2016年10月19日水曜日

神様はいのち(心)を必要とされます

案内せられ 行きし聖堂 高宮に 嫁ぎし二人 主と歩むか※

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。(ヨハネ6:37)
 
 自分自身にこのことを当てはめることを恐れてはいけません。「誰でも求める者は(マタイ16:25)」と言われることを覚えて、暗黒の中でこの約束の星を見上げなさい。すると、父なる神様は「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか(エレミヤ30:21)。」とおっしゃいます。

 だれのいのちですか。あなたのいのちではないのですか。もしそうなら、どなたが必要とされたのですか。すべての聖なる願いをただひとりなされる神様以外にいったい誰がはじめられるというのでしょうか。

主の召使を見よ!

あなたがお呼びになります
私はあなたのもとに参ります
あなたの誠実なことばを
おお 主よ 私にください

あなたの愛を 私は理解できません
私はただあなたのおことばが真実であることを知っています
そしてあなたは極みまで愛されるのです
父なる神様があなたのもとに引き寄せられたそれぞれの者を 

おお 
あなたの力を賦与する呼びかけなしには
私がお与えすることがなかったいのちを
今お取りください
あなたのうちに あなたのために
私を生かしてください
私は何者でもありません
あなたこそすべてのすべてです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-19-god-engages-the-heart/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97457です。

※Godhold Beck(58)
 故郷の同門(家の親戚、家の前)の方がキリスト者であった。この不思議な報せに接したのは今から10年ほど前だ。そんな報せが舞い込んで来たのも、私がその方にベックさんの集会に出席していることを伝えたことから判明したことであった。残念ながら、その方は急逝されたが、今も奥様と細々とお交わりをいただいている。つい一週間ほど前、この聖堂のバザーの案内をいただいた。聖公会の司祭の方の話を昨日紹介したので、ふさわしい絵と思い載せさせていただいた。さて昨日の司祭の方の話の続きだ。

 ベッキーの話が終わって、お茶の会になる。私の横に座って、ごく自然に救いの体験ー証しを、真剣に、嬉しそうに語って下さる人がいる。主イエスと共にあることが、他の何にもまして喜びであることが伝わって来る。ただし、それに至るまでにどんな苦しみがあったのか。打ち砕かれる自分がどんなものであったか包み隠すことなく話して下さるのだ。始めて出会った私のような者に対してである。夜八時から十時まで、二時間のうちに三人の人が、自分の証しを、又家族の証しを私に語って下さった。胸に熱いものを感じながら、私は聞き入っていた。

 「私は、こうして、罪を自覚して赦され、救われたのです。」「彼は、このように救われたのです。」「あの人は、三回目ですが、もう救われています。」誰の口からも、確信をもって出てくる「救い」の言葉に、身が引き締まる思いがした。

 「ここに来ている人は、みんな問題を抱えている人ばかりです。どん底に突き落とされて、そこでイエス様に出会うことができました。救われました。主にあることが何にもまして嬉しいことであることが分かったのです。だから、問題をもって、どうしようもないと相談に来られると、よかったね、と言ってあげます。自分の罪を自覚し、その罪が赦され、イエス様に出会って、本当の喜びを知り、誰もが良かったと思うようになるのです。」

 夫婦問題、親子関係、麻薬、アルコール中毒、・・・いろんな問題を抱えながら、問題が解決されたからではなく、問題を抱えたまま、イエス様に出会って救われている人々がそこにいる。ただ主にある交わりだけ。その喜び。牧師、先生はいない。名簿もない。でも、人は、四国、関東、神戸、西宮から距離を苦にしないで喜び集う。イエス様がそこにおられるから。使徒行伝の教会の交わり、信仰の原点に触れた恵みの時であった。

 司祭の方がこのようなコメントを書かれているのは本当に感謝である。ただ、私たちはベック宣教師のことは「ベックさん」「ベック兄」と言うだけで「ベッキー」と言ったことは一度もないのだが・・・) 

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