御霊も花嫁も言う。「来てください。」(黙示22:17)
聖書の中に書かれている「来なさい」はいずれも聖霊のよびかけです。なぜなら、「聖書はすべて、神の霊感による(2テモテ3:16)」もので、「聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った(2ペテロ1:21)」のだからです。そしてあなたの心にある静かな小さな声が「来なさい」と言う時はどんな時でも聖霊の呼びかけなのです。救い主のもっともやさしい語りかけが心に浮かぶ時も、つねにそれは聖霊が私たちの主の約束、すなわち「(父がわたしの名によってお遣わしになる)聖霊はわたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせて(ヨハネ14:26)。」くださるのです。
「わたしのところに来なさい(マタイ11:28)」ということばが、寝付けない夜の時であろうと、突然、説明できないようなその日の動揺の間にあっても、切羽詰まった時、心のうちに浮かんできたとしたら、あなたは、その声はまさしく聖霊なる神様が、自分の心に語りかけて下さったとは思わなかったでしょうか。それとも神様の愛がその声によって導かれているのも知らないで、他の声にかき消されてしまったのでしょうか。
単純なことばの種が
深い溝の間に落ちた
そこは静かな うそ寒い眠りにあるところだった
種まき人は決してこだまを耳にしなかった
けれども「来なさい」ということばは
空しくならなかった
なぜなら いのちと愛の芽生え
祝福ある御霊によるよみがえりの雨が
貴重な黄金の麦束にしたから
それは上なる収穫のふるさとに向けてだった
深い溝の間に落ちた
そこは静かな うそ寒い眠りにあるところだった
種まき人は決してこだまを耳にしなかった
けれども「来なさい」ということばは
空しくならなかった
なぜなら いのちと愛の芽生え
祝福ある御霊によるよみがえりの雨が
貴重な黄金の麦束にしたから
それは上なる収穫のふるさとに向けてだった
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-7-a-voice-continually-calling/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97445です。
※Godhold Beck(46)
1992年2月26日の家庭集会の録音テープは存在した。昨日、今日と二回聞いた。引用聖句はガラテヤ2:20で『絶えざる喜びの秘訣』であった。果たせるかな、ベック兄は冒頭で金田福一牧師のことを語っておられた。牧師とは言え、洗礼も授けることができなかった、専門家とは見られなかったからだ。でも全国にいのちがけで福音を伝えられたその労、『光よあれ4集』を一人で1000冊も購入して人々に送られたことも紹介されていた。
しかし、もちろんそれは読者のためにこちらが書いたことであって、主題はそこにあるのではない。ガラテヤ書のこのみことばをとおして、四つの特徴①全く新たなる歩み②死ぬべきからだでもっての歩み③絶えざる勝利の歩み④信仰の歩みが、それぞれ明確に語られていた。特に新たないのちをいただく喜びは、「教え」による「改善」でなく、「啓示」による「新しいいのち」の誕生、イエス様を個人的に知ることによって人は新しく生きるのだと強調されている。
だから、自分は日曜日は教会に行って聖書を知っているからクリスチャンだというのはまちがっている。そうでなく新しく神のいのちをいただいているかどうかが大切である。聖霊のはたらきを通して、自らの人生は終りがあると知り、イエス様を受け入れるようになり、新しいいのち・神のいのちをいただいたパウロの喜びの証しがガラテヤ2:20であり、これはそうしなさいという教えではないと繰り返し述べられている。
もちろん以上の私の説明は長いメッセージのほんのさわりに過ぎないと思うが、このメッセージは教会クリスチャンとしていつの間にか暗礁に乗り上げ挫折してしまった私に必要なものだったと今にして思う。〈その当時、私は仕事のため昼間のこのようなメッセージをお聞きすることがなかったから、このメッセージに接するのは実に24年経た今なのだが・・・〉
このメッセージの原本に当たるメッセージは、やはり、ろばの子サーバーの「ベック兄の暦年ファイル」のCD#「神に喜ばれる人生の秘訣」の0149で聞ける。ベック兄はこのメッセージを昼間と夜の集会二回で上手に工夫して語っておられる。私の所持している二本のテープはそういう意味ではやはりありがたいテープではある。)
※Godhold Beck(46)
1992年2月26日の家庭集会の録音テープは存在した。昨日、今日と二回聞いた。引用聖句はガラテヤ2:20で『絶えざる喜びの秘訣』であった。果たせるかな、ベック兄は冒頭で金田福一牧師のことを語っておられた。牧師とは言え、洗礼も授けることができなかった、専門家とは見られなかったからだ。でも全国にいのちがけで福音を伝えられたその労、『光よあれ4集』を一人で1000冊も購入して人々に送られたことも紹介されていた。
しかし、もちろんそれは読者のためにこちらが書いたことであって、主題はそこにあるのではない。ガラテヤ書のこのみことばをとおして、四つの特徴①全く新たなる歩み②死ぬべきからだでもっての歩み③絶えざる勝利の歩み④信仰の歩みが、それぞれ明確に語られていた。特に新たないのちをいただく喜びは、「教え」による「改善」でなく、「啓示」による「新しいいのち」の誕生、イエス様を個人的に知ることによって人は新しく生きるのだと強調されている。
だから、自分は日曜日は教会に行って聖書を知っているからクリスチャンだというのはまちがっている。そうでなく新しく神のいのちをいただいているかどうかが大切である。聖霊のはたらきを通して、自らの人生は終りがあると知り、イエス様を受け入れるようになり、新しいいのち・神のいのちをいただいたパウロの喜びの証しがガラテヤ2:20であり、これはそうしなさいという教えではないと繰り返し述べられている。
もちろん以上の私の説明は長いメッセージのほんのさわりに過ぎないと思うが、このメッセージは教会クリスチャンとしていつの間にか暗礁に乗り上げ挫折してしまった私に必要なものだったと今にして思う。〈その当時、私は仕事のため昼間のこのようなメッセージをお聞きすることがなかったから、このメッセージに接するのは実に24年経た今なのだが・・・〉
このメッセージの原本に当たるメッセージは、やはり、ろばの子サーバーの「ベック兄の暦年ファイル」のCD#「神に喜ばれる人生の秘訣」の0149で聞ける。ベック兄はこのメッセージを昼間と夜の集会二回で上手に工夫して語っておられる。私の所持している二本のテープはそういう意味ではやはりありがたいテープではある。)
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