あなたにとっては余りにも荷が重過ぎるので、もしあなたがその重荷を下ろすようにというキリストの申し出を受け入れないなら、あなたは決して人生の方向を見出すことも、あとについて行くこともできないでしょう。けれどもイエス様が「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)。」とおっしゃるとき、なぜあなたはもはや一刻も我慢できないのですか。
けれども、待ちなさい。あなたは約束に対して二重の主張を言うことができるかもしれません、いや言わねばなりません。あなたは意識して特別に疲れていない、労していないかもしれません。しかし、意識しているかいないかはともかく、もし罪の大きな重荷があなたから取り去られていないのなら、あなたは重い荷物を背負わされているのです。 聖霊があなたにそのことについて認識させたか、それとも未だに認識させていなくとも、あなたの咎が唯一の泉にあって個人的に洗われることによって取り去られないなら、あなたは詩人が述べている立場にいるというのが実情なのです
あらゆる疲れさせる重荷を持って来なさい
あなたの罪 あなたの恐れ あなたの悲しみを
主は重荷をになう者を呼ばれます
そして彼らにやさしい助けをお与えになります
あなたの罪 あなたの恐れ あなたの悲しみを
主は重荷をになう者を呼ばれます
そして彼らにやさしい助けをお与えになります
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-22-the-burden-only-christ-can-lift/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97460です。
※Godhold Beck(61)
ベック兄が召されて、実に多くの無数の人々の写真が残された。その無数の写真の中には、私の写真も、私の家族の写真も、知人の写真もあった。最初、それらの多くは余りにも忙し過ぎて渡し切れなかった写真の数々だとばかり思っていた。しかし、よく考えてみると、それらの写真はすでに手許にいただいている写真でもあった。その後、考えを変えた。それぞれはご自分の覚えのために手許に残されていたような気がしたからだ。一人の魂も逃がすまじとは、すでにカメラのファインダー越しに覗き続けられたその精神だけでなく、写真を眺めながらとりなしの祈りをされていたのでないかと思ったからだ。短歌を紹介しよう。
心病む若き姉妹の奥飛騨を三度訪ひ給ひし愛忘れむや 大下直弘
類ひなき寛き心もてみなひとを導き給ふ師はすでに亡し 大下直弘 )
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