英傑の 眼下福音 告げる人 西南ドイツ より現われり※ |
神様がそうおっしゃるのです。だから、それを探したり、望んだり、試したりすることは無駄です。あなたは最後はもちろんのこと、最初からあきらめるのがいいのです。鳩は箱舟にたどりつくまで足裏の休み場を見つけられませんでした。だから、キリストなしの全生涯をつらぬく平安のない陰鬱な眺望の結論は「彼らは昼も夜も休みを得ない(黙示14:11)。」のです。
「諸国の民は、むなしく疲れ果てる(ハバクク2:13)。」あなたはそのことについてどれだけ知っていますか。「彼らは依然として悔い改めない(エレミヤ9:5)。」「あなたは、長い旅に疲れた(イザヤ57:10)。」こういうことばはあなたの骨身に沁みるものでしょうか。それとも「けれども今や、彼は私を疲れさせ、あなたはあらゆる私の仲間とも疎遠にされたのでしょうか」罪や悲しみや空しさや孤独の疲れがどうあろうとも(そして早かれ遅かれそれらは次々続くものだが)、やさしい呼びかけが悩める水の上を漂っています。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)。」
すると おお 次に 悲しみは和らげられ
彷徨は過ぎ去り 安息が勝ち取られる
もうこれ以上揺らぐことのない確かさだ
そして 次に満ち足り揺り動かされない賛美が
喜びと力を生じ いのちは永遠に続く歌の序章となる
彷徨は過ぎ去り 安息が勝ち取られる
もうこれ以上揺らぐことのない確かさだ
そして 次に満ち足り揺り動かされない賛美が
喜びと力を生じ いのちは永遠に続く歌の序章となる
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-16-real-rest-found-in-christ/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97454です。
※Godhold Beck(55)
家庭集会のお宅の近く、スミス会堂から仰ぎ見る昨日の彦根城である。大学人は、小なりとは言えども、よく日本のハイデルベルク城と称して城下を逍遙したものだ。その彦根地方にシュツットガルト生まれのベック兄が足を踏み入れられたのは前にも記した通り、1991年の9月のことであった。そしてその翌月の10月27日からほぼ三ヶ月に一回のペースで家庭集会は行なわれたようである。私も父が1981年に召されてのち、ほぼ10年余独り住まいをさせている継母が心配であり、その救いのためにその家庭集会にあわせて帰省するようにした。しかし、ベック兄が来ていることを知っても宗旨が違うと言うので一度も彦根の家庭集会には出席しなかったが、食事をともにする時、主への感謝の祈りを絶やさなかった。
ところが、継母は1993年12月にスキルス性の胃がん末期の病を得、初めて私に祈りのSOSを求めて来た。もっとも継母はその時、自らの体調の異変には気づいたが、それほど深刻な病とは知らなかった。翌年正月に69年間生まれて以来一度も離れたことのない湖国(しかも、継母はまさにこの彦根城下に生まれ育った人であった!)を離れ、遠く関東の私のもとに身をあずけた。そしてそれから半年後の6月に主を信じて天に召されて行った。
その葬儀はベック兄がアメリカに行っておられたか何かでベック兄にはしていただけなかった。国際電話だったか、空港だったか、電話口の向こうでベック兄は「(葬儀の司式は)あなたがやればいいよ」と言われた。そして「それが親族に対する証しになるよ」とも付け加えられた。無我夢中で多くの集会の方々の祈りに支えられて、親族の前でのみことばの取り次ぎとなった。
考えて見れば、1991年の9月に彦根に家庭集会が始まったのは、ベック兄の大学での講演がきっかけだった。その場所が与えられたのも、当時四国に勤務しておられた方が奥様の実家の彦根に移って来られたことによる。しかも四国には金田福一さんのお膝元と思われる場所におられたのだが、その時には無関心だった奥様が、のちに主イエス様を信ずるように変えられての帰郷であった。
そして、そのちょうど一年前の1990年の5月には、教会生活で苦しんでいた私たち家族が現在への主イエス様だけを求める集会へと移された。その私たちのふるさとは彦根であった。彦根に縁のある二家族がほぼ踵を接して彦根への熱き思いを持つように変えられていた。そこに降って湧いたように、ベック兄がこれまた縁のある彦根の大学教員の方の仲介を通して講演が実現したのである。僥倖は僥倖を生む?しかし、その根底には主の変わらぬ救いのご計画があることを知る。まさしくハヴァガルが10月14日で語っていた「計画され目論まれる救い」の実現である。)
※Godhold Beck(55)
家庭集会のお宅の近く、スミス会堂から仰ぎ見る昨日の彦根城である。大学人は、小なりとは言えども、よく日本のハイデルベルク城と称して城下を逍遙したものだ。その彦根地方にシュツットガルト生まれのベック兄が足を踏み入れられたのは前にも記した通り、1991年の9月のことであった。そしてその翌月の10月27日からほぼ三ヶ月に一回のペースで家庭集会は行なわれたようである。私も父が1981年に召されてのち、ほぼ10年余独り住まいをさせている継母が心配であり、その救いのためにその家庭集会にあわせて帰省するようにした。しかし、ベック兄が来ていることを知っても宗旨が違うと言うので一度も彦根の家庭集会には出席しなかったが、食事をともにする時、主への感謝の祈りを絶やさなかった。
ところが、継母は1993年12月にスキルス性の胃がん末期の病を得、初めて私に祈りのSOSを求めて来た。もっとも継母はその時、自らの体調の異変には気づいたが、それほど深刻な病とは知らなかった。翌年正月に69年間生まれて以来一度も離れたことのない湖国(しかも、継母はまさにこの彦根城下に生まれ育った人であった!)を離れ、遠く関東の私のもとに身をあずけた。そしてそれから半年後の6月に主を信じて天に召されて行った。
その葬儀はベック兄がアメリカに行っておられたか何かでベック兄にはしていただけなかった。国際電話だったか、空港だったか、電話口の向こうでベック兄は「(葬儀の司式は)あなたがやればいいよ」と言われた。そして「それが親族に対する証しになるよ」とも付け加えられた。無我夢中で多くの集会の方々の祈りに支えられて、親族の前でのみことばの取り次ぎとなった。
考えて見れば、1991年の9月に彦根に家庭集会が始まったのは、ベック兄の大学での講演がきっかけだった。その場所が与えられたのも、当時四国に勤務しておられた方が奥様の実家の彦根に移って来られたことによる。しかも四国には金田福一さんのお膝元と思われる場所におられたのだが、その時には無関心だった奥様が、のちに主イエス様を信ずるように変えられての帰郷であった。
そして、そのちょうど一年前の1990年の5月には、教会生活で苦しんでいた私たち家族が現在への主イエス様だけを求める集会へと移された。その私たちのふるさとは彦根であった。彦根に縁のある二家族がほぼ踵を接して彦根への熱き思いを持つように変えられていた。そこに降って湧いたように、ベック兄がこれまた縁のある彦根の大学教員の方の仲介を通して講演が実現したのである。僥倖は僥倖を生む?しかし、その根底には主の変わらぬ救いのご計画があることを知る。まさしくハヴァガルが10月14日で語っていた「計画され目論まれる救い」の実現である。)
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