2020年12月31日木曜日

新しい年もよろしくお願いします

白鷺を 追いつつ歩む 楽しさよ 古利根川を 妻と語らう

兄弟クワルトもよろしくと言っています。(ロマ書16・23)

 あっと言う間に大晦日を迎えてしまった。今年は「自己嫌悪」の思いが強くなり、このブログは8月以来、投稿しなくなった。ブログを始めたのは、泉あるところ1(2008年 6月開始)からなのだが、この12年間でもっとも投稿数の少ない年になってしまった。

 その原因としては「自己嫌悪」の他に、カーライルのクロムエルの紹介について確たるものが自身の内に持てなくなったことがある。そんなおり、二日ほど前に、内村鑑三の「ロマ書の研究(下)」を読んでいたら、たまたま次の文章に出会った。(同書第58講パウロの友人録より引用)

 カーライルのクロンウエル伝は、世にある伝記中の最も優秀なものであろう。彼はクロンウエルの書簡と演説をできるだけ多く蒐集(しゅうしゅう)し、それに説明を加えて、読者の了解に便ならしめて、これを世に提供したのである。ゆえに、題して『クロンウエル伝』といわず、『クロンウエルの書簡および演説』という。けだし彼もし自己の筆をもってクロンウエルの生涯をえがきださんか、読者はカーライルを通してクロンウエルを知ることとなりて、その知識は間接なるをまぬかれないであろう。

 しかし、もしクロンウエルの書簡と演説とをそのまま読者に提出するときは、人々は直ちにクロンウエルの姿に接するを得て、その知識は直接かつ純粋なるを得るであろう。カーライルはかく考えしゆえ、わざと自己を隠して、もっぱらクロンウエルだけを人の前に提出したのである。これ彼のクロンウエル伝の特に貴き理由である。まことに人の手紙ほどその人をよく表わすものはない。

 ロマ書のごときは一つの系統ある思想の大なる発表であるが、最後にこれら人名録を見て、これが一つの書簡としてこれらの人々に送られしものなることを知りて、この書が単なる論文にあらずして、生ける人より生ける人に送られし一つの生ける消息であることを知るのである。実にこの人名録はロマ書の価値と性質とを示すものである。

 もとより、以上の内村の文章は、ロマ書の本質を示すにありて、カーライルの「クロンウエル伝」への言及は単なる傍証として用いたに過ぎない。が、近頃、読んだ文章の中では私にとり、一服の清涼剤の役目を果たしてくれた。それはクロムエルに注目したことは間違いでなかったと思ったからである。また、ロマ書は毎日でも読むべきだとはかつてベック兄の書かれた書物(『神の愛』)で読んだことがある。その時、こんなむつかしい文章をと思っていたが、パウロのローマ人に宛てた手紙は(他の手紙もそうだし、聖書全体がすでにそうなのだが・・・)内村も言うごとく、生ける人の生ける人に送られた生ける消息であったことをこの年末ほんの少しだが、聖書通読の際に体験することができたからである。

 コロナ禍で始まり、大変なコロナ禍で年を越し、ますます人と人との接触が難しくなる中、パウロが「兄弟クワルトもよろしくと言っています」と一切の肩書き抜きのクワルトを、わが「兄弟」として(しかし、これこそ最大の賛辞である)ローマの愛する人々に紹介して書簡を閉じていることに大きな励ましをいただいた。新しい年、愛する方々を今まで以上に覚え、ともに心から主を賛美したい。

2020年8月15日土曜日

クロムエルの手紙(1650年8月3日)

エジンバラ・プリンセス通りの花園  2010.10

 過去二日間、クロムエルの手紙の中では私信とも言うべき手紙を紹介しましたが、今日は公的な手紙を紹介したいと思います。現代風にしようかとも思いましたが、やはり畔上氏の周到な訳文の方が雰囲気を味わっていただけるのではないかと思い、それを以下転写します。(『畔上賢造全集第9巻430〜431頁より引用。)

卿(けい)らよ

 卿らの我が軍の宣言に対する返答書拝見仕(つかまつ)り候。我が僧職はそれに答える辞を草したれば、同封にて送り申し候。

 この度のことにおいて卿らが神意に叶うか我らが神意に従えるかは、神の慈愛によりて定まることにて候。されば我らはこの結果をすべてを処理する全能者に任せ申し候。ただし我らは光明と慰安の日に増し加わるを知り、遠からずして神その大能を現わし給いて、万人これを認めることと確信致し候。

 卿らは我らを知らずして、我らの神のことについて、我らを審(さば)く。そして卿らは頑なにして巧みなる語をもって、人民の中に偏見を懐かしめたり。人民は、良心の問題については一人一人が神に対して責を負うべきなるを、あまりに卿らに盲従し過ぎたり。ーーこれ彼らを破滅に導くにあらざりかと、我らは危ぶみおり候。

 卿らは我らよりスコットランド人民に告げし公言を隠して人民に示さず。(彼らこれを見なば、我らの彼らに対する愛情をも知らん者をーーことに神を恐るる者は。)然れども我らは卿らより来る文書を自由に兵卒に示し候ゆえ、たくさんお送り越されたく候。余はこれを恐れず候。

 我らは人として各種の宣言公示をなすか、あるいは主のため主の民のためにこれをなすか?まことに我らは卿らの数を恐れず、また己にも信任を置かず候。我らは卿らの軍に対し得べし(神に祈る、我らをもって誇るものとなすなかれ)と信じおり候。 我ら卿らに近よりし以来、神は聖顔を隠し給いしことこれなく候。

 卿らの罪大なり。無辜の民の血を流すの責を受け給うなかれ。(卿らは王及び誓約を掩飾として民を欺き、民の眼を暗くせり。)卿らは他を非難し自己を神言の上に立てりと言う。卿らの言うところことごとく神言に応ぜるか、願わくは自らを欺き給うなかれ。教訓(いましめ)に教訓を加え、度(のり)に度を加うるも、主の語は、ある人には審判の語となりて後に倒れ、損なわれ、わなにかかりて捕らえられるべく候(イザヤ28:13)。使徒行伝第二章にあるが如く、世がもって狂気と認める霊的充実もあらん。また霊的酩酊(めいてい)と言わるる肉的信頼(誤解せる教えの上に立てる)もあり。死と立てし契約あり。陰府(よみ)と結びし契りあり(イザヤ28:15)。我ら卿らの契約をもってこの類となすにはあらず。されどこのことに於いて悪しき肉の人と同盟するも、なおかつ神の契約にして霊的なりと言い得べきや。願わくは三思せられたく候。

 イザヤ書第二十八章を五節より十五節まで読みて、命を与うるものは聖霊なることを知られたく候。主卿らと我らに聖意を為すの明を与え給わんことを祈る。願わくは神恩卿らの上にあれ、以上。

1650年8月3日           マッセルバラにて
                     オリヴァー・クロムエル

スコットランド国僧職総会御中
(もし総会開会中ならぬ時は僧職委員会へ)

 以上が、クロムエル51歳の時の手紙である。この時クロムエルは16000名の兵を率いてイングランドとスコットランド国境のトゥイード川をわたり、エディンバラから8マイルの地点に迫ったが豪雨と補給不足に退却を余儀なくされていたようであります。マッセルバラはエジンバラ近郊の村です。さて、私はこの手紙の最後の言葉に大変心惹かれました。それはイエス様が「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」(ヨハネ6:63)と言っておられるが、クロムエルは激戦の最中そのおことばを味わっており、上杉謙信の塩にまさりて余りあるイザヤ書28章の瞑想を勧めているところであります。

2020年8月14日金曜日

クロムエルの手紙(1638年)

蜜を求めて蝶舞う。振り返りて、我が人生もまた。

 親愛なる我が従妹へ

 粗野である私に対してつねに少なからぬ愛情を寄せてくださることを、この機会に感謝申し上げます。まことに貴女は私の手紙や友情に対して、過分なご芳情をくださっておられます。私は自らの愚鈍さを思い、貴女のこのお褒めの手紙をいただいて恥入っております。

 しかし、神様が私の霊魂になしてくださったことを公言して神様の御名を崇めることは、今日ただ今の私の確信であり、また将来もそうであります。神様は水の一滴もない、乾いた、不毛の地に泉を湧き起こしてくださることを私は確信いたしております。私はメシェクに住み、ケダルに宿っております。メシェクは延期を意味し、ケダルは暗黒を意味します(※)。しかし主は私を捨てられません。主は延期はされても、ついには主の幕屋まで、主の安息所まで私を連れて行ってくださると信じております。私の魂は長子キリストにつらなる会衆とともにあり、私の体は希望の中に宿っております。そして行為であろうと、苦難であろうと、私の神の御名が崇められますならば私は嬉しいのです。

 いかなる人がいらっしゃろうとも、私ほど神様のために身を呈して働かなければならない理由を持つ方はいらっしゃらないでしょう。私は給料をたっぷり前払いとして神様からいただいております。しかし一銭も神様のために私が儲けることができないことは明らかです。主はそのひとり子(=イエス・キリスト)において私を受け、私をして光の中に歩ましめてくださいました。主が光ですから、私たちは光の中を歩めるのです。私たちの暗黒を輝かしてくださるのは主です。主は聖顔(みかお)を私から隠すとは申されないのです。

 主は私に主の光のうちに光を見せてくださいました。暗いところに照らされた一つの光はその中に無限の慰めを持っていたのでございます。私のように暗い心を持っていた者を照らして下さった主の御名はまことにほむべきかな!

 貴女は私の過去の姿を知っておられるでしょう。そうです、私は暗黒の中に住み、暗黒を愛し、光明を憎んでおりました。私は罪人の首(かしら)であり、私は心から聖いことを憎んでおりました。ところが神様は私に慈悲を上から下さいました。ああ主の恵みの何という豊かさでしょうか。私のために主を賛美してください。私のうちに良きわざを創(はじ)められたことが、キリストの日にそれを完成してくださるように私のために祈ってください。

 マシャム家の人々によろしくお伝えください。みなさんの愛に負うところが多いのです。私は皆さんのために主を褒めあげます。また私の息子も皆さんのおかげで健全になりました。主を褒めあげます。願わくは今後も我が息子のために祈り、教えてやってください。また私のためにも。

 ご主人様にも、御妹様にもよろしくお伝えください。
これで名残惜しく筆を置きますが、主が貴女とともにあられますようにお祈り申し上げます。

 1638年10月13日         エライにて
                      オリヴアー・クロムエル

 エセクス、サー・ウイリヤム・マシャム方
  愛する従妹、セント・ジョン夫人様

※引用者注:詩篇120:5に「ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは」とあります。

 以上は、畔上賢造全集第9巻213頁からの引用である。ただし、格調高い畔上氏の翻訳文章は現代人には、今一つ理解が困難があると思われるので、あえて現代風に表現を改めた。なお、この手紙はクロムエル39歳の時のものである。59歳で召される彼の人生はその後の20年間もまた主の前に検証さるべき生涯であったろう。しかし、この手紙を解説するに際してカーライルは次のように述べている。これに関しては畔上氏の翻訳原文のまま転写する。

「ここに人が霊魂を有せしこと、神とともに歩みしことの証がある。彼は「上へ召して賜うところの褒美を得んと標準(めあて)に向いて進」(ピリピ3:14)んだのである。一度神の道に従う、苦難窮乏何かあらん。恩恵既に足る、ただ己を殺して神の許に投ずる。生くるも死ぬるも主の思いのままである。これがクロムエルの信仰であった。読者よ、かかる経験を有するか。もし有せずば、現世(このよ)の行路は平安ならんも、天の光を宿すことは出来ぬ、天の光を放つことは出来ぬ。」

 1638年の手紙は、遺されている二百余通のうちの初めから二通目のものであるが、まことに彼の思い・信仰はイングランドの死命を制する要路にあっても、変わらなかったのではないかと思う。

2020年8月13日木曜日

クロムエルの手紙(1649年8月13日)

your most humble servant 署名・肖像


 畔上賢造という方がおられる。この方が大正初期に翻訳し発表されたカーライル著『クロムエル伝』がある。本ブログでも何度かご紹介したことがある小林儀八郎さんhttps://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/02/blog-post_26.htmlが親しんでおられた著者である。今から10年ほど前に、同氏の全集を遺族の方から譲っていただいていたが、これまで書棚の片隅に置かれたままだった。ところが、最近知人になった方からクロムエルの話がたまたま出てきた。クロムエルについて自らも何らかの知見を得たいと思うようになった。その時にこのカーライル著『クロムエル伝』の存在を思い出し、ここ4、5日読んでいる。

 そんな時、またしても日々読んでいるブッシュさんの『365日の主』の昨日のところの冒頭で、権力者のひとつの例示としてクロムエルがフリードリッヒ・ウイルヘルム二世、ヒトラーとともに名前があげられていた。ブッシュさんは「怒りを遅くする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」(箴言16:32)という聖句のすばらしい解き明かしをなさっていた。

 確かに、クロムエルは「町を攻め取る」者であった。アイルランド、スコットランドと17世紀内乱状態のイングランドにあって「鉄騎兵隊」の指揮官として権力をほしいままにしたと言われてもしかたがないかもしれない。しかし、彼が自らの心を治めていなかったか?いなかった、と果たしてそう簡単に言ってしまっていいのだろうか、という思いがした。

 幸い、畔上さんはカーライルが紹介している200数十通の手紙を1600年代(我が国で言うと江戸時代初期に該当するが)当時にあわせ、訳しておられる。2020年の私たちにはそのままでは読みにくいかもしれないが、以下そのまま転写した。しかも1649年の8月13日の日にちだけは今日の日付のある手紙である。(以下は『畔上全集』9巻372頁より引用)

我が親愛なる娘よ〔子の嫁に対して〕

 御身の手紙ははなはだ喜ばし。私は御身を愛しおるもの、御身よりの贈り物は何によらず喜ばしく候(そうろう)。さればつまらぬご助言申し上げたく候。
 何よりも先づ神を求め神の御声を聞くことが大切にて候。御身にして怠るなくば主の声は耳または心に聞ゆるものにて候。御身の良人(おっと)をも勧めてこの態度を取らしめたまえ。現世の快楽や有形の事件を第二、第三とせられよ。キリストにおける信仰によってこれらの上に出られよ。然らずしては真にこれらを利用しまたは味わうこと出来がたく候。御身の淑徳(しゅくとく)増し、主にして救い主なるイエス・キリストを益々深く味わわんことを祈る。主は近し、これそのわざにて明らかに候。アイルランドにおける主の大恩恵は明らかにこれを示し候。委細は良人より聞きたまえ、我ら皆感謝の思いにあふれざるべからず。我らかかる恩恵について神を賛美せんには大いにキリストの精神を要し候。我が親しき娘よ、主御身を恵まんことを祈る。

1649年8月13日       ジョン号船上にて
                   御身の親愛なる父
                    オリヴァー・クロムエル

ハースレーに在る
 愛する娘ドロシー・クロムエルに

2020年8月10日月曜日

エル・ロイ(ごらんになる神)

テムズ川上空から(2010.10.14)※

 昨日の朝日新聞に編集委員の曽我豪氏が「戦後75年の夏・継がれゆく記憶」と題して、高峰秀子、古関裕而の戦争体験を述べ、一方で、今「エール」に出演中の二階堂ふみ(25)にどのように受け継がれていくかに触れながら、最後に「忘れず残したいと思う意思と聞いて継いでゆきたいと思う意思、その二つがあれば戦争の記憶は風化しない」とあった。

 世代を越えて、伝えることの尊さを思わされた。戦争体験ではなく、別の私的な経験で、ほんの少しだが、世代を越えて、伝えることの尊さを経験させていただいた。世がコロナ禍で騒いでいる5月下旬、愛する高校二年生の孫娘が急にコロナウイルスの病とは別の病を得て緊急入院をした。多くの方の祈りに支えられ、幸い7月には退院し、現在リハビリをしながら日常生活へと戻りつつある。そんな苦境にあった孫と最近LINEをとおしてメールの交換をする機会が与えられている。

 今回、私の孫に対する語りかけは25年前のことから、一気に60数年前に遡(さかのぼ)ることになった。25年前のこととは勤務校が思いもかけず夏の甲子園大会に出場した時の様々なエピソードの紹介であった。孫はもちろんそんなことは少しも知らないからびっくりしたことであろう。

 よせば良いのに、私は図に乗って、小学校6年の時の模型飛行機大会のことを話した(もちろんLINEのメールを使っての対話ではあるが・・・)概要は、その模型飛行機大会で、不器用極まりない私の飛行機が滞空時間がわずか50数秒で優勝した時の話だ。その日は風が強く、いつもは一分は優に超えるタイムで勝負が決まるのに、なぜか私の飛行機だけが墜落しないで最後まで飛び続けた。

 それだけでも私には驚きだったが、その時の褒美が何とほんものの飛行機に乗せてもらえるという景品つきだった。後にも先にもそんな話は聞いたことがなかった。私はこのビッグニュースを早速母に知らせようと急いで家に帰ったが、あの時ほど、自分の駆け足の遅さがうらめしかったことはない。とにかく「地に足がつかない」とはまさにその時の私の気持ちだった。

 そうして確か大津の皇子山に彦根から列車で担任の先生と二人して出かけ、プロベラ機に乗ったのだ。琵琶湖上を旋回して数分後に着陸し、あっと言う間に終わった。そのあと、帰ってから全校生徒の前で飛行機に乗った話をするように言われたし、作文を書くようにも言われた。その時、私は「みんなの家がマッチ箱のように見えました」とだけ言って降壇したように覚えている。

 先生方だったか、飛行機に乗ったんだから、乗った人しかわからない、もっとちがう話のしようがあるもんだと言われたように思う。私にしてみれば、本当言えば、飛行機に乗れるという話を聞いた時は先に書いたように、最初はうれしかったが、その日が近づいてくるに従って段々心細くなって来たのだ。大津への車中でもそのことばかり考えていた。「落ちたらどうしよう」と。ましてや、滑走路をガタガタと言わせて走っていくプロペラ機に身を任せている時なんかは、生きた心地がせず、先生が隣にいても恐ろしい思いだった。

 ところが、作文にもやはり自分のそのような内面の気持ちは書かずに、当たり前のことを書いた記憶がある。案の定、先生をふくめてみんなには不評判だった。それ以来「作文」というものは嫌なものだと思うようになった。孫にはこの内面の思いは伝えきれず、模型飛行機大会の事実だけを伝えた。特に自分がいかに模型飛行機をつくるのに竹ひごもうまく曲げられず、紙の貼り方も下手な誰の飛行機よりも稚拙(ちせつ)だったのに、優勝してほんものの飛行機に乗ったことだけを伝えた。

 孫は長いじいじの話を忍耐強く読んでくれたようだ。次のような感想を書いてくれた。「やっぱ見た目じゃなくて結果ってことなんだね」「じゃあ、じいじは一人で貴重な体験したってことだね!!!」ありがたい孫の感想だった。

 ところが昨日、今日とヴィルヘルム・ブッシュさんという方が箴言15:11「よみと滅びの淵とは主の前にある。人の子らの心はなおさらのこと」を引用して書いておられることを読みながら、孫にもう一つの大切な事実〈結果が良ければ、すべて良しではなく、人の心の中の動機こそたいせつなのだ、主なる神さまはそこを見られるということ〉を知ってほしいと思わされた。それは不器用な一人の少年が、苦心しながらつくった模型飛行機に、法外なごほうびをくださったのは主なる神さまだったのでないかということである。強い風に誰よりも稚拙な模型飛行機だけが最後まで飛び続けたこと自身、この歳になっても未だに不思議でならない。ブッシュさんの今日の箇所を拝借して引用させていただこう。

 聖書(創世記16:13)の中に、子供をみごもった体で、荒野に迷い込んだひとりの母親のことが書かれています。渇ききり、絶望して、ついに彼女は死を覚悟します。その時突然、自分の名前が呼ばれます。それは神の御声でした。彼女はこのお方を「エル・ロイ」(ごらんになる神)と呼びました。

 主よ! あなたのあわれみに満ちたご臨在を感謝します。 アーメン

 「エル・ロイ」の神は、まさに冒頭の朝日新聞の曽我氏の言にしたがえば、忘れず残したいと思う意思と聞いて継いでゆきたいと思う意思により、歴史始まって以来、今日まで連綿として伝えられてきた、罪人に対して一方的なイエス・キリストの十字架をとおして示された愛そのものでないかと思わされた。

(※飛行機でエジンバラからロンドン上空を経由してフランクフルトに入った記憶がある。その時、機内から撮影した写真である。考えてみると10年前である!)

2020年7月17日金曜日

母の面影


女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。(イザヤ49:15)

 昨日の東京新聞夕刊「大波小波」にこんな記事(「遠藤周作、母の『影』」)が載った。読んでいて思わず目を疑った。それは次の文句で始まっていたからだ。

 「母さんは他のものはあなたに与えることはできなかったけれど、普通の母親たちとちがって、自分の人生をあなたに与えることができるのだと・・・」

 これは全く我が母と同じでないかと思ったからである。しかし、読み進めながら、もう一つの事実に気がついた。それは人間としての矜持(きょうじ)に触れたくだりだ。それについては後に触れたいが、私は遠藤周作については全く何も知らないと言っていい。ただ中学だったか高校の時だったか、毎日新聞に彼の小説が連載されていて、その小説を母が熱心に読んでいて、私にも勧めてくれ、時たま私自身も読んだことがあった。確かガストン先生という愉快な人物が出て来て、何かしら「ペーソスとユーモア」というものを感じさせられたことを思い出す(※)。

 後年、私自身がキリスト者になり、そのことが知人にわかると、必ずと言っていいほど、遠藤周作の『沈黙』を相手の方は話してくださる。ところが小説好きであるはずの私は未だにこの有名な作品を読んだことがない。そこには間接的に聞こえてくる、遠藤のイエス様像が、私が聖書で親しんでいるイエス様とはまったくちがうからである。イエス様の死は決して「殉教死」ではないからである(「人の子が来たのは・・・多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである」マタイの福音書20:29)。

 それはともかく、大波小波の「友星」が指摘する以下の言及だ。

 遠藤周作の未発表小説『影に対して』が、『三田文学』夏季号に載った。読めば、すぐわかる。ただの未発表作品ではない。三人称小説だが、告白に近い。告白ゆえ、関係者に配慮して発表が断念され筐底(きょうてい)深く沈められたのだろう。
 私はパスカルの「メモワール」を想起した。自身にとって最も重大切実な回心体験について、パスカルは終生語らなかったが、死後、服の裏地に自筆メモが縫いこまれているのが発見された。「影に対して」は、遠藤の人生の裏地に縫いこまれた「メモワール」だったろう。母の音楽は子の文芸に受け継がれた。

 最初読んだ時、遠藤もパスカルも人間としての「矜持」に立ち、自らのたいせつな「告白」を封印している。そこへ行くと、私自身平気でこのブログなどで「告白」https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/05/blog-post_22.htmlをしている。それは私の人間としての軽さから来ることにちがいないと痛み入ったからである。しかし、この文章を写している間に、パスカルの「メモワール」をはたして「夕星」氏が言うように、回心体験を終生語らなかった証だと言えるのかという疑問が出て来た。

 パスカルの「回心体験」は私のこのブログhttps://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/04/blog-post_22.htmlでも紹介しているし、私自身、パスカルに導かれるようにしてキリスト信仰を持つようになった経緯がある。聖書にはイエス様の一切が福音書に書かれている。また詩篇などにはそれこそ赤裸々な人間の気持ちが吐露されている。遠藤周作が未発表小説『影に対して』を筐底(きょうてい)深く沈めたのはわかるが、それと「メモワール」を同一視するのはやや飛躍しているのではないかと思った。

 パスカルの人間としての矜持は、肌身離さず、イエス・キリストへの思いを忘れまいとするそのただ一事にあったことではないだろうか。とまれ、近来心を動かされた「大波小波」であった。このような文化欄を持つ東京新聞はやはり捨てがたい。

(※念のため、図書館で調べたら遠藤周作文学全集5巻に「おバカさん」の題名で収録されていて、1959年3月26日から8月15日まで朝日新聞に連載とあった。私の高校2年の初め頃だとわかった。疑問なのは私の家では毎日新聞しか取っていなかったと思うのだが・・・。冒頭の写真は旧アルバムから出て来た母の写真。私が生まれる前の写真だと思う)

2020年7月16日木曜日

招き

はまゆう by Kazuko.Y

わたしのところに来なさい。(マタイ11:28)

 このことばは何とやさしい心地よいことばでしょう。イエスさまがあなたにそうおっしゃっているのよ。

 「どのようにしてそれがわかるの?」と言うのね。いいですか、弱りきってたいへん苦しんでいるすべての人にこう言われているのよ。あなたは時々弱りはてる覚えがない? たぶん良い子になろうとしてがんばりつづけ、もっと良い子になろうとして、とうとうへたり込むこともあるでしょう。そうよ、イエスさまが「来なさい」とおっしゃるのは、そういうあなたに向かってなのよ。

 もしあなたがまだイエスさまのところに来ていないなら、たとえあなたがそう感じなくても、たいへん苦しいのよ。だって、もしイエスさまがあなたからその重荷を取り除いてくださらなければ、いつまでも苦しまなければならないのよ。だからイエスさまが「来なさい」とおっしゃったのはあなたに対してなのよ。

 それはイエスさまがおとなにだけ向かってそうおっしゃったのではないのよ。イエスさまは「子どもたちを私のところに来させなさい。とめてはいけません。」(マルコ10:14)と、おっしゃったのです。あなたはこどもですか? それならここでイエスさまが「来なさい」とおっしゃっているのは、あなたにですよ。

 でもあなたは「もし主がここにおられたなら、そして主を見ることができたら、私は主のところに行くのだが」と言うのね。主はあなたが願っているようにほんとうにここにおられるのよ。たとえば、お母さんとあなたが暗い部屋に一緒にいて、お母さんが「おいで」と言ったとしたら、「お母さんが見えたら行ってもいいんだけど」と言ってじっとしてはいないでしょう。「お母さん!今行きます」と言って、すぐにさっさと歩いて行き、お母さんのそばに座って安心するでしょう。だからたとえお母さんが見えなくってもだいじょうぶでしょう、それと同じよ。

 イエスさまはあなたを呼んでいらっしゃいます。イエスさまはここにおられます。この部屋のうちにいらっしゃいます。さあ、「主イエスさま、参ります」と言わない? そして主が御手をのばして行く道を助け、みそば近く引き寄せてくださるのを願わない?

 そうです。あなたを愛し、あなたのためにご自身の命まで与えてくださった愛する主イエスさまのところへ、行くのです。主はあなたが来るのを熱心に待っておられ、あなたがやってきて小さな羊となって腕に抱きかかえられ、祝福されるのを願って、お呼びになっておられるのですよ。今、来ませんか。

(Little Pillows by F.R.Havergal を参考に、ブログ子がアレンジして作成しているものです) 

2020年7月15日水曜日

第三日 ささえ

珊瑚花 by Kazuko.Y

私をささえてください。そうすれば私は救われます(詩篇119:117)

 道をあるくのは容易じゃないね。もし、よく注意しないなら、つまずくかもしれないデコボコ石のところもあれば、全く平らなところもある。でも平らな道もデコボコ石よりはもっと危ないことがある。よく滑るからね。また、花々の下には隠れた小さい穴がある。足をとられて悪くすると穴に落ち込むかもしれないね。すべった上、悲しいことに濡れて汚くしてしまうかも知れぬ、ぬかるんだ溝もあるよね。

 こんな道を安全に歩くのにどうすればいいと思う。強くって親切な手の支えがいつもあればいいよね。スコットランドの老婦人が「私がキリストを握るのでなく、キリストが私を握ってくださる」と言ったように、そういう手の支えが必要なんだ。そう、キリストのやさしい手は「あなたが落ち込まないように守ることができるのだ。」安心して自分の手をイエスさまの手にまかせるだけでいいんだよ。そうすれば道は安心して歩けるし、足がつまずくことなんてないよ。

 でもね、今朝の鐘のチャイムを半分だけ鳴らして、だめにしないでね。「私をささえてください」と言うだけでそこで終わったり、あるいは逆に「でも、やっぱりつまずいてしまう」なんて言わないでね。神様ご自身の音楽、神様が口の端に上せてくださった輝く信仰のことば「私をささえてください。そうすれば私は救われます」ということばを最後まで味わってね。イエスさまに信頼しないのでなく、神様はあなたの願う通りにしてくださるとまったく信頼し、神様にささえていただくなら、そうなるのよ。

 聖書には、これにマッチして、約束のない祈りを見つけるのはむつかしいものよ。そう、ダビデは「みことばのとおりに私をささえてください」(詩篇119:116)と言っているよ。

 神様はそのことについて何と言われたのだろうか。この記事よりももっとたくさんあるんだ。「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握る」(イザヤ41:13)「わたしはあなたを守る」(イザヤ41:10)「主はあなたの足をよろけさせず」(詩篇121:3)「あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず」(箴言4:12)「主には、彼を立たせることができる」(ローマ14:4)「主があなたの足がわなにかからないように、守ってくださる」(箴言3:26)「主は聖徒たちの足を守られます」(1サムエル2:9)

 あなたのひとつの小ちゃな祈りに何と七つの答えの約束があるんだ!

「恐るな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)
あなたがしっかりと立つようにと、あなたは召され、選ばれているのよ。

(Morning Bells by F.R.Havergalの私訳です。)

2020年7月14日火曜日

第二日 私たちの偉大な模範

檜扇水仙 by Kiyoko.Y


キリストも、ご自分を喜ばせようとはなさいませんでした。(ローマ15:3 リビング・バイブル訳)

 君は聖なる御子イエスさまの足跡にしたがいたいとほんとうに思っているの。神様にもっとイエスさまのようにしてくださいと求めたことがあるの。今日始めてみるつもりはある? それなら、ここに今日の標語、「キリストも、ご自分を喜ばせようとはなさいませんでした」があるよ。そのことばどおりイエスさまのまねをしてみない?

 標語どおり行なって、他の人たちにだけでなく、君の好きな救い主イエスさまに、君が言ったり祈ったりして、しようと思っていることがはっきりする機会が君にはきっとたくさんあると思うよ。

 多分、君にとって、この「モーニング・ベル」はチャイムでなく、むしろとむらいの鐘となって憂鬱になるかもしれない。でも、もし君がほんとうにキリストのようになりたいと願うなら、この「モーニング・ベル」はどんなものにも劣らない快い音楽であり、静かなチャイムが繰り返し繰り返しすばらしい心良さと力をもって君を訪れ、あらゆる困難なことから君を助け、すべての罪や思い煩いから助けてくれることがすぐにわかるよ。

 君は自分で真剣に努力してみない限り、少女が実際にどんなに幸せを感じることができるかは話せないと思うよ。少女は自分自身が好んでいたものをイエスさまのために元気よくあきらめたのよ、そしたら幸せになったと言う。少年もまた自分自身の自由な意志で神の恵みによって選び取ったことがどんなに幸せになることができただろうか。少年は自分自身を喜ばせる代わりに主イエスさまを喜ばせたいと良心が命ずることを選んだのだよ。そうしたら幸せになったんだ。

 もしまだそんなことを試みたことがないというなら、今日始めてみない? 君はまったく新しい幸せを見つけられるよ。

 ああ、もしキリストがご自身をよろこばせるだけで私たちを救うために降りてこないでご自身の栄光ある天の家にとどまっておられたら、私たちはいったいどうなったでしょうね。君がイエスさまに喜んでいただく代わりに、自分を喜ばせたいと誘惑されるような時になったらそのことを考えてごらん。そして、イエスさまは君をたいそう愛されたから、ご自身をよろこばせなさらなかったということを思い出すんだよ。それは君がイエスさまをよろこばせ、イエスさまのために他の人たちをよろこばせる手助けにきっとなるよ。

 もしイエスさまの血潮で洗ったら、
 その時、イエスさまの似姿も身につけよう
 そして前に進む時には
 「イエスさまは何をなさりたいのか」と尋ねてみよう

 完全に自由な手を差し出してごらん
 神様は君に自由に与えてくださるから
 それぞれわがままな思いをやめて
 「イエスさまは何をなさりたいのか」と問おう

(昨日に引き続いて、F.R.Havergalの「Morning Bells」 の試訳、私訳です。ハヴァガルは私の尊敬するイギリスのキリスト者です。彼女も決して長生きはしませんでしたが、その考えることはいつも主の御栄光でした。そのため、このように子どもたちのために朝のみことばを30日間一組で書き表しています。夜は夜で「Little Pillows」として書き表しています。この邦訳「小さな枕」は大正4年に白井さんの手によりなされています。残念ながら表現が今のこどもには理解できないところがあります。しかし、すばらしい白井さんの作品だと私は今でも思っています。「Morning Bells」はそれ以上に残念なことは邦訳がありません。それで恥も外聞も顧みず、試訳・意訳をしております。また、この機会に、2016年その伝記を一部中断していましたものを折を見て載せさせていただきます。ご愛読、ご感想を切にお願いします。写真は7月初めに友人からいただいた絵葉書を使わせていただきました。)

2020年7月13日月曜日

第一日 キリストの少年時代

古利根川堤の花畑の一角


聖なる神の子イエス(使徒4:30)

 もしわたしが今いくつとたずねたら、あなたはきちんと答えてくれるだろうね。「8歳半」「ちょうど10歳すぎたところだよ」「来月で11歳だよ」など。ところで神様の「聖い御子であるイエスさま」のこどものころのことや、12歳で宮におられたことは考えたことはあるだろう。でも、ちょうどあなたと同じ年頃であり、今まさに今日の自分のようなことを経験されたと考えたことはある? イエスさまは8歳、9歳、10歳であることがどういうことなのか、またあなたの経験することはどんなことでも知っておられる。神のことばである聖書は今日までこの一つのこと「イエスは聖なる子」だったとしか語り伝えていないのだよ。

 では「聖」とは何だろう? それは傷が何もない、完全に美しく、善で、愛されるすべてのものを意味しているのだよ。これがまさにイエスさまがあなたの年頃そうだったことなのだ。イエスさまはやさしく勇気があり、考え深く、利己的でなく、気高く、誠実で、従順で、愛があり、親切で、赦しを身につけておられた。あなたがかつて他のもののうちに称賛したり愛したりしたものとして考えることのできるものは全部イエスさまのうちに見つけられたのだ。外側だけでなく内側もそうなのだ。だってイエスさまは「聖」だからなのだよ。

 じゃあ、イエスさまは、なぜあなたのために来て死ぬ時まで、天にとどまらず地上でこんなふうに聖い少年時代を過ごしたのだろうか。一つの理由はイエスさまはあなたがイエスさまのようになりたいと聖霊なる神様にイエスさまに似る者としてくださいと祈れるように美しい模範を残すことだったのだよ。

 けれどももう一つのことはもっと恵み深くすばらしいことなのだ。それは「私たちが、この方にあって、神の義となるため(2コリント5:21)」だったのだよ。すなわちそれは今やすべてのこの善いことや聖いことがあなたのものだとみなされるのだよ。なぜなら、あなたは自分自身のうちに汚い以外のいかなるものも持っていないのだが、神様はイエスさまのゆえにまるであなたが全く従順で、誠実で、利己的でなく、善良であったかのように微笑んでくださり、あなたにイエスさまのご褒美をくださるんだよ。それはあなたが受けるにはふさわしくないものだが、イエスさまがあなたのために受けてくださったものだ。

 イエスさまはあなたの罪と引き換えにイエスさまの正しさをくださるのだ。イエスさまはあなたの懲らしめと引き換えにイエスさまのご褒美をくださるのだ。もしあなたがこの交換を受けさえすれば、必ず変えられるのだ。

嬉しい、嬉しい
私のたたえる救い主イエスさま!
イエスさまにあるこどもは
どんなに純粋で聖いものかを示そうと
私のようにこどもになってくださったのですね。

それだけでなく
もし私がイエスさまの跡をついていきたいと願うなら
決して私を忘れられないのですね。
だって、イエスさまは私をそんなにまで愛してくださるのだもの。

2020年7月11日土曜日

孫への手紙(下)


 えみちゃん。6さいのたんじょうび、おめでとう。いちねんまえのこのブログに、5さいのときのえみちゃんのようすがかいてあった。それをみて、またこの1ねんのあいだにすっかり成長(せいちょう)したんだなとおもったよ。このまえあったとき、あうなり、えみちゃんが、「じいじとあうのはひさしぶりね」といったのにはびっくりしたよ。それから「としとったね」ともいったね。

 こんかいは四日(よっか)ほどいたんだっけ。しょくじのたびにじいじがおいのりするときも、しずかにしていられるようになったね。それだけでなく、ばあばがいうには、おいのりのおわりのときに「アーメン」というようになったそうだ。まえから、きみちゃんが「えみちゃんは日曜学校(にちようがっこう)のおはなしをしっかりきく」といっていたので、じいじもうれしかったよ。ばあばにいわせると、えみちゃんはしゅうちゅうできる子(こ)だそうだ。

 このまえも、パレットをつかって、おえかきや、そめあそびをして、たのしかったね。そのパレットのよごれを、かえるときには、きれいに水(みず)でぬぐって、すみずみまできれいにしていたね。じぶんからすすんできれいにしたいとおもう心(こころ)はたいへんすばらしいよ。おとうさんおかあさんに、プールにつれていってもらい、およげるようになったり、なしがりもして、たのしいなつやすみだったね。

 じいじが、こんかい、えみちゃんにまなばされたことが一つある。それはいつのしょくじのときだったか、じいじが、パパのちゅうがっこうのときのあまりよくなはなしをし、みんなもそのはなしにのっていたとき、えみちゃんが「みんなそんなことをいってたのしいの?」といったことだ。じいじは一本(いっぽん)とられた、とおもった。むかしのことをいうより、これからのことをかんがえたほうがどれだけたいせつか、ということをいつもイエスさまからおそわっているのにね。

 らいねんの4がつにはしょうがっこうにはいれるね。そうしたらじいじたちのように「聖書(せいしょ)」もじぶんでよめるようになるよ。ほんのだいすきなえみちゃんが、じぶんでせいしょがよめるように、じいじはこれからいのることにするよ。たんじょうびおめでとう。せいしょのことばをおくります。

だれでもキリストのうちにあるなら、そのひとはあたらしくつくられたものです。ふるいものはすぎさって、みよ、すべてがあたらしくなりました(しんやくせいしょより)

(しゃしんは、このまえ、じいじが、きみちゃんのくるまにのせてもらって、ばあばといっしょにみてきた、たかみねこうげんのおはなばたけだよ)

2009年8月20日「泉あるところ1」より転載

2020年7月10日金曜日

孫への手紙(上)

            
 Eちゃん。5さいのおたんじょうび、おめでとう。いつのまにか、ずいぶんおおきくなってしまったね。このてがみも、ひらがなだから、よめるんだよね。こえにだして、よむといいよ。じいじのこえがきこえるよ。

 このまえは、じいじ、こころのなかで、びっくりしてきいていたよ。

 おぼえているかな。じいじが、みずどりのしゃしんをこのパソコンでみせてあげたときのこと。Eちゃん、いったね。「このまえ、ようちえんのちかくのいけで、カタツブリというとりをみたよ、でも、こんないろじゃなかったよ。もっとちゃいろいいろだった。」じいじはうっかりしてききわすれたが、もっとずいぶんくわしくはなしてくれたね。

 もちろんEちゃんが「カイツブリ」を「カタツブリ」といいまちがえていることは、じいじにはすぐぴんときたが、Eちゃんがよーくかんさつして、せいかくにおぼえておはなしできることにびっくりしたんだ。

 Eちゃんがせんせいになり、いもうとのMちゃんやいとこのUちゃんにいっしょうけんめい、なまえやとしをいわせ、おうたをおしえたり、はっぴょうさせたりしてたのしんでいるのも、かわいらしいね。

 それからばあばといっしょにおえかきやおかしづくりもさいごまでできるようになったね。なにもできなかったあかちゃんのEちゃんがここまでおおきくなったことをじいじもばあばもイエスさまにかんしゃしているよ。

 でも、きになることもあるんだよ。きのうもUちゃんばあばがきたとき、「Eちゃんあたまはよいが、このごろくちがわるくなってきたんじゃないだろうか」ってしんぱいしていた。じいじもハッとしたよ。Eちゃんがだんだんおおきくなってかしこくなってきたことをかんしゃしていたが、もうひとつわるいこころもじっとしていないのだなとおもったからだよ。

 じいじのすきなイエスさまはね、どんなひとのくちもわるい、Eちゃんだけでなく、じいじもばあばのくちもわるい、それがひとをきずつけるんだよ、といわれるんだ。でもねイエスさまはね、わたしたちみんなのくちのわるさをなおしてくださるおかたなのだよ。

 イエスさまはみんなのわるいこころをなくすために、みんなのかわりにわるいこころのばつをじゅうじかでうけてくださったのだよ。だから、もしわるいことをいってしまって、わるいとおもったら、イエスさまごめんなさい。わたしのわるいくちでなく、イエスさまのよいくちをください、といのってごらん。きっとそのいのりをイエスさまきいてくださるよ。

 Eちゃん、もういちど、おたんじょうびおめでとう。

もし、わたしたちがじぶんのつみ(こころのなかでわるいとおもったこと)をいいあらわすなら、かみはしんじつでただしいかたですから、そのつみをゆるし、すべてのあくからわたくしたちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9)

(この項目は2008年8月20日に「泉あるところ1」ですでに公開したものですが、今では見られなくなっているので写真〈南ドイツ・フィリンゲンにて2010.11.2などを再編集して掲載しました。)

2020年6月14日日曜日

「作曲家・指揮者」エドトン

サカツラガン 2020.6.14  (春日部大池親水公園)

 四月に始まった朝ドラ「エール」を毎朝家内と楽しみに見ていることはこの前話題にしたばかりだが、最近、一日に一回昼間に『詩篇の研究』(青木澄十郎著)をひもとく新しい習慣が生じた。そして、この岩槻生まれの方の香り高い文章をこのブログに転写してみたいという衝動に駆られる。しかし、いつも今一つ実行に至らない。著者がすでに故人であり、奥付きを見ると昭和34年が第一刷とあるが、恐らくは、それ以前の大正年間に著者が書き記したものに違いなく、もはや今の読者には読み難い文体となっているからである。

 それで、今日は思い切って著者が伝えようとしていることを、私なりに読み込んで、文章化してみた。直接の対象は詩篇39篇である。この詩篇の頭書に「指揮者エドトンのために、ダビデの賛歌」とあるが、このエドトンに言及する頭書を持つ詩篇はこれだけでなく、62篇にも、77篇にもある。

 指揮者エドトンとはどういう人だろうか。賛美の音楽の天分が豊かであったことからダビデの信任も厚く、それだけでなく「王の先見者」(2歴代35:15)と言われている(この点、このブログの読者にはお馴染みのハヴァガルと共通する)。青木氏によると、それは神の啓示を受ける人でもあったようだ。神の音楽を司るにふさわしい人であった。それでは「神の音楽」とは何だろうか。具体的に叙述しているのが、旧約聖書第一歴代誌16章4節の次の箇所である。

ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、主の名によって民を祝福した。・・・それから、・・・ある者たちを、主の箱の前で仕えさせ、イスラエルの神、主を覚えて感謝し、ほめたたえるようにした。            

 すなわち、「神の音楽」の種類は三つ、覚える、感謝する、ほめたたえるである。HOLY BYBLEは、この点、明確である。to record, and to thank and praiseと区分しているからだ。したがって「祈願、感謝、賛美」の三つにわかれ、最後の賛美は「ハレルヤ」とも言い、神の音楽のうちもっとも明るいものでその指揮者の一人がエドトンであった。それは24班からなる総勢4000人のオーケストラで、楽器は立琴、十弦の琴、シンバルありラッパもあり、ソプラノ、バスの人声もある壮大なものだった。(2歴代25章、23:5)

 さて、問題はダビデはなぜその「賛美・ハレルヤ」と明るい面を受け持つエドトンに詩篇39篇の作曲を命じたのかわからぬと青木氏は言う。以下はその青木氏の文章である。

本篇は少しも明るくない。多分アブサロム事件の時の作だろう。不平満々たるものがあり、人生無常の嘆きがあり、仇人の陰謀もある。

 青木氏の言を補足するなら、2節、9節と相次いでダビデは沈黙を貫く覚悟を言う。そしてそれは一見、仇が沈黙させたように見えるが、帰するところ全能の主から来ることだとその心を示す。人は神の前に誇るべき何ものもないと悟ることは「明るさ」の前段階に是が非でも必要なことである。ここに一見暗さばかりが目立つ詩篇39篇を、指揮者エドトンに託したダビデの心があるのではないか。なぜなら、朝ドラで「エール」の主人公は作曲家古関裕而を模しているが、作詞と作曲は表裏一体であることがよくわかるからである。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2020/05/blog-post_5.html

 青木氏は、6節は実によく現代人を描写している。だから互いに「頂門の一針」にしようと呼びかけている。

(ご覧ください。あなたは
私の日を手幅ほどにされました。
私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。
まことに、人はみな、盛んなときでも、
全くむなしいものです。)
まことに、人は幻のように歩き回り、
まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。
人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。

 国語辞書に「頂門の一針」とは、「頭の上に一本の針をさすように、痛い所をつく教訓」とあった。しかし、己が人生のはかなさをほんとうに痛みをもって知った者だけが、次節7節の

主よ。今、私は何を待ち望みましょう。
私の望み、それはあなたです。

との告白に導かれるのではないだろうか。してみると「明るさ」を指揮するエドトンを作曲者として選んだダビデの心はこの7節にあったのではないか。折角の青木氏の注釈だが、私は勝手にそう読み込んだ。聖書は古くして新しい。「エール」を鑑賞しながら、ダビデ作詞エドトン作曲に思いを馳せるのもなかなか乙なものでないか。

2020年6月9日火曜日

不老長寿の秘訣 詩篇34:9〜16

2020.5.15
主を恐れよ。その聖徒たちよ。
彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
若い獅子も乏しくなって飢える。
しかし、主を尋ね求める者は、
良いものに何一つ欠けることはない。(詩篇34:9〜10)

 「何一つ欠けることはない」とは安価な楽観ではない。ダビデはこの当時、すべての良いものに全く欠けていたのである。ところが、信仰によってこのように叫んだのである。神は今や倒れんとする刹那まで助け給わないことがたびたびある。これは信仰の試練、忍耐の鍛錬である。私たちが見捨てられたと感じる時こそ「彼を恐れる者には乏しいことはないからだ」と信じ、この「若獅子」の句を思い出すべきである。

来なさい。子たちよ。私に来なさい。
主を恐れることを教えよう。
いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、
日数の多いのを愛する人は、だれか。(詩篇34:11〜12)

 しかし、一転して「来なさい。子たちよ。私に来なさい。」とある。神の語と見るか、詩人の語と見るか。いづれとも解釈できる。「いのちを喜びとし、日数の多いのを愛する」の語は「不老長寿」の意味である。「いのち」は溌剌たる生命を言い、「日数」は長寿を指す。詩人はわれわれに不老長寿の秘訣を教えようと言うのである。それは「主を恐れる」ことである。
 すなわち、虚偽の言を去り、悪の行為を捨て、善をなし、人との平和を追い求めるのである。旧約聖書に永遠の生命の語は見出せないがこの句などはそれに近いものである。神を恐れる心は発芽して健康長寿となり「しあわせを見る」手段ともなる。「しあわせ」の延長完成が新約で言う天国であるとも言える。

あなたの舌に悪口を言わせず、
くちびるに欺きを語らせるな。
悪を離れ、善を行なえ。
平和を求め、それを追い求めよ。(詩篇34:13〜14)

 神を恐れる心より生ずる倫理的言行は心身保全の本道である。いかに完全な機械でもこれを悪用濫用すればすぐに破損する。法にしたがって用いれば永く存する。舌やくちびるは正直に語るべく造られたものだが、人を欺くために用いれば、脳の中枢に無理が生ずる。霊魂と肉欲との間に闘争が生ずる。頭脳も心臓も過労に陥る。人を欺く時に心臓の動悸が昂る。
 近来は電波で犯罪者の虚言を調べ、心臓の鼓動の変調でわかると言う。虚言の辻褄を合わせる脳髄の浪費、実に多大の健康妨害である。怒ることの心臓に及ぼす害は誰でも知っている。憤怒のあまりに死ぬ場合さえもある。人が老いるにしたがって童顔を失うのは肉体を罪で逆使するからである。「平和を求め、それを追い求めよ」とあるように「平和」は心身の良薬である。何をおいても求むべきである。
 加えるに「主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに」いつも傾けられている。と同時に「悪をなす者を・・・地から消される」のだから、自ら傷つける不養生は倍加して生命を脅かす。人間の健康も寿命もこのようにしてすみやかに消耗する。

主の目は正しい者に向き、
その耳は彼らの叫びに傾けられる。
主の御顔は悪をなす者からそむけられ、
彼らの記憶を地から消される。(詩篇34:15〜16)

(『詩篇の研究』青木澄十郎著93頁から引用。引用に当たって少しことばを現代風に改めたところがある。)

2020年6月5日金曜日

老ヨハネの独語(下)

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会内の食堂壁画(ミラノ)

人は私の名を何と呼んでいる
聖ヨハネだって?
否とよ
『イエス・キリストに愛せられた者』と書いてくれ
そして『子供らを愛する者』と
私を横にしてくれ
今一度寝床の上に
東の窓を開けてくれ
視(み)よ、光がさし込んでくる
光がーー
パトモスのあの荒凉たる孤島で
ガブリエルが来て私の肩に触ったとき
あの夕方に私のたましいに差し込んだのと同じ光が
視(み)よ、次第に明るさが増してくるではないか
主が真珠の門に昇り行き給うた時のように

私は道を知っている
一度踏んだことのある道だ
聞け、贖われた者の唱う小羊の栄光の歌を
雄大な声ではないか
殊にあの記録を禁ぜられた歌はーー
私のたましいは今それに列(つらな)ることができるように思う
あの輝く道から来る一群は誰だろう
ああ歓喜!十一人だ
ペテロが先頭だ、熱心にこちらを見ている
ヤコブの顔に微笑が輝いている
私が最後だ
過越の小羊の食卓はこれで揃った
私の席は主のすぐそば
おお、私の主よ、私の主よ
まあ、何と輝いていたまうことよ
でもガリラヤの昔と同じ愛の主だ
この幸福を味わう瞬間は
百年の価値にまさる
愛する主よ、汝の懐に私を引き上げ給え
私はいつまでもいつまでもそこに『居り』ます

 「私も主イエスをかように慕いつつこの世を去りたいと思います。」と語った青木澄十郎氏は、続いて次のように語っています。

 この詩中に『あの記録を禁ぜられた歌は・・・』の句がありますが、あれは黙示録10章4節を指すのでしょう。大体この詩には黙示録を書いた思い出が流れているようです。『私は道を知っている一度踏んだことのある道だ』との句は黙示録4章1節を指すのでしょうし、ヨハネの寝台の側で泣いている人々に向かって『泣いているのか海の波の音か』と言ったのもパトモスの島で波の音ばかり聞いていたところから来た錯覚を描いたものでしょう。最後の句に『私はいつまでもいつまでもそこに居るのだ』と結んでいますが、この『居る』の語はヨハネ伝15章を思わせます。

と、結んでおられます。まことにイエス様が次のように言われたみことばは至言です。これすべてヨハネが私たちに伝えたものであります。

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。(ヨハネ15:4)

2020年6月4日木曜日

老ヨハネの独語(中)


彼とともに歩みし日の聖かりしことよ
麦の畠の中を
人なき荒野の小道を
疲れ、行きなやんで
幾度か私の腕に倚り給うこともあった
私は若かった
腕は強かった
この腕で負いまいらせた
主よ、今私は弱り、老い衰え、ふるえます
御手にすがらせ給え
御腕もて抱き給え
いかに御腕の強きことよ
黄昏は歩を進めて来ます
主よ、急ぎましょう
このやかましい街を去って
ベタニヤへと急ぎましょう
マリヤの微笑みが門で待っています
マルタの忙しい手が
楽しい夕飯を調(ととの)えています
ヤコブよ、早く来なさい、主は待ち給う
視(み)よ、ペテロは一足先に往く

何?友よ、『ここはエペソです』と!
『キリストは疾(と)くに御国に帰り給うた』と!
よし、よし、それは知っている
しかし私は、今再び故郷の山に登って
先生に触ったように思ったのだ
おお主の御衣に触れた人の
枯れたる手足に力の蘇(よみがえ)ったのを
幾度目撃したことであろう
その力を私の四肢にも感ずる
立て、今一度私を私の教会につれて往け
今一度!
主の愛を彼らに今一度語ろう
主の御臨在は今は特に近くに思える
主の御声は今日特に親しく感ずる
年とともに肉の面帕(かおおおい)は薄くなった私は
墓のかなたをさえ見透し得る
この面帕を取り去らんとて
主は今私に近づき給う
おん足音がきこえるではないか

私の頭をもたげてくれ
如何に暗いことよ
愛する私の群れの人々の顔さえ見えない
泣いているのか、あれは海の波の音か
黙せよ、わが子供らよ
神はその独り子を給うほどに世を愛し給えり
されば汝ら互いに相愛せよ、アーメン
恐れるこの世に私が遺す形見はこれだけだ
私の仕事は終ったと感ずる
私をつれて帰れ
街路は人で一杯か

(この詩は無名の方のものを青木澄十郎氏が訳されたものであるが、明日もその続きをお載せするから、結構長い詩である。氏は訳しながら私も主イエスをかように慕いつつこの世を去りたいと思いますと言っておられるが、青木氏自身の人生が掛け値なしのそういう人生だったと思う。まさに「文は人なり」である。青木氏は物の本によると1870年岩槻に生まれ1964年まで生きておられたと言うから、ちょうど先の東京オリンピックの年に召された方である。『聖ヨハネの最後の手紙』と題してヨハネについて次のように書いておられる。ヨハネはその晩年をエペソで過ごし、七つの教会の世話をしていたという伝説は確実なものであると見て良かろう。ロマのドミシャン帝の時にパトモスに流され、ネルバ帝の時に赦されて再びエペソに帰ったのであるから、黙示録の書かれた時はおよそ推測ができる。それは紀元95年頃と思われる。ヨハネは主イエスより5、6歳年少者であったと見てもこの時には95歳ぐらいである・・・)

2020年6月3日水曜日

老ヨハネの独語(上)

ドイツ・フィリンゲンの教会の扉

時 彼の臨終直前
所 エペソ
教会の人々に取りまかれて

私は老いて行く
主イエスの懐に幾度かよりかかったこの頭は
ーーああそれは遠い遠い昔の夢であるーー
今は白く霜をいただき
年の重みで曲がってきた
幾度かガリラヤからユダヤへと
主のおともして、私を運んだこの足は
十字架のもとに立った時に
主の呻(うめ)きとともに震えたが
今は子供らに道を語るべく街に出る力さえ持たぬ
私のくちびるさえも
私のハートから流れ出るものを
言語に綴るのを拒む
耳は遠くなった
病床のそばに集まった愛する子供らの
すすり泣きさえも聞こえない
神は御手を私の上に置き給うのだ
ーー然り、御手である、笞ではないーー
三年の間
幾度か私の手に触れた
女の愛よりも暖かい
あのやさしい友情の御手である

私は老いてしまった
親しい友の顔さえも思い出せぬほどに
老いてしまった
日々の生活を織り成しゆく
慣れた言葉や動作さえも忘れてしまう
しかしただ一つのなつかしい顔が
語り給うた御言葉の一つ一つが
他のすべてが褪(あ)せて行くにつれて
いよいよ鮮やかに浮かんでくる
生きている人々よりも
世を去り給いし彼とともに
私は暮らしているのだ

七十年ばかり前であった
あの聖き湖水で私は漁夫をしていた
ある夕暮れのこと
波は静かに岸辺を洗い
夕陽は遠き山の端に退き
柔らかい紫色の影は露野を包みつつあった
その時あの方が来た
私を呼んだ、私を
あの麗しいおん顔を私は始めて見たのである
あの眼
ーー神々しい天の光が
窓から覗くように
私のたましいの奥にさしこんだーー
あの光は永遠にそこにともっている
それから、あの方の御言葉だ
私の心の寂寞を破って
宇宙を音楽にした
受肉せる愛が
私をとらえ
私は彼のものとなった
黄昏(たそがれ)の光のうちに
彼の袖に縋(すが)りつつ歩んでいた

(この詩はある外国雑誌に無名氏の作として載せられていたものを、青木澄十郎氏が訳され、昭和13年に『ヨハネ黙示録講解』を出版された際に付録としてあらわされたものです)

2020年5月23日土曜日

高慢な教職者と謙遜な労働者

谷口幸三郎作 1980年


 自ら非常に博学で宗教的だと思っている一人の教職者(牧師などを指す)が天寿を全うして死んだ。疑いもなく彼は良い人だった。天使らが主によって彼のために定められた霊界の場所へ連れて行こうとして来た時に、彼を中間状態へ置いた。そこは彼の生活と信仰にとって益となるところだった。

 天使らは言った。「あなたはここより上の階級に行く用意がまだ全くできていません。それでしばらくここにとどまり、私たちの仲間の働き人が教えるように主から命を受けていることを学んでもらわねばなりません。それが終わったなら、私たちは大喜びであなたと一緒にここより上の階級のところにお連れしましょう。」

 教職者は言った。「私は一生の間、天国に至る道について人々に語って来た。私は今更何を学ぶ必要があると言うのか。私は何でも知っている。」

 それから導き手である天使らが言った。「あなたより先に上の階級へと彼らは上っていきます。私たちは彼らを引き留めることはできません。しかし、あなたの質問には答えることができます。友よ。もし私たちが正直に話しても気を悪くなさらないで下さいね。あなたはここに自分一人がいると思っていらっしゃるが、主イエス様もここにいらっしゃるのですよ。あなたには見えないかもしれませんが・・・あなたが『私は何でも知っている』と言われたプライドがイエス様を見えなくさせているし、より高い上へと進むのを妨げているのです。へりくだりこそ高慢に効く薬です。そのことを実践なさい。そうすれば、あなたの願いはかなえられますよ」

 このあと、天使たちの一人が彼に話して「今あなたより上に進んで行った人は学識もなく無名の人でした。あなたは彼を注意してみなかったかもしれませんね。彼はあなたの教会に出席している一人でしたよ。人々も彼を全然知りませんでした。なぜなら彼はありきたりの労働者であり、仕事のため遊ぶこともほとんどできませんでした。しかし彼の仕事場では彼が勤勉で正直な働き手として知られていました。クリスチャンとしての品性は彼と交わったすべての人に認められていました。その彼は戦争の時に、フランスへ召集されました。ある日、そこで負傷していた仲間を介抱していました。その時弾丸にあたって殺されたのです。

 彼の死は突然でしたが、用意できていました。だからあなたがとどまらなければならない中間状態にとどまる必要はなかったのです。彼が上に進んだのは「えこひいき」でなく、霊的価値によるもので、彼が世にいる間、彼の祈りと謙遜との生活が霊界のために大いに準備されていたのです。今や彼は目的地に着いて喜んでおり、主の恵みにあって、救われ、永遠のいのちを与えてくださった主に感謝と讃美の声を上げているのです」

(以上は『霊界の黙示』の第6章の「天の住居」と「天の生活」の間に挿入されていた文章の私訳ですが、本来は5月19日の『霊界の黙示』(下)に掲載すべきものでした。ただ長くなるので勝手にカットしましたが、この文章があってこそ、「天の住居」と「天の生活」が生きてくるのです。読者諸氏にはもう一度、とくと『霊界の黙示』(下)を味読いただきたいと思います。謙遜は栄誉に先立つ(箴言15:33)

2020年5月22日金曜日

主のご計画の一端(下)

「女学校時代の母」

 なぜ驚いたかと言うと、その本は気持ち悪いどころか、「福音」がちりばめられていたからである。私の家に、福音に基づいた本があるなんて、信じられなかった。この吉田家は、滋賀県の高宮に家を持ち、北海道森町で米屋をしていた。母はその吉田家に女学校を出てすぐ嫁いだのであった。ところが二人には子どもがいないまま、夫文次郎は中国南昌の野戦病院で戦病死した。21歳のか弱い女性が漁師町で商いができるだろうか。案じた母の実家の両親は引き上げさせ、滋賀県の高宮の地でお家継続を願ったのだろう。もともと母の実家と吉田家は親戚同士であった。

 その彼が残した本を母は森町から滋賀県に引き上げてくる時持ち帰ったのだ。彼のことは父の手前、それほど母は私にはっきり話したわけではないが、それでも私は父のアルバムと同じくらいに彼・文次郎氏のアルバムを見て育った。彼は函館商業を卒業していたが、そのアルバムも何度も見ていた。また母からは文次郎氏が思想問題で軍隊ではうまくいかなかったのでないかとさえほのめかすことがあった。わずか2年ばかりの新婚生活で母の先夫に対する信頼感は、父が休職したおりなど、先夫恋しさのあまり、多分に理想化されてしまっていたのだろう。私はそういう父と母の夫婦生活における微妙なお互いの気持ちの行き違いを目の当たりにして育った。

 そこに後に私が人生で最大の蹉跌を経験する要因がすでに伏在していた。その私に婚約者をとおして三年越しとも言える双方の文通を通して「福音」が入って来た。福音が大切か、先祖以来連綿と続いた家風が大切か、その二者択一をめぐって私たちはキリキリ舞をさせられていた。しかし、主は堂々とよちよち歩きの信仰者に過ぎない私たちに、50年前に新しい吉田ファミリーとしてのスタートをさせて下さった。

 その上、最近になって敬愛する谷口幸三郎氏が、自らの信仰が30年前だとばかり思っていたが、それよりも早く40年前に自ら手がけていた作品があったことを証してくださった。ちょうどその時は、村上恵子さんが召された時であった。私は何とかご遺族を慰める方法がないかを思って、はたと思いついたのが、このサンダー・シングの本であった。ご紹介する限り、いい加減な作品であってはいけないと思い、何回も読んだ。全ページ106頁だからそれほど読むのに骨の折れる作品ではない。

 そして確信を抱いたのは、これはまさに必読書だと言う思いであった。残念ながら訳者のお用いになる日本語は昭和2年のものであって、令和の時代に生きる人々には少し難解かもしれない。幸い、今回英文がサイトで探索したら見つかった。https://archive.org/stream/VisionsOfTheSpiritualWorldBySadhuSundarSingh-1926-UploadedBy/VisionsOfTheSpiritualWorldBySadhuSundarSingh-1926_djvu.txt
参考までに自分でも訳して金井氏の訳文と比較してみたが、やはり大変な名訳で流麗なる文章だと思ったが、明日はその個所の私訳を谷口氏の作品とともに紹介したい。

 それはともかく、このようにして『霊界の黙示(Visions Of The Spiritual World)』がキリスト教は家風にあわないと論戦を張られた私の家に、それも私が生まれる以前の昭和15年(1940年)ごろに北海道森町※の吉田家が畳まれ、滋賀県高宮町の本宅へと帰郷して持ち込まれていたという事実だ。母の先夫吉田文次郎氏がどうした案配でこの本を所持していたのか、そしてほんとうに読まれたのかどうかも明らかではない。ただ本の表裏書きに以下の添え書きがあった。

本郷正嘉より別れの記念に君が机下に送呈す。

 時は日中戦争緒戦のころであった。吉田文次郎氏はじめ多くの若者が召集令状を受けて出征していった。その中にはキリスト者もいたであろう。本郷氏がどんな人物か知る由もない。しかしそこにはこの本に示された福音こそ、生死を分かつ戦争をも、ものともしないという本郷氏のキリスト信仰の告白が秘められていたのでないか。ここにこの本の持つ味わいがすべて語られているように私には思えてならない。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。(ローマ8:18〜19)

(※さらに今から7、8年前、古本で手にした『すべては備えられた』(フィリス・トムソン著松代幸太郎訳)を読んでいたら、その110頁に森町に言及した個所があった。何とハドソン・テーラー創始のO.M.F.が日本宣教のため戦後1951年ごろ上陸したのが「森という海べの町」であったという記述があった。そう言えば私は1979年春先だったと思うが職場の同僚たち八人と函館に旅した折、ほんの短時間だけ一行を離れて一人足を伸ばして、森を訪ねたことがある。森駅の前に海が迫っていた。「ああ、母はこんなところに住んでいたのだ」と白波が波立つ荒い海を見ながら、感慨を新たにしたことががあったが、まさかそこに日本広しと言えども、よりによってO.M.F.によって「森町」が選ばれ、福音が届けられようとしていたとは夢にも思わなかった。そう言えば、今日は母が亡くなって59年だ!)

2020年5月21日木曜日

主のご計画の一端(中)


 その倉で手にした二冊の本は対照的な本であった。『霊界の黙示』に比べ、もう一冊の本は死後の生活が明るく描かれていた。今から思うと千夜一夜の物語に近いものでなかったかと思う。当時、すでに思春期に入っていた私をわくわくさせる内容だった。それに比べると『霊界の黙示』は名前からして気持ち悪かった。「霊界」ということばが第一私にはいただけない代物であった。それやこれやでこれらの本の存在は、高校、大学、社会人になるにつけすっかり忘れ去られていった。

 ところが、いざ私が結婚するという時になって、相手がクリスチャンだということで、私の家では問題になった。私自身はキリスト教はもちろん信ずる気はない、家は仏教であるが、取り立ててそのことに問題を感じていなかった。前回述べた通り、むしろ今まで自分自身の生活に根づいており、その衣を脱ぎ捨てることなどこれっぽちも考えていなかった。ただ到達した学問が経済学史であり、マックス・ヴェーバーの諸著作に親しんでおり「キリスト教」に無関心ではなかった。またマルクスを経由しての森有正ファンでもあったので、できれば自らもそのような信仰を持てればと思ったこともあったが、それはファッションでありそれ以上のものではなかった。

 両親がキリスト教は家風に反すると言っても、私の父はもともと母が吉田家を絶やさないために、養子として迎えた人だった。その母は私の18歳の時に44歳で亡くなってしまった。その後、父は私の勧めもあって、再婚した。その方が私の継母になった。その二人が純然とした家系を継いでいる私に反対したのだ。家風は確かに昨日も書いたが、神仏混淆のふつうの日本家庭であった。むしろ祖父も祖母もいない、言うなら核家族であった。50年後の今から振り返ると、家風云々の両親の反対はそもそもそれほど強靭なものでなかった。それは両親と私には見えていた問題であった。反対の理由は別のところにあった。家風云々はその反対を覆い隠す隠れ蓑にすぎなかった。

 ところで、1967年に家内は洗礼を受けた。私は1970年に洗礼を受けた。この両三年間の間の二人の間の信仰をめぐる闘いは、結婚に導かれるまで、今放送中の『エール』が描く世界に一部似ている。家内がそもそも洗礼を受けるにあたっては、何代も続いた庄屋の家にとって大問題であった。家内には睨みを利かす祖母が健在であった。そして双方の結婚話が持ち上がった時、家内の両親はむしろ私に家内の信仰に対して棄教を勧める役割を期待したくらいであった。四つどもえとも言える私たち二人の結婚騒動だった。

 しかし、不思議なことに結婚に反対したそれぞれの両親は、まず1981年に私の父が、1994年には継母が、2004年に義父が、2010年に義母が亡くなったが、私の父と継母は聖書に基づく葬儀、家内の父母は仏式だったが、特に継母と義母ははっきり主の救いを信じて召された。その上、義父の実兄は私たちに福音を求め、信じて召された。

 継母が亡くなり、高宮の家の整理に入り、私は倉の二階にあった先代の遺品が気がかりだった。母の先夫は吉田文次郎※と言って、昭和13年22歳で戦死している(母は21歳で戦争未亡人になったのだ)、その彼の遺品である。その時、私はあの中学以来、この『霊界の黙示』を再び手にしたのである。そして、読んでみて驚いた。それは1994、5年の頃で、実に40年ぶりのこの本との再会となった。

※彼の小学入学のころの姿が過去「いのちの尊さ」という題名でブログに載せた写真左側の少年である。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2020/04/blog-post.html

彼(イエス・キリスト)に信頼する者は、決して失望させられることがない。(1ペテロ2:6)

2020年5月20日水曜日

主のご計画の一端(上)

2020.5.6

 家には神棚が台所にあった。仏間には仏壇があり、丈高く、幅広く、部屋の一角を占め、家の中では特別な空間であった。座敷に接し、玄関の間からすぐ入れるようになっていた。毎朝この仏壇にはおぶく(仏供)膳を上げ、夕には下げる。初詣には隣町の多賀大社に出かけた。町内には高宮神社があり、私の字は宮町であり、お膝元であった。社務所には親に託されて一升酒を持ち、若い衆入りすると、いよいよ一人前とされた。

 その社務所前で祭りの準備であろうか、後始末の時であったろうか、材木の切れ端や枯れ木をみんなで集めながら燃やしていた時、「あの人はアカだ」ということばが大人の人たちの中から聞こえて来た。何の意味かはわからなかったが、戦後のある時期の社会運動が私の田舎にも身近にあったのだろう。

 それはともかく、神社の境内は格好の遊び場であり、最初の遊びは鎮守の森に入ってのターザンごっこや隠れん坊であった。もちろん昆虫採集もした。長ずると男の子は毎日が野球だった。二本の大木の根っこを利用し、一塁、三塁にあてる。ホームベースはその三角形の頂点につくる。女の子は女の子で縄跳びなどしていた。学校が終わるとどこからとなく皆集まって興じた。

 そんなある日、そこに一台の車が乗り込んできた。境内に乗り込むなんて非常識だとは思ったが、皆でその車のまわりに集まって、持ち主を驚異の目で見上げたりした。ちょっとした英雄に見えた。何しろ、中山道はアスファルト舗装がもう始まっていたかも知れないが、ちょっと前までは馬が馬糞を残しながら家の前を馬車を引き引き、往来していたのだ。もちろん、その頃は車の持ち主は町に皆無に等しかったのでないか。どうもその人は東京から故郷に帰って来たようだった。

 別れ際、みんながまた見せて欲しいと言った。その人もわかった、と言った。その後、野球をするたびにその人がまた現れないかと期待したが、それっきりだった。中学になるともうそのような境内での野球には満足しない同級生も現れ、神社の隣の草地のグランドを利用しての軟式野球に興ずるようになった。そうしていつの間にか神社からも離れるようになった。神社を外側から見るようになった。

 一方、家の一人息子であった私は大事に大事に育てられたが、中学校に入った頃であった。父が結核にかかり、休職しなければならなくなった。そのため収入は途絶え、事態は一変した。母は様々な衣料品を仕入れては販売して歩く行商を農作業の傍ら始める。図体の大きくなっていた私は農作業を母と共になす貴重な労働力源となった。田植え、草取り、稲刈り、脱穀、籾干し、畑への施肥のための「肥え」運び。今から振り返ってみると十分な労働であり、空模様を気にしながらの日々は雨・風・雷など自然の脅威をじかに感ずる一時であった。

 しかし、そのような時、「死」への言い知れぬ恐ろしさに慄えさせられた一日があった。洋間に一人閉じこもり部屋を真っ暗にし、ひたすら泣き叫ぶだけだった。それは恐らくそのころ友人の父の死を間近に見、今また父が病に倒れたことが起因したと思う。別の日、うす暗い倉の二階にあがり、ちょっとした拍子に何冊かの本を見つけた。その中に、「死後の世界」を描いた本が二冊あった。それは母が先夫の遺品として密かに置いておいたものだった。その中に『霊界の黙示』があった。(https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/05/blog-post_22.html

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:14〜15) 

2020年5月19日火曜日

霊界の黙示(下)



天の住居

 かくしてこの神の人は遥か遠方から自分のために指定された住居を検べているのを見た。そは天に在ってはすべての物が霊的であり、霊の眼は中間の物を透して計ることの出来ぬ遠距離をも見ることが出来るからである。量(はか)りがたい膨大なる天の全距離を通して神の愛が顕(あら)われ、その中のどこでも神の造り給うた各種の物が喜び尽きぬ有様において、神を讃美しまた感謝しているのを見ることが出来る。この神の人が天使らに伴われて、定められた彼の住居の入り口に達した時、その上に輝く文字をもって「歓迎」としるされておるのを見た。しかして文字自身が聞こえる響きをもって幾度も「歓迎 歓迎」と繰り返し繰り返した。

 彼がその家に入った時に驚いたのはその前に主を見出したことである。その時の彼の喜びは、我らの言をもって言い表わし得る以上であって、彼は叫んで言うた。『私は彼(主)の命に従って主の聖前を去ってここに来たのに、主ご自身が私と住まんとしてここに在(い)給うのを見出した』と。この家には彼の想像力が抱き得るところのすべての物が在り、すべての者が彼に仕えんと準備していた。近い家には彼自身の心に似た聖者が楽しい交わりの中に住んでいた。この天の家は世の創めの先から聖徒のために備えられた国だからである。(マタイ伝25:34)しかしてこれこそ真にキリストに従うすべての者を待つところの栄えある未来である。

天の生活

 天においては誰も偽善者たることが出来ない。そはすべてのものは他の者の実情をありのままに見ることが出来るからである。栄光のキリストより流れ出づる光は万物を照らし顕はならしめるから、悪人は悔恨の中に自らを隠そうと努め、義人は光明に満つる父の国に入るをもって無上の喜びに満たされる。そこにおいて善はすべての人に顕(あきらか)になり益々進歩して止む時がない。そは彼らの進歩を妨げるべき何物もそこに存在せず、彼らを支持するところのすべての助けが備わっているからである。義人の霊魂が到達した善の程度は彼の全容貌から放射する輝きによって知られる。そは品性及び性質は大なる栄を顕して様々に輝く虹の如き色彩の貌によって、それ自身を表すからである。天には嫉妬がない。すべての者が他人の霊的向上と栄とを見ることを喜び、全く利己的な動機なくして常に相互に、心より仕えんとしている。すべての教えがたい賜物と天の祝福とが、すべての共同な使用のためにそなえられている。誰も自己心より、自分のために何か貯えようと考えるものはなく、万物はすべての人にとって十分である。

 愛なる神は最高の天の御位に座し給うイエスの人格において見ることが出来る。「義の太陽」にして「世の光」なる彼より、癒しかつ生命を与うる光線と、光と愛の波とが流れ出でて、彼の宇宙の最も遠い果てにまで及び、すべての聖徒と天使とを通して流れ、その触れるところ、何物にも活力を与えて元気を満たすのを見る。

 天には東も西もまた南も北も無く、ただ人あるいは天使の各々にとってキリストの御位はすべてのものの中心として現れる。

 そこにはまた各種の美しく甘味な花や果物や多種類の霊的食物がある。それらを食う時には優れた風味と爽快とを経験するが、その美しい香気に同化した後、四周の大気を香しくするところの佳い香りを体の気孔より発散する。

 簡単に言わば、天に住むすべての者の願望と要求とは神にあって十分に満たされておる。そは各々の生活の中に神の意志が全うされ、天のすべての条件と、あらゆる状態との下において万人は驚くべき喜びの尽きることの無い経験を持つからである。かくして義しい者の到達するところは永遠の喜びと祝福とである。

(『霊界の黙示』83〜84頁、88〜91頁より引用。三日間にわたりカット写真として先日16日に召された村上恵子さん作成の絵手紙の作品を用いさせていただいた。ところが翌日の17日には菅野弘子さんが召された、毎日お二人のためにずっと祈って来た。お二人に天国の様子はどうですか、とお聞きしても聞かせてもらえない。その代わりにサンダー・シングの本から、その文章を引用させていただいた。翻訳文が昭和2年のことばであるので今の人々には了解できないかもしれないが、「天国語」とでも思い、何度も読んでいただきたい。熟読玩味、自ずと文意は通ずと思う。明日はそのサンダー・シングの本がなぜ私の手元にあるのか、その経緯に少し触れてみたい。)

2020年5月18日月曜日

霊界の黙示(中)



 「われ鬼神(きしん)を語らず」とは、孔子の有名なことばであり、私がその意味を知らないわけではない。何よりもイエス様は「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」(ヨハネ3:13)と天について語ることは主ご自身であって、人間が知り得ない領域であることは確かである。その点、以下引用するサンダー・シングのことばはあくまでも一つの寓話※と解したい。彼は主を信じて召された人が天から地上を見る時、どんな状態なのかを「想像」して書いていることに注意して読む時、聖書の真理から逸脱することは避けられるのではないか、と思い、以下『霊界の黙示』78〜82頁より引用させていただいた。

愛する主の慰め

 彼の魂が肉体を離れるや否や天使らはその腕に彼を受けて去ろうとした。しかし彼は数瞬間待つことを乞うて、その命のない肉体(自らの亡骸)と、友人らを凝視し天使らに言うた。『私は肉体を離れた霊が自分の体とその友とをこのように見ることが出来るとは思わなかった。私は友人らが私が彼らを見るように見ることが出来ることを願う。もし出来たならば彼らは私を死んだ中に数えず、また私のために泣かないであろう』と。かくて彼は自分の霊体を検(しら)べて美しく輝きかつ妙にして、粗雑な肉体とは全く異なることを見出した。これによって彼は冷たい形骸に向かい泣きつつ接吻している妻子を抑制しようとした(「泣かないでいいよ」、とすがりついて離れない妻子の行動をやめさせようとした)。

 彼が美妙な霊の手を延べて彼らに説明し、大いなる愛をもって彼らをその亡骸から去らしめようと努めた。しかし彼らは見ることが出来ず、その声を聞くことも出来ない。子どもらをその死体から離らせようとした時に、その手はちょうど空気かのごとく肉体を通り去って、彼らは全くそれを感ずることが出来なかった。時に天使の一人が言うた。『来れ、我らは君を永遠の家庭に伴おう。彼らのために悲しむな。主ご自身もまた我々も彼らを慰めよう。この離別はわずかの日数に過ぎないのだ』と。

 やがて天使(みつかい)らに伴われて天へ向かった。彼らが少し進むや、他の天使らの一群がこれに逢って「歓迎」と叫んだ。先に死んだ多くの友と彼の愛した人々もまた彼を迎えた。これを見てその喜びは一層増し加わった。天の門に達すると天使らおよび聖徒らは黙して両側に立った。彼が中に進むや、入り口においてキリストに逢い、直ちにその足下にひれ伏して拝した。しかし主は彼を引き起こし、抱いて言い給うた『良くやった。善かつ忠なる僕よ、汝の主(あるじ)の喜びに入れよ』と。その時彼の喜びは言い表わすことが出来なかった。彼の眼から涙が流れ落つると主は大なる愛をもってこれを拭い去り天使に向かって言い給うた。『彼のために初めより備えられた最も栄えある住居に伴い行け』と。

 そこでこの人の霊はなお、地上のような思想を持っていたから主に背を向けて天使らとともに離れ去ることは主を汚すことかと思い躊躇したが、遂にその顔を住居の方に向けると、どこからでも主を見ることが出来ることを知って驚いた。そはキリストは何処にも現在し給いどこからでも聖徒および天使らに見えるからである。主と共に彼の周囲が喜ばしいものをもって囲まれているのを見て、歓喜にみたされた。ここでは最も低いものも、最高のものに対して決して妬みをもって他を見ることなく、また位置のすぐれているものは、彼らの兄弟の低い位置におる者に仕え得ることを幸福としている。これは神の国にしてまた愛の国だからである。

 天の各所に宏壮な園があって、いつも各種の異なった美しくして甘味な果物を生じすべての美しい香りの花が咲き、決して凋(しぼ)む時がない。その中で各種の被造物は絶えず神を讃美する。色彩(いろ)の綺麗な鳥が美しい讃美の声をあげ、天使や聖徒の美妙な歌は、これを聞く時驚くべく有頂天とも言うべき喜びを経験せしめる。どこを見るもはかることの出来ぬ喜びの光景を示さないものはない。真にこれこそ神が己を愛する者のために備え給うたところのパラダイスであって、そこには死のかげも、誤りも、罪も、苦しみもなく、いつまでも続く平和と喜びとがある。

(※このことを訳者である金井為一郎氏は「この単純にして不思議なーー世界に比類の無いーー書物を日本に紹介するにあたって、読者は原著者の人物と経歴とを簡単にでも知っておく必要があると思う。未だ聞いたことの無いおとづれであるから、単なる一個の空想家が書いたとすれば誠に価値の少ない寓話と考えられてしまう。しかし著者自身が世界の驚異である」と言っている。しかし私はそこまで手放しにこの本の叙述をことごとく認めているのではない。ただ著者が、「人間の魂は不滅であって、永遠のいのちとして生きるのかそれとも滅びを待つのかが肝要だ。だからいそいで私たちは福音を伝えねばならぬ」(昨日の吉祥寺ネット配信のベック兄のことば)という思いを共有している点は評価してあえて紹介させていただいている。)

2020年5月17日日曜日

霊界の黙示(上)


 「幽明境を異にする』という言葉がある。国語辞書によると「幽」は暗い意で死後の世界を指し、「明」はこの世を指す、とある。日本人の死生観を的確にあらわしている。一方、今日コロナ禍に日々私たちは喘がされている。全世界が絶壁に追い詰められてあとがないと言っても過言ではない。しかし、果たしてそれだけであろうか。聖書のみことばに基づいた死生観をあらわした『霊界の黙示』(サンダー・シング著金井為一郎訳昭和2年刊行)からその第6章の以下の部分を(上)(中)(下)の三回に分けて順次紹介する。

正しき者の状態とその栄ある前途

 天または神の国はこの世に住むすべて真の信者の生涯の中より始まる。彼らの心はつねに平和と喜悦とをもって満たされ、どんな迫害と困難とを忍ばなければならぬともこれを意としない。それはすべての平和と生命との源なる神が彼らの中に住み給うからである。死は彼らにとって死でなく、永遠の家へ、とこしえに入るの門戸である。あるいはかく言うことができよう。すでに永遠の御国へ新たに生まれたものでも、肉体を離れる日は彼らにとって霊界への誕生であって死ではない。かつ非常な喜びの日であることは以下の出来事によって明らかである。

一義人の死

 三十年間全心をもって主に仕えていた真の信者が死んだ時にどうなったかを、天使の一人が私に告げた。死ぬ少し前に神が彼の霊の眼を開き給うて、未だ肉体を離れぬ中に霊界を見ることを得しめ、その見たことを語ることができるようにならしめた。彼は天が彼のために開け、天使および聖徒の一群が出で来たりつつある様と、救い主が差し伸ばした聖手をもって彼を迎えんとしているのを見た。このすべてが彼の上に突然打ち開かれたのを見て傍にいる人をびっくりさせるような声をもって叫んだ。『我にとって何たる幸福の時か!』『私は長い間、我が主を見んことを願い、主のところへ行くことを待ち望んだ。おお、友よ! 愛によって照り輝く主の御顔と我がために来た天使らの群れとを見よ。何たる光輝あるところか! 友よ私は真の我が家へ出発するのだ、私の出発を嘆かずして喜べ!』と。

 傍におった人の一人が静かに言うた『彼は気が変になっている』と。その囁く声を聞いて彼は言うた。『いや、そうじゃない。私の心は全く確かだ。私はあなたがたがこの驚くべき光景を見得んことを望む。これがあなたがたの目に隠れていることを悲しむ。さようなら。私どもは次の世で再び逢いましょう』と言うて目を閉じ『主よ我が魂を汝(あなた)の手にゆだねます』と叫んで眠りについた。

(引用部分は『霊界の黙示』76頁〜78頁からの引用。明日は「愛する主の慰め」と題する主要部分である。さて、愛する村上恵子さんは冒頭の絵をはじめとして私たちに多くの信仰の賜物を残して昨日夜8時1分に召されました。このシリーズはそのことを覚えての掲載でもあります。)

2020年5月5日火曜日

私と「エール」(下)

昭和45年(1970年)4月26日の新聞※

 「エール」という朝ドラはつくづく良くできていると思う。家族であるがゆえに持つ愛憎が余す所なく描かれているからだ。子どもの立場になって見ても、また親の立場で見ても、さらには夫婦の間柄どれ一つとっても、真実なものを感ずる。昨今能弁ではあるが、自分のことばで決して語ろうとされない首相の会見を何度も聞かされて辟易さえしている当方にとって、ドラマの会話の中ににじみ出るその真実さに改めて刮目させられる。

 その上、その人たちを取り巻く市井の人たちのあたたかさも伝わってくる。それは、ある意味で「昭和」という時代の絵模様ではないかと思う。それを平成生まれの役者の方が演じているのだからすごい。逆に言うと、真剣に音楽一筋に生きた古関裕而夫妻の生き様が時を超えて人の胸を打つからだろう。同時に脚本がしっかりしていて、それを具体化するために一種の総合芸術とも言うべきものが電波に乗せられて、すべての人の心に届く。大変な数の人々の共同作業からなるこの作品の今後に心から「エール」を送りたい。

 今回、私がこのドラマに関心を持ったのは、本当のことを言えば、実は単に時間ができたからではない。5000曲も作曲した古関裕而さんの曲が母校の滋賀県立彦根東高校の校歌作曲者であったからである。しかもその作詞者吉田精一氏が家の縁戚にあたる方であったからである。私はそのことをずっと知らなかった。私たちの世代では「吉田精一」と言えば、国文学者としての氏の存在が余りにも有名で、どうして東京のその方が校歌作詞者なのかと不思議にさえ思っていたくらいである。

 ところが、ある時、母校が1996年に発刊した『彦根東高120年史』を通して、その作詞者の吉田精一氏は同姓同名の全く別人で、私が小学生時代、町の公民館でその方からアインシュタインの話をお聞きした方であった。我が家は中山道に面しているが、道路を挟んで斜め前に精一さんの家があった。そして、私の家の路地を挟んだ左隣が精一さんと私の家が本家とする家があった。着物姿の精一さんは、よくその中山道を対角線上に横切っては、その本家の玄関へとよく駆け込まれたものだ。それは、俗塵にまみれてはなるものかとばかりの勢いを子ども心に感じさせるものがあった。町内の神社の祭典費を集めに行っても頑として断られた人であった。

 最近私はその彼について母が65年前の1955年の1月の日記に次のように書いている記事を見つけた。「度を過ごした潔癖が寿命を短くした、人生を寂しい物にしたとしみじみと語られた精一さんの言葉は自己への反省とも聞き取れ感銘を深くした。」精一さんの母親おなおさんの死に立ち会った母が通夜の席で精一さんとご一緒して聞いた話のようである。(おなおさんは本家の方々が東京に出られ留守宅になったので、ずっとその本家を守られた人であった。)

 その精一さんは明治45年に、私と同じ高宮小学校を卒業し、その後彦中、四高を経て東京帝大農学部に進まれ、戦前は東京農大で教鞭をとられた。戦後旧制から新制へと教育体制の変革期に郷里に帰り、私の母校の先生をなさった。そのような有為転変ののち町の教育長もなさった方であるが、戦前の農大時代に同校の応援歌を作詞され、古関裕而さんが作曲者であった。その精一さんが戦後自らの母校でもあり、教師でもあった高校の校歌を作詞し、またしても古関裕而さんに作曲をお願いされたのだった。だから精一さんは古関さんと二度のコンビを組んでおられることになる。(この項は『120年史』762〜763頁による)

 いずれも旧聞に属することではあるが、人と人との出会いとはまことにまか不思議である。今朝の「エール」27回目では、裕一が音楽を取るか、愛する人「おと」との結婚を取るか、再び二者択一の選択を迫られ、音楽を取り、「おと」との結婚を断念する。それは重い決断であった。しかし、そのような決断にもかかわらず音楽を目的としたイギリス留学の道が閉ざされるということで終わった。私たちの場合はキリストを取るか、恋人を取るか選択を迫られ、結婚前の三年間に次々と様々な事件が起きた。他人事ではない思いがひとしおする。金婚記念を機にまさにタイムリーなNHKによる「エール」であると思えなくもない。

 しかし、最後にやはりコロナウイルスに悩む私たちへの神のみことばの「エール」を記しておきたい。

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。(ヤコブ5:11)

(※写真はこどもたちがエールとしてプレゼントしてくれた第三弾目であった。それは八枚からなる生誕、結婚、五人のこどもの誕生の日の新聞のマイクロフィルムであり「50年というふたりの長い長い道のりをゆっくり振り返ってみてください。そして、今度たっぷり思い出を聞かせてね。51年目も変わらず主の守りと平安がありますように」と添え書きがあった。なお、吉田精一作詞古関裕而作曲の彦根東高の校歌は以下で聞くことができる。https://www.youtube.com/watch?v=CbZZ5zZBaYY

2020年5月4日月曜日

私と「エール」(中)


 このところ朝のNHKドラマの「エール」に夢中である。前回の「スカーレット」は夫婦とも滋賀県出身者である私たちにとってはそれだけ身近で、しかも家内は創作好きとあって、陶器づくりに励む主人公に大いに肩入れして、毎回欠かさず観ようとしていた。そこへ行くと私は十回に一回程度の視聴でそんなに熱心でなかった。

 ところが今回の作品は、二人して欠かさず見ている。50年の結婚生活にあって初めての経験である。大体仕事をしている時は時間帯が無理であった。「おはなはん」※は学生時代のころであったせいだろう、何となく観たような記憶がある。それ以来、仕事、結婚、子育てと二人ともそのようなゆとりはなかった。

 ところで本題の「エール」だが、作曲家古関裕而をモデルにした作品とあって前評判の高かった作品である。ましてや今年はオリンピック開催の年であった。彼の「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘』はじめ様々な曲が披露されると思うと、それだけで何か胸あこがれる思いがしていた。私のようにテレビ離れの人間まで引きつけるとは、まことにこの上もないNHK企画だと思っていた。ところが、このコロナ騒ぎである。とうとう先週はコロナ犠牲となった志村けんさんも登場される場面がほんの少しだったが、最後に出てきて哀愁を覚えた。

 現在6週間目に入ったところだが、主人公裕一が幼い時から、成人し、「仕事」、「結婚」とどれ一つとっても、若者には一寸先何が待っているかわからない中を、ひたむきに進んでいく姿が活写されていく。しかも、そこに全く別世界に生きていた男女が結ばれていく過程が彼らの音楽に賭けていく苦闘と並行して描かれるのだ。コロナ騒ぎで多くの音楽家が生活の糧を失って苦しんでおられる。しかし、「エール」はまさにその「音楽」が人間の生きる上の一つの活力であることを証明して憚らない。

 主人公の男女二人の出会いと交際、そしてそれを取り巻く家族を見ていると、私たちの50年前の七転八倒の一つ一つが同時にダブってくる。先日も、福島在住の主人公裕一が手紙の文通三ヶ月間でこの人(おと・音)しかないと決心し、彼女のいる豊橋まで駆け出して行った姿を大写しで見た時、二人とも思わず顔を見合わせざるを得なかった。私たちの場合も関西と関東と離れていたので互いの意思疎通には手紙しかなく、その文通が二人の中を取り持ったからだ。三ヶ月でなく、三年であった。だから、単純に計算しても、彼らの12倍を要する書簡の往復ではあったが・・・。

 そのようにして、互いの家庭から飛び出て、一組の新しい家族が誕生するまでには人間はすさまじいエネルギーを発揮するのだと改めて思った。このエネルギーは、春先に雌雄の魚が産卵期に見せる水の中で飛び跳ねる姿を思わせる。これは生ける神が生きとし生けるものに与えた天与の力だと思う。今私たちはコロナウイルスという見えない敵を相手に、国家としても地域社会としても、また個人としても、各人がそれぞれのレベルで戦いを強いられているように思える。しかし、いつの時代にも難問はあったのでないだろうか。

 たまたま、最近私は『歴史人口学事始めー記録と記憶の90年』(速水融著)という本を読んだ。速水さんは100年前のスペインインフルエンザを史書としてすでに2006年にまとめておられるが、そのような歴史考察をもとに、これからの時代は「我慢の時代」(同書293頁)だとそこで語っておられた。一見、何の変哲もない主張のように見えるが、速水さんは「産業革命」に対して江戸期から始まる日本社会の変動を分析し「勤勉革命」(281頁)という独自の歴史概念を提唱され、現在の日本社会の高齢人口の増大、人口減少の時代に見合う主張をなさっている。残念なことに速水さんは昨年12月にこの本の執筆を最後に90歳で急逝されたが、その時、もちろんコロナウイルスの存在は知られなかった。しかし、その直後コロナウイルスはあっという間に世界を席巻し、昨今は政府が「行動変容」を盛んに求めるようになった。こんなことを考えると、速水さんの歴史研究は先見の明があったと言わざるを得ない。

 最後に神から私たちに送られている「エール」のことばを記す。

昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。・・・結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道者1:9、12:13)

(言うまでもなく今日の写真は前回に続く子どもたちのエール第二弾である。
なお速水さんの本の紹介は東京新聞の書評がある。一読されたし。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2020041202000176.html 
ついでに「おはなはん」は
https://www.youtube.com/watch?v=yizg55xEik4

2020年5月2日土曜日

私と「エール」(上)

金婚式の祝  2020.4.26※
舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。(ヤコブ3:8)

 私は今年2月に喜寿を迎えた。ところが、私の肉体には、この頃体の欠陥が次々現れてきている。先ず、「唇」である。昨年末高校の同窓の集まりの後、家内にもこの会で一人の方との交わりが大変良かったので、いっときも早くそのことを報せようと、喜んで帰ってきたのはいいが、心が急いていたのか、暗い夜、思わぬところでつまずいてしまった。その打った場所がいけなかった。再び車止めだった(2017年11月だったか、信越線横川でバスを降りる際、足を踏み外し、倒れ、顎の骨を折る大怪我をしたことがあった)。相方の唇は擦過傷を負い、出血が激しかった。救急車のご厄介になった。その時、縫ってもらわなかった。そのせいか、未だに唇がだめになっている。

 次に「鼻」である。昨年だったか、ある集まりで突然鼻血が出た。それからことあるごとに鼻血が出るようになった。医者は興奮するから出るのだとおっしゃった。思い当たる節はある。すぐ一つのことに熱中する。だからのんびりと生活しようと思っている。でも、この一年間鼻血は収まらない。

 ところで、今一生懸命に打っているこの「指」もまた問題をかかえている。「指」の折り曲げが困難で傷んで仕方がないのである。こんなふうに体の部位を書きつらねながら、一番肝心の「頭」が抜けていることに読者も気づかれることと思う。

 ところが、聖書はもっと素晴らしい指摘を私にくださっている。 

 昨日の聖書通読箇所の一つにヤコブ3章、4章があったが、その中で3章の「舌」に目が釘付けになった。リビングバイブル訳は3章全体に「舌をコントロールする」と見出しをつけている。そして出だしを次のように訳していた。 

「愛する皆さん。みなが教師のようになって、人の欠点をあげつらってはいけません。自分も欠点だらけではありませんか。人よりもすぐれた判断力を持つべき私たち教師がもし悪を行うなら、ほかの人よりはるかにきびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1) 

 毎朝、NHKの「エール」を見ているが、自分にはこどもを心から愛し育てて来なかったという後悔がある。その一つの性質がここに出て来る、「教師」としての自分の存在だ。こどもをほめてこなかった、いつもきびしい視線しか持たなかったという思いがある。 

「賛美とのろいが同じ人の口から出るのです。愛する皆さん。こんなことがあってはなりません。同じ泉の水が甘くなったり、苦くなったりするでしょうか。いちじくの木にオリーブの実がなったり、ぶどうの木にいちじくの実がなったりするでしょうか。塩水の池から、真水を汲むこともできません。」(ヤコブ3:10〜12) 

とあった。ああ、自分はこのような救いようのない人間なのだ、だからイエス様のいのちをいただいているのだ(という思いがする。 )

(※五人の子ども家族がすばらしい贈り物をしてくれた。その中の一つである。こどもたちのエールである!)

2020年4月24日金曜日

人生の最大の苦しい経験(下)



 このように、死は、常にだれかに対して悲劇となっている。人生とは悲劇的なものである。死は、人生という悲劇的な糸の終わりに来る暗い二重の結び目のようにしか思われない。一日として、死がだれかの心をかき裂かないで過ぎてゆく日はない。どのようなすみにいても、時として落ちて来る死の涙のしたたり落ちる雨を防いで安全にいることはできない。
 家庭は破壊されてしまう。心のきずなも、灰塵に帰してしまう。親密な家庭のだんらんは、地上では再会の機会もなく、粉々にされてしまう。その生涯の習慣も、最も強い糸であっても、ぷつりと切れてしまう。計画も野望も、あざけりの風によって粉々に砕かれてしまう。ただ思い出だけが、傷ついた心とひどく乱された人生という、すべての通りと家の中とを、悲しみの弦をかき鳴らして行くのである。
 そのうえ、世界の戦争は恐るべき事を付け加えた。以前においても、それは全く悪い事であった。しかし、今は、政治家や法律家がおり、休戦や条約など、その他すべての事がなされているにもかかわらず、抑制することのできない悪魔のような紛争が広がっている。
 しかし、このような事以上に更に悲劇的なものが、なおまだ存在する。このような事から多くの精神と魂に生じてくる恐ろしい不安がある。不安(そこでは心もその不安に巻き込まれ、愛も不安な状態にある)は、もたらされうる最悪の苦痛となる。

 次のような質問が、日夜、手に負えないほど執拗に、隊を成して押し寄せて来て、息をつく暇もないほどである。すなわち、彼はまだ生きているのか、霊の世界はあるか、この世の向こうにはほんとうに何かがあるのか、彼はどこへ行ってしまったのか、彼は今どのようにして過ごしているのか、などと。
 世界じゅう至る所、東洋でも西洋でも、赤道の南でも北でも、野蛮人の部落でも、文化生活をしている家庭でも、いわゆる異教を信ずる国々の間でも、真理の照明が投げかけられた輝きの中でも、人々の魂から、あの人はどこへ行ってしまったのかという叫び声がほとばしり出る。悲しみは、すべての人種がひとしく持っているものである。争い、憎悪、偏見などは、すべての人に共通の悲しみの時には、沈んで見えなくなる。

 しかし、なお、明らかな光がある。このような疑問に対する一つの解答がある。不確実さの中にも確実さがある。手近な所に、確かに信頼することのできる知らせがある。それは、あらゆる黒雲に、黄金の色調を与えるに十分なものである。悲しみの交響曲の中にも、短調のしらべを圧倒するような、もう一つの小さな音楽がある。そして、これらは、新しい楽しそうなリズムに、いっそう快い調子を合わせてゆくのである。
 さて、この確実さについて、もう少し話したいと思う。喜びが悲しみを和らげているような、複雑な交響曲の基調音を見つけ出し、再会の日を待つ間に、あなたの心を歌とし、高めたいと願うのである。

   海は激しく荒れ、
   夜は暗かった。
   櫓(ろ)はひたすら漕(こ)がれ、
   白波はほのかに光った。
   水夫は恐れに身を震わせた。
   危険が迫ったのだ。
   ーーその時、まことの神は言われた、
   「安かれ! わたしである」と。

   山の峰のような波よ、
   おまえの大波を静かにせよ。
   ユーラクリドンの悲しげな風音よ
   おまえは、安らかにしていなさい。
   悲しみは決して来ないし、
   やみは必ず飛び去って行くのだ。
   ーーその時、まことの光は言われた。
   「安かれ! わたしである」と。

   この世の海を渡る時、
   救い主イエスよ、
   私のところに来て下さい、
   私の船路を平安なものにして下さい。
   死のあらしが
   すさまじく鳴りどよむ時に、
   おお! まことの真理はささやかれる。
   「安かれ! わたしである」と。

(『人は死んだらどうなるか』14〜17頁より引用。人の死については、今人々は身近に感じつつある。S.D.ゴードンはもともと、引用した文章の表題として『ありふれたもの、しかし常に神聖なもの』とつけている。死について考える時、忘れてはならない視点である。なぜなら、「死」は生命の創造主である主なる神様のみわざであるからだ。)

2020年4月23日木曜日

人生の最大の苦しい経験(中)



 新しい柔らかな光が、その古い言葉の上に、またその言葉の中から、照り輝いていた。落ち着いた安らかさが、こっそりと忍び込んできた。新しい平安は、これまでにないような、快い、より真実なものであった。そして、その平安が、ほとんど彼をおおい、彼を圧倒した。
 しかしながら、彼の心は、その平安にひたりながらも、大きな孤独感にとらえられていた。彼はどれほどの時間、そこにすわっていたであろうか。自分にもわからなかった。やがて彼はゆっくりと丘を下り、歩きなれた道、ふたりで手を取り合って歩いた道を戻って行った。
 彼は、いつもと変わらない家、また人々の中に戻って行った。しかし、生活は変わってしまった。もはや決して、これまでと同じ生活ではない。それはありえないのだ。人生の最大の苦しい経験にはいってしまったのである。それ以来、彼は決してこの事を忘れてはいない。その記憶は、あたかもついきのうの事のようにあざやかに残っている。

  土くれのやかたの中で
  すべての灯は消えた。
  そこに住む人が去ってしまったので
  カーテンは引かれた。
  夜のうちに、門口を通って、
  彼女はそっと忍び出たのだ、
  光の都の中に
  自分のすみかをととのえるために。

 しかもそれは、なんとありふれた事であろうか。そうだ、平凡で、ひんぱんに見られる、ありふれた事、全く当然の事なのだ。しかし、決してそうではない。決してありふれた事ではない、たとい毎日、毎時間、だれかのむすこか娘に起こっている事であるとしても、それは、孤独と悲嘆のうちになされる、きわめて神聖な、また厳粛な事なのである。

 人生において、死というものは、最もありふれたものである。その影は決して去らない。郵便配達人は私たちの手の中に、それを暗示するようなものを届けて行く、友人の手紙も、同じような感じのものを持っている。半旗、教会堂の告別の鐘、教会の窓から流れ出る低い哀歌、のろのろと動く行列ーこうした事は、毎日起こっている事である。
 商業団体は、国内の通信機関をせいぜい五分ほど停止して、死者に敬意を表わし、そしてたちまち、再びすさまじい速度で仕事を開始する。トロリー・バスやその他のバスは、いったん停車をする。白い石碑には黒い布が掛けられる。公共的な建物は、悲しみを表わす布でおおわれるーこのような事は、果てしない同様な物語を告げている。

 昔ながらのあの書物ー聖書ーを開くと、直ちに、エバがかたくなって身を横たえているわが子のためにすすり泣いている場面にぶつかる。そのすぐあとに、「そして彼は死んだ」と単調な調子で述べている哀歌のあの驚くべき章(創世記五章)が続く。
 大洪水の中に流れ去った人々の絶望的な叫びと、エジプト全家の悲嘆に沈んだ人々が長子の死をいたむ泣き声とが、私たちの感じやすい耳をとらえる。
 更に急いで読んでゆくと、再び、あの愛するイスラエルの詩人が、姿は美しいがわがままで横暴なむすこの死を嘆き悲しんでいるさまを見るのである。
 更に読んでゆくと、丘の間にある小さなベツレヘムの町で、悲しみに沈む母親たちの泣き声を聞く。悲しみの交響曲は、決して終局に至らないように思われる。

「ラマから声が聞こえる。苦しみの叫びと、大きな泣き声が。ラケルが子どもたちのために泣いている。だれも彼女を慰めることができない。子どもたちは死んでしまったのだから。」(マタイ2:18 リビングバイブル訳)

(『人は死んだらどうなるか』11〜14頁より引用。昨日は西ドイツ映画「朝な夕なに」をYouTubeで観た。高校時代に映画館で観た。それ以来六十余年ぶりだった。https://www.youtube.com/watch?v=cwWg0xHt9b4 悲しい思いをする人々がたくさんおられる。)

2020年4月22日水曜日

人生の最大の苦しい経験(上)


イエスは、目の前でマリヤが泣き伏し、ユダヤ人たちもいっしょに嘆き悲しんでいるのに強く心を動かされ、「ラザロはどこですか」とお聞きになりました。「来て、ごらんください。」イエスの目に涙があふれました。(ヨハネ11:33〜35リビングバイブル訳)

 九月のある朝の四時ごろのことであった。
 たくましそうなひとりの青年が、大西洋沿岸のある町の、人通りのない道路を、ゆっくり歩いていた。
 東の空がはっきりと白みかけてきた。新しい一日が、去ってゆく夜の暗さを押しのけようとしている。しかし、彼はほとんどそれに気づかなかった。彼の心は、もう一つの光とやみとの戦いに、すっかりとらえられていたのである。
 彼はうなだれ、のろのろとした足取りで歩いていた。暗い思いが彼を激しくとらえていた。彼は、新しいもの、そうだ、彼にとっては新しい事柄に、我を忘れたようにぼう然としていた。彼の家は、有名な公園からほど遠くない所にある。そこには小さな美しい小川が静かに流れている。
 彼は、町の貯水池のある緑におおわれた丘へと登って行った。そこからは、はるかにその小川を見おろすことができる。また更に近くには、こずえのしんと静まり返った緑の波が見える。彼はポケットから、小さな、表紙のよごれた本を取り出した。そして、腰をおろして、緑を見、小川をながめ、また、その本を読み、青空を見上げたりした。
 二、三時間前に、一つの生命が、彼のいだいた腕から消え去ってしまったのである。彼は夢中ですがりついた。けれども、彼女の霊は、静かに、ゆっくりと、しかし断固として、消え去って行った。彼は驚きと悲しみのあまり、ぼう然となった。彼女が死ぬなどとということは、夢にも考えられない事であった。彼は、愛の手で堅くすがりついていたが、今は、すがりつくものは何も残されていなかった。彼女はすでに去ってしまったのだ。ただ、貴重な肉体の、息を失った一片が残されただけであった。

 ふたりの心は、かつてなかったほど深く結び合わされていた。しかし、いまや、彼女は去ってしまった。呼び戻すことができないほど遠くに去ってしまったのである。それはあまりに明白な事であった。彼は一見、非常に冷静で、しなければならない事に携わっていた。しかし、心の中ではあえいでいた。まるで呼吸ができないかのように思われた。人生は全く変わってしまった。この世界は全く違った所となってしまった。彼女は去ってしまったのだ。我を忘れたようにぼう然とした状態が、彼の上に重くのしかかっていた。それは感覚を失った状態ではない。それどころか、彼の心は、今まで以上に鋭く、感じやすく、油断のないものとなっていた。
 今、彼はじっとすわっている。彼女は今どこにいるのだろうかという疑問が起こってきた。その肉体の貴重な一片は、優しくたいせつに取り扱われてそこにあった。しかし、彼女はどこにいるのだろうか。そこではない。どこかほかの所なのだ。ではどこなのか。
 その小さな本(小型聖書)は、ヨハネ、愛する老ヨハネによるイエスの物語のところが、自然に開かれたかのように思われた。そして、あの忘れることのできないベタニヤでのできごとの個所(十一章)が、備えて開かれたかのようであった。

(『人は死んだらどうなるか』S.D.ゴードン著山田和明訳9〜11頁より引用。私ならず、多くの人がこの死別の経験をされている事だろう。私のその時は母との死別の18歳の時であった。今から振り返ると、「母の死」は頭をハンマーでなぐられた衝撃だった。しかし、その時、私の手元には小さな本はなかった。『真夜中のブルース』の録音テープを繰り返し繰り返し、一室に閉じこもり、狂ったように流していた。それは西ドイツ映画の「朝な夕なに」の中で演奏された曲であった。そうでもしなければ気持ちがおさまらなかったのだ。https://www.youtube.com/watch?v=gikaziCeS-A

2020年4月21日火曜日

いのちの尊さ


エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。(出エジプト12:30)
 
 昨年末から、今日に至るまで、ブログに投稿できなかった。それは三つのできごとが陸続として起きたからである。第一の出来事は昨年の12月30日から始まり、2月3日に終わった出来事。そして第二は2月5日に始まり、2月16日に終わった出来事である。そして第三は言うまでもなく、今日私たちを覆っている「コロナ禍」である。

 未だ解決を見いだせないコロナウイルスの圧倒的な力の前になす術もなく、日々過ごしている。STAY HOME!と要路の貴人は宣っている。しかし、この時は、主なる神様が私たちに心を静かにして、主のみこころを知りなさいと明らかにおっしゃっている時にちがいない。

 第一の出来事は若干40数歳にして二児を残しいのちを亡くされた出来事であった。第二の出来事は逆に95歳の生命を全うされた一人の老婦人の死であった。振り返ってみれば、昨年の12月30日、人工呼吸器に支えられ懸命の蘇生がなされていたICUの病室に招き入れられ、奥様と祈りをともにしていた。今日では人々の全てがお茶の間のテレビを通して熟知するまでに至っている、あの人工呼吸器である。

 これらの出来事を忘れないために、今日からこの間、考えて来たことを少しずつ書き進めることにする。

 冒頭の写真は、筆者の先祖の写真である。いつ、どこで、撮影されたのかわからない写真である。しかし、私はこの写真を見るたびに繰り返し哀しみを覚えるのだ。そこには肝心の主(あるじ)がいないと思うからである。左の少年がこの家の跡取りであるが、その少年の父母が不在であるからである。

 そして、その原因はこの少年の父が1919年4月に28歳で亡くなっているからである。少年3歳の時である。まさにそれは100年前のスペイン風邪がこの家庭を襲った時であった。そして少年が、祖祖母と祖父母、叔母とその養女と一緒に写っている4代にわたる一家の写真である。果たして、私が「哀しみ」と表現するのは私の単なる思い過ごしにすぎないのであろうか。

 同時に冒頭のみことばに関連して次のS.D.ゴードンの『人は死んだらどうなるか』の序文のことばを紹介する。

現在の私たちの時代は、古代エジプト時代に似ているーほとんど「死人のない家がなかった」。時にはそれ以上である。そうした中で、勇敢な者は、日常生活を、忠実に、勇気をもって続けてゆくが、人間の感情的な性質に対する牽引力は強力である。しかし、大多数の人々に対して、質問ー大昔からあった古い質問ーが、夜も昼も迫り続ける。あの人はどこにいるのか。死後のいのちはあるか。あるとすれば、どこにあるのか。それはどのようなものか。この死という頑迷な鉄のさくを越えて、そのいのちを得ることができるだろうか。たとえできるとしても、私たちはそうすべきだろうかーなどと。

 S.D.ゴードンについては以下のブログでも紹介している。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2012/05/quiet-talks-on-life-after-death.html