ある人たちは、結局私たちの神でいます神様は「イエス、我が救い主」という観念ほど身近なものはないという無言の考えを抱くかもしれません。私たちのほとんどは「神様」という観念の広さに目が眩まされるように感ずるものです。そして私たちはもっと手の届く範囲に見えるところへと心の中で避難するものです。これがほとんど常にクリスチャン生活の初期の段階の場合です。
父なる神様によって主イエス・キリストに引き出されたら、主が私たちになそうと考えられているとおりにイエス・キリストの御顔に神の栄光を見ないで、わたくしたちのほとんどが、御子のうちに父なる神様を見失うのです。実際に、ある者は祝福された三位一体の一人格jだけを意識して知り、私たちが御子をほめたたえるようには父なる神様をほめたたえないものです。
父なる神様によって主イエス・キリストに引き出されたら、主が私たちになそうと考えられているとおりにイエス・キリストの御顔に神の栄光を見ないで、わたくしたちのほとんどが、御子のうちに父なる神様を見失うのです。実際に、ある者は祝福された三位一体の一人格jだけを意識して知り、私たちが御子をほめたたえるようには父なる神様をほめたたえないものです。
私たちはイエス様を愛さないではいられないでしょう。私たちはキリストのうちにあって私たちをご自身と和解させてくださった神様を愛することを学ぶにつれて、ますます愛さずにはいられません。 私たちは私たちのために死のうとして来られたイエス様を感謝しないわけにはいきません。しかし、ことばは神とともにあり、ことばは神であった、その過去の想像できない永遠を照らす愛の不可思議をほめあげることが強くなればなるほどますますそう思わざるを得ないのです。
私たちはまた神の観念と啓示のうちに、私たちの関心の最高点、もっとも強力な時の神様だとする以上に十分な余地がある一方、もっとも疲れ果てた骨組みを持つ人間のもっとも疲労困憊した時のための休みがあることも知っています。なぜなら私の心と私の肉が駄目になるとき、神様は私の心と私の分のとこしえなる力であられるからです
変動されない変化により
たどることのできない思想により
そして
目に見えない創造された目によって
あなたの偉大な現存のうちに
受け入れられています
未来のすべて 過去のすべてがです
おお
私たちのたましいの父なる神様
今や 私たちは あなたを
私たちの救い主の御顔のうちに
捜し求めています
信仰とたましいのうちに
私たちは頭を下げ
私たちのたどることのできないところで
礼拝したいものです
たどることのできない思想により
そして
目に見えない創造された目によって
あなたの偉大な現存のうちに
受け入れられています
未来のすべて 過去のすべてがです
おお
私たちのたましいの父なる神様
今や 私たちは あなたを
私たちの救い主の御顔のうちに
捜し求めています
信仰とたましいのうちに
私たちは頭を下げ
私たちのたどることのできないところで
礼拝したいものです
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-26-infinite-god-and-yet-mine/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97464です。今日の箇所も私には難し過ぎた。読者のご助言をいただきたいところがたくさんある。
※Godhold Beck(65)
「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」「罪を憎んで人を憎まず」対照的なことばである。人間の本来持つ性格は前者であろう。しかし、主イエス様の犠牲の愛は言うまでもなく、後者である。ベック兄は長年、多くの罪に悩む人々を相手にされて来た。そして当然だが、「悔い改め」を何よりも重視された。悔い改めている限り、過去の罪はすべて帳消しになるという「みことば」を何度も繙かれた。
昨日の学び会のあと、また葬儀があった。写真はその会場のワンシーンである。ベック兄が召されるまでは葬儀のメッセージはベック兄の専売特許であった。召された後、もう何回葬儀が行なわれたかはわからないが、それぞれにふさわしいメッセンジャーが与えられている。昨日もみことばから天国の希望が語られた。
その葬儀のあとのご挨拶は遺族の方々の確かな証言に満ちていた。それは激しい過去の罪の罪責感に苦しむご主人を、愛をもって支えられた愛妻の証しであった。イエス様はあなたの身代わりに十字架で死なれたのだから、苦しまなくってもいいのよ、全部赦してくださったのよ、と励まし続けられたということであった。
お子さんがたも病を得られた父君が三つの点で変わったと証言してくださった。①お父さんが礼拝でみことばを読んで祈るようになった②里帰りし、お兄さんに自らの苦しみを打ち明けながらも、十字架の苦しみにまさる苦しみはないが、自分の罪は赦されていることを感謝された③病気になってから、入院中やその他お世話になる方で、まだイエス様をご存知ない方にイエス様の福音を伝え続けた。
自分の信ずるイエス様はすべてのことに責任を取ってくださるお方だ、死は終わりでなく、天国で必ず会える、イエス様早く来てくださいと日々祈り、人々に自らの信仰を伝え続けた、という証言であった。
ベック兄も生前この方の様々な悩み苦しみ過誤について祈られたことだろう。こうしてすべてを手放して天に凱旋されたベック兄の思いは残された私たち一人一人に受け継がれている。最後にそのお嬢さんが詩篇のみことばを読まれたが、どこかわからなかった。でも恐らく、今日のハヴァガルのあげたみことばとはそうは変わらないと思う。私もまた、主なる神をただほめたたえ、「あなたこそ私の神です。」と告白したい。)
※Godhold Beck(65)
「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」「罪を憎んで人を憎まず」対照的なことばである。人間の本来持つ性格は前者であろう。しかし、主イエス様の犠牲の愛は言うまでもなく、後者である。ベック兄は長年、多くの罪に悩む人々を相手にされて来た。そして当然だが、「悔い改め」を何よりも重視された。悔い改めている限り、過去の罪はすべて帳消しになるという「みことば」を何度も繙かれた。
昨日の学び会のあと、また葬儀があった。写真はその会場のワンシーンである。ベック兄が召されるまでは葬儀のメッセージはベック兄の専売特許であった。召された後、もう何回葬儀が行なわれたかはわからないが、それぞれにふさわしいメッセンジャーが与えられている。昨日もみことばから天国の希望が語られた。
その葬儀のあとのご挨拶は遺族の方々の確かな証言に満ちていた。それは激しい過去の罪の罪責感に苦しむご主人を、愛をもって支えられた愛妻の証しであった。イエス様はあなたの身代わりに十字架で死なれたのだから、苦しまなくってもいいのよ、全部赦してくださったのよ、と励まし続けられたということであった。
お子さんがたも病を得られた父君が三つの点で変わったと証言してくださった。①お父さんが礼拝でみことばを読んで祈るようになった②里帰りし、お兄さんに自らの苦しみを打ち明けながらも、十字架の苦しみにまさる苦しみはないが、自分の罪は赦されていることを感謝された③病気になってから、入院中やその他お世話になる方で、まだイエス様をご存知ない方にイエス様の福音を伝え続けた。
自分の信ずるイエス様はすべてのことに責任を取ってくださるお方だ、死は終わりでなく、天国で必ず会える、イエス様早く来てくださいと日々祈り、人々に自らの信仰を伝え続けた、という証言であった。
ベック兄も生前この方の様々な悩み苦しみ過誤について祈られたことだろう。こうしてすべてを手放して天に凱旋されたベック兄の思いは残された私たち一人一人に受け継がれている。最後にそのお嬢さんが詩篇のみことばを読まれたが、どこかわからなかった。でも恐らく、今日のハヴァガルのあげたみことばとはそうは変わらないと思う。私もまた、主なる神をただほめたたえ、「あなたこそ私の神です。」と告白したい。)
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