メッセージは「光と暗闇」と題し、2コリント6:14〜7:1が引用聖句であった。創世記を通してロトの生き方を追い、私たち自身の危うい生き方はないか、とそれぞれの心が探られた内容であった。私自身、光である主イエス様にもっと照らされる必要を覚えさせられた。
一方、証しされた方は「主を伝える」と題し、ご自身がどれだけ主に愛されて来たか、本来内向的である自分がそのことをまわりのひとびとに語らずにはおられなくなった主の恵みを現在進行形の形で(祈りの課題とともに)率直に語られた。この日の集会もたくさんの人々が集まって来られ、主にある交わりをそれぞれ三々五々続けられた。
この機会に、集会とはどうあるべきか、ウオッチマン・ニーの文章を一部引用させていただく。題は「どのように集まるべきか」である。
どのように私たちは集まるべきでしょうか。聖書は基本的な原則をしいています。すべての集いは主の御名によらなければなりません。この意味は単純です。私たちは主の権威の下に集まり、また彼を中心にするということです。私たちがいっしょに集まって来ることの目的は主と会うためです。私たちの引力は主にあるからです。私たちが集会に行くのは、ある兄弟たちや姉妹たちに会うためではないということを明らかにしておきましょう。集会の魅力は彼らにあるのではないからです。主が中心です。私たちは、多くの兄弟姉妹たちと連れだって、主の前に出るのです。
なぜ、私たちは主の名において集まるのでしょうか。それは、肉体的に言うならば、主はここにはおられないからです。もし主が肉体的にここにおられたとすれば、彼の名はそれほど目立たないでしょう。しかし主がおられないので、御名がいっそう注目されてくるのです。今日、私たちの主は肉体的には天におられますが、彼は名前を地上に残して行かれました。それで今日、私たちは彼に近づくために、主の名において集まります。主は、もし私たちがそのように集まるならば、私たちの真ん中におられるという約束をしています。それは彼の霊が私たちの集いの真ん中にあることです。
私たちが集まるとき、私たちは説教者の話しを聞きに行くのではなく、主に会うためなのです 。これは、私たちが自分のうちにしっかりと確立しておかねばならない概念です。だれかある人の話しを聞きに集まるとするならば、私たちは主の名においてではなく、その人の名において集まることにならないでしょうか。多くの人々は新聞に説教者の名を宣伝します。無意識のうちに彼らはこういった人のまわりに人々を集めようとしています。
私たちの主は天におられますが、彼の名が私たちの真ん中にあり、御霊がおられるので、彼が私たちの中におられるのです。御霊は主の名の保管者です。彼は主の名を保護し、見守るために遣わされます。主はすべての名にまさる、あの名を高揚するためにここにおられます。それゆえに私たちは主の御名へと集まらなければなりません。
以上、ウオッチマン・ニーの集会についての原則が語られている文章の一部を紹介させていただいた。改めて集会とは何かを考えさせられるいい文章だ。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(新約聖書 マタイ18:20)