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さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエ スを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。(新約聖書 ルカ22・3~6)
今週は今年の受難週に入っている。受難週は主イエス様の十字架の死を思い、私たちそれぞれが自分の罪を思うのにもっともふさわしい時であろう。ジェームズ・ストーカーの『キリスト伝』(村岡崇光訳156頁)から以下引用する。
イスカリオテのユダは、人類の物笑いの種である。ダンテはその作品「地獄の異象」の中で、サタン自身と一緒に最も苦しい刑罰を受けるただ一人の者として、地獄におちた亡者どもの中で彼を一番低い位置に置いている。そしてこの詩人の評定は、同時に人類の評定でもある。
とはいっても、彼は全く理解や同情すらないような極悪非道の男ではなかった。彼の下劣な驚くべき堕落の歴史は、完全に理解できる。他の使徒たちと同じように、政治革命に参画して、地上の王国では名誉ある地位を占めることを期待して、イエスの弟子に加わったのだった。かつて、ユダのどこかに、ある高潔な熱心とイエスへの愛着があったからこそ、イエスは彼を使徒に選ばれたのであろう。彼が人並みすぐれた精力家で、金銭の管理がうまかったということは、彼が使徒団の会計係に選ばれたという事実から察せられよう。
しかし彼の性格の根底にはガン腫病ができていた。それが徐々に、彼に備わっていた一切の優秀なものを吸収していって、暴虐な激情と変わった。金に対する愛がそれだった。彼は、イエスが弟子たちの必要のためや、日々接しておられた貧者に施すために友人から受けられた小額の献金を、少しずつ着服してこの菌を養った。彼は、新しい国の大蔵大臣になった暁には、その菌に思う存分ふるまってやれることを夢みていた。
他の使徒の考えも、初めは彼と同じように世的なものであったろう。しかし彼らと主との交わりの歴史は、まるっきり異なっていた。彼らはますます霊的になり、彼はますます世俗的になっていった。もっとも彼らとても、イエスの在世中は、地上の国を離れて、霊的な意味での天国の概念にまでは達し得なかった。しかし主がその物質的考えに加えるように教えられた霊的な要素は、いよいよ目立ってきて、ついに地上的なものを駆逐し、あとには殻のみが残り、それも時がくれば、潰されて吹き飛ばされるべきものであった。
だがユダの現世的な考えはいよいよひどくなり、霊的な面は、一つ一つと除かれていった。自分の思っている天国がいっこうに来ないのが、もどかしかった。説教やいやしは、時間の浪費のように思えた。イエスの清純さ、脱俗的態度がはがゆかった。どうしてイエスは、いますぐ天国をもたらされないのだろう。説教なら、それからでも好きなだけできるのに、と思った。
最後には、自分が望んでいるような天国は、来ないのではないのかと疑いだした。だまされたと思って、主を侮るばかりか、憎むことさえしだした。しゅろの聖日に民衆の気持ちを利用しようとしてイエスが失敗された時(※)、彼はこんな夢にいつまでもしがみついているのは無用だということをはっきりと知った。彼は船が沈没しつつあることを見てとって、脱出を決意した。
自分の金銭欲をも満足させ、権力者たちのひいきをも得られるようなやりかたで、それを実行した。彼の申し出は、全く時機にかなっていた。彼らはそれに意地汚く飛びついて、この卑しむべき男と値段を取りきめ、裏切りにつごうのいい機会をさがさせにやった。機会は彼らの予想以上に早く見つかった。―それは、あの低劣な取引が結ばれた翌々晩のことだった。
※聖書を読むときこの部分は事情が違うのではないかと思う。すなわちイエス様が民衆の気持ちを利用しようとされたところは一切見当たらないからである。ストーカー氏がなぜこう書いたのか疑問に思う箇所ではある。ひいき目に考えればそうユダは考えたという叙述になるだろうか。
(写真は一昨日用事で出かけた街中で見かけた「白モクレン」。天候の変わりやすい一日であったが、この時ばかりは空が青かった。この日も日ごろ祈っていて住所を失念し、こちらから連絡が取りえず中々会えなかった人と街路でばったり出会えた。主は私たちの声に出さない叫びをいつもチャンと聞いておられる、と思った。昨日は珍しく、朝から晴れ渡っていた。「空の青 ユダの心を 持つか我」)