2012年5月31日木曜日

どのように集まるべきか

  5月最後の日であったが、今月二度目の家庭集会を開かせていただいた。
 メッセージは「光と暗闇」と題し、2コリント6:14〜7:1が引用聖句であった。創世記を通してロトの生き方を追い、私たち自身の危うい生き方はないか、とそれぞれの心が探られた内容であった。私自身、光である主イエス様にもっと照らされる必要を覚えさせられた。

 一方、証しされた方は「主を伝える」と題し、ご自身がどれだけ主に愛されて来たか、本来内向的である自分がそのことをまわりのひとびとに語らずにはおられなくなった主の恵みを現在進行形の形で(祈りの課題とともに)率直に語られた。この日の集会もたくさんの人々が集まって来られ、主にある交わりをそれぞれ三々五々続けられた。

 この機会に、集会とはどうあるべきか、ウオッチマン・ニーの文章を一部引用させていただく。題は「どのように集まるべきか」である。

 どのように私たちは集まるべきでしょうか。聖書は基本的な原則をしいています。すべての集いは主の御名によらなければなりません。この意味は単純です。私たちは主の権威の下に集まり、また彼を中心にするということです。私たちがいっしょに集まって来ることの目的は主と会うためです。私たちの引力は主にあるからです。私たちが集会に行くのは、ある兄弟たちや姉妹たちに会うためではないということを明らかにしておきましょう。集会の魅力は彼らにあるのではないからです。主が中心です。私たちは、多くの兄弟姉妹たちと連れだって、主の前に出るのです。

 なぜ、私たちは主の名において集まるのでしょうか。それは、肉体的に言うならば、主はここにはおられないからです。もし主が肉体的にここにおられたとすれば、彼の名はそれほど目立たないでしょう。しかし主がおられないので、御名がいっそう注目されてくるのです。今日、私たちの主は肉体的には天におられますが、彼は名前を地上に残して行かれました。それで今日、私たちは彼に近づくために、主の名において集まります。主は、もし私たちがそのように集まるならば、私たちの真ん中におられるという約束をしています。それは彼の霊が私たちの集いの真ん中にあることです。

 私たちが集まるとき、私たちは説教者の話しを聞きに行くのではなく、主に会うためなのです 。これは、私たちが自分のうちにしっかりと確立しておかねばならない概念です。だれかある人の話しを聞きに集まるとするならば、私たちは主の名においてではなく、その人の名において集まることにならないでしょうか。多くの人々は新聞に説教者の名を宣伝します。無意識のうちに彼らはこういった人のまわりに人々を集めようとしています。

 私たちの主は天におられますが、彼の名が私たちの真ん中にあり、御霊がおられるので、彼が私たちの中におられるのです。御霊は主の名の保管者です。彼は主の名を保護し、見守るために遣わされます。主はすべての名にまさる、あの名を高揚するためにここにおられます。それゆえに私たちは主の御名へと集まらなければなりません。

 以上、ウオッチマン・ニーの集会についての原則が語られている文章の一部を紹介させていただいた。改めて集会とは何かを考えさせられるいい文章だ。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(新約聖書 マタイ18:20)

2012年5月30日水曜日

いのちに至る悔い改めという「狭い門」

Der breite und der schmale Weg(Matth. 7,13.14)
人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。(新約聖書 使徒11:18)

 人生において、我々は幾たびも、閉ざされた戸の前に立ちます。そのたびに、腹を立てたり嘆いたりするのです。

 しかし、どんな扉に比べても、神の国の門ほどに広く開かれているものはこの世にないということを、知らねばなりません。

 イエス・キリストの最初の群れは、このことを知りませんでした。ペテロから「異邦人でもこの門を入ることができる」と初めて聞いた時、彼らは神への賛美をほとばしらせたのです。異邦人でも! 無神論者でも! 自分を無価値だと思う人でも! この門を入り得るのです。

 「異邦人にも!」——神の御子が我々のために十字架にかかられて以来、このことばは、神の国の門がいかに広く開かれているかを、示し続けています。

 しかし、同時に、この広い門は「狭いくぐり戸」でもあるということは、注目すべき事実です。この戸は、「悔い改め」ということばの中に立っています。主イエスは仰せになりました。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。・・・いのちに至る門は小さく、その道は狭い」と。

 狭い門とは「悔い改め」のことです。悔い改めとは、古い生活からの方向転換であり、神なき生活、神のおきてなき生活、この世の霊に従う生活、神の御霊を無視した生活、自己義認と罪の生活——それらからの方向転換です。それは大きな第一歩です。重大な決断です。そしてまことに狭い門なのです。

 あの大いなる門はすべての人に開かれています。が、そこを通って行く人には、それは狭い門であるとわかるのです。

 主よ! 我らを、そこを通り行く者としてください。 アーメン

( 『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著5月30日の項より引用。)

 昨日火曜日一週間前に64歳で召された一人の私たちの愛する奥様の葬儀が吉祥寺集会で行われた。胆嚢がんの宣告のもと三年八ヶ月の闘病生活であったが、その困難な試練を通してその方のご主人お子様がいかにして主イエス様を信じ受け容れなさったかをお聞きし、主の測り知れない恵みを味わわされた。

 「火曜日」は長年ずっと聖書の学びが行われて来た。たとえ葬儀があっても、この時間帯が当てられることはなく、午後行われたものだ。ところが今回は葬儀が学び会そのものとなった。そしてそれは国籍を天に持つ者は、ともに同じ神の家族であるという意味で姉妹とも言うべき奥様が病の中でどんなに忠実に主イエス様に従って行き、まわりのまだ主イエス様を知らない方々への福音伝達をなさったかを端無くも証しする機会となった。

 ご遺族のご挨拶の中で、ご主人は召される二日前の奥様親しい方との会話を紹介なさった。お見舞いされた方が、天国への道の話をされ、「今日は(貴女は)一段と輝いていますね、他の病室はどこも暗いのに、この部屋だけは明るいですね。(からだはやせ衰えていたが、目だけは輝いていたようだ)」と言われたところ、奥様である姉妹は「私は狭い門から入ります。」と確信に満ちた答えをされた、と言うことだった。

 その時、すぐには(信仰をもって間もない——実は召される21日前に奥様と同じ天国へ行きたいと強く思わされ洗礼を希望し、奇跡的にそれが実現したのだったが)自分には何を言っているか意味が分からなかったが、主イエス様が狭い道から入る道を用意してくださったのだと感謝の気持ちで一杯だった、と述懐された。

 ところが召されて後、つい先日のこと、奥様がドイツ・ミヘルスベルクで購入された絵(それまで長年サイドテーブルに置いてあったのに不覚にも気づかなかった)が目に入り、ああこれが「狭い門」だったのだと実感が湧き、その絵の存在さえも知らなかった奥様に対する無関心への悔い改めをなさり、それにもかかわらず、妻の病を通して自分もともにこの狭い門をくぐって天国に行けることを確信し感謝の気持ちを持ちました。今日はその記念にその絵もこのように額にして持ってきました、と高々と示された。その時、葬儀会場には一瞬微笑みがさざ波のように広がって行くのがマイクを通して伝わって来た。このような席では普通は泣き言、悲しみしか聞かれないのに会場を支配しているこの爽やかさは一体何なのだろうかと思わされた。

 様々なご事情で出席がままならなかったご遺族の関係者は4名だったが、ご主人と二人のお子様、そしてお母様や弟様ご家族に、姉妹の不治の病という代価を払わされた主イエス様は確実に家族・親族全員を「狭い門」をくぐり抜けさせ、天の御国へと招かれた。その真実な主イエス様のみわざが輝き、会場全体を喜びに包んだ証しが、これまたやんごとなき事情で出席できなかった私にも収録を通し伝わって来た。

 ちょうどタイミングよく今日手にしたブッシュ氏の引用聖書箇所はその「狭い門」という意味の一つの説き明かしであった。ご主人が会場で示されたであろう絵は、奥様がまだ病を得る前にドイツでご一緒させていただいた折りに購入したあの絵に違いない。故人の信仰を忍び冒頭にその絵を載せさせていただいた。

2012年5月25日金曜日

「一丁目一番地」とCD

 今週の火曜日に学びと同時に一人の方が証してくださった。その日はちょうど奥様が25年前に受洗なさったと言われた。そして、ご自身がその後どうして主イエス様を信じたか一つ一つ不思議なことを、すなわち全然主イエス様を求めようとしなかった自分があれよあれよと言う間に、主を信ずるに至ったかを証してくださった。そして結びに「今日は自らの救いを中心に証しましたが、その他渡米、失職など身辺にまつわる過去21年間の歩みを一々語るなら語りきれません。まさしくヨハネが言う通りです」と最後に以下の御言葉を読まれた。

イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。(ヨハネ21:25)

 お聞きしていて、さもありなんと思って聞いていた。ところが昨日二三時間の間に私が経験したことも全く主イエス様のみわざとしか言えないことばかりであった。実はその前の日から、一人の方にCDをお渡ししようと祈っていたのだ。その方とはここ10年ほど会っていず、お宅がどこなのか覚えていない人だった。

 ただかつて散歩途中にその方と同じ苗字の表札の家を見つけて所在を知っていたので、見つけるのは楽勝だと思っていたが、中々見つけられなかった。それでもあっちこっちうろついてやっとその家を捜し当てることができた。ところが玄関の扉が閉まっていて生憎不在のようだった。ポストに入れようとしたが筆記具がないため、これは説明も書けず、まずいなと思い始めた。

 でも鍵は閉まっているようにも思えないので、もう一度挑戦してみたら今度は難なく開いた。玄関先の呼び鈴を押してご挨拶したら、見掛けぬ方だった。「こちらは○○さんのお宅ですか」と念を押してお聞きしたら「違います」という返事が帰って来た。とんだ勘違いに初めて気づき「申しわけありません」と謝り、そのお宅を辞去した。私が自信をもって、○○さんのお宅だと思いこんでいたのは、飛んでもない見当違いで苗字は同じだがその方とは縁もゆかりもないお宅だったのだ。

 これでは、番地を知らないし、探しようがないなとは思いながら、またその附近の表札を頼りに歩き回っていた。その後、5分ほどしてか、近くを子ども連れの若い女性が通りかかった。横顔を見ると○○さんの知り合いでもあり私の知り合いでもある方だった。これはいい助け舟だとばかりに、彼女なら分かるはずだと教えを乞うた。「ここじゃなくって、向こうの方だ」と弧を描いてくれるのだが、彼女もくわしい場所は知らないようだった。それでもありがたかったので、ありがとうと言いながら、気を取り直して今度はそちらの方を一軒一軒探したがそんな調子で見つかるはずがなかった。

 やはり無理だ、図書館にでも行って地図を見て調べるしかないと観念したが、図書館までは遠いし、行くまでに閉館するだろうし、行ってまた戻って探すのも大変だと思い、20年ほど前にお宅を伺ったかすかな記憶を頼りに、原点に帰って別の方角から探すことにした。そしてその附近をまた一軒一軒探していたら、今度は別の通りがかりのご婦人がどなたか家をお探しですか、と深切にも声をかけてくださった。「○○さんです」と申し上げたら、「ああ、○○さんですか、次の角を曲がったところ、そうそう家の前に車のあるお家ですよ」とおっしゃった。

 その奥様にお礼を申し上げる間もなく、その方面を見たら、○○さんが玄関を出て今しも車に乗ろうとされているところだった。駆け寄り、ご挨拶した。10年ぶりくらいだったろうか、ちょうどお出かけの時だったので路上でお話をし、件のCDをお渡しした。

 もちろん、心は天にも昇る思いであった。何しろCD をお渡しできますように、という祈りをささげていたからである。それにしては、番地も確かめず、家に投げ込もうにも説明するための筆記用具も持たず極めて不十分な出で立ちであった。それにもかかわらず奇蹟とも思えるその○○さんと玄関先でお会いしCDを直接お渡しすることができたのであった。

 それに私が○○さんの家を探している途中に、実はもう一人の不思議な出会いを体験させていただいていたのであった。それは私のかつての教え子で、今は二児の母親になっている方との10年ぶりの再会であった。そしてその立ち話の間に10年前に知らなかった事実が彼女の口をとおして明らかにされたのであった。教え子も私もお互いに顔をほとんど知悉していないと言ってもいい時間の空白があったのにだ。そしてそもそも○○さんの家はほとんど出かける寸前までは、その前にお訪ねしお交わりするご夫妻に依頼してCDを渡す計画であった。ところがどうしてもご夫妻が渡してくれないかも知れないと思い始め、ご夫妻の家を辞去してから自力で無鉄砲にも家を探すと言う不確さになった事情があった。

 そして冒頭では省いたがもう一つ大切な祈りをささげていた。それはそのご夫妻との交わりを主が祝福してくださるようにという短い祈りであった。(けれどもここ何年も祈り続けていることであった)ところがその日はご夫妻とともにその件のCDをお聞きし、主のみわざを素直に双方で認め合い、喜ぶことができるように、今までのお互いの関係を一歩前へ進めてくださっていたのだ。

 これらすべてのことを通して私がすべて主イエス様がそうしてくださったと言うのも無理からぬことと御承知願えることであろう。まさにこんなことを一々書き上げていたらヨハネ、また今週証をしてくださった方ならずとも、私もまた、時間も、書くスペースも足りないだろう、と言わずにはおれない。

 ところで件のCDとはそれぞれお父さんがアルコール中毒から救われて召された証や友人が末期がんの闘病の中で主を信じて天に召された喜びと自身の信仰の確信をそれぞれ短く証された20分足らずの話を収録したものである。

2012年5月24日木曜日

我、キリストにありて、いのちの王たらん

歴史的な精確さ

 聖書中エステル書は多分一番多くの批評家から大攻撃を受けた本であって、彼らはこの本を信用する価値のないものとしています。しかしヘロドトスの書き物やフランス人のドーラフォイ氏[註]によって発見されたクセルクセス王のシュシャンの宮殿のものを総合してみればエステル書の記事はすべて真実であることがわかります。

註 M.ドーラフォイ氏はルーブル美術館のbithan(宮殿、大宴会の間や王室の間)に設置しており、今では誰でも大理石の舗石や宴会の間の敷石にその跡を見ることが可能です

 宮殿と庭園の相互の位置関係はエステル書の記事と符合しています。アハシュエロス王(歴史上はクセルクセス王)の浮薄で気まぐれな性質と、彼の豪勢な宴会やペルシヤの廷臣の名前、黄金の椅子、金笏(きんしゃく)、印、書記官、急使などの記事がこの書にありますが、皆歴史上の事実であります。(略)

救い

 エステル記中の人物を様々な型として入念に説明する人もいますが、ここには単純な事実が顕わされているのです。すなわち民のために自分の生命をも喜んで投げ出そうとする人です。ここに私たちはエステル書のキリストを見出すことができるのです。エステルは主の写真でありますが、主はただ生命を与えようと思われただけでなく、実際に私たちのために生命を捨てて下さったのです。そのとりなしによって私たちに救いが確かなものとなったのです。

機会

 けれどもこの書には私たちにとって実際に学ぶべき教訓があり、それは神様が与えられた機会を十二分に用いることの重要性であります。それは私たちにとっても他の人にとっても生死を分ける力が働く機会となるのです。モルデカイは神様が働いておられることを確信していましたのでエステルに伝言して「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(エステル4:14)と伝えたのです。

 私たちは自ら与えられた機会はさほど重要でないと考え、自らの影響の及ぶところは小さいものに過ぎない、大したものでないと考えるかも知れません。「もしエステルのように立派な皇后になったのなら、その時になって別に考える 」という人がいるかも知れません。しかし「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」のです。ああ、あなたよ!あなたがどんな人であろうと、どんな境遇をお持ちであろうと、あなたは「ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配する」(ローマ5:7)ために召されているのです。

 あなたはその機会を見逃さないように注意しなければなりません。神様は私たちめいめいの人生にそのようなご計画をお持ちなのです。私たちはご自身の栄光のために神様が最善に用いることができるためにそのところにおいておられるのです 。もし私たちがそこで失敗するなら、神様は他の方法を用いてご自身の計画を実現されるでしょう。けれども私たちとしては大いなる損失を招くのです。エステルのように私たちもまた神様の御用のためには生命でも何でも捨てる覚悟をしていなければなりません。

(聖書通読の個所がエステル記にさしかかったが、参考のために名著『66巻のキリスト』167頁を紐解いてみた。教えられるところ多かった。この本の邦訳は遠く大正3年1914年笹尾鉄三郎氏により翻訳されているが、何しろ表現が古風である。原著http://www.thebookwurm.com/amh_tc.htmを参考に上掲のごとく意訳を試みた。なお、文中ロマ書の文語訳は「一人のイエス・キリストにより生命に在りて王たらざらんや」である。エステルは王妃であった。我らもまたキリストにあって王なのだ。王は王として歩むべしとは原著者ホッジキンと翻訳者笹尾の証でもあった。我らもその跡を継ぐ者でありたい。)

「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(旧約聖書 エステル記4:16)

2012年5月23日水曜日

ふさわしい祈りを求めて

カーネーション、ありがとう!こんなに見事に咲いたよ!!

 昨日は10度寒くなると言われ、喘息を持つ家内を家において、ひとりで火曜の学び会に出かけた。一日不思議なことばかりであった。第一は当日のメッセージが「祈りが聞かれない理由」であった。これって前日このブログで載せさせていただいた記事のもう一つの答えでないの、と思わされたからである。よくは読んでいなかった昨日の記事を写してみる。

 神が祈祷に答え給うことに疑いはあり得ない。この点について聖書は十分に明白に語っている。これほど明瞭なことは他にあり得ないことである。凡ての人はいつでも、いかなる場所でも、また凡ての必要のために、祈るべく命ぜられている。祈祷が聞かれるとの確証は、豊富である。約束は鮮明であり、聖書は実例と激励に満ちている。「凡て求むる者は得」るとはキリストご自身の言である。(マタイ7:8)。約束の範囲についていえば場所について(テモテ前2:8)、時について(ルカ18:1、テモテ前4:17※)、また題目について(ヨハネ16:23、マタイ21:22、ピリピ4:6)も限界はない。人にかかわる事はみな神の御関心事であり、正式に祈祷の題目なのである。神は我らの必要を聖なる事と俗なるものに分類し給わず、霊的なものと物質的なものを区別し給わないのである。我らの罪の赦しのために祈るべく教え給うた御方は、また「我らの日用の糧を日毎に与え給え」とも祈るべく教え給うたのである。

 然しながらこの題目を我らが学ぶにつれて、条件や限定づけがされている事が明らかになって来たのであった。祈祷には法則があるのである。制限なき約束が、諸条件にとりかこまれたものであったのである。・・・
(『祈祷の小径』183〜184頁より。※この個所はない。なお英文原稿http://www.raptureready.com/resource/chadwick/chadwick16.htmlにあたってみたが邦訳者のミスでもない。)

 昨日のベックさんのメッセージでは、まさしくそのものずばりの条件7つが語られた。すなわち祈りが聞かれない理由は①不従順(マルコ6:5〜6など)② 隠された罪(詩篇66:18など)③無関心(イザヤ62:6〜7など)④聖書をおろそかにする(箴言28:9)⑤強情(ゼカリヤ7:11〜13)⑥心の不安定(ヤコブ1:6〜7)⑦不純な動機(ヤコブ4:3など)の7つであり、その裏返しがそのまま聞かれる条件であるからである。

 主の御心は永遠のいのちにある。永遠のいのちにあずかるためには何としてもこれらの7つの項目は妨げになる。家族の救いは主の約束であるが、それは家族との妥協によるのではない。イエス様ご自身が家族を退けられた(マタイ12:46〜50)。その実が結んだのはイエス様の死後であった(使徒1:14)ことを指摘された。救いはひとりではなく、全家族である。そしてそれは私たちがみことばに聞き従うかどうかが大切であり、私たちがあれをするこれをするではない。主が何をしてくださったかが大切だと冒頭語っておられた。

 第二はこの集会の後、三人の方々との不思議な交わり(その内には、みことばだけを求めて、どなたの知り合いもないまま、初めて出席され、どういうわけか私に声をかけられ、近くのレストランでお交わりすることになった初対面の方との出会いもあるのだが)を体験させていただいたことである。そしてそれらはそれぞれ祈りのうちに結び合わされている事柄、そしてこれから祈り始める事柄に満ち満ちていたのだ。第三は帰って来て、夜、家内の親友から、交わりのうちにあった一人の方が天の御国に凱旋されたニュースを知らされた。ご主人は今回召された奥様を看病する中で病院で洗礼を受けられたことを前に聞いていた。柔和なご夫妻の笑顔を思い浮かべ、慰めと大いなる祝福を祈った。主のなさる事は不思議である。

 最後に昨日の集会メッセージで引用された聖句を載せる。

いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。(新約聖書 使徒10:33)ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。(使徒16:31〜34)

2012年5月22日火曜日

祈り抜くことを教えてください。

玄関の登り口のコンクリートの隙間に一人生えしている草花。

  男性の名前をプリントアウトした資料が出て来た。作成した当時はこの方々のために祈ろうと思ったはずだ。しかし事、志とは異なり、三日坊主になってしまい、資料は散逸したままであった。久しぶりに見てみると、その中には、いつの間にか、もう忘れている方のお名前や、交わりから遠ざかっている方のお名前が何人もあり、辛かった。一方4名の方が、主を信じて召されていた。

 そんなことを話題にしていたら、家内が一つの詩を読み上げてくれた。読み上げているうちに、いつの間にか涙声になった。しかし、祈りは必ず聴かれているのよねと言うのだった。思わず自分でもその本が読みたくなった。手に取ると、それはちょうど「応えられぬ祈祷の問題」と題する記事の中に書いている以下の詩だった。良い詩なので紹介する。

未だ応えられず! かく幾年に亘る心の
悩みになが口唇のささげし祈りにても?
信仰は地に落ち、希望は離れはじめしか?
落とせし涙はすべて空しかりしや?
言うなかれ、御父なが祈祷を聴きたまわざりきとは。
いつか—いずこにてか—汝は心のねがいを得るなれば。

未だ応えられず! なれが初めて
一つの願いを御父の座に供えし時は、
その願いを知らせ奉るに心せきて
求めの時すら惜しむほどなりき。
幾年かは過ぎたりと言えども、
希望を捨つるべからず。
いつしか—いずこにてか—主は汝に応えたまわん。

未だ応えられず! されど言う勿れ、
神賜わざりきと。
汝が務めなお残りおるやも知れず。
汝が初めて祈り始めし時、その務めは始まりたり。
神、自ら始め給いしは果たし給わん。
祈りの香をたくことを絶やさざれば、
いつか—いずこにてか—汝は見ん神の栄光を。

未だ応えられず!
信仰に応答なきはあり得ざるなり。
信仰は『岩なる者』にその足を確くし荒れすさぶ嵐にも雄々しくそびえ、
いとすさまじきいかずちにも動ぜず。
全能者ききたまいしを信仰は察知し、
いつか—いずこにてか—事は成されんと叫ぶ。

(『祈りの小径』S.チャドウィック著蔦田真実訳の本の中の最後に載せてあるE.B.ブラウニングの詩。彼女は「時は春、/日は朝、朝は七時、片岡に露みちて、揚雲雀なのりいで、/蝸牛枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。/なべて世は事も無し。」のロバート・ブラウニングの夫人である。)

主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。セラ あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い 日々を与えられました。(旧約聖書 詩篇21:1〜4)

2012年5月21日月曜日

有言実行のみ

金環日食下の今朝のバラ

 もう四、五年前になろうか。ある古本市で以前から著書を通してお名前を知り、30年ほど前には何回かお話を聞いた方が所持しておられたたくさんの本に出会った。律儀なその方の性格を反映してか、その方の本には氏名印が捺してあったのでそれとわかった。それにしても哀れさを覚えた。恐らく遺族の方がそれらを出したのだろうと推察されたからである。人づてにその方はお子さんもおられなかったことを知っていた。

 それにしてもその本の出し方は異常とさえ思われた。一例を挙げるなら、研究社の大英和辞典までが出されていたのだ。私など、母が高校進学だったか、中学進学だったか忘れてしまったが、身分不相応なこの大英和を買って来てくれたことを思い出す。小さな辞典ならともかく、こんな大きな辞典が何の役に立つのかとその時思ったし、利用した回数も数えられるほどしかない。そんな辞典も数年前に処分してしまった。

 ところが私よりは数年先輩になるその方の蔵書としてその英和辞典があったのである。私としては二重の懐かしさを覚えた。それと言うのも、戦後間もなく、これからは英米文化とばかりに恐らく出版されていた代表的なものの一つだと思ったし、苦学なさったその方も私と同じようにひょっとして教育熱心な母親から乏しい財布を割いて買い宛てがわれたのではないかと思い、親しみを覚えたからである。でもその時、その英和辞典はさすがにその古本市では買い求めなかった。

 その代わり、10数冊のその方の手持ちの信仰書を買い求めた。その中には聖書があった。今も手許にある。実に奇麗に使われた聖書である。しかも克明な書き込みがある。所々にはギリシヤ語さえ併記してある。ちょっとした註解つき聖書よりいかほどか気の利いている代物である。何しろ、その方が苦心して取り組まれたであろう思索の跡を見る思いがするからである。ただそうは言っても人様の手あかのついた聖書である。書棚に鎮座ましますだけで、そんなに手に取って見ることはなかった。また一方、その方の御著書の考えには福音よりもご自分の正義感が貫かれており、以前の教会時代の私なら共鳴したであろうが、今となっては大変苦しい生き方であるなあーと思わされており、これまた書棚に納めたままで手に取って読むことはなかった。

 ところが昨日、日立に出かけた際、帰りに水戸まで電車でご一緒した一人のご婦人と 何気なく会話をしていて、会話の終わりの方で、私の方からその方のお名前を出したら、そのご婦人が目をまん丸くしたのである。そして「あなたは○○さんを尊敬しているんです か、どうですか」と事と次第によっては私にも覚悟があると言わんばかりであった。私もそれが余り良い評判のようにも思えない話になりそうな予感がしたので、「いやー、良くは知らないのですが。これこれこういうわけで某所の古本市で本を沢山手に入れたのですが」と申し上げた。彼女は言下に、「言うことはいいんですよ。でもどうですかね。言うこととやっていることがちがうんですよ。人間的な人ですよ」と言ったのである。これには驚かされた。彼女の妹さんがよくその方を知っており、どうもその方をとおしての話のようであった。

 でも冷静に考えるなら、あり得ることだと思わされた。本を書いたり、たとえば、このブ ログでもそうだが、物を書くということと実生活が異なることはあり得ることだと思い当たるふしがあるからである。それにしてもキリスト者にとって、この言っていることとやっていることとは違うというのは余りにも致命的であり、私にとっては大変ショックな話ではあった。

 今朝、いつものように聖書通読に務めたが、久しぶりにその方の聖書を書棚から取り出し、ついでに今日の通読個所を彼の聖書で確かめた。彼の小さな字で私が今朝読んだ2歴代誌23章から32章のややこしい王列伝の中には小気味よく王の代替わりごとに王名が朱書されていた。たとえば29章の冒頭には「ヒゼキヤ王」と書かれ、その前の「アハズ王」は28章の冒頭にと極めて几帳面な字が納まっている。私が何の気なしに文章を追って行く聖書もその方のお陰で随分頭が整理できた。役に立ち、読み込まれている聖書だと改めて思わされた。一方、聖書が正直に王の治世を功罪ふくめて叙述していることにも思いを馳せないわけにはいかなかった。

 昨日の知人からうかがったその方の生き方は余りにも私にはショックな話ではあったが、何事も白日の下にさらされる主の前に正直に生き、主にだけ頼りたいと強く思わされた。ちなみにその方がその聖書の個所で赤の傍線を引いた個所を下に書き上げておく。

ヒゼキヤはユダ全国にこのように行ない、その神、主の目の前に、良いこと、正しいこと、誠実なことを行なった。彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。(旧約聖書 2歴代誌31:20、32:7)

2012年5月20日日曜日

飢え渇きを満たすお方


 五旬節の日になって・・・。(新約聖書 使徒2:1)

 これは注目すべき表現です。

 「五旬節の日が来て」ということですが、直訳すれば「・・・の日が満ちて」となります。これは、何を言わんとするのでしょう?

 神がこの日をすでに世界の始まる前から定めておられた、というのです。そして、神のお定めになった待ち時間が済んで、聖霊が世界においでになられたのだ、というのです。

 これは、神がいかにご自分の計画に忠実なお方か、をあらわしています。

 人間的な愚かな言い方をするなら、こんなことになるでしょう。—「もし我々が神であったなら、我々はこの日を延期したであろう。なぜなら、状態としては極めて不都合な時だったからだ。」

 つまり、当時はローマが強大になりつつあり、政治問題が人心を占領していた時期です。いったいだれが聖霊に関心を抱くでしょう!

 では、神には、ご自分とともに働く正しい人々がいたのでしょうか。それは有名人ですか。霊的に秀でた人たちだったでしょうか。いいえ。ほんの一握りの、無学な、臆病な漁師らと取税人—それが主の意のままになる人々だったのです。

 「五旬節の日が満ちて」神は、ご自分の力強い良き御霊をお送りになりました。神はご自分の計画に忠実でありたまい、我々の助言を必要とはなさいません。神はご自分の道を行かれます。そして、たといほとんどの人が聖霊を心に留めようとしなくても、神は義に飢え渇く者たちには聖霊をお与えになります。また、たとい権力者らが世間に騒ぎを巻き起こそうとも、神は、静まって待ち望む者に御霊を注がれます。

 神は、ご自分の計画のままに、事を行いたまいます。 「五旬節の日が満ちる時」、「すべては時間どおりに成就する。/神がひとたび我に定めたもうたことならば。」

 主よ! 
  我らに、あなたのご計画とみわざとを、
   何よりも大切なものとさせてください。       アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳5月20日の項より引用)

2012年5月18日金曜日

『人は死んだらどうなるか』S.D.ゴードン著山田和明訳


 原題はQuiet talks on life after death。この書物は新書版で238ページの本であるが、6つのテーマに分かれている。(1)死、人生の果てしない悲劇(2)神との交わりを 持って死んだ人々について(3)神との交わりを持たずに死んだ人々について(4)私たちは死者と交わりうるか(5)死とは何か(6)死後ほかに救いの機会はあるか。

 聖書全巻を通して積極的に人の死について語られるこの本は一級の書だと思う。著者は1920年にこの本を著しており、第一次世界大戦の悲惨な戦死者を前にして書かれたようだ。しかし、1936年にはすでに亡くなっている著者は第二次世界大戦を知らない。ましてや東日本の震災に喘いでいる日本社会は知る由もない。しかしこの方が中心に据えられている神様、イエス様はすべて御存知である。創造主がいかに人間一人一人を愛されているか、そしてそれは人間一人一人の自由意志を尊重するものとしてあらわされているかが最後まで諄々と語られている本である。残念ながら邦訳本は絶版で手に入らないと思われる。英語のできる方は以下のサイトでご覧になってはいかがだろうか。(http://www.archive.org/stream/quiettalksaboutl00gord#page/n5/mode/2up

 以下にこの本の末尾の文章「愛は決して絶えることがない」をそのまま引用する。(なお文中の「蓋然性」ということばは私にはわかったようでわからない。「必然性」という言葉と対比して読めば良いのではないか。原文はlaw of probabilityである。)

 このように、この権威ある聖書は、神を離れること、また、神の支配に対して大胆に敵対することを主張する者には、恐ろしい最後の結末があることを、非常にはっきりと述べている。聖書は、物事を記述する場合、非常に明確な方法をとっている。聖書は、最もすぐれた意味において、普遍的な書物である。それはもちろん、東洋的な書物である。と言うことは、聖書はあらゆる所の一般大衆の書物であると言うことと、同じである。

 東洋的な思想と表現の様式は、実際に精密なものである。すなわち、一つの瞬間を中心にして描写を集中する。最後の決定的な結果について述べるが、結果に至るまでの過程については、言及しないのである。

 西洋的な表現法の特徴は、それとは違い、洗練された学問的方法である。

 聖書の方法は、大衆の一般的な方法とは明らかに区別される、と言うことができる。聖書の方法は、過程というものを中心とする。結果に至るまでの過程を、分析し、批評する。それは、物語を一連の段階において表わす映画のフィルムのようなものである。

 聖書の構成においては、東洋的な様式が用いられているうちにも、明らかに、神の知恵と洞察のしるしがある。というのは、その思想と表現の一般的様式が、単に東洋世界だけのものであるばかりでなく、更に広範囲に、あらゆる所の大衆の一般的な方法でもあるからである。

 したがって、聖書は、まれに見る知恵をもって、世界じゅう至る所の一般の人々が直ちに理解することができるように書かれている。聖書は、最後の結末のことを述べている。そして、その過程について、この本の終わりの部分で学ぶ事柄がその結末である、ということがわかる。それは、蓋然性の法則についての専門家たちによって導き出された結果である。この昔ながらの聖書の記述が、まれに見る正確さと、深い人間的な知恵をもってなされたということは、その過程を学ぶ者に、深い感銘を与える。

 聖書の単純で驚くほど積極的な言葉に、耳を傾けなさい。「信じないもの(または、不信仰の者)はのろわれる(または、罪に定められる)」(マルコ16:16)。「御子を信じない者(または、御子に従わない者)は、命にあずかることがないばかりか神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:36)。「そして彼らは終わりがない(または、永遠の)刑罰を受ける」(マタイ25:46)。これらの言葉は、この聖書の権威ある宣言である。これは、人間の蓋然性の法則と十分に一致するものである。

 そして、聖書の最後のページには、勧めの言葉がある。これは、死んで下さったかたによって語られたものである。イエスは、熱心に語られた、「いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」と(黙示22:17)。

 自分のむすこを全く献身的に愛した、あるフランス人の母親の物語がある。むすこは情欲の野火にとらわれ、その炎は赤々と燃え上がった。彼は非常に美しい、しかし全く無情なある女性に、とらえられてしまったのである。母親はむすこを、愛をもってしっかりと守り、嘆願して、離そうとしなかった。悪い女は、自分が全く母親の感化を取り除くことができないので、腹をたてた。そして、おりあしく、そののろいの気持ちが強くなった時、青年に、母親の心臓を持って来ることを約束させたのである。

 この物語は、青年がその約束を守ったことを述べている。彼は、母親の心臓のはいった包みを腕にかかえて、悪い魔女との約束を果たすために急いでいた。彼はつまずいて倒れた。すると直ちに、彼のよく知っている声が、優しく気づかうように語りかけたのである、「わが子よけがをしませんでしたか」と。そこには、とがめだてるような響きはなかった。ただ愛のみ—愛による心づかい、朽ちることのない献身的な愛のみ—があった。

 これは、伝説的な物語である。確かにそうである。しかし、生きた物語である。この物語は、ほんとうの母親を描いている。青年は、母親を殺すことはできたであろう。しかし、母親の愛とその声を消すことはできなかった。母の愛とは、この世における人間の愛のうち、最も偉大なものである。このまことの母親の心は、神の心に最も近いのである。

 神は、ご自分の創造された子供が苦しむ時には、いつも苦しまれる。神は地獄に行こうとしている人のために、本人が苦しむ以上に苦しまれる。人の鋭い良心の痛みを感ずる力はだんだんなくなってゆくが、苦しみそのものは強くなってくる。すると、神の苦痛は増してゆく。しかし神は、ご自身の苦痛を和らげるために、人間の最高の力である自由選択の権利を、奪おうとはされないのである。

 神の愛は、決して絶えることがない。絶えることができないのである。そして、永遠に絶えることはないであろう。

2012年5月17日木曜日

義人はいない!

昨日の家庭集会は立錐の余地がなかった。昼間は「よみがえりの主」という題名で1コリント15:3〜8が引用聖句であった。夜は詩篇23篇であった。迷える羊である人間は牧者であるイエス様の近くにいるだけで良い。癌になった一人のドイツ人はなぜ自分が癌になったかわからなかったが、次のように歌ってその癌を主の御手から受け取ることができたとしてその彼女のつくった詩が冒頭で紹介された。

 主イエスよ
 私が心配し、問題を持ち、無力になると、
 あなたは私にご自分の喜びを用意してくださいます。
 あなたが愛でもって私のためになされた救いを
 信仰によっていただきます。

 主イエスよ
 あなたは憐れんでくださり、目標をもって私の一生涯を導き
 あなたの愛の現われとして、いつも最善をなしてくださいます。
 したがって安心して喜ぶことができます。
 あなたは決して私から離れられません。
 一時的な幸せよりも、まことの救いは、私にとって大切です。
 (癌の癒しよりも大切なことがある)

 ですから、あなたの御手から今の重荷を受け取ります。
 あなたの導きを受け容れにくくても、私は確信しています。
 すなわち
 「すべてが あなたから 来ている」

 あなたの近くにいて御言葉を聞くと、あなたを自分の避け所
 また助け手としてほめたたえられます。

 あなたこそ私の人生を豊かなものとしてくださいました。
 あなたは私のために大いなる御業をなされました。
 あなたに愛され、そしてあなたの満ち満ちた富から
 豊かに与えていてくださるから
 私もまたあなたを愛することができます。

 今からあなたの光のうちに歩みたいです。
 私が何をやっても、主イエスよ、どうか私を祝福してください。
 喜ぶことができるために救われ、平安に満たされた者として
 私は心からあなたをほめたたえます。

 人生とは一見理不尽・不可解なことが多い。この癌患者もそうだ。しかし見方によって変わる。それを主から受け取ることがいかに大切か、そのために主は良き羊飼として私たち神から離れ迷う者が主なる神様のもとに帰ってくるように命を投げ出していつも両手を広げて待っていてくださる、というのが全体の趣旨であった。

 今朝の「日々の光」に次のみことばがあった。

「もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。」(新約聖書 1ヨハネ2:29)

 神以外には正しくあり得ない。もし人が義を身につけることができるのなら、それは神によって新しく生まれる(神を信ずること)により初めて可能なのだ。いかに我が身は善をなそうとも悪に向かおうとすることよ。しかし、主を信ずるならそのような我が身も主によって正しくされるのだと心からこのみことばを受け取ることができた。昨日の家庭集会においても真に主の救いを求める人が各地から距離をものともせず集われた。その思いを主は主を心から愛する一人の異国のメッセンジャーを通して満たされた。あわただしく過ごした集会の快い疲れとともに今静かに振り返らされている。

2012年5月15日火曜日

自己に死する日まで

神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。(新約聖書 1コリント1:9)

 今日の火曜の学びは引き続いて「伝道活動における家庭集会の大切な意味」であった。ベックさんは上掲のみことばのあと、次のように語られた。

 ここにも書かれているように、最も大切なのは主の真実です。主と交わりを保ち、常に主と共に歩むために、私たちは召し出されました。主が私たちを導こうと思っておられる道は、十字架まで続いています。自分のいのちを愛する者、自分のものに固執する者、自分自身を否定する備えのない者は、霊的なかたわになってしまいます。主イエスが私たちの生活の中で第一になっているでしょうか? 自己否定なしにはいかなる復活のいのち、すなわち、主のいのちの現われもありえません。今日大きな問題になっているのは、十字架のないいわゆる「キリスト教」が宣伝されていることです。・・・・

 家に帰って、藤本正高さんの講筵に連なった小林さんの1939年の手紙を紐解いてみた。小林さんもまたそのように生きようとしておられたことがわかった。折しも小林さんの遺児であるお嬢さん(と言ってももう初老の方であるが)が先に召されたご主人との連作展『天と地の二人展』を5月24日から30日まで開かれる。この機会にお父様のお手紙を再び紹介する。(1939年9月1日にはドイツ陸・空軍がポーランドを侵攻いわゆる第二次世界大戦が始まっている。同月3日には英・仏がドイツに宣戦布告をしている。)

 八月二十二日附御手紙拝見、有難うございました。皆様御元気で夫々夏の収穫を得られたことと存じます。当地では戦争最中とは申せ今の処何と云うこともなく、日本人に対する人気も悪いことはありません。夜は燈火管制で少しでも光がもれると怒られます。更に毎日、何時でも外出するときは必ずガスマスクを携帯せねばなりませんが、之はイギリス人の神経が尖りすぎている故ではないかと私共には思われます。

 時節柄当地の模様は遠慮しますが、仕事の多忙は甚しくあります。言葉もよく判らぬうちに録々(ろくろく)として二ヶ月を送ってしまいました。「イギリスに三年居たら馬鹿になる。」とは当地の日本人がよく申す言葉でありますがそんな気がいたします。

 到着早々こんな事で何のために来たのかと思うことさえあります。仕事のことなら日本の方がよく出来ているのではないかと思います。イギリス人は生活を楽しみます。日本人の様に真正直に働くことはいたしません。一般のイギリス人については今日では学ぶべきものは少なく、英国は下り坂を急ぎつつある様に思います。然し乍ら過去に於て、又今でも或る人々にはよいものが揃っているのでありましょう。英国民をして兎に角偉大ならしめた素質は今日では割合に少ないのではないかと思います。一方流石に美点もありますが、本当のことは矢張り数年住まなくては判らぬ様な深さも感じます。

 何処に行っても、何の様な人種にも希望を持って福音の種を運び、終生を戦い通した偉大なパウロを今更の如く大きく思います。日常の仕事に追われてそこに迄思い及び得ない自分の不甲斐ない姿を新しく発見して居ります。そして折角来たのでありますから、古い英国のよいもの、現在もあるよいものを吸収してはゆきたいと思って居ります。
  ×    ×    ×    ×
 道は違っても、自分の為でなく、神様のために、キリストの為に選ばれた筈の基督者が、「自分」から抜け切れず、もがく様は惨めであります。キリストにのみ思をよせ、「如何にしてか福音の伝播を」と日夜心を砕いたタルソのパウロに遭って、弱々しい彼の肉体の内に燃えた火の様なキリストへの熱情をききたいと思います。我等の藤本先生も戦に斃れられた畔上先生の遺著の編輯に大童で居られると思います。「日本は連日暑さつづきの由」ラヂオに入って参ります。

 御体を大切になさる様御鳳声(ほうせい)御願申上ます。
   ×    ×    ×
 地上の生活は苦難の連鎖で、地をはなれる日まで憩はあるべからずと思いつつも不平をもらしては後悔して居ります。然しながら此の滞英期間中に少しでも役に立つ器となれる様更に鋭い主の轆轤(ろくろ)の歯を待ちたいと祈って居ります。肉をさかれ、骨を砕かれして、主の鋳型に嵌(はま)るまで、そして自己に死する日まで、その為に肉体は亡ぶるとも鍛えられる者は幸であると思います。そして現実の弱き惨さは世に又となき程でありながら、それでも兎にも角に主にしがみついて行ければと願って居ります。
    ×   ×   ×
 岩井さん、遠藤さん、その他の方々によろしく御願申上げます。検閲で当地の模様は詳しく申上得ませんが、私は何等変りなく元気で居ります。当国でも為替管理やら物資統制やらが始まって居ります。御申越のものをお送り申上ましたが到着は遅れはせんかと思います。御健康を祈ります。

  九月十七日        小林儀八郎

2012年5月14日月曜日

チンデルの捕縛と殉教(完)

ティンデルの口からLord・・・the king ofの文字が。なぜかopenが削除!

 前にも述べたごとく、チンデルを救助せんとの試みが各方面よりなされたが、すべては無効に終わって、いよいよ彼は裁判の結果死刑に処せられることとなった。しかし彼の中には、かつて彼がフリスにあたえた信仰の励ましを、今や自らに与えて言い知れぬ悦びをさえ感じていた。この地方では異端者の処刑は、アナバプテスト以外のものは、一度絞殺して後に火で焼くことになっていた。

 彼は城外の広場に引き出された。中秋の陽は静かに彼を慰めるごとく照っていた。広場の周囲には柵がめぐらしてあって、一般の人はその外から見物することになっていた。広場の中央には十字形をした処刑柱が立っている。その柱の先には鉄の鎖がついていてそれから絞首するための索が下がっている。そしてその処刑柱の下には柴がうず高く積み重ねてある。

 用意が万端整った時、検事総長をはじめ裁判官たちが入場した。彼らは処刑柱の側に設けてある席についた。それが終わるとチンデルが静かに獄卒に導かれて現われた。処刑柱につく前にしばらく祈ることが許された。彼はいまや肉体の口を通してなす最後の祈りを捧げんとするのである。彼の口からは突然力強い言葉が迸り出た、

「主よ、英国王の眼を開き給え」と。

 この言葉は英国王に対する皮肉でも恨みでもなく、心から母国と国王の真の幸いを祈ったからである。祈りが終わると彼は処刑者によって柱に縛りつけられた。鉄の鎖は彼の首を動かさないためにその周囲に巻かれ、絞首索は輪にして締める準備がされた。それが終わると、藁束が高く薪のまわりに積み上げられて、チンデルの帽子が少し見えるぐらいまでになった。かくて準備が終わると検事総長の合図にしたがって、処刑者はあるだけの力をもって絞首索を締めた。そして全く息絶えた時、検事総長自ら薪に火をつけた。火焔は見る見る中に高く上って、チンデルがただ福音を証するためにのみ用いた肉体は、今や全く灰に帰してしまったのである。時は1536年10月6日の金曜日であった。

 「彼らは私を焼いても、私が予期する以上のことは何もなし得ない」とは、彼がこの死刑を受ける八年前に言った言葉であった。その言葉が的中しているか否か、今日の我らには明白である。真理の言葉は如何なる暴力をもっても蔽うことが出来ない。彼の働きが如何に偉大で如何に不滅なものであったかは今さら言を要しない。

 彼死してすでに400年の星霜が流れ去った。「生命の国に到るには、キリストの例に倣って苦痛の迫害と受難を、しかり、死の迫害と受難を通る以外に道はない」と言った彼の言葉が、今もなお新しく耳底に響いてくる。

(『藤本正高著作集第三巻P.567~569。チンデルの英訳は今日の英国欽定訳聖書にそのまま残っている。彼が命をかけて訳した聖書は今も金字塔のごとく私たちにも語りかけている。最後に彼の訳を英文で紹介しておく。I am the good shepherd. The good shepherd giveth his life for the sheep. An hired servant, which is not the shepherd, neither the sheep are his own, seeth the wolf coming, and leaveth the sheep, and flyeth, and the wolf catcheth them, and scatterth the sheep. The hired servant flyeth,becase he is an hired servent, and careth not for the sheep. I am that good shepherd, and know mine, and am known of mine. As my father knoweth me; even so know I my father. And I give my life for the sheep: and other sheep I have, which are not of this fold. Them also must I bring, that they may hear my voice, and that there may be one flock, and one shepherd.〈『ウイリアム・ティンダル ある聖書翻訳者の生涯』P.559所収〉ヨハネ10:11〜16である。彼の英文訳を通してそれまでラテン語訳でしか、しかも実際はそれでさえ良く読もうとしなかった、あるいは無視していたカトリック教会聖職者特権階級に代わって、現実に市井の民が逐一その聖書を自国語で読めるようになったのである。これは実に画期的なことである。なおその翻訳の際、いかに彼が当時の英国庶民少年にまでわかる言葉やまた韻を踏んでの訳し方をしようとしたかは上掲の書が丁寧に証明している。なお本日と昨日の掲載写真はいずれも上掲の書からお借りした。)

2012年5月13日日曜日

チンデルの捕縛と殉教(5)


 チンデルがこの獄中にあった時に書いた手紙が今日遺っている。これは彼の筆蹟を示す唯一のものである。彼の書いた多くの書物や手紙は、今日印刷として遺っているのであるが、この手紙のみは彼が書いたそのままである。この手紙には日付も宛名も書いていないが、1535年の冬、この地方の長官であるベルヘン・オブ・ゾームの侯爵、アントワーン・デベルゲスに宛てたものとされている。この侯爵にはクロムウエルも、チンデルに対する特別の取り計らいを願って既に手紙を出していたのであった。今日遺っているチンデルのこの手紙は、全文ラテン語で書かれたものである。今その全文を引用する。

貴下は小生に関して決定されたことを御存じと拝察致します(ブラバンドの会議において)。それ故に主イエスの御名において、つぎのことを貴下の長官としての御職務に訴えたいと思います。即ちもし、小生がここ(フィルフォルデ)でこの冬を過ごすようで御座いますなら、検事に依頼して彼の手許にある小生の荷物を送らせては頂けないでしょうか。

小生はいつも頭が冷えて非常に苦しみ、そのために絶えず感冒にかかるのですが、獄中においては特にそれが烈しくなりますので温かい帽子を欲しく思います。また小生は只今非常に薄着をしていますので温かい衣を得たく存じます。また長脚絆をつぐための小さな布片も欲しく思います。私の上衣もシャツももうボロボロに破れてしまいました。彼は私の羊毛のシャツを持っていますので、もし彼に深切があれば快く送ってくれると思います。また彼の許には厚い布の、上に着る長脚絆も、夜かむる温かい帽子もある筈です。

そしてまたできるなら夜燈火をつけることを許可して欲しいと思います。暗い中に独り座していることは実に退屈です。しかしこれらにもまして貴下の御厚情に訴えたいことは、検事が至急私にヘブル語の聖書、文法書、辞書をもつことを許してくれることです。私はここでそれらを勉強したいと思います。

その御努力の酬いとして、貴下の霊魂の救いのために常に変わらずに備えられている、貴下が最も親しく求めておられますものを得られるでしょう。しかしもし冬の終わる前に、私に対して他の決定がなされますならば、私は忍耐致します。私は主イエス・キリストの恩恵の栄光のために、神の御旨のなるのを待ちます。主の聖霊貴下の心をつねに導き給わんことを祈ります。 アーメン。
                    W.チンデル


 我らはこの手紙を読んで、かつてパウロがテモテに書き送った「汝きたる時わがトロアスにてカルポの許に遺し置きたる外衣を携えきたれ、また書物、殊に羊皮紙のもの携えきたれ」(テモテ後4:13)の言を思い出すのである。「我はいま供え物として血を注がんとす、我が去るべき時は近づけり」と言ったパウロがすぐその後でかく書物を要求しているのである。死を覚悟しながら、獄中の不如意な生活の中に、一語でも多く旧約聖書を研究したいと願ったチンデルの真情と自ずから相通ずるものがある。チンデルはこの獄中においてなおも旧約聖書の英訳をつづけて、歴代志略の終りまで訳了したと言われている。そしてその訳はアントワープにいるジョン・ロジャーズの許に送られて、彼によってさきの五書や新約聖書とともに発行された。『マシューズ・バイブル』として知られているのはそれであると言われている。

(『藤本正高著作集第三巻』P.566~567。いよいよ藤本氏のチンデル伝もあと残すところ一回になった。日本人の手になるこのチンデル伝が1936年に出版されていることは意義深い。この二月には2.26事件が起きている。藤本氏はチンデル没後400年を意識してチンデル伝を物したが、それだけではないだろう。一方、その後1994年には生誕500年を記念してロンドン大学の教授としてシェークスピア研究に携ったDavid Daniell氏が『ウイリアム・ティンダル ある聖書翻訳者の生涯』を著した。チンデル研究は進んでおり、この大部の著書から教えられること大であるが、小とは言え、私は藤本氏の著書の方を愛する。参考までに、獄中の手紙の田川氏による邦訳を以下に載せる。

閣下は私に関して決定されたかもしれないことについてはご存じないことはないと思います。そこで閣下(your lordship)に、主イエス(the Lord Jesus)にかけて、お願いしますが、もしも私がここで冬を過ごすことになるのだとすれば、私の財産を担当官が持っておりますので、担当官にそこから暖かい帽子を一つ送ってくれるよう頼んでいただけないでしょうか。頭が非常に寒いので困っております。また常に風邪に悩まされていて、この独房にいると風邪がどんどんひどくなります。ですからまた暖かい外套を一つ送らせて下さい。私は非常に薄い外套しか持っておりません。それからまた私のズボン下につぎをあてるために布を少し。私の外套はすり切れています。シャツもまたすり切れています。彼は毛のシャツを持っていますから、送る気になれば送れるのです。彼のところに私のもっと部厚い布のズボン下もあります。またもっと暖かいナイトキャップもあります。

また、夜にランプを使う許可を出して下さるようお願いします。実際、暗闇の中で一人で座っているのは、いやなことです。しかし何よりもまず、閣下の善意にお願い申し上げます が、 急いで担当官に、私にヘブライ語の聖書とヘブライ語の文法とヘブライ語の辞書を許可してくれるようおっしゃって下さいますように。そうすれば私は勉学することで時を過ごせますから。そのお礼に、あなたの望まれるものは何でもおわたしします。それはあなたの霊魂の救いのためになりますでしょう。しかし私に関して何かほかの決定がこの冬以前に実行されるように決められたのでありましたならば、神の御意志を待ちつつ、我慢いたしましょう。我が主イエス・キリストの御恵みに栄光あれ。キリストの霊があなたの心を導いて下さるよう(祈ります)。

2012年5月12日土曜日

チンデルの捕縛と殉教(4)


 チンデルは様々な友人たちの釈放の願いにもかかわらず、どれ一つとして実現せず、英国ならず大陸の法廷で異端者として審問されるのである。以下、藤本氏の『チンデル伝』の記述を続ける。

 かくチンデルにとっては凡てが不利であったが、彼はそんなことは心にも留めず、牢獄にあってもなお福音のための戦いを続けていた。それは彼を裁判する委員の一人で、ルーバン大学第一の学者であるジャーク・ラトムスとの論争である。もちろんチンデルは獄中にあったので、自分の意見を自由に発表することは出来なかったのであるが、裁判の関係で度々ルーバン大学教授たち、特にラトムスと論鋒を交える機会があった。そしてそのチンデルの言った意見を、そのラトムスが発行した書物によって知ることが出来るのである。その論点はやはり信仰によって義とされることの問題であって、今まで度々チンデルのこの意見を紹介したのであるが、彼が獄中にありながらも、如何に強くこの信仰を高唱したかを知るために、今その二、三を引用する。

 聖書の救拯の知識の鍵は、これである。すなわち我らの何らの行為なくとも、基督を通して、神はすべてのものを我らにあたえるのである。換言すれば、イエス・キリストを通してあたえられる神の恩恵に基づく信仰が、キリストの功と行為によって、我らの勲功や善は問題とされず、ただそのために我らを神の前に義とするのである。

 木に生(な)った実は、その木を善くすることも悪くすることも出来ず、ただその木が善いか悪いかを知らせるのみである。同様に行為はその人を善くも悪くもせず、唯それによって他の人に、その行為をなした人が善人か悪人かを知らせるのみである。神の前に人が内面的に義とされることは、ただ信仰のみによる。行為は彼の義を人の前に知らせ得るのみである。

 何事をなすのも神の恩恵である。彼なしには我らは如何なることもなし得ない。それは神の働きである。我らはただ道具にすぎない。我らは神から報酬を受ける資格がない。それを得るために勲功を主張することは出来ないのである。

 行為は律法が我らに要求する最後のものである。そしてその行為は神の律法を満たすことが出来ない。我らの行為において我らは常に罪を犯しつつあり、我らの思想は不純である。律法を満たすところの愛は、我らの中にあっては氷よりも冷やかである。それゆえ我らが肉において生活する間、律法を満たすものはただ信仰のみである。信仰によって我らは世に勝つ。何故なら、悪魔のあらゆる誘惑に打ち勝ったキリストの愛が、我らのものとされるところの、イエス・キリストを通しての神にある信仰が、世に勝つ勝利であるからである。それゆえに凡ての信ずる者を確実にするのは信仰である。それは律法の行為によっては、如何なる人も神の前に義とされることが出来ないからである。

 パウロは、ローマの獄中からピリピの信者たちにむかって、「兄弟よ、我はわが身にありしことの反(かえ)って福音の進歩の助となりしを汝らが知らんことを欲するなり。即ち我がなわめのキリストの為なることは近衛の全営にも、他の凡ての人に顕われ、かつ兄弟のうちの多くの者は、わがなわめによりて主を信ずる心を厚くし、おそるることなく、ますます勇みて神の言を語るに至れり」(ピリピ1:12〜14)と言っている。

 チンデルにとっても約一年五ヶ月の獄中生活は、福音の進歩の助けとなったのである。学者たちは彼の真理の言葉に耳を傾けなかったけれども、貧しい看守人たちが信仰に動かされたのである。フォックスは、彼の看守をしていた獄卒とその一家が真の信仰を得たことを記し、また他の彼の獄中生活に交渉のあった人は誰でも、「この人が真のクリスチャンでないなら、誰も真実の人ということは出来ない」と言ったということを書いている。それのみでなく、彼を審くべき立場にあった「血に飢えたる野獣」と綽名された検事総長さえ「彼は最も学識のある、善良な、また敬虔な人である」と言ったそうである。かつて主イエスを審いたピラトは「われこの人に咎あるを見ず」と言った。しかるに主は十字架につけられ給うたのである。今またチンデルも万人の尊敬の的となっていながら、死刑に処せられることとなった。しかし彼の血潮もこの世界に光をもたらすために必要であったのである。

(『藤本正高著作集第三巻P.563~565より引用。この法廷でのチンダルが用いた方法についてディヴィエド・ダニエルは彼が公証人と弁護士を一人提供されたが、それを断ったとして、次のように書いている。「自分の返答は自分でなすことを選んだのである。・・・すでに12年も危険な亡命生活の貧困の中で、彼は聖書の真理によって生きてきた。聖書の真理が彼の翻訳と著作の仕事を絶対的な献身と全き誠実さをもってなすようにしむけて来たのである。その聖書の真理は低地地方〈netherland〉の一地方の不規則な法廷で法律の抜け穴を探して言い訳するようなことではない。それは聖書そのものであり、神ご自身の言葉である」〈『ウイリアム・ティンダル』ダニエル著田川訳P.636〉まさしく上述の弁明こそチンダルの聖書に基づいた生きた言葉Sola fides justificat apud Deum〈神のもとでは信仰のみが義とする〉であった。)

看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。(新約聖書 使徒16:29〜31)

2012年5月11日金曜日

チンデルの捕縛と殉教(3)


 英国におけるかかる情勢の変化を、チンデルはどんなに喜んだかわからない。彼の多年の祈りであった、聖書が母国民に公然と読まれる日の遠からず来ることを思って、彼の心は躍るのであった。

 しかしかかる新時代の黎明にも、暗黒の子は最後の奸策をめぐらしていた。古いパン種の監督たちにとっては、チンデルを生かしておくことは最大の危険であった。彼らの存在を根本から否認するチンデルを如何にもして葬り去ろうと、彼らは最も悪辣な陰謀をめぐらしていたのであった。真理に立つものは、如何に周囲の状態が彼に対して不利であっても、必ずや最後の勝利が彼にあることを信じている。故に彼はどんなことがあっても奸策・陰謀をもって敵を倒そうとはしない。これに反して非真理に立つものは、自己の立場が不利になればなるほど、益々悪辣な手段をとる。彼らは手段を選ばない。そこに真理に立つものと否との分かれ目がある。どんなに愛国を高唱しても、正義人道を叫んでも、暴虐なる手段をとるものは偽物である。

 チンデルはアントワープの商人ポインツの家で、毎日執筆と伝道の忙しい日を送っていた。彼はそこにいる多くの英国商人より非常に尊敬されていて、時には彼らと食事をともにしながら胸襟を開いて語り合うことも度々あった。一日その仲間にヘンリー・フィリップスという人が現われた。彼はまもなくチンデルの知遇を得て、彼の家にも度々遊びにくるようになった。チンデルはこの男が自分を捕えるために、監督たちから遣られたスパイであるとは夢にも思わなかった。それで彼は色々と自分の書物を見せたり、また普通の者には厳秘にしているようなことまでも語った。(中略)

ある時、このフィリップスはポインツが遠くに出張中を見計らって、あらかじめブリュッセルから役人を連れてきて路地の両側に隠れさせ、自らはチンデルを誘い出そうとする。その魂胆はポインツの家の入り口からは小さな路地を通らないと大通りに出られない地勢を利用することにあった。そのことを藤本氏は次のように書く。

 そして間もなく昼の時間になったので二人は出かけることになった。その家の出口は狭くて二人並んでは出られなかった。それでチンデルはフィリップスに先に出ることを求めたが、フィリップスはどうしても応ぜず無理にチンデルを先に出した。チンデルは何も知らずに歩き出した。丈の高いフィリップスはチンデルの後ろに従って、いよいよ役人が隠れているところに来ると、チンデルの頭上を指さして捕縛の合図をした。そして彼は空しく彼らの手に捕えられた。役人たちさえチンデルの少しの疑念もない態度に、暫したじろいだということである。時は1535年の5月23日か24日のことであった。

 かくてチンデルは検事総長の許に連れて来られた。検事総長は部下とともにチンデルのいた室の家宅捜索を行ない、チンデルの書物や原稿などを押収した。そしてチンデルはアントワープから18マイルほど離れているフィルフォルデ城の獄に投ぜられることとなった。

(『藤本正高著作集第三巻』P.555~559より抜粋引用。チンデルの平静沈着な姿、また人を疑わぬ純真さがうかがえる場面である。しかし、チンダルと主イエス・キリストの捕縛の違いに改めて気づかされる。なぜならチンデルはフィリップスがそのような自分を捕えようとしていた人とは知らなかった。しかし主はユダが裏切ることを知っておられた。それでもその下手人を愛して捕らえられるままであったのだ。一方逮捕側では何らの家宅捜索は必要なかったのである。ある意味では徒手空拳の主の姿であった、いや全地を我が家とする創造主である主を家宅捜索することはそもそも不可能なのだ。それに対して捕え得たと思うのが暗黒の子の姿である。「真理はあなたがたを自由にする」と主は言われた。)

イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。(新約聖書 マタイ26:47〜50)

2012年5月10日木曜日

時がある

 戦争も末期の数年間、中国共産党は延安の洞窟内の参謀本部から占領軍に徹底抗戦をするようにキャンペーンを指示していた。彼らが1935年の長征から受け継いだものの第一は、機動性があり、固定した基地を持たないゲリラ戦術の発展であった。このことは彼らが日本軍を都市に封じ込め、自らは戦線の背後にある通常の中国の村落と緊密なつながりを確保する有効な手立てになった。彼らは黄河一帯のかなりの範囲で土地改革の均分政策を実施したが、この大部分がそのまま連合軍の勝利ののちに有効なものとなった。

 長征の第二の成果は毛沢東が疑いなき指導者、イデオロギストとして登場したことである。彼の「思想」は今や共産党が将来の野心的な政策を打ち出す時に謬りのないガイドラインだとして地歩を得た。そして第三の遺産は感動的な自己訓練にあった。それは中国共産党の異なった諸要素を一つの統一権力に、すなわち、蒋介石の国民党の指導者たちの贅沢さとは対照的な生活方式における質素倹約をはかり、その目標は妥当であるということが絶対的に確認されたことである。

 結果的に敵対関係の中で多数の中国の実業家や知識人は重慶や南西部に移動する道を選んだのに対して、国内の無秩序や腐敗を一掃しようとする熱心なもっと多くの理想主義者たちは延安に活路を求めて出かけて行った。かくして上海では将来に対して先見の明のある素晴らしい団体は北西部にあることが知られていた。

 戦争が終結し、蒋介石が南京に戻ってから、国民政府と共産党との間の不信感は敵意に発展していった。その敵意はマーシャル将軍の巧みで誠実な外交手腕でさえ和らげるのは不可能だった。蒋介石は共産党に対する極度の憎悪を持っていたので、もう一度土地改革が根付いた地域の行き過ぎを根絶する大がかりなキャンペーンを始めた。そして1947年の3月までに蒋介石は延安を占拠さえした。ほんの一瞬、国民党は勝利したように見えた。しかしその勝利はむなしいものであった。共産軍ゲリラの道徳観がそのような成功を大幅に無意味なものにしたからである。毛沢東の軍隊は一時的に(国民党に)譲ったに過ぎず、実際は春に備えていたのだ。

 アッセンブリー・ホール教会で責任を負っている人々の心には、ウオッチマン・ニーが長期にわたって宣教から離れていることによる不安は大変大きかった。すでに1946年にウイットネス・リーは上海の長老たちを問いつめていた。「皆さんがウオッチマン・ニーを拒絶する決定をしたのは御霊にあってしたことですか。そしてその結果はどうでしたか。皆さんはその決定がいのちをもたらしたと言えますか」長老たちはどの質問にも悲しそうに 「いいえ」と答えたのだった。自責の念が同労者の間に現われ、1947年の4月には、彼らのうちの一人によって(ニーを)もとに戻そうとする願いが真剣に表明される。

「ニー兄弟のケースは私たちにとって許され得ない心の傷であります。どれだけ、その結果が事実とちがうものであったかはちょっとやそっとで言い表せません。(words cannot tell how far the consequences go.)彼が敵と協力したという非難は全く根も葉もないことだし、言われているそのほかの大部分も純然たる事実に基づいていません。これは悪魔のしわざであって、当時の私たちの霊的至らなさを示しております。けれども私たちは今、このことを通して試練を学んだのかもしれないと希望を持っています。彼が私たちの中に戻ってくることに対する反対は次第になくなりつつあります。彼には備えがあり、彼に戻ってきて欲しいという願いが大きくなっています。上海の兄弟たちは繰り返し、彼の家を訪れ、そのような交わりを通して互いの心はしっかり結びつけられ、わだかまりはなくなっています。だから私たちはふさわしい時を待っているのです。」

 ウオッチマンも待つことに満足していた。「時は」と彼は一人の友に語った「神様の召し使いです。」彼の要望で、二人のキリスト者の実業家が製薬会社の残っている彼の責任を減らすために見つけられた。4月には自由になって再び福州へ向かった。出発する前にいつでも上海の教会に戻ってくる用意があることを表明した。福建では他のところと同じように宣教師たちが持ち場にたくさん戻り、たくさんの信徒を集めていた。しかし外国人宣教師の数は以前よりずっと少なくなった。そのため宣教団は市の東のKuliang(鼓嶺山?)の避暑地に過剰な遊休施設を抱えていた。これらのうち二つが売りに出されていた。外洋に面し、台風から守るために外壁を持つ平屋の石造りの小別荘であった。これらをウオッチマンは男女の働き人を長期にわたって訓練するセンターとして使うために購入した。


(『Against the tide』by Angus Kinnear 15 Return P.181~183)

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(旧約聖書 伝道3:1)

チンデルの捕縛と殉教(2)

かくチンデルは、アントワープにおいて少数の人々を集めて聖書の福音を伝えたことは、彼にとっても非常な悦びであったに違いない。地上のあらゆる幸福に背いて立った彼には、この世のものならぬ大なる祝福があったのである。そしてこのフォックスの記録にもあるように、彼はなお執筆の労働を続けたのである。

 彼がこの時代になした主なることは、今まで発行した聖書の英訳の改訳であった。彼は先ず『五書』を改訳して1534年に発行した。この改訳は創世記と序文に訂正を加え、また註解の追加を行なっている。なおチンデルは同じ1534年には新約聖書の改訳も発行した。彼が1526年ウォルムスで発行して以来、他の人々の手で彼の訳した聖書が増刷されたのであるが、彼が初版の序文に言っているような、よりよい改訳を行なうものは誰もなく、かえって英語の分からぬ印刷人によって印刷されるため、誤植なども多く、どうしてもチンデル自身によって訂正して発行される必要があったのである。

 それでチンデルは第一回の発行以後、絶えずより適切な語をもって改訳すべく努力していたのであるが、今その努力の結晶としてこの改版を出すこととなったのである。彼がこのために如何に努力したかは、第一回の訳とこの訳を比較してみるとよく分かるのであって、例えばマタイ伝の山上の垂訓のところなど、その一章だけに50ヵ所以上の改訳を行なっているが、いずれもより的確に原文の意味を現わすものである。(中略)

 チンデルはかく第二回目の改訳を発行したのであるが、それに満足せず翌年の1535年にはさらに第三回目の改訳をなした。この改訳についてチンデルは、

 私は聖書を、説明や略註や註釈なしでも、それ自身単純に明白に訳して、読者がそのまま直ちに了解できるようにしたい。

 と言っているが、この目的をもってさらに大衆に聖書を読ませるために解りよく訳したのであって、その中には俗語も多く用い、その言葉自身でよく意味を示して、略註を全部除いている。実にこれは最も理想的な翻訳である。キリストはその言葉を、何らの註解なしでもわかるように弟子たちに語られたのである。また弟子たちが福音書を書いたり書翰を書いたりしたのも、それを読むものにすぐそのままわかるように書いたのである。

 もちろん今日、時代の相違、社会の相違などはあるが、それらを克服して、何らの註解なくても、そのまま読者にわかるように、もっと努力すべきである。それらをやたらに難解な語に訳して権威づけ、註解に註解を加えるごときは、如何に名文であっても、最も拙い訳であるといわねばならない。そして今日聖書の文字の註解・研究のみに没頭して、直裁単純にその言葉を受け容れないのは大なる誤りである。かくてかえって生ける真実の意味を理解し得ず、多くの人間的曲解を敢えてしているのである。我らはチンデルのこの精神に大いに教えられねばならない。彼が聖書翻訳を決心した時に言った「数年ならずして田圃に働く少年にも聖書を知らしめる」との念願が、この尊い苦心努力に現われている。

 彼がかく聖書の改訳に全力をつくしている間に、英国の状態は日に日に改善されつつあった。暗雲を破って現われた光は次第にその度を強くし、またたく間に暗雲を一掃してしまうのではないかと思われた。1535年には国会の決議を経て、英国国王が英国教会の首長であることを明言する法律を造り、法王に税を納めることなどの一切を禁じた。また牧師階級の専横を取り締まり、弊害多い修道院を解散するなど、宰相クロムウェル、大監督クランマーなどの政策はどしどし実行された。

 そして国王ヘンリー自身英訳聖書の必要を感じ、1534年末の宗教会議において、誰か学識ある人を物色してそれにあたらしめることとし、チンデルの旧友マイルズ・カバデールは、クロムウェルの指示に従ってその準備をしたほどであった。そしてかかる時代の転換とともに、法王のために活躍したモーア、フィッシャーなどは今やロンドン塔に幽閉される身となった。実に移れば変わる世の習いである。

(『藤本正高著作集第三巻』P.552~555より引用。)

私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。(新約聖書 2ペテロ3:15〜16)

2012年5月9日水曜日

チンデルの捕縛と殉教(1)


 英国政府が派遣したスパイに追われて、しばらくドイツの各地を流転していたチンデルは、再びアントワープに帰ってきた。何時帰ったのか、その確実なときはわからないが、前章のフリスへの手紙をアントワープで書いているので、1533年の初葉に帰ったのではないかと思われる。

 その一つの理由は、英国政府においてモーアが失脚して、クランマーが大監督になったりしたので、チンデルを捕えるためのスパイを召還したためでである。またもう一つの理由は、書物を英国に送り込むためには、英国に一番近いアントワープに居を定めていることが最も便利であったのである。

 そして第三の理由は、ドイツ皇帝チャールズ五世が宗教改革を好まず、ドイツの大半の地が宗教改革者の勢力に風靡されているので、なお反動的に弾圧を厳しくし、チンデルが各地を転々することは非常に危険であったためである。それにアントワープは、英国の商人で移住するもの多く、彼らのためには宿舎が設けられていて、その宿舎は治外法権的な保証が与えられていたのであった。ゆえにチンデルが身を潜めているには最好の場所であったのである。

 そのためチンデルは最後の二年間を、このアントワープで過ごしたのであるが、その終り頃はおもにトマス・ポインツという英国商人の家にいた。この彼がいた家は今日なお遺っていて、アントワープに来た旅人は必ずその家を訪ねるということである。

 このアントワープにおける二年間は、チンデルにとって、非常に意義深い二年間であった。前にも引用したごとく、月曜と土曜には市の内外の貧しき人、病める人、弱き人などを訪ねて福音をもって慰め励まし、また彼の貧しい財布を叩いて物質的な援助もできるだけ与えたのである。「与うるは受くるよりも幸いなり」とのことばのごとく、彼は如何に幸いであったかを思わせられる。また日曜には午前と午後と二回、ある商人の家で聖書講義をした。家庭の小さな集会ではあったが、商人たちは熱心にそれに出席しチンデルの心の底から溢れる力ある聖書の研究に、大いなる悦びと慰めを受けたのである。彼の語る言葉は、つねに基督の十字架の贖いを中心とした単純な福音であったが、商人たちはそれに非常に打たれたのであった。フォックスは前述したごとく、一週のうち月曜と土曜を、チンデルが貧民訪問に用いたことを記したのち、以下のごとく言っている。

一週の残りの日は全部、彼の書物のために費やした。その書物に彼は非常な労苦をしたのであった。日曜が来ると彼はある商人の家にあった。そこには多くの他の商人も集まっていた。チンデルは彼らに聖書のある個所を読んで聴かせた。その言葉は彼から力づよく、美しく、また優しく流れ出て、福音書記者ヨハネの言葉のようであった。そしてその彼が読む聖書の言を聴く者に、天来の慰めと悦びを与えた。昼食が終わってからも一時間、彼は同様にして過ごした。彼は少しの汚点も怨恨や悪意の瑕疵(きず)もなく、愛情と憐れみに満ちていて、如何なる人も罪や咎のために彼を非難することはできなかった。けれども彼は神の前に義とされ、聖とされるために、そんな自己に頼らず、全くキリストの血潮にのみ頼った。そして彼の信仰はその上に基礎づけられていた。

(『藤本正高著作集』P.550~552より引用。 昨日の火曜の学びの題名は「家庭集会の大切さ」であった。使徒2:46、5:42、12:12、20:8、28:30が引用聖句であった。古のアントワープ〈現ベルギー領〉で聖書を英訳するために国外に亡命せざるを得なかったチンデルが「家」で集まりを持っていたことは特筆すべきことである。文中「研究」と書いてある言葉がややひっかかるが、と言うのはベックさんも強調していたが、「研究」でなく、みことばによる生きた証の分かち合いが大切だと思うからである。けれどもそれは私が字句にこだわるからであって、チンデルの集会がまさしく初代教会の集会であったことを思う。そして藤本氏はこの記述を戦前の昭和11年に記していることに改めて刮目させられる。)

こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。(新約聖書 使徒28:30〜31)

2012年5月8日火曜日

ジョン・フリスの殉教(下)

チンデルはこのフリスに手紙を出したが、それは果たしてフリスが生前に読むことができたかは問題とされている。アントワープから送った手紙を果たしてフリスがロンドン塔で読むことができたのか、それとも殉教直後に読んだのか確かめられないということだ。しかし藤本氏は以下の手紙こそフリスの殉教の精神だと言う。

 父なる神と我らの主なるイエス・キリストの恵みと平安、君にあらんことを、アーメン。愛する兄弟ジョンよ。私は偽善者たちが、彼らを妨げていた大仕事を成就し(離婚事件※を意味す)、今や平静をとり戻して、彼らの古い性質に再び帰ったことを聞いた。神の意志は満たされた。神が世の造られる前より定めておられたことは成った。かくて、神の栄光は全地を支配する。

 最愛の友よ、如何なることが起こっても、君のすべてを、ただ君の最も愛する父、最も深切なる主に委ねよ。そして威嚇するものを恐れず、甘言を弄するものを信ずるな。ただ真実な約束をし、その約束を実行し得る主を信ぜよ。君の動機はキリストの福音にある。光は信仰の血潮をもって養われねばならない。ランプは火を消さないために、毎日整え、芯を切り、朝に夕に油を注がねばならない。我らは罪人であるが、動機は正しい。

 我らもし善き行為のために殴打されるならば、忍耐をもってそれを受けよう。それは神に感謝すべきことであり、我らはそのために召されたのである。キリストも我らのために苦しみを受けて、罪なき彼の足跡に従うものに模範を残し給うた。これによって主が我らのために生命を棄て給うた愛を知る。それゆえに我らもまた、同胞のために生命を棄てねばならない。喜び悦べ、天にて君の酬いは大である。彼とともに苦しむ我らは、彼とともに栄光を受けるであろう。我らの卑しき姿は、彼の栄光の姿に肖せて変化される。万物を自己に従わせ得る彼はそのために働きつつある。

 愛する友よ、勇気を持て、君の霊をこの高き酬いの希望をもって慰めよ。そしてキリストの像(かたち)を君の死すべき体の中に持て、主の再臨においてそれは主のごとく不滅のものとされる。故によりよき復活の希望をもって苦難を選んだ、君の愛する信仰の友の模範に倣え・・・。

 もしも君が君自身を与え、棄て、わたすならば、君自身を全部、ただ君の愛する父に委ねよ。そうすれば彼の力は君の中にあって君を強くし、君が苦痛を感ぜず、死をも恐れないほど強める。そして彼の霊は彼の約束に従って、君の中にあって語り、また如何に答うべきかを教える 。彼はその真理を君によって、恐るべき程度に表示し、君の想像し得る以上に君のために働く。しかり、凡ての偽善者があらゆる力を尽して君の死を誓っても、君はまだ死なない。人間の助けを求めない者は偽善者の目には容易に打ち勝ち得るように見えるけれども、かかる者には神の助けが来る。しかり、神は凡てが彼の真理の敵であっても、万難を排してその真理のために君を運びゆく。彼の時が来なければ、一本の髪の毛も落ちない。彼の時がくれば、必然は我らが欲せずとも、我らをここより運びゆく。しかしもし我らがそれを欲すれば酬いを受けて感謝する。

 それ故に威嚇に恐れず、甘言に乗ぜられるな。偽善者がこの二つをもって君を攻めるであろう。現世的知識の信条をもって、君の心を治めしめるな。たといその教訓を君の友が与えたのであっても、それに惑わされるな。・・・

 終りまで忍ぶものは救われる。もしも苦痛が君の力を越える時は、「何にても我が名によりて求むる者には我それを与えん」の言葉を思い出せ。そしてその御名において君の父に祈れ。彼は君の苦痛を止め、あるいは短くするであろう。平和と希望と信仰の主、君とともにあらんことを、アーメン。
                   ウイリヤム・チンデル 

 かくて一たび筆を擱いたチンデルは、再びとって「福音のためにアントワープで二人、リールで四人、リェージュにおいて少なくとも一人、最近殉教した。またフランスにおいても迫害があって、パリでは五人の博士が福音のために死んだ。君は一人ではない。心いさめ。頑固な英国になお幾ばくかの救われる霊がある。もし必要ならば彼らのために受難の備えをせよ。もし少しでも手紙を書くことが出来るなら、どんなに短くてもよいから手紙を書くことを忘れるな。我らの心を安んずるために如何なる状態にあるかを知らせよ」などと、こみあげてくる愛情を押さえきれずして筆を運び、そしていよいよ最後に、

 この手紙を書いたのは五月九日である。
 君よ、君の細君は神の御心によって平安である。彼女のために神の栄光を妨げぬように。
                    ウイリヤム・チンデル

と言って棄て難い筆を棄てている。 ああこの切実なる言葉に、誰か心打たれない者があろうか。フリスはチンデルのこの信仰と愛に、常々導かれていたからこそ、かかる美しき死を遂げることができたのである。そして間もなくチンデル自身も、この手紙の精神をもって実践することとなった。

( 引用は藤本正高著作集P.547~550『チンデル伝』より。※言うまでもなく英国国教会誕生のきっかけの一つになったヘンリー8世の王妃カザリン離婚問題を指す。王妃の離婚を断固として認めないカトリック教会から離脱するために王は国教会の首長となった。多くの宗教改革者はこの王の離婚問題には眉をひそめながらも、カトリック教会を脱することに賛意を表して王を支持した。その中でチンデルはたといそれが自分たちに有利に転回する動機となるとしても、あくまで厳正にこの離婚問題を批判し王を攻めたところに他の改革者と一線を画した彼の特徴があった。)

最後まで耐え忍ぶ者は救われます。(新約聖書 マタイ10:22、24:13) 

2012年5月7日月曜日

ジョン・フリスの殉教(上)

フリスは、一生涯孤独の戦いを続けたチンデルが持ち得た唯一と言ってもいい同志であり、弟子であった。彼はチンデルに先立って殉教した。その前後の事情を藤本氏の『チンデル伝』で見てみたい。16世紀の英国史は目まぐるしい。国の土台を揺るがす大きな出来事が次々起こる。そのような時代に真理に立つ人々は「キリスト教」の犠牲になって行った。それはいずれも火刑であった。以下に記す出来事(同書P.544~546より引用) はカンタベリーの大監督(大司教)トマス・クランマーの意(学識あるフリスを何とか助けようとする)を受けて行動した一人の紳士と下僕とフリスとの間にあった話である。

 フリスはその深切には感じつつも信仰を誤摩化すことは出来なかった。彼に「たとい如何なる死を受けるとしても、聖書の真の教えと信ずる信仰を枉(ま)げることは出来ない 」と決然として答えた。そこでその紳士はこれ以上言う言葉もなく、ただフリスの人格に打たれるのみであった。彼らはランベスに着いて食事を共にし、それから陸路クロイドンに向かうこととなった。フリスの平然たるに比してこの紳士は気が気ではなかった。クロイドンに着けば、もうこの青年の生命は助けることが出来ない。どうにかしてそれまでに救いたいと彼は考えたのである。彼らが歩いて行く道は両方とも昼なお暗い密林につつまれていた。そこでその紳士はフリスに懇願した。

 貴殿はどうか道の左の森林の中へ逃げて下さい。ここからしばらく行くと貴殿の故郷に着きますから、そこに当分隠れていて、機会を見て英国から去って下さい。私どもは貴殿が充分逃げられた頃を見計らって、貴殿が道の右の方に逃げたことを人に告げて、右の森を捜索致します。

と頼むように言った。ああ実にかかる実例が他のどこにあるであろうか。監守人の方から罪人として捕えられている人に逃げてくれと頼むのである。しかしフリスはそれにも応じなかった。彼は言った。

 以前ならば、もちろん私は逃げることを求めました。私が捕えられずに、自由の身の上でしたら、私はパウロの教訓にしたがって、充分自由を持ちたいと思います。私は海を越えた彼方で勉強をつづけたいと思います。その地で私はギリシャ語を学んでいました。しかし今は権力者の手で捕えられて居ります。それはただ信仰と教えのためにのみ、全能の神の許しと摂理によって監督たちの手に引き渡されたのです。その教えは良心に従って、処刑の苦痛のもとにも支持し、また守らねばなりません。もしそうしないで私が逃げるならば、私は神と神の言葉の証明から逃げることであって、それは地獄のどん底に落ちるに価することです。故に私は貴殿方ご両人の御厚意は充分に感謝しますが、何卒私を指定した場所につれて往って下さい。もしそうでないと私一人ででもその地に参ります。

 何という気高い言葉であろうか。脱獄をすすめられてそれを拒絶し、悠然として毒杯を仰いだソクラテスも、なおこのフリスの態度には遥かに及ばない。フリスに大悟徹底、死をも恐れぬ信念があるのではない。悲愴な殉教の最期に宗教的名誉心をもっているのでもない。彼にあるのはただ神の摂理とその福音に対する信従である。彼はただ黙々として、自分の態度が立派なものとも、信仰の深さを示すものとも考えずに、ただ押される力に押されるままに従っているのである。

 かくて彼はいよいよ審問されることとなった。クランマーは非常な好意を示して、表面だけでも一時説を枉げることを再三すすめた。彼はどうにかしてフリスを許したいと思ったのであるが、そうしないことには名目が立たないからである。しかしフリスは最期まで説を固守して一歩も退かなかった。そのため彼は火刑に処せられることとなった。

 1533年7月4日、いよいよ彼の最期の日が来た。真夏の太陽は今日も変わらない光を 投げている。しかし地上には、宇宙の大真理を守ったこの青年が火刑に処せられるという大背理が行なわれるのである。実にこれ、星々が運行を誤り、太陽が軌道を外した以上の、宇宙の秩序に対する大破壊である。この日彼とともにもう一人の青年が火刑に処せられた。此の青年も宗教改革の同志であって、やはり彼を売った裏切り者の手によって、監督たちにわたされたのである。この火刑の模様についてフォックスは次のごとく記している。

 フリスは火刑柱にくくりつけられた時、死に対する充分の勇気と平安をもっていた。薪は彼の下におかれた。やがて火は燃え上がって彼を包んだ。彼はキリストと真の福音のために、死の苦しみを受けることをとり乱さぬ態度で声明し、彼の血をもって完全に、確実に、証を立てた。風は火焔をあおって、彼の後ろにいた同志の方に向かった。それで彼の死は非常に長びいて、その苦痛を長く忍ばねばならなかった。しかし彼は少しも苦痛を表わさず彼自身のことよりも、同志のことを思ってそれを悦んだように見受けられた。

 かくしてこのフリスの生命は永遠に地上を去ったのである。彼の死を聴いてチンデルは如何に悲しんだことであろうか。     (明日に続く)

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。(新約聖書 ローマ13:1〜3)

2012年5月5日土曜日

恐れつつ主の御前に出つづけよう

 長野県御代田(2012年5月5日)

 癩病の初めの兆しは肉の皮が落ちるということです。(レビ13:2)イザヤ3:9をご覧なさい。癩病がありますならば必ず皮に現われて参りますのと同じように、人に罪があれば、必ず顔色にそれが現われるものです。それですから、その人がその状態から解放されるためにはまことの祭司であるイエス様のもとに行かねばなりません。けれども当人がそのことを望まないのです。主の前に出ることを望まないのです。けれども主のところにいくことは恵みを受け、自分には不可能なことから解放される奇蹟を経験できるのですから、そういう人は断固として神に探っていただく道を取られたほうが良いのです。

 詩篇19:12、ヨハネ2:25が明らかにしていますように、私たちの祭司である主は私たちの心を知っておられます。生まれながらの性質をご存知です。だから主に心を探っていただくことです。自分で自分の心は探ることは出来ません。他の兄弟も私たちの心を探ることは出来ません。祭司の長である主イエス様がそれを探って私たちにその罪を悟らせて下さるのです。ヘブル4:13、黙示録1:14をご覧なさい。

 私たちは絶えずこの主のところに行って自らの心を探っていただくのです。罪を犯しましたら、心が汚れていましたら、主イエス様の光の中に出て主の導きを受けることです。主はそれをしてくださるまことの祭司です。主イエス様が祭司であるとは、まず私たちと聖い神様との間を取り持って下さる方だということです。それから祈って下さるお方です。しかしそれだけではないのです。その務めに罪人の心を探ってくださる大切なお働きがあります。主イエス様だけが私たちの心を探り、私たちの本当の姿を悟らせて下さるのです。だから主の足元に行ってこのお方に心を開いて探っていただきましょう。

 愛する兄弟姉妹よ、あなたは自分の考えで自分を裁かないようにしなさい。どうか主の足下に近づいて聖書の光の中で主の診断を受けなさい。祭司である主イエス様はあなたを聖いとおっしゃいますか、それとも汚れた者だとおっしゃいますか。これは実に厳粛なおことばです。私たちは一人一人この祭司の前に自らを探られるのです。祭司は今日あなたを聖いとおっしゃいますか。それとも汚れた者とおっしゃいますか。

 私どもは今聖書の明らかな光の中で判断されました。愛する兄弟姉妹よ、主があなたに向って聖い者ともしおっしゃいますならば感謝して信仰に堅くお立ちなさい。けれども主があなたに向って汚れた者だとおっしゃるのなら、恐れをもって主の聖さといやしをお求めなさい。そうしていただく機会を持たれないならば、その病気はますます悪くなって滅びに至ってしまいます。速やかに主のみわざを求め、主の証を聞いて神様の前に聖い者として立たせていただきなさい。

(『レビ記講義』ビ・エフ・バックストン講述P.134~135より編集。 同書は明治37年初版なので、引用者が今風に表現を変えた。)

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。 私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。(旧約聖書 詩篇19:12〜14)

2012年5月3日木曜日

「主の食卓」は御霊の自由のあるところ

 金曜日の夕方には、新しく信じた人たちに特別向けられた御言葉の話があった。1948年に、ウオッチマンはキリスト者の基礎、すなわち信仰による義認から教会生活の実践的な 原則にいたるまでの組織立った52の学びを教えるように要請された。これらの学びは上海でそれぞれのグループ・リーダーによって続けられ、ほとんどの教会で広範囲に用いられるようになった。その年のコースは神様の働きを目的とする人々にとっては事実上強制であり、欠席者は家で個人的にその学びを追って身につけねばならなかった。もしあなたが救いのために主のところに来た人だったら、すぐに、あなたはそれがすべてであると知っただろう。

  しかし、そんなに大事な組織化の結果は、御霊にある以前の自由の何ものかが失われ始めたことを意味した。一つの監視態勢がすぐに集会で導入されることになった。つまり信者の住所、仕事、家庭などの完全な記録がある集会は、もし人が出席しないようだったただちにそのフォローがなされることを意味していた。主の食卓に「囲い」がかけられたのだ。あなたは正式に仲間に入れられ、名前とともに印をつけられた。もはやあなたは新生し、主を愛しているという自らの証だけで受け入れられることはないだろう。過去において主の食卓はいつも良心と聖霊の確信が人の心に十分な働きが与えられたところであった。
 
 しかし今やあなたが他のクリス チャンとのつながりから離れ、ミーティング・ホール教会に引き渡されることがまず注意深く調べられたのだ。そしてウオッチマンの1940年の一人の兄弟に対する助言、「聖霊が上海においてもチンタオ(青海)においても同じことをするように期待しないように、聖霊に自由に働いていただきなさい」ということが、すぐに働きの中心で強い権威主義者の手で強制される組織化に席を譲るようになったのだ。ウイットネス・リーは当然「組織化」の概念と関係がないと注意深く言い、 飲み水をふくんでいる一杯のコップのようにこれらのお膳立ては霊的なことを伝える器に過ぎないのだと釈明した。しかし彼は教会の誰にでも、従順であるように熱心に勧めた。「まず問わないで何もするな」と彼は勧め「堕落した人は自分が喜ぶことをするのだから。ここに秩序がある。ここに権威がある。教会は厳しい訓練の場所である」と言った。
 
(『Against the tide』P.179~180。今日のところで14章Withdrawal は終りである。果たして、これは何と訳せば良いのか、「撤退」なのだろうか。次回からは15章Returnである。全文で20章だからまだまだ話は続く。この当時のウオッチマン・ニーについては別の証言〈1948年の6月から10月までの訓練生張兄弟のもの〉がある。「20年間、わたしはただ、すでに何かを持っている人たちにさらに多く持たせ、求めている人たちに助けを受けさせたにすぎませんでした。この訓練が成功するか失敗するかは、すべてあなたがたがどういう人であるかにかかっています。もしあなたが、あらかじめ占有され、自己満足しているのでしたら、助けを受けることはないでしょう。しかしもしあなたが真に前進したいのでしたら、わたしはあなたがさらに前進するよう助けることができ、もしあなたが幾らか光を持っているのでしたら、あなたがさらに光を受けるよう助けることができます。わたしの務めは、あなたを復興することでも変えることでもなく、この途上にあるあなたを導くことです。わたしの務めは、家に座っている人たちを押し出し、歩むように強いることではありません。」〈『今の時代における神聖な啓示の先見者 ウオッチマン・ニー』ウイットネス・リー著P.258〉それにしてもウイットネス・リーについて前回も今回もAngus Kinnearはauthoritarianと断じている)
 
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。(新約聖書 2コリント3:17)

2012年5月2日水曜日

主よ、教えて下さい

 ウオッチマンは友人のウイットネス・リーのことを思い出した。山東の日本軍の戦線の背後では戦争状態はそれほどきびしくなく、沿岸都市の集会は急速に数を増やしていた。これはリーがみことばを精力的に宣べ伝え、見るべき成果をもたらしていたチェフー(煙台)では特にそうだった。1946年の半ばにウオッチマンは福州から手紙を書き、上海の必要を示し助けに行くように訴えた。リーは神様がこのことを支持していると確信し、家族で南方へ移り南京に入った。そしてそこを拠点とし、南京および上海の回復の必要とする働きに邁進した。
 
  彼のもたらしたメッセージはユ博士のメッセージを補強した。信者に内住する生けるキリストは主の民が一致することの望みであり、それと同時にいのちの源泉でもあっ た。けれども、リーは行動派であった。ウオッチマンが深い聖書の学び手として教えの基礎を置いたのに対して、リーのウオッチマンよりもっと激しやすい気質(※)が山東人に興奮と情熱をもたらした。このことは急速な回復をもたらし、わずか数ヶ月のうちに確信が戻され、人々は再び集会に群がって来て、すぐに雪だるま式に増え始めた。

 リーは精力的で権威主義的な人であり、大人数に成長し、人々を組織化することに長けていた。この賜物をリーは今や上海の混乱せる状態に注いだ。1947 年の初頭、増大する出席人数のもと、地域を基盤にしてグループ分けがなされた。続く12ヶ月のうちに発展した方式は以下のようなものだった。週に二回人々は一つの「上海の教会」としてウェン・テー・リーに集まり、主の日の朝午前10時にみことばの宣教(各月の第一日曜日は福音的なもので、他の日曜は教化のためにもたれたが)、土曜日の夕べには交わりのために集まった。週に三回、15に区分けされた配置の「チアス」(「家族」)に集まった。主の日の夕方にはパン裂きのために、木曜日の夕方には祈るため、金曜日の夕方には新しく信者となった人々の学びのためにと、集まった。それに加えて水曜日には4つのチアスを集めた福音集会があった。長老たちは依然として全教会の全般的な責任を持っていたが、それぞれのチアスには長老たちを助け責任を持ち、尋ねる人を教えるように「見習い中の執事」に任命された数人とともに指導的な兄弟や姉妹がいた。

  すぐに人々はある地方から別の地方へと放浪したがるということが明らかになった。だから1948年の5月までに人々は「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。」という命令にしたがって各地に配置された。この日までにまた増加する人数のために牧会上の配慮の問題が深刻になった。チアスの40人から200人までの信者の集まりはもう一度平均15人からなるグループや「パイ」に細かく分けられ、通りや裏通りを単位とする人々から成り立っていた。めいめいのパイには集会で信者の出席を見ていてその霊的状態の面倒を見る責任のある二人の人がいた。このシステムは日本軍のもとで教会が離散している間に発見されたいくつかの価値を保持したものであった。すなわち、もっと小さな集まりの親密性があり、よりたくさんの人が祈りや話し合いに参加でき、人々に促されて開発される霊的な賜物を分かち合うことができる場であった。

 留意されることは男性の集会でもなく、女性の集会でもなく、学生たちのためや他の一般大衆のための特別な集会でもなかったということだ。もともと教会には階級がなかった。けれども賜物をもつ婦人の説教者の存在は問題を生み出したように思われる。時たま婦人の集まりがお膳立てされようとしていたが、ある日広東の集会で若い一人のクリスチャンが男性たちがホールの横幅を横断する一枚の大きな白いシートを浮かせているのを見たことを思い 起こす。彼はそれが何のためであったか尋ねたがルツ・リーとピース・ワングがその地方教会を訪問していると話された。女性は男性に説教してはいけないので、兄弟たちはそのためにシートの後ろに座り、何とそこから彼女らのメッセージを聞いたということだった!

  福音伝道は説教者だけの仕事でなく、全教会のものであった。あらゆる信者が「カウンセラー」として訓練されていた。福音の話の最後には皆が向きを変え自分の側に座っている人の名前と住所を書き留め、質問をし、話をさせ、できることなら強制でなく、主の御名を呼び求め、祈るようにと(というのも、時々まさにそのような行動のうちにその人は救われるのものだったからである)助言をした。この働きを見た宣教師たちは当然のことながら感銘を受けた。

(『Against the tide』P177~179 。訳していて、身につまされる記述である。このできごとは中国の1948年当時のことのようであるが、それから2、30年ほどして日本の教会にもこの種の活動が行われたからである。これらの働き自身は素晴らしいと思う。しかし果たしてそこにつねに主イエス様の臨在はあったのだろうか。著者が控えめに、※where Watchman,as a profound Bible student, had laid doctrinal foundation, Lee's more volatile temperamentと書いているところに着目したい。) 

兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。(新約聖書 ローマ10:2〜3)

2012年5月1日火曜日

真理のためなら、何でもできるのです。

西海国立公園、南九十九島の眺め(by N.Yuguchi)
そこで、祭司たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスが盗んで行った。』と言うのだ。・・・』そこで、彼らは金をもらって・・・。
(新約聖書 マタイ28:12〜15)

 兵士らが受け取った金は、途方もない額であったでしょう。
「これはぼろいもうけだよ。俺たちにはどっちみち関係ないことを、少しごまかせばよいのだからな。」
 自分らが滅びを買い取ったとは、思いもよらぬことでした。

 弟子たちは、「イエスはよみがえられた」と至る所に告げ知らせました。当局が禁止しても、ニュースは広がる一方です。ついにエルサレムでは迫害が始まりました。が、逃げた人たちが、国中にニュースをばらまきます。そうして、復活の主はパウロの目をも開かれました。そのパウロが、「イエスはよみがえられた」というニュースをローマにまで運んで行きます。イエスはたちまち話題の焦点となりました。

 幾たびとなく兵士らは呼び止められ、「君らが墓の番をしていたんだろう。では本当はどうだったんだ」と尋ねられたことでしょう。そのたびに、彼らは笑って言ったにちがいありません。—「ああ、あのイエスかい? やつはもちろん、死んださ。」だが、その唇はこわばっています。本当のことを知っていたからです。

 自分の認識と良心に反して生きねばならぬ人生、それは地獄です。ある人が私にこう言ったのを、忘れることができません。—「私は聖書に書いてあることをみな信じています。が、社会的地位の都合上、公に告白することはできないのですよ。」

 そうやって生きていくのでしょうか?

 イエスは生きています、と信じるのであれば、我々は主のものとなって、主のうちに見いだしたものを恐れずに語ろうではありませんか。

 この兵士らに比べ、弟子たちの姿は対照的です。彼らは迫害にもめげず、真理を表明しました。

 主よ!
 「真理を我らに告白せしめよ。
    真理は喜びと自由を与えたゆえに。」         アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳5月1日より引用)