母子家庭と言われても仕方がないような状態から、永年祈っていたご主人の救いが実り、これから二人でもっともっと主をあがめ、ともにイエス様を知り求める生活をされたいと希望されていた。それがわずか半年あまりで閉じられたわけである。

 二日間の葬儀には親族はじめ会社の方、ご近所の方、キリスト者の方々と多くの方が出席され、心温まる葬儀であった。葬儀の親族の挨拶はご長男がされたが、お父様への親不孝を心から詫びる内容であった。お父様への愛を伝えたく泣かんばかりにしてなされる挨拶はいつ果てるとも知れなかった。傍に一緒に立たれた叔父様(お父様の弟さん)が、やさしくご長男の肩に手を置いて、「感謝します、だね」となだめられやっと終えられた。家族・親族を大事に誠実に生きて来られたMさんを髣髴させる瞬間であった。

 私は火葬場の席でお二人の会社の上司・同僚の方とお交わりする機会が与えられ、よりくわしくMさんのお人柄を知ることができた。「沈着冷静な人」と言うのが上司の方の評であった。また大学時代応援団長をなさっていたという意外な事実も知らされた。お骨納めの時その上司の方が「Mちゃん」と口に出しながら参加されていることも印象的であった。

 二人のお子様も立派に成長なさっているが、もっともっとお父様と一緒にいたかったであろうし、いろいろなことを相談したかったに違いない。63歳という年齢でご主人やお父様とお別れしなければならない辛さを思う。この11月という月は私にとっても父を亡くした月だ。それでも父は69歳の死だった。私には妻もおり、子どもも与えられ、すでに一家を成していた。それでも父を亡くした時は丸一日、二日泣いてばかりであった。大切なMさんを亡くされたこのご家族の心中を思い、大いに主の上からの慰めがあるようにと祈らざるを得ない。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている・・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(旧約聖書 エレミヤ29・11)

(写真は昨日知人3人と浦和市内のとある食べ物屋さんに立ち寄ったが、生憎満席で入ることが出来なかった。店先にこの花が咲いていた。「アプチロン」というのが店主の方による花の名前だった。)

2009年11月5日木曜日

孤独と痛みに光そそげ


 先頃、一週間の間に相次いで、私よりは年下であったが、60代前半の親しい方お二人がお亡くなりになった。心筋梗塞による突然の死であった。ご家族にとってはショックな出来事だった。気も動転されたことであろう。その後、悲しみのうちに葬儀が執り行われた。葬儀の終わった今は、愛し親まれたご家族が亡くなられたことによる不在感はより一層募っていることであろう。このようなご遺族を前にして私たちはどのようにしてその方々を慰めることができるのであろうか。

 そのようなことを思っているさなかにたまたま次の文章を読んだ。転写しておく。

 「私たちが主のみもとに一緒に集められる。」(二テサロニケ二・一 英欽定訳)
 
 最近、このおことばは、私にとって継続的な慰めとなっています。
この世では、私たちは別離の悲しみにさらされます。何度も会いたいと思う人には、めったに会えないのが世の常です。人生には多くの別れがあります。私たちには、地上で長い間一緒にいられるという保証は、聖書のどこにも与えられていません。
 しかし「私たちが主のみもとに一緒に集められる」というのは、確かな喜びです。毎日毎日が、このように私たちが主のみもとに一緒に集められるという日に限りなく近づいていきます※。
 この地上でも、親しい人と一緒にいることは、実に大きな喜びです。私自身、その喜びを深く味わいました。そうだとしたら、私たちが一緒に天の御国に集められるということは、どんなに大きな喜びであることでしょう。

(『主の道を行かせてください』エミー・カーマイケル著湖浜馨訳312頁より引用。※この意味は聖書本文「私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められること」の前半の部分を前提としたものである。)

 ここには死を越えた確かな世界が述べられている。今朝の新聞には六本木ヒルズのクリスマスに向けたイルミネーションの点灯が昨夜から始まったことが記されていた。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方にいのちがあった。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1・1~5)

とは、ヨハネの福音書の冒頭のことばだ。「罪と死」(やみ)を滅ぼすために来られたイエス様を証しする者でありたい。

(写真は木立ベコニアの花。この可憐な花を造られた造物主こそほめたたえられるべきお方だ。)

2009年11月2日月曜日

病床にあった妻の夫への手紙(1)


 以下は「泉あるところ」(http://livingwaterinchrist.cocolog-nifty.com/blog/)で紹介させていただいてきた「100年ほど前の異国の一女性の証し」の続編である。タイトルを変え、引き続いて紹介させていただく。この本の翻訳は井上良雄氏によるものだが、手紙の文体が旧かなを用いていて、「良妻賢母」というかつての日本の女性像にぴったりの表現になっている。井上氏はこれを敗戦前夜灯火管制の続く中でなしたそうだ。読めば読むほど味が出てくる思いを個人的に感じているので、あえて旧かなの原文にした。

 (ローザンヌにて 1930年11月3日)
 体の具合は引き続き素晴らしくよろしうございます。これがたとへ一時的のものでございましても、本たうに楽しうございます。ここ数年来とは申せぬまでも、ここ数ヶ月来、自分がこんなに生活力に溢れているのを感じたことはございません。その証拠には消化が大へんよろしうございますし、長い間、疲れもせずに外に立ってゐられます。疲れを感じないということは、本たうに素敵でございます。

 けれども、わたくしが本たうに泣きたいほどに焦れている仕事、恋い慕ってゐる仕事、郷愁を感じている仕事―それはロンドンでの仕事でございます。このこと、おわかりいただけると存じます。自家(うち)や子供たちや、そこにあるわたくしの大事ないろいろのものへの憧れ―そのことは何も申し上げません。 ・・・・けれどもわたくしは、自分が前よりも落着いて安らかになったとは申せます。やはり寂しい時はございます。

 けれどかうして外面的には何もせずにゐる間にも、神様がこれまでわたくしからお求めになったのよりは、ずっと大きな仕事をお望みになってゐることが、御恵みによってわたくしにはわかります。

 それは忍耐服従の仕事でございます。昨日F先生が説教しておいでの時に、突然わたくしには、この外面的には怠惰であった長い幾月かの間に、神様がわたくしにお求めになってゐた実際的な仕事に気付きました。

 その第一は、信仰生活によって―殊にお祈りとこれまで習慣にして来たよりはもっと烈しく聖書を読むことによって、自分の魂を養ふこと。第二は執成しのお祈りと文通によって、他の人々に働きかけること。
 
 これはみな、ロンドンで外面的には活動的な生活を送ってゐたころには、ごくごく表面的にしか専心出来なかったことでございます。どうぞ神様がお助け下さいまして、このプログラムを実現出来ますやうに。

(ローザンヌにて 1930年11月8日)
 信頼服従―この二つのことを、わたくしは学びたいと思ってゐます。神様が今この試練によって教えようと思召しておいでになるのは、この二つのことと存じます。どうぞ神様が力をお与へ下さいまして、このむづかしい課題が学べますやうに。

 それが自分にも出来ると思はれる時もございますけれども、翌日になりますと、また最初から始めなくてはなりません。懸念と落胆が、また襲って来るのでございます。このやうな浮き沈みがありますのも、やはり然るべき理由があってのことと、わたくしは考えてをります。

 それはわたくしに信実と忍耐と強いお祈りと神様のお助けを求めることを、教えるためではございませんでせうか。わたくしは進めば進むほど、眼を上に向けるように努めてをります。そして、自分の生命(いのち)はお医者さま方の手の中にあるのではないといふ考へが―この考へは真理と存じますけれども―自分を支配してくれるやうに努めてをります。

 G先生その他の先生方は皆、神様の道具にすぎないのでございます。死であれ生であれ、わたくしの身に起りますことは、ただただ神様の御意(こころ)のみでございます。このやうに考えますと、わたくしは本当に安らかになります。この考へが、どうぞ身内(みうち)で動揺いたしませんやうに。

(文章の訳文は「その故は神知り給ふ」の35~38頁より引用。写真は昨日お伺いした日立のFさん宅の生垣で見かけた、ウインターコスモス。コスモスが散る頃、入れ替わりに咲くらしい。)

私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。(新約聖書 ローマ14・7~9)

2009年11月1日日曜日

彼は英雄ではなかった、彼は基督者であった(下)


 ウォルムスの議会に呼ばれて、著書の意見の改更如何を問われし時、その第一日において彼は意気はなはだあがらなかった。そして一日の猶予を乞うた。人たる彼の面目がここに躍如としている。しかし祈祷の一夜は明けて、キリストが彼の全心を占領した。

 彼は二時間にわたりて、自己の立場を擁護した。彼は言うた、彼の著書の文は半ば自己のもの、半ば聖書より出でしものである。自己のものには人間の弱点が伴っている。思慮浅き怒りや、人間の暗愚や、その他取り消し得べき種々の弱点が交じっている。しかしながら健全なる真理と聖書とに根拠を置くものに至りては、彼は一毫(いちごう)もこれを変改することは出来ぬと。

「聖書の証言か、または平明公正なる論議かによりて我を駁(ばく)せよ、しからずば余は改言する能(あた)わず。良心に背けることをなすは安全にあらず、かつ軽率なり。ここに我あり。我はこの外に出づる能わず。神よ我を助け給え!」と、これ彼の結尾の語であった。

 実に静粛と温雅と謙遜とを兼ね有する聖き勇気よりの語であった。げに奥ゆかしき態度であった。生まれながらの豪勇は彼の持たぬところであった。彼は弱き人の子であった。ゆえに信仰に確(かた)く立つ時において、清き勇気が彼に加えられたのであった。彼は天性の英雄として我らに遠く立つ人ではない。基督者として我らに近く立つ人である。我らの友である。兄弟である。同士である。

 彼は完全なる人ではなかった。彼の粗野なる言動は、時として人の感情を害した。彼はまた重大なる過誤をなした。農民が一揆を起こせし時の如き、彼は些かの同情を持たざりしのみか、諸侯に向かって叛乱せる農民を速やかに殺せと申し送った。農民の頼むに足らざるを学びて、憤怒と失望とが彼を駆ってこの残酷なる言葉を発せしめたのである。

 また彼は、改革者を庇保する某貴族の不義の結婚を公認せしことさえあった。のち彼はこれを取り消したりと雖も、不義の結婚そのものは既に行なわれてしまった。駟馬も及ばず※とはこのことである。彼が聖書を引き来たってこの悪事を弁護したのは、いかに当時の事情を参酌しても、明々白々なる罪過であった。

 頭髪を剃られしサムソンのはなはだ弱かりしが如く、彼の心境にイエスの住まざる時において、彼は全く弱き普通人であった。その憤怒と、その失望と、その過誤と、その煩悶とをもってして、彼はどこまでも英雄児ではなかった。彼はどこまでも我らの仲間の一人であった。しかし信仰に立ちては、彼は全世界を敵となし得る人であった。そのウォルムスに行くにあたって、友人リンクに書き送りたる以下の語は、這般の消息を洩らして余りある。

余は知りかつ信ず、主イエス・キリストの今なお生きて支配し給うことを。この知恵と確信とに余は頼るのである。ゆえに一万の法王と雖も恐れない。何となれば余と共に在る者は世に在る者よりも大であるからである。

 あたかもこれイスラエル国の預言者エリシャを捕えんとして、スリヤの大兵が押しよせし時、エリシャが怖がるる僕に向かって「懼るるなかれ、我らと共にある者は彼らと共にある者よりも多し」と答えしと好一対である。「もし神われらを守らば誰か我らに敵せんや」とのパウロの実験の声が、また彼ルーテルにもあった。ゆえに弱き彼が強くなり得たのである。これ彼が単なる一基督者として、英雄以上の大事を成就し得し所以であった。

 ゆえに余はまたルーテルに向かって「兄弟ルーテルよ」と呼びかけたいのである。そして彼の肩に我が手をかけたいのである。彼の手をもって彼の手を握りたいのである。畏敬する我がルーテルよ。されどまた慕わしき兄弟ルーテルよ、愛すべき我が友ルーテルよ。願わくは来たって汝が信仰の秘密を我に語り、我が小なる生涯をして汝の大生涯に倣うものとならしめよ。

 以上の文章は昨日に引き続き、『畔上賢造著作集』1940年刊行第7巻「改革者ルター」より引用せしもの。上記文章中の※は漢和辞典によると「しばもおよばず」と読み、論語中の言葉で「一度口に出したことは世に早く伝わり、四頭だての馬車でも追いつけない」「ことばをつつしまねばならないこと」の意味。

 ウォルムス国会ならぬ、先の臨時国会では鳩山首相が自分の言葉でしゃべることが出来たことを自賛していた。一方初めての経験で大変疲れたとも言っている。500年前ルターはそれこそ全神経を使って国会に出たことであろう。彼弱くありとも一夜の祈祷の後、イエス内にありて強うされたとは、畔上氏の言であった。古来キリスト者は英雄ではない。しかし内にあるイエス様が語らしめ給うのである。イエス様の愛弟子ヨハネは語る。

子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。(新約聖書 1ヨハネ4・4)

(今日の写真は四葉のクローバー二葉。散歩途中偶然家内が見つけたもの。)

2009年10月31日土曜日

彼は英雄ではなかった、彼は基督者であった(上)


 1517年10月31日、マルチン・ルターはヴイッテンベルク城教会の門扉に一枚の紙を貼り出した。「95ケ条の論題」である。この日を記念して今日10月31日を宗教改革記念日という。多くの日本人にとっては500年ほど昔のことであり、外国のこととて馴染みはないかもしれない。

 当時、日本は中世から近世への転換時期にあたり、領国経営をなそうとする戦国大名が覇を競い始め、その拠点である城下町がそろそろ出現する頃であろう。ルター(1483~1546)はそのような覇者の中で最初に天下統一に乗り出した信長(1534~82)より一世代ないし二世代前の人であった。

 しかし、この人物は信長以上の影響を世界史に与えた。なぜなら時のヨーロッパ全土を支配する法王に敢然と立ち向かっていったからである。このことについて記す文献は多い。以下に示すのは、Kさんのご両親が所持しておられた畔上賢造著作集によるものである。(実は昨日お話した遺品『聖書之研究』は二年前に譲っていただいたのだが、先頃この著作集全巻をKさんから譲っていただき、今は私の手許にある。やや文体が古風なので今の方には馴染まないが、できるだけ転写して紹介したい。)

 彼は決して天性の英雄ではなかった。また強剛不屈の偉男児でもなかった。彼はむしろその天性においては、弱き人であった。やさしき人であった。柔和と愛憐と謙遜とは、彼の特色であった。憂鬱の発作は時々彼を襲った。「思慮深き温和と鋭敏繊細に過ぐる愛情」とが彼にあった。

ルーテルは浅き観察者には、臆病惰弱な男子と見えたであろう。謙卑と内気らしき温柔が、彼の主たる特色であった 

 とトマス・カアライルの言うたのに、虚構(いつわり)のあろうはずがない。ゆえに法律を学びし彼は鋭敏なる感受性の強うるままに、この世の希望をすてて、修道院の隠棲を選ぶに至った。父母の大失望も大反対も、彼を活動世界に引きもどす力はなかった。彼は修道院の奉仕(つとめ)において、煩瑣と過労とを厭わずして、小心翌々として努むる底の人であった。彼はそのまま隠れたる生涯を営むをもって、何ら憾(うら)むところなしとした。

 27歳にしてローマの本山に使いした時、法王とその周囲の腐敗は、敏感なる彼の眼を逃るることを得なかったのは事実である。さりながら、彼一個微力の寒僧、いかで偉権並びなき法王庁に叛逆の弓をひき得ようや。夢にだに彼はかかることを思い得なかった。彼は黙して自己の小なる仕事にいそしだ。そして心霊的安心の域に達して、独り恵み深き法悦に住んで足れりとした。

 法王庁の赦罪券販売に、敢然ひとり起って抗せしは事実であった。しかしそれすら、予め計画して本山改革の戦を開始したというわけではない。もし販売人テッツェルが彼の受持ち区へ入り込まなかったならば、彼は反抗の火矢を放つ要はなかったのである。しかしながら彼はウィッテンブルヒの牧師として、或はその教会員の中に赦罪券を購いて罪業の消滅に得々たる者あるを発見し、或は赦罪券購買の可否如何を質問する者あるに会して、自己の職分に忠ならんとして、また天よりの声を斥けざらんとして、遂におのれを偽ることは出来なかった。

 牧師たる職分を遺憾なく行なわんために、彼は遂に赦罪券販売に反対せざるを得ざるに至った。宗教改革者として彼は起ったのではなかった。彼は己に託せられたる少数の霊魂を切愛したのであった。彼は英雄ではなかった。彼は基督者であった。そして理想の牧者であった。されば偏に神に忠実ならんとして、彼は遂にこの世の大勢力と戦う結果を惹き起こしたのである。この世の英雄豪傑という呼称の外にある彼は、我らの近くに立つものである。

 謙遜なる彼も、神の声に促されて立つ時は、真勇の人たらざるを得ない。彼の如き忠誠摯実な心に霊火が燃え立つ時において、そは遂に天を焦(こが)さずしてはやまぬ。さりながら彼は英雄ではない。計画者ではない。ただ教会の弊害駆除に努めたのみであった。従って法王の権威を否認せんとは、ゆめにも思わなかった。ましてやローマ本山の支配を脱して、新教を創設せんとの野心をや。彼はただ教会の弊害だに改まれば、満足したのであった。この意味において、彼は実に温和なる改革者であった。

ルーテルの切なる願いは、弊害の改められんことであった。教会内に分争を惹き起こすことや、基督教界の父たる法王に背くことなどは、彼の夢にも思わなかったところである。

 とカアライルの喝破せし通りであった。

 その法王を反基督と断じて大反抗の旌旗を翻したのは、ライプチッヒに法王庁の大学者ヂョン・エックと論争せし後のことであった。この時彼は、博学精緻なる論敵の追及する虜となって、遂に己が法王否認の大原理に立つものなることを自認せしめられたのである。法王に忠実なることの、彼の立場として到底不可能なることを、彼自ら知らずして、敵にこれを指示されたのである。

 以後、温和にして不徹底なる改革者は、激烈にして根本的なる改革者となった。これ彼のみづからの求めしところにあらずして、彼を罠に陥れんとせし敵のなせしところであった。敵が遂に彼をこの最後のところに遂い込んだのである。事の成り行きが遂に彼をしてここに出づる外なからしめたのである。神の声と自己の職分に忠実ならんため、遂に起ちて小改革の旗をあげたる彼は、敵に強いられて遂に大改革の戦士とならざるを得ないこととなった。彼はどこまでも英雄ではなかった。ただ神の声に聴従する基督者であった。(続く)

(引用は『畔上賢造著作集』第7巻53頁「改革者ルーテル」より。今日の写真はいつも通る東武線の線路際に咲いている可憐な花。名前がわからないが、もうかれこれ二ヶ月余り咲いている。あっちこっち見るがこの花には今のところどこでもお目にかかれない。)

おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。(旧約聖書 1サムエル17・45)

2009年10月30日金曜日

Kさんのお父様の遺品


 もうかれこれ二年経つのだろうか。記憶が定かでなくなっているのだが、ある日上荻のKさん宅へMさんご夫妻、それに別のMさんと私の四人でお訪ねしたことがあった。その時はすでに戦死されたお父様の遺されたお手紙をお引き受けして転写し始めていたように思う。

  Kさんは私たちにお父様の遺品(主に書籍類)をお見せくださり、「父の遺品です。記念に持ち帰ってください」と言われた。私は余りにももったいない思いがしてその時、一冊の古色蒼然とした本を譲っていただいた。それがこの9月初めに紹介(※)させていただいた『聖書之研究』(1923年270-281)という内村鑑三主筆の合本であった。

 1923年と言うと1911年(明治44年)生まれのお父様がまだ12,3歳の時である。従って長ずるに及んでこの合本を古本として手にされたように思う。合本に記されていた赤のサイドラインをお父様の引かれたものと9月初めの「関東大震災と内村鑑三」の項目では言ってしまったが、最初の持ち主が引かれたのかもしれない。それが時を隔てて今私の手許にある。

 これらの合本には畔上賢造氏はじめ内村とともに無教会の形成に加わった方々の貴重な論考が並んでいる。(ルターの卓上小話も畔上氏の訳で掲載されており、内村のマダガスカルの宣教の歴史を述べる記事もあり以前ブログで述べたことに補充が必要なことも知った。)三谷隆正氏のデビュー作「カントの有神論」も載っている記念すべき号だ。

 ところが9月中旬にお父様が先生と仰いでおられた藤本正高氏の著作集を古本で見つけ思い切って購入することにした。その本を通して藤本正高氏が最初教会の牧師であったがその後、無教会の群れに移られた方であることを知った。それとともに藤本正高氏の転機になった一つにこの1923年の『聖書之研究』があったことを知った。

 それは、どういうことであったか。9月初めの「関東大震災と内村鑑三」の記事紹介の折、震災より有島事件がどれほど人間の霊性を駄目にした事件かわからない旨のことを内村が吐露している文章を紹介したが、この内村の指摘が若き藤本正高氏の曖昧なキリスト信仰を叩きのめしたものであったのだ。

 藤本氏は当時旧制中学の5年生であった。すでに主イエス・キリストを信じていたが、一方有島武郎の作品の愛読者でもあり、当時の新聞や雑誌が有島氏が情死したことに同情的であった中で、内村の『聖書之研究』277号の記事および前回引用させていただいた279号を通して大いに悔い改めさせられたということであった。

 この藤本正高氏がKさんのお父様お母様の結婚式の司式を行なわれた方である。私はお父様がお母様に宛てられたものを中心とする57通の手紙(1938年~1944年まで)を転写する中で、しばしばこの人のきよい信仰はどこから流れてくるのだろうかと思わされていた。それは言うまでもなく師であり兄弟である藤本氏たちの主イエス・キリストを愛する人々の交わりの中から生まれてきたものであった。

 二年がかりになってしまったこのお父様のお手紙の転写も先頃やっと終わった。これからその内容をよく理解して読み直そうとしていた。その矢先にこの著作集に出会った。不思議な導きを覚えた。

※詳細は「泉あるところ」http://livingwaterinchrist.cocolog-nifty.com/blog/

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は何と測り知りがたいことでしょう。・・・すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る・・・(新約聖書ローマ11・33、36)

(写真は拙宅玄関前の野菊。正確には「野紺菊」。「主愛す 野菊のごとき 生遺し」 。)

2009年10月29日木曜日

「悠々自適」と私


 「悠々自適」という言葉がある。世事から離れた人の心境を言うらしい。手元の広辞苑には「俗世を離れ、何ものにも、束縛されず、おのが欲するままに心静かに生活すること」とある。リタイアの生活に入った者なら誰しも、あの入り組んだわずらわしい人間関係から解放されてほっとする時があるかもしれない。

 しかし、自らを顧みるとき、ふっと「悠々自適」とは程遠いと思わざるを得ない。第一俗世を離れることなどできようもない。むしろ、ヨブが言った言葉の方が実感がこもる。「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。」(旧約聖書 ヨブ記14・1)

 昨日は国会内で初めて野党側の代表質問とそれに対する首相の答弁がなされた。各新聞とも一様に討論が論戦となっていないことを指摘している。予算編成まで固唾を飲んで成り行きを見守るわれわれ国民にとっても、とても心の休まる暇はない。

 かつてフランス首相に「トランジスターのセールスマン」と揶揄された池田首相が所得倍増を打ち出し、政治の前面に「寛容と忍耐」を打ち出した時、私は高校生だったが、政治に斬新さを感じた記憶がある。その後確かに経済的に豊かになり、老後の年金生活で大いに余生を楽しもうとされる老人を目の当たりにしてその生活に憧れたこともある。

 あれから半世紀、冷戦こそ終了したが、世界各国の不況、全地球的な環境の悪化、よほどおめでたい人でない限り、悠々自適の余生を送れるなんて言えなくなった。加えて倫理道徳の腐敗はとどまることを知らない。各種の猟奇事件はそれと無関係ではないのでないか。

 副田氏の本を読んだ後、今度は澤村五郎氏(故人)の「大いなる救」(1968年刊行)を読んでいる。明治20年生まれで昭和52年に亡くなっている氏の論調に、何も知らず過してしまった私の中学・高校時代の世相(それはあの『太陽の季節』が話題を呼んだ時代だった)が断罪されているのを見て驚いた。

あるおかあさんが訴えておりました。娘がたびたび映画に行く、というので、いいのがある時は行かしてあげるから、きょうはやめなさいというと、子どもは、「おかあさん、今は民主主義の時代ですよ。私の自由を束縛しないでください」と言います。どうしたらいいのでしょうと。忠とか孝とかいうことは、封建思想だとして退ける。何もかも自分の意志を通そうとするような者として、子どもは育てられる。(同書18頁)

 私など当時ここで言われている娘さんと同じであった。長ずるに及んで学校教育の現場に立ち、また家庭では子どもたちの養育に携わった。途中から教育の羅針盤として聖書をいただいたが、振り返ると徹底的でなかったと思う。子どもの両親に対する絶対服従の聖書の原則に対して、自らのうちにある自由思想でもって肯(がえん)じない所が曖昧に残っていたからである。罪の根源にメスが入っていなかったのだ。

 頑なな「自己主張、自己満足の追及、自分の願いだけを突き通していこう、是が非でも自分のものを得ようとする自己中心」(19頁)性が罪と言われるものの本体だが、私自身主イエス様を信じていてもこの自らの姿に気づいていなかった。ところが、この本の後の方で救世軍の創立者ウィリアム・ブース氏の士官学校での卒業式辞が次のように紹介されている。

「私は三年間も貴重な時を教養のために費やすようななまぬるいことをしたくない。できることならその代わりに、三日間地獄に送りたい。そうしたら諸君は、その悲しい苦悶から人々を救い出すため、火の玉となって救霊のために働く者となるであろう」(180頁)

 これほど激しいことばはないのではないか。地獄とは、主イエス様に救いを求めず神様に自己主張を続け不服従を貫く罪人が陥るところである。聖書中の使徒パウロは言う。

ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になることのないためです。(新約聖書 1コリント9・26~27)

 これはまた何たる「悠々自適」と縁遠い生き方であろうか。そもそも主イエス・キリストの十字架上の死は、私たち罪人(自己中の人間)のいる俗世に下りて受けられた罰であった。そのみわざを受け入れるものが永遠のいのちにあずかれると聖書は約束している。パウロは自らの罪から絶えず離れ、主イエス・キリストを目当てとして歩みつつ人々に福音を紹介し続けた。

罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(新約聖書 ローマ6・23)

(写真は知人のKさんがくださった盆栽。「岩沙参」<イワシャジン>と言い、アルプス原産の高山植物でキキョウ科の多年草であるそうだ。 「立ちてあり 岩沙参に 朝日射す」 「桔梗の アルプス産の りりしさよ」)

2009年10月25日日曜日

神を忘れるな クララ 


 「神を忘れるな!」(申命記6・12参照)

 春の静かな野辺を行く時、神がともに在すと無風状態を楽しみつつ足どりは軽い。しかし野分きの風が吹きまくる日、紅葉は風に乗って散り飛ぶ日、空のかなたから「神なき者となるなかれ」と厳粛な声が響いて来る。

 申命記において、モーセは懇ろに、主こそ神にいましほかに神のない事・・・そうすれば、あなたとあなたの後の子孫はさいわいを得ると、約束されています。しかるに木枯しが身をさく冬の夜、あるいは激論に話がもつれる時「神なき者となるなかれ」と力強いみ声が響いて来ます。なんと厳かでしょう。外見神なきがごとき感情の嵐、激論の怒涛の中にある時も、「神なき者となるなかれ」と響くのです。これは人世への神の恵みです。

 心の王座も転倒するような時、静かに神を待て。激情が泡立つ日に愚かにも、危険にも神をその中から除き去って私情にまける私たちは、しばしばかくして神なき姿となり、ハッとする時、聖なる声は「神なき者となるなかれ」と後辺に語られるのです。歴史を通して後辺に語り給う愛のみ父よ、わが仕える万軍の主は生きて在す。混乱の中を一歩退き、真実なる神はいと近く在す。「神なき者となるなかれ」おぞましき嵐の中をぬけ出でよ。

 歴史に輝く人々は、神と共に歩みし人、エノクは雑然たる大家族のうちにあって、神なき者となるなかれの実行者、また成功者でした。個人としてヨセフがあらゆる出来事の中に、神と共に在って後日の栄えある職掌のために準備されたのです。ダビデの変転たる生涯、羊飼いをふり出しに、猛獣におそわれ、ゴリアテを征服し、王の婿となり、王となり、王の敵とねらわれ、奇異変転を通過した時、神なき者とは決してならない。この世の何れをも間違いなく計る一定の羅針盤で、行く道をはかった。すなわち「神なき者となるなかれ」と言う事、これに聞き従うことであって、己が身をかばうことをしなかった。世の中に何が哀れだと言って、神なき姿ほどあわれなものはありません。

 昔キング・アルフレッドが森の道を散策し、遊んでいた子供たちを呼びよせ、ご自分のポケットから数種類のものを取り出し「子供たちよ、このメダルは何の王国に属していますか当ててごらんなさい」と言われました。すると一人のボーイが「それは金属の王国に属しています」と答えました。王は満足げにそれでよいと答え、次に小さい花を取って、これは?と聞かれると、一人がそれは植物の王国に属しますと答え、王に喜ばれました。さて最後に王はご自分を指して「私は何の王国に属すか」と言われた時一人の可愛い少女が「あなたは天の王国に属します」と答え、王の言い方ないご満足を得たとの話があります。私たちもまた天の王国の民として方向を間違わず、神を忘れる事のないように・・・神なき者となるなかれ、信仰を大切に、どんな小さな不信仰もさけましょう。

 かくて神の王国の民でありますように!

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著302頁からの引用。写真は西南ドイツ・フィリンゲンVillingen近くの小川 2005年10月23日撮影。)

2009年10月24日土曜日

『死者に語る』(副田義也著 ちくま新書 2003年10月刊行)

 この本を読もうと思ったのは言うまでもなく、『あしなが運動と玉井義臣』という本を書き上げた副田氏に関心を持ったからである。しかし、一方この本の副題である「弔辞の社会学」は私に読むのをためらわせるものがあった。弔辞は不要と考える私の考えがあったからである。

  つい数週間前に前橋で葬儀に携わらせていただいた。亡くなった方は私の存じ上げていない方だったが、奥様が私と同じキリスト者であった。ただ奥様は信仰を持たれてまだ数年のことで、聖書にもとづく葬儀(無宗教による)については何もご存知でないお方だった。葬儀に至るまで何日か間があったこともあり、その間奥様から色々なご相談を持ちかけられた。ご自分で判断しながら、最終的にはどうなのでしょうかという私への問いかけが多かった。その中に最後の方で持ち上がってきたのは、ご主人の友人が弔辞を読みたいと言っているが、それはいいのでしょうかという問い合わせであった。私は少し迷ったがご友人の思いを尊重して、弔辞をしていただくことに同意した。

  私は当日聖書からのメッセージにたずさわり、ご主人の霊は天の御国に凱旋されているものと思う、と話した。式の最後の方でご友人が弔辞を読み上げられた。私のように故人と全く交流のなかった者と違い、さすがに大学時代から行を共にされたお方であり、情のこもった弔辞であった。それは故人の霊に語られる形のものであった。

  実はこの本の第一章で弔辞が対会衆型か対故人型か、弔辞を述べるその人の死生観をもとに分析がなされ、著者自身の死生観が少し序章的に紹介される。続く四章で、政治家の弔辞、社葬における弔辞、キリスト教知識人の弔辞、文学者の弔辞がそれぞれ丁寧に分析される。しかも弔辞を受ける人が、岸信介、浅沼稲次郎、松下幸之助、矢内原忠雄、田中耕太郎、原民喜である。一方弔辞をなした人々は、中曽根康弘、江田三郎、谷井昭雄、南原繁、近代文学同人である。この人選、順序は用意周到に配置されている。

  この中では私が実際目撃した身近のものもあった。17歳の時、同じ17歳の少年が立会演説会で浅沼氏を暗殺したあとの弔辞である。それは安保闘争により国論が二分された時代の折のもので、私はテレビ中継で暗殺の場面をたまたま見てしまったし、それゆえにこの折の弔辞は国会での政敵であった池田勇人氏のものを耳で覚えている。その名文が一部採録されている。その他のものでは南原繁氏が矢内原忠雄氏に対してなされた弔辞は一度ならず、文章を通して読んだ記憶があるが、それ以外は初見であった。特に原民喜氏のことについてはここに書いてあることすらよく理解していず、未知の領域と言っていい内容であった。

  順を追ってこれら四章を読むときに戦前から、戦後へ、そして冷戦後の今日、あるいは高度成長経済から今日の脱産業化の時代への動きが著者の解説とともになされ、深く時代を振り返ることが出来る仕組みになっている。一般に本は最初から読み始めて、途中で諦め投げ出してしまう例があるのでなかろうか。この私はそうであった。しかし齢を重ねるにつれ、忍耐強く最後まで読み進めることを学ばされるようになった。若い時にこれだけの忍耐心があったらと悔やまれてならない。特にこの本の醍醐味、圧巻は第五章と終章にあった。

  第五章で明らかにされる広島原爆の被爆者であった原民喜氏のことを述べているところはとても考えさせられた。先頃、核なき世界の演説でオバマ氏がノーベル平和賞を受賞するニュースが飛び込んできたが、著者がこの章で指摘している問題をどれだけ多くの日本人が理解しているか心もとなく思わされた。それは「東アジアのなかの日本」(同書210頁)に登場してくる中国の方励之氏の指摘である。所収は中央公論の1987年の8月号であるとのことである。全文を読んでみる必要があると思った。著者自身が愕き呻いたと言われるものだ。そのさわりの部分を著者は引用する。

 「広島は、明治以後次第に戦争基地に変わっていった。そこには瀬戸内海最大の軍港と軍艦製造廠があり、そこはまた日本海軍の司令基地のひとつだった。しかも最初の海軍司令部を東京から広島に移したのは中日甲午(日清戦争)の海戦を準備するためだった。ここは戦場に近いがゆえに、前進基地と呼ばれた。戦争の名義で人殺しをする、とくに中国人を殺すことは、他でもなく、この地からスタートしたのである。これが1945年8月6日以前の広島の一面の歴史である。だから、広島の壊滅は、仏教用語を使うならば、悪に悪報あり(悪事を働けば悪い報いがある)なのだ」。(同書213頁)

  私は自分自身の不明を恥じる。そして原民喜の存在を改めて考え直したいと思わされた。このような歴史総括の中で、著者は最終章でもう一度それでは弔辞とは何かと読者に問いかける。そしてそこに著者自身の自分史が書きとめられるのである。

  それは著者の育ったクリスチャンホームの姿と同時に優秀な学徒を失った一人の人物に対する彼自身がささげた弔辞の吐露である。その人物は吉田恭爾である。私は昨日まで読んでいた彼の労作『あしなが運動と玉井義臣』の調査研究者の中にこの人物がいるのに気づいていた。しかしその人物が彼の学問の後継者としてまた同僚として期待していた人物だとは知らなかった。著者はこの本の最後で次のように締めくくる。

  この小著を私の思い出の中の吉田恭爾にささげる。君に出会ったことは私のこの上ない幸運であり、君に先立たれたことは私のこの上ない悲運であった。逆縁の辛さは老いてますますつよく感じられるのだが、われわれがともに激しく生きた日々をくわしく述べるのは、20年前の君への弔辞に記したように、私が引退したあとの仕事になるだろう。だから、その回想を君に贈るのはいま少し先のことになる。(同書234頁)

  言い知れぬ感動に襲われながら、著者が牧師さん家族のご家庭に育たれながら、ご自分の霊がどこに行くかを、必ずしも聖書のメッセージ通りに考えておられないようにお見受けした。悲しみを覚えざるを得なかった。しかし著者が様々な論考を精力的に行なっておられることを今回、この二著を通じて教えていただいた。心から感謝し、今後はその著作を読み続けてみたいと思うものである。

眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのないない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。(新約聖書 1テサロニケ4・13~14)

(写真は日立Fさん宅のアマリリス 2009年5月)

2009年10月23日金曜日

『あしなが運動と玉井義臣』(副田義也著 岩波書店 2003年3月刊行)

 「玉井義臣」の名前を知ったのは私にとって比較的早い時期にあたる。ちょうど40年前の1969年の3月12日に私は交通事故にあったが、その時、相手の加害者の方と示談の必要性が生じた時だった。書店で『示談』という同氏の著書を買い求めた。偶然ではあったが、同氏は大学の同窓生であることを、その時知った。その後、同氏の存在・活動振りは新聞などで知っていたが、それ以上詳しくは知ろうとしなかった。

  6年前にこの本が出たときも図書館で借り出して少し眺めたが、余りにも大部な本(437頁)で丁寧に読み進める勇気を持たなかった。ところが3、4日前、同窓会誌が送られてきて、巻頭の特別対談に同氏が登場しておられた。A4版の4段組の100頁足らずの機関紙の4頁ほどの構成だったが同氏の活動が端的にわかる、いい対談であった。玉井氏はインタビューを受けた後の感想を次のように語っていた。

普段あまり考えもしない、学生時代から現在までの50余年を総括する難しいけれど楽しい機会でした。『彦根は遊んでいただけ』と思っていましたが、今の仕事も彦根なしには考えられないとわかったのは、鉛のように重い学生生活から、いま黄金の日々につながっているということで、それはインタビューを受けたことによる新たな、〝発見〟でした。

  この素晴らしい成果を上げている先輩が学生時代をそのように振り返ったことは、私にとって新鮮な驚きと感動であった。私もどちらかというとこの鉛のような重い鬱屈した学生時代をそこで経験したからである。再び市立図書館で借り出して読み始めたが、次々に展開される叙述に今回は巻を措く能わずとの思いを深くさせられた。

  副田氏はこの本の副題として「歴史社会学的考察」と銘打っておられる。それは何よりも「あしなが運動」という高度成長経済から現在の低成長時代、かつ冷戦後世界に対峙する日本社会の根底にある動きを描写したかったからであろう。副田氏は社会学の研究者である。しかしその作業は玉井義臣氏の存在を抜きにして語れないのである。ここにこの本の題名の拠って来る意味がある。

  1963年12月23日にお母さんの交通事故・34日後の死に直面された玉井氏は、被害者としての怒り(「象徴的敵討ち」本書6頁以下の著者の造語)からスタートされた。年若くして日本で最初の交通評論家となられたが、時代が彼を必要としたのだ。その後40年におよぶ玉井氏を中心とする社会運動は、当初はモータリゼーションの進展という時代に対する抗議運動として始められたが、日本社会の変貌とともに交通遺児以外の遺児にも視野は拡大し進められてゆく。その社会的救済を求める中で行政や産業界とも対決しなければならなくなる。 

  著者はその玉井氏に協力を依頼されて何度も何度も交通遺児を手始めとする様々な実態調査を依頼され今日に至っており、ある意味で研究者ではあるが玉井氏にとって欠かせない同伴者・相談相手でもなかったのでなかろうか。だからこそこれだけ肉薄した叙述が可能だったと思う。と同時にこの調査を通して社会学の手法も深化していったのではなかろうか。そういう意味では副田氏の研究者としての歩みにおいて、逆に運動家である玉井氏もまた研究のよき同伴者と言える。

  つい先日も駅頭で遺児の募金活動が高校生により行なわれていた。私はそれを尻目にその前を立ち去った。学生時代の呪縛―そんなことはしても無駄だ、社会の変革をせねば駄目だという呪縛―に今も縛られている自分を思わずにはいられなかった。玉井氏が進めていった交通遺児支援運動が当時の全共闘運動やまた他の旧来の左翼運動がなしえなかった成果を実地に達成している点に当時少しでも耳を傾けていたらと、この本を読んで自分の愚かな行為を恥じずにはおられなかった。

  それだけに様々な紆余曲折を経ながら長年にかけて彼が育て上げていった交通遺児育英会の専務理事の役職を1994年に追われる件の叙述は悲しい。たまたま私の所持する同窓会名簿は1993年のものだから、彼の専務理事の肩書きが載る最後のものだろう。同じ学年の隣頁には久木義雄氏が同会の常任理事との肩書きも見える。それもそのはず、久木氏は玉井氏の大学時代の同窓の誼で、すでに商社勤務であったのに、育英会の仕事に引っ張り込まれて協力させられ、同士の間柄であったからである。(同書164~165頁)

  しかし、1994年両者は袂を分かち、久木氏は交通遺児育英会に残り、事務局長、専務理事事務取り扱いの役職を得る。その後の叙述が次のように描かれている。

玉井が久木に交通遺児育英会の新体制にかんして批判めいたことを言ったとき、久木は玉井に、交通遺児育英会への復活は考えず、あしなが育英会に専念するべきだとすすめた。そのおりの久木の科白は、「江戸城にもどるのは無理だ。小さいが彦根城を大事にしろよ」であった。彦根城は、かれらが卒業した滋賀大学のちかくにある城である。久木はだれが江戸城の主になったと考えたのだろうか。(同書374頁)

  しかしその後、久木氏が江戸城と言った交通遺児育英会は創設者玉井が辞めさせられた結果様々な問題を抱え込む事態に至る。一方久木氏によって彦根城と揶揄されたあしなが育英会は再び玉井氏の本領が生かされる場となり、遺児は交通遺児だけでなく、様々な理由で遺児にならざるを得ず経済的貧困の中に置き去りにされる若者たちの救済、さらには海外の貧困者にまで視野を拡大してゆく運動体として成長してゆく。

  折りしも1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生した。彼はスタッフを派遣し、震災当時どの組織もつかめなかった震災遺児504人の氏名・住所の確認をし、本格的な支援活動を開始するのだ。(同書389頁)そして今までの経済的支援のほかに、震災で犠牲になった悲惨な肉親の死に直面し、そのトラウマから解放されにくい遺児たちの心のケアーをふくむ施設「虹の家」を神戸に建設するに至る。

  もちろんこの本は玉井氏の評伝を書くのが狙いではない。「社会運動家」(同書413頁)という社会学では未定義の概念を創造し、著者が玉井氏をはじめとするその周辺に集まってくる人材を中心に、日本社会の暗部を彼らがどのように作り変えて行くことが出来たか、また出来ていないか、時の政官財とどのように闘い、勝利をしまた敗れて行ったかを克明に跡づけている問題提起の本でもある。

  冒頭述べたインタビュー記事の中で玉井氏は最後に教育機関としての大学に望むことはありませんか、という司会者の質問に答えて次のように言っている。

大きな夢、野心、目標をもたせるような、教科書に載っていない、世のため人のため貧しい人のために役立つ心をもたせて卒業させてほしいと思います。日本が衰退して小さくなり、モラルハザードと拝金主義の社会になっても、出世競争に敗れても人間の尊厳を失わずに、地域社会で心豊かに生きてゆく考え方、行動の仕方を学ばせてやってほしいと心から思っています。在学生の皆さん、人生は長い。悠々と我が道を行ってください。21世紀、リーマンショックで世界の最貧困地帯のアフリカの極貧層はさらに貧しくなり増加しました。私たちは世界の心ある人と連帯して、世界中からあしながさんを掘りおこし、アフリカ青年を大学進学させたい。アフリカの貧困の削減は教育にかかっています。私とこの運動を共に行なう若者はいませんか。歴史を変えてゆきましょう。志ある同窓人、後輩学生を待っています。教育が世界を変革していくと信じます。

  彼のこの言は、功なり名を遂げた人としての言でない。彼が一生涯運動の最前線にいることがわかることばだ。と同時に彼が自分より遥かに若い者を運動に引き込む力を今も持つ現役の「社会運動家」であることを実証することばでないだろうか。

  民主党政権下、官僚との闘いがいかに熾烈を極めるかは私たちは今毎日のように知らされている。約15年ほど前に交通遺児育英会を追われる玉井氏の背後に実は財団法人に対する監督官庁の天下りを実現させようとする画策があったことも少し記されている。だから6年前のこの本は今読んでも新しさを失わない本だと思う。それは政治とはどうあるべきかをヴィヴィッドに感じさせる本ではないかと思うからである。多くの心ある方がこの本を読んでいただけるようにと心から願っている。

  しかしこの長い叙述を読み終わって、なぜか私には次の聖書の言葉が迫ってきた。それは社会運動には消長があることを認めざるを得なかったからである。人は自己の栄誉にしがみつこうとする。しかし歴史は容赦なくそのような人間の思いを剥奪してゆく。あしなが運動もまたその例外ではないだろう。虚心に時代とともに歩む人間のことばにならない悩み苦しみを、つねに聞くものでありたい。 

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのはかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。・・・わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。(旧約聖書 イザヤ45・5、7) 

 (写真は彦根城内堀に泳ぐ白鳥。今年2月撮影。)

2009年10月22日木曜日

単調の中の殉教者(下) カウマン夫人


 私たちはモーセを記憶しています。偉大な解放者、律法の賦与者、預言者、指導者であるモーセを記憶しています。しかし、彼の兄であり、パロの前で彼の代弁者として奉仕したアロンを忘れています。

 私たちはヨセフを記憶しています。美しい髪をした夢みる者、パロに重んぜられて名声と財産を得、ききんに苦しむ家族を救ったヨセフを記憶しています。しかし、その父の世話をし、イスラエルの全家を顧みて、彼らを安全にエジプトに導いたルベンやユダ、その他の兄弟たちを忘れています。

 私たちは、新しい信仰の勇敢な創設者アブラハムを記憶しています。しかし、彼の伴侶であり、協力者であり、彼とともに犠牲を払い苦しみを味わったサラを忘れています。

 私たちはルツを記憶しています。しかしナオミを忘れています。ダビデを記憶していますがヨナタンを忘れています。

 そうです。非凡な者、めざましいことをし、魅惑的なことをやってのける者が、必然的にこの世の賞賛と歓呼の頂点に立つのです。しかし私たちは、その下にあって奴隷のようにこつこつと働いている人々にいつまでも変わることのない感謝をささげることを、決して忘れてはなりません。単調で平凡に見える日々の仕事に従事している人々の献身的なたのもしい労苦なしには、めざましいことは何一つとして成就されなかったということを思い起こすのは、よいことです。

 私たちの時代における最も驚くべき業績―原子核分裂―は、ほんの少数の科学者たちによって成し遂げられたものではありません。そうではなく、幾千という陰にある普通の男女が、最終のゴールがなんであるかを少しも知らず、いささかの報酬も期待することなしに、働いて働いて働き通した結果なのです。

 数年前のことですが、ある集会が終わった時、ひとりの婦人が私たちのところにやって来て言いました。

 「神さまが私を宣教師として召して下さっていればよかったのにと思いますわ。私は無益なたいくつな生活をしているのですもの。役にたたない平凡な仕事をして日々を送っているだけなのです」。 

 更によく話し合ってみると、彼女は教会の忠実な働き人であり、周囲の多くの人々によい感化を与え、彼らを豊かな生活、実り多い奉仕に導いているという事実がわかりました。

 人生は、美しいものであるためには大いなるものである必要はありません。小さな草花にも、堂々とした大木にまさるとも劣らない美しさがあり、小さな宝石も大きな宝石と同様に美しいのです。この上なく麗しい生活も、この世の人々から見れば目だたないものであるかもしれません。美しい生涯とは、この世における使命を全うする生涯です。すなわち、この世において神のみこころを行なうことです。ありふれた賜物しか持っていない人々は、美しい生活をすることができないのではないか、この世に祝福をもたらすことができないのではないか、と考える危険があります。しかし、神から与えられた使命を十分に果たしているつつましい生涯は、りっぱな賜物を与えられながら与えられた使命を果たしていない生涯よりも、神の目から見ればはるかにまさって麗しい生涯なのです。

 与えられたその場所で
 神に向かって素朴な歌をうたうだけ
 ただのつまらぬ小鳥です。
 でもそれは
 栄光を汚す歌をうたったセラフより
 あの堕落したセラフより
 どんなにすばらしいことでしょう。

(文章は『一握りの穂』より引用。写真の花は昨日散歩途中で見かけた草花。家人によると「かたばみ」と言い、どこにでもある花だということだが・・・。)

 カウマン夫人は『荒野の泉』の著者として多くのキリスト者に知られていますが、『一握りの穂』は1955年に書かれたもので小冊子です。このような珠玉の文章を全部で16編書き連ねています。それが10年後に翻訳され出版社から100円で出ていたのです。時は東京オリンピックの年でした。この本もいつの間にか人々の記憶の中から忘れ去られたのでしょうか。書棚に埃をかぶってあなたに読まれるのを待っているかもしれませんね。

時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾りのようだ。(旧約聖書 箴言25・11、12)

2009年10月21日水曜日

単調の中の殉教者(中) カウマン夫人


 私は長年にわたって伝道に従事してきましたが、船で何度も大洋を横断したことは、私にとって特権でした。今日では、大きな遠洋定期船は、あらしの時でもなぎの時でも、非常な速度で、確実に針路をはずれることなく航行することができます。航海中、エンジンルームに降りて行き、巨大なエンジンが昼となく夜となく、目ざす港に着くまでは片時も休むことなく活動しているのを見守ることは、最も感動的なことの一つです。喫水線のはるか下にあるエンジン・ルームには、機関員たちがいます。この献身的な船員たちは、何時間もエンジンやボイラーのかたわらに立ち続けているのです。彼らの夜を徹しての働きの唯一の報酬は、強力なエンジンの着実な律動的な活動です。それは実に船の生命であり、船の進行に欠くことのできないものです。

 これらの働き人たちは、航海の初めから終わりまで、人の見ていない所で刻苦し、ごく普通の目立たない自分の仕事に従事しています。彼らは大洋のまん中で、「私たちの仕事はあまりにも単調すぎる。こんなおもしろくない仕事はやめてしまおうではないか」とは言わないでしょう。あえてそのようなことをほのめかす者はひとりもいないのです。こうした忠実な働き人たちは、船長や他の船員にとって、欠くことのできない存在です。彼らの奉仕がなかったら、航海を成し遂げることはとうていできません。

 幾日か過ぎて目ざす陸地が見えてきた時、船長と甲板にいる高級船員だけが、「私たちが船を安全に港まで運転してきたのだ」と言うことができるでしょうか。いいえ、そんなことはありません。そのためには目に見えない所で労している船員たちの隠れた奉仕が必要です。船を安全に入港させるためには、船長と全船員の働きが必要なのです。

 今日、私たちは、はなばなしいことばかり求めています。新聞紙上で重大なニュースだけに目を留めます。魅惑的なものだけを賞賛し、一般の人々のごく普通の活動をほとんど忘れています。陸軍の専門技術家たちによる驚異的な偉業、数えきれないほど多くの人々の内外の政治家たちの巧妙な駆け引き、天才的な科学者の奇跡的な発見、実業界の大物による多額の寄付などに拍手かっさいします。しかし、その背後にあって、静かなしかし有効な働きをし、いわゆる脇役を演じながら、その実人生のドラマに欠くことのできない重要な役割を果たしている個々人およびその業績を賞賛することを忘れています。

(昨日に続いて『一握りの穂』の文章よりの引用である。政権が変わり、華々しい大臣たちの悪戦苦闘ぶりがうかがわれる。しかし、一方、一まとめに悪者呼ばわりされることの多い官僚たちの中にも地味な働きを通して仕えている人たちがあることを忘れてはならない。写真は東京聖路加病院構内のモニュメント。)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。新約聖書 コロサイ3・23~24

2009年10月20日火曜日

単調の中の殉教者(上) カウマン夫人


 アメリカ中西部のある大学の小さな礼拝堂に、小さな絵が掲げられています。祈りのために上げられた二つの手を描いたものです。ちょっと見たところ、それは平凡な絵にすぎませんが、その絵には、1490年の昔にさかのぼる感動的な物語が秘められているのです。

 フランスで、ふたりの若い木彫りの見習い工が、絵を習いたいと話し合っていました。しかし、そのためには多額の費用がかかります。ハンスもアルブレヒトも非常に貧しい状態にあったのです。とうとうふたりはある解決策を思いつきました。ひとりが働いてお金をもうけ、もうひとりを勉学させる、その人が勉学を終わり、金持ちになり、有名になったら、今度は交替して他を助けるようにすればよい、というのです。

 アルブレヒトがベニスに行っている間、ハンスは鉄工として、汗水たらして働きました。彼は賃金を受け取るとすぐ、それを友のもとに送りました。数週が数ヶ月となり、何年かが過ぎました。そしてついにアルブレヒトは、名匠として、富裕な名の知れた画家として、故郷の地に帰って来ました。今度は彼がハンスを助ける番です。ふたりは再会を喜び合いました。しかしアルブレヒトは友を見た時、目に涙があふれてきました。彼はハンスがどんなに犠牲を払ったかを見たのです。何年もの重労働の結果、その繊細な手は堅くなり、傷だらけになっていました。その指で絵筆を握ることは、もう決してできないでしょう。

 有名な画家アルブレヒト・デューラーは、深い感謝の念をこめて、労働のために荒れ果てたその手―彼の才能を伸ばすためにこつこつと働いたその手―をかきました。彼は「イエスはその手を彼らにお見せになった」(ルカ24・40 英訳)というみことばの深い意義を悟ったのでした。

 タルムードには、ある小作人が富裕な主人の娘と恋に陥った物語がしるされています。娘は父の激しい反対にもかかわらず、その小作人と結婚しました。彼女は、夫が向学心に燃えていることを知って、エルサレムにある大きなラビの学校に行くことを熱心に勧めました。彼は12年間そこで学びました。その間、彼女は、家族からは勘当され、貧しさと孤独の中に生活していたのです。夫はもっと学び続けたいと熱望していましたが、家に帰りました。家の戸口に着いた時、彼は妻が隣人にこう語っているのを立ち聞きしました。

「別れていることは、耐えられないほど苦しいのですけれど、私は、夫が更に学問をするために学校に帰ることを願い、そのために祈っておりますの」。

 彼はだれにもひとことも語らず、学校に帰り、更に12年間学びました。そしてもう一度、決然とした歩みを生まれ故郷の村に向けました。しかし今度は、その時代の最もすばらしい、最も博学な人物が帰って来るというので、パレスチナじゅうが彼をほめたたえて沸き返っています。市場にはいると彼は、接待委員の人々に迎えられました。人々が周囲に押し迫ってくる中に、彼は、ひとりの婦人―背は曲がり、顔はしわだらけでした―が、必死に群衆をかき分け、彼の方へ来ようとしているのを認めました。

 突然彼は、この早老の婦人が、群衆が無視し押し戻そうとしているこの婦人が、愛する妻であることを悟ったのです。彼は叫びました。

「妻のために道をあけて下さい。名誉を受けるべき者は、私ではなく妻なのです。妻は私が学んでいる間犠牲になっていました。妻が進んで働き、待ち、奉仕し、苦しみを忍んでくれなかったら、私は今日ラビのアケバではなく、小作人であったことでしょう」。

(文章は『一握りの穂』L.B.カウマン著 松代幸太郎訳 信仰良書選18 いのちのことば社 1964年刊行より引用。写真は自宅玄関で見かけた蜜を吸う蝶と花々。)