2016年10月1日土曜日

征服された自我

エストニア国立博物館内部 by Nobuo Y※

キリストは、万物をご自身に従わせることができます(ピリピ3:21)

 私たちは、他のものが主に従わされていても、自分は決して従わされていないかのように話すことがあります。パウロはピリピ3:21の「万物」に、この重要な例外を設けることを忘れたのでしょうか。ダビデは「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ(詩篇103:1)。 」と言いました。彼もまたどういうわけか、自分を除く自らの内にあるすべてのものに言及したに過ぎないということを忘れたのでしょうか。

 もしそうでないのなら、そのとき自我は主イエス・キリストが支配し、「聖なる御名を祝福する」ために存在する「万物」の中にふくまれているに違いないのです。かつて主のもっとも当てにならない敵が、今や叛逆者の陣営から王の軍隊へと馳せ参じて、全き喜びの降伏によってご自身の兵士となったのが自我です。「主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです(ヨハネ21:15)。」と心のうちで言う、他の誰でもない、つまり何か一時的に持っている霊ではなく、私たちの真実な、まさにうってつけの自我、聖霊の力によって変えられ、新しくされたに過ぎない自我です。

 そして、私たちがしたくないことをする時、私たちは、「それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです(ローマ7:17)。」と知るのです。私たちのほんとうの自我は神の愛によって勝ち取られ、神の力によって守られている新しい自我です。 

感謝せよ 上られた主に  あらゆる感謝を
彼は私たちのいのちを勝ち取るために死なれた 
死と罪から ことごとく戦利品を 引き裂いて
地上の感謝が終り 天国の感謝が始まる時まで 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-1-self-subdued/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97439です。

※Godhold Beck(40)
 10年の歳月をかけて日本人建築家が中心になって手がけた博物館がエストニアに今日、オープンしたhttp://dailypress.org/news/2851/。建築家にとって内部空間、外部空間は自己そのものなのかもしれない。今日のハヴァガルが描く「自我」は主の御手による作品である。果たして我らのうちにある自我は如何なるかたちをなしているのだろうか。

 主を愛し、主に愛されたベック兄。2009年ごろ、悲嘆に暮れ、慨嘆されたベック兄を間近に見た。何とお慰めして良いのか、言葉に詰まった。私たちには想像できない人それぞれの心の内。しかし、主なる神はすべてをお見通しの上で愛される。「主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。〈詩篇33:13〜15〉) 

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