愛ありて 老いたる母を 抱きかかえ 歩む生活 トレイン載せる※ |
あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。(イザヤ48:18)
おお、私たちは主に自由に全面的にまかせることをせず、どんなに多くのものを逃して来たことでしょうか。主は私たちが不注意に成り行き任せにしている自我や空しさを背負った時、何もなさらなかったのでしょうか。
おお、もしそれらすべてがイエス様のために守られたのであったら、どうなったでしょうか。どのように主は荒廃によって駄目にされた私たち自身の生活を改善し、それらを遠くにまで広がる祝福と力のうちに用いて、主の光といのちでそれらを満たすことができたでしょうか 。
主よ 私たちを受け取ってください
おお 私たちの心とたましいと感情と意志を
私たちを空しくし私たちを完全にきよめてください
そうすれば すべては あなたの完全さで満ちるでしょう
私たちをあなたの王宮におらせてください
王様のために役に立つ器として
あなたの満たしで 私たちの杯を満たしてください
あなたの決して枯れることのない泉から
父なる神様 この祝福された満たしによって
私たちのうちに住んでくださるように
私たちは祈ります
私たちは待っています
あなたが働かれ私たちをあなたご自身で
今日満たしてくださいますように
おお 私たちの心とたましいと感情と意志を
私たちを空しくし私たちを完全にきよめてください
そうすれば すべては あなたの完全さで満ちるでしょう
私たちをあなたの王宮におらせてください
王様のために役に立つ器として
あなたの満たしで 私たちの杯を満たしてください
あなたの決して枯れることのない泉から
父なる神様 この祝福された満たしによって
私たちのうちに住んでくださるように
私たちは祈ります
私たちは待っています
あなたが働かれ私たちをあなたご自身で
今日満たしてくださいますように
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-28-redeem-the-time/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97466です。短い文章ではあるが、基本的な英語力が欠けているため、訳が大幅にちがっている可能性があります。原文をお確かめください。
※Godhold Beck(67)
今日の写真はたまたま乗り合わせた、近江電車松本忠鉄道風景画ギャラリートレイン内の一幅の「絵入り詩」である。認知症をわずらっている母を抱えた娘の視点で詩は綴られていた。病める者の隣人とは誰か教えられる詩だった。
ベック兄もまた晩年には様々な内外の戦い、特に三つの病を抱えた戦いがあった。そのような中でドイツ喜びの集いは継続された。以下のメッセージは2007年の6月10日にアイドリンゲンでドイツ人に向かってなされた。そのドイツ語を昨日家庭集会でメッセージのご奉仕をしてくださった方の奥様が訳されたものである。
今日、私たちがまた、ここに来られたことを感謝いたします。
私個人としては、出発の数日前まで、はたして来てもいいのか分からない状況でしたが、主が働いてくださり、医師の許可が下りました。
毎週Eメールで発信しているニュースを受け取っておられるドイツの方々は、私たちが今年どのような状況に立たされてきたのか、ご存知と思います。
次のような詩があります。
何が起きようとも、わが心よ、静まれ。
神があなたを祝福したいと思っておられる。今日も神の一日である。
新しい朝に夕に、あなたは神のもとで安らぎ、見守られている。
この詩のような体験をさせていただけるのは、大変な特権です。
私の発病は突然でした。三年前に患った白血病が再発し、その他にもいろいろと問題がつけくわえられました。すべてがまったく予期せぬ出来事であり、突然起きました。
その時、いつものように予定が非常に詰まっていました。連日、一日につき2、3ヵ所で家庭集会があり、その間に交わりもたくさん予定されていました。少なくとも月曜日だけは休みにしようと思っていても、たくさんの葬儀が入りました。私たちが健康である限り、主は私たちがペースを落とすことを望まれないようです。
しかし、私の発病によりストップがかけられました。さあ、どうしたらいいでしょうか。予定がしっかり立てられていました。数ヶ月前から結婚式を行う約束をしていましたし、多くの喜びの集いも計画されていました。今年に入って三回入院して、ついに自宅謹慎になり、できるだけ人との接触を避けるようにと言われました。それは化学療法によって免疫力が大変下がっていたからです。
そこで明らかになったことは、私も時には病気になってもいいということでした。もちろん、幾度となくこの病気の目的について考えを巡らしました。入院した時には、しばしば次のように考えました。
「私が入院しているのは病気のためではなく、医師や看護士に主イエス様を証しするためである」と。
播かれた多くの種が発芽し実を結びますよう、共にお祈りください。)
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