2016年10月29日土曜日

「唯一」と「永遠」はイエス様のものです

ラフォーレ 堅田の落雁 窓越しに ※

私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉(雅歌4:12) 
わたしのために造ったこの民(イザヤ43:21)

 あなたはイエス様が「唯一」であるとする用意が全くないとき、一方では主に対して「すべてを」与えていなかったでしょう。だから、私たちが「唯一」と「すべて」に落ち着かなかったとき、「永遠」について話すことは無駄です。あなたが部分的に何かのあるいは他の誰かの「ために」あるなら、完全に祝福された意味で「主のために」あり得るはずがありません。

 というのは「主は、ご自分の聖徒を特別に扱われる(詩篇4:3)。」からです。ご存知でしょうが、「主ご自身のために」が「特別に扱われる」ことにかかっているのです。分離なしには献身はありません。もしあなたが自ら献身が足らないことを覚え悲しんでいるなら、この点を謙虚に真摯に見つめているのでしょうか。「私の妹、花嫁は、閉じられた庭」と天におられる花婿なる方はおっしゃいました。

イエス様のために分離しなさい
たとえ砂漠が開放された荒れ地や
でこぼこ道と見えても
これは十分でないでしょうか

主の喜びのために分離しなさい 
主の聖なる喜びのために選ばれ
主の特別な宝物であるように封印されることです

私たちはより気高き喜びを選べるのでしょうか 
もし私たちができるならそうしたいでしょうか 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-29-only-and-ever-his/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97467です。

※Godhold Beck(68)
 近江八幡喜びの集いに参加しているが、ある方のメッセージはまさしく今日のハヴァガルの黙想と共通する内容があった。すなわち「永遠」の尺度を持つか持たないか、救いか滅びかの選択を迫るものであった。さて、昨日のベック兄のメッセージの続きを写して見よう。

 病気になることは、ひとつの危機にもなりえますが、いずれにしても休息をもたらし、心の浄化と成熟のための時間であり、心のふるさとへの道しるべを求める時間でもあります。誰でもが切望すべきことであります。

 フランス人の数学者であり哲学者でもあるブレーズ・パスカル(1623-1662 享年39歳)は次のように祈りました。

 「主よ、あなたのみこころのままに行ってください。
  私は、健康も病気も、いのちも死もあなた様に願いません。
  私の健康と病気、また、いのちと死も、あなた様のご栄光と
  私の救いのためにご支配くださいますように。
  私にとって何が益であるか、あなた様だけがご存知です。
  あなた様が主であられますから、みこころを行ってください。
  与えてください。取り去ってください。
  私はひとつのことだけ知っています。あなた様についていくことが
  最善であることを。私にとって、あなた様を
  侮辱することは損となります。
  私にとって、健康か病気か、富か貧困か、そのどちらかが
  益となるのか分かりません。
  この世のこと、すべてについてもわかりません。この決定は人間や、
  みつかいの力を超えたものです。私にとって何が益で
  何が損であるのか、私には隠されています。
  あなた様の秘密なのです。私はそれを解明しようとは思いません。
  ただ、祈り求めるだけです。」) 

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