2024年11月7日木曜日

ルーテルの恃み(8)

河岸を 餌求め歩く 白鷺(※)
 なかんずく1520年にはルーテルは三つのえらい著述を為した。これは三大宗教改革論文といわれ 、今日においても実に貴きものである。しかもかかる立派な著述を八月の初めから十月の初めまで、僅々二ヶ月の間に引き続いて発表したのである。その一つは有名なる『キリスト者の自由』であった。次は『教会のバビロン俘囚』であった、もう一つは『ドイツの貴族に与うる書』であった。いずれも聖書の重んずべきことを主張したる論文である。

 例えば『キリスト者の自由』においてはこんなことを言うている、「霊魂に自由を与えるものは外側の事物ではない。僧の衣を纏(まと)いローマの本山に住んでも霊魂には何の益にもならない。霊魂はただ神の言すなわち福音さえあれば足りるのである。福音によりて初めて真の自由が得られるのである」と。あるいはまたいう、「今日豪然として法王様とか監督様とかいっておる者を聖書には何というておるか、曰く役者(つかえびと)、僕(しもべ)、家宰(いえつかさ)と呼んでいるのである。彼らは信者という点においては少しも一般のキリスト者と違わない。ただ違うところは彼らは信仰上のことをもって他の人々に仕える僕であるのみ」と。

 『教会のバビロン俘囚』の中にはこんなことをいうておる、「すべてのこと皆ただ聖書によってのみ判断すべし」と、すなわち聖書以外に判断の根拠は何処にもないというのである。而して彼は聖書に照らしてローマ教会の聖礼典制度(サクラメント)を鋭く批評した。洗礼と主の晩餐以外のサクラメントは皆聖書に基づかない人間の伝説または命令によるものだからこれを廃止すべしというている。

 また『ドイツの貴族に与うる書』には、ローマ教会が法王のほか何人にも自分で聖書を解釈することを許さないことを手厳しく非難していうている、曰く「聖書を解釈し得るものが法王のみであるというならば、しかしそれがほんとうなら聖書の必要がそもそも何処にあるか。むしろ聖書をやいてしまってローマにいるあの無学無信仰の坊主たちで満足するがいい。現に彼奴(きゃつ)等が悪魔の手先であるということを知ったのも、私が自分で聖書を解釈したからではないか」と。

 一にも聖書、二にも聖書、三にも聖書、聖書聖書聖書である。そしてその論鋒の鋭いこと、実に聖書によらなければ到底できないところである。ルーテルには敵の本営を突き崩さねばやまぬような鋭い力があったが、それは彼の性格によるというよりもむしろ彼の用いた聖書の力であった。聖書そのものが両刃の剣よりも鋭いのである。これはいわゆる「たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す」(新約聖書 ヘブル4章12節)。これを武器として用いて、鋭からざるを得ないのである。

 そのうちに遂に法王はルーテル破門の令書を発布した。ルーテルは法王より狐、野猪、猛獣などという名を被(かぶ)せられ、いよいよ最後の処分に処せられたのである。この当時において恐るべきものは地震でもなく雷でもなく、実に法王よりの破門であった。幾百万の忠良なる国民と精鋭なる軍隊とを背後に有する皇帝すらも、この処分には敵(かな)わなかったのである。しかるに見よ一巻の聖書の他何の頼るところなき寒僧ルーテル、彼は同僚と学生とを招きウイッテンベルヒの門外に火を炊いて法王の令書を焼いてしまったのである。一人の坊主が法王の令書を焼いたと、これを聞いてドイツ全国否欧州全体の心臓がひっくりかえるほど驚いた。今日の我々にはとてもその驚きを想像することができない。しかしながら聖書によってキリストと神とに恃める一人のルーテルは強かった。皇帝を頤使(いし)するローマ法王といえども、彼一人をどうすることもできなかったのである。

 遂に1521年の有名なウオルムスの議会が来た。正にルーテル三十有八歳の春である。この議会は皇帝チャールズ五世の即位以来初めての議会であったがため、その議題に上るべき事件は色々あったが、なかんずく最も重要なる問題はドイツ国とローマ法王庁との関係であって、而してその中にはもちろんルーテルの破門に関する帝国の処置如何ということも含まれておった。法王はこの議会へ使者を遣わして皇帝宛の親書を送り、ルーテルに対する破門処分を執行せんことを要求した。皇帝は政治上の理由よりこの際法王と握手せんことを欲していた。しかしながら一応の審問もしないで法王の要求のままに自分の臣下を処分するが如きは威厳にも関するというわけで、ルーテルを召喚し議会へ出頭させることにした。

 途中ルーテルの一身に関しどんな椿事(ちんじ)が持ち上がるかも知れぬ虞(おそれ)があるので、皇帝からその安全を保証するための保身券が下付せられた。ルーテルはこの皇帝よりの召喚の命令に応じて、1521年4月2日遠くウオルムスに向かい、ウイッテンベルヒを出発した。彼の前途は雨か霞か、黒い雲が一面に地平線の上を蔽うているが如くに見えた。死の影が前に漂うているが如くであった。いずれにしろ唯ですむはずがなかった。ルーテルはもちろんそのことを自覚しておった。しかしながら彼には恃むところがあった。まさに出発せんとするに臨みその友リンクに手紙をやって言うた、「私は知っているかつ信じている、主イエス・キリストが今なお生きて我らを護って下さることを。私はただこれに頼るのである。ゆえに一万の法王といえども恐くはない。何となれば私と一緒におる者はローマにおる者よりも遥かに偉大であるからである」と。

 ウオルスムスといえばライン川の上流に位し、ウイッテンベルヒからは二週間の長い旅路である。この間ルーテルは到るところで聖書について説教をした、ことにあのエルフルトの修道院に泊まった時には如何に思い出多く感じたことであろう。そこにおいて彼はキリストの復活についてえらい説教をなした。かかる場合にありながら、彼の心中を占めておった問題がどんな種類のものであったかがわかる。旅行の最後の駅オッペンハイムへ着いた時、自分の殿様のフレデリック選挙侯の秘書官から一通の手紙を受け取った。それには危険だからしてウオルムスへ来ることを見合わせよと書いてあった。そしてジョン・フスも皇帝の保身券がありながら焼き殺されたではないかと書いてあった。ルーテルは直ちに返事を認めた、曰く「フスは焼かれた、しかし真理は彼と一緒に焼かれない。私はウオルムスへ行く。たとえ屋根の瓦の数ほどの悪魔が待っているとも私は行く」と。

 ウオルムスでは朝早く物見の塔に出ておった見張り人がラッパを吹き鳴らしてルーテルが見えたと知らせた。町の人々は朝餉(あさげ)をやめて外へ駆け出で、僧服を着て妙な旅行帽をかぶっているルーテルを見た。街は群衆で押し合いひし合いし、辛うじて通り抜けることができた。翌日午後四時頃議会に呼び出された。議場へ入って見ると正面の玉座に皇帝た座っている、その下には六人の選挙候が並んでいる、満堂には諸侯貴族僧侶自由都市の代表者外国の使臣などが綺羅星の如くに着席している。すべてで五千人以上の人が堂の内外に集っておったという。

 皇帝の前には卓があって、その上に本が山の如く積み重ねてあった。みなルーテルの本である。皇帝の代表者が出て来てその本の表題を一々読み上げ、「これらは皆ルーテルが書いたものであるかどうか」と尋ねた。「その通り、私の書いたものに相違ありません」。しからば今なおこれを固執するかあるいはその一部または全部を取り消すかと。ルーテルにとっては軽々しく即答のできない質問であった。何となれば彼は決してつまらぬ意地を張って自分の書いたものを何処までも固執しようという気はない、彼の恃むところは自分ではない、ただ聖書である、かつて自分の書いたものにいやしくも聖書に背くような節が一点でもあるならばそれを取り消さないわけにはいかない。ここにおいて彼は自分の著述の全部にわたり一応調べ直して見なければならなかった。彼は一日の猶予を乞うた。而して翌日また召喚せられることになった。

※ 今、古利根川は白鷺、青鷺が川の上を飛行しては、餌になる魚を求めては歩き回っています。しかし白鷺の「白」は美しいもので、何か私には訴えるものがあります。造物主はこうして私に無限の慰みをくださいます。

 さて、アメリカ大統領選は結果が判明しました。トランプ氏の圧勝でした。実は私は、結果が判明する前に、いったん次のようにコメントを書きましたが、削除しました。その文章とは次のものです。
 トランプ支持者のうちには福音に立つ人々が中核を占めていると言われています。一方ハリス氏はどうなのか、数ヶ月前に彼女の著書『私たちの真実』を読みましたが、その中で彼女は次のように述べていました。「私は寝る前にはいつも、短く祈りを捧げた。『神よ、どうか私に正しいことを行なう力をお貸しください』。自分の選ぶ道が正しく、最後までやり遂げられる勇気がもてますようにと祈った。とりわけ、私を頼りにしている多くの家族が安全に不安なく過ごせますようにと。彼らの生活がどれだけ危機に瀕しているかをよく知っていたからだ。」(同書123頁より引用)
 こう書きながらも、私はハリス氏の信仰とは如何なるものか、もう一つ確信が持てず、判断しあぐねていたところがありました。彼女はこの本の中で信仰に関し三箇所ほど書いていましたが、この箇所は彼女の信仰のあり方を示すにふさわしいのではないかと思って引用させていただいたのですが、ルーテルの信仰が上述のように、全面的に主に依存するものであるのに対し、ハリス氏の場合は全面的でないのではないか、「お貸しください」という祈りがいみじくも示すように、それはご利益主義と異ならないものになるのではないかと少し思ったからです。祈りの次の文章が示しますように、ハリス氏の善意は分かりますし、彼女が落選したあと、今後どのようにその思いを達成していくのか期待したいと思います。 

2024年11月6日水曜日

ルーテルの恃み(7)

日輪を コスモスの群れ 仰ぎ見る(※)
 果たして論題の効果はえらいものであった 。ルーテルに対して盛んなる攻撃反対の火の手が方々に起こった。なかんずく最も有力なるは神学者ジョン・エックであった。この人はルーテルの敵の中第一流の人物であったといわるる。学問は博く頭はよく、加うるに極めて優れた討論家であった。彼はルーテルの論題を研究すればするほど敵愾(てきがい)心が募るのみであった。彼はどうかしてこれを一揉(も)みに揉みつぶしてやろうと考えた。そして明敏なる眼をみはってルーテルの議論の一番の弱点を探した。彼は遂にそれをめつけた。すなわちルーテルの意見の中には恐るべきものが入っている、百年前にボヘミアで焼き殺されたあの異端者ジョン・フスの意見と似たものが入っている。ボヘミアのフスといえば、名を呼ぶだに人々の恐れていたものであった。しかるにルーテルは少なくともある点においてフスと同じ意見を持っているのである。エックはこれを発見して独りほほえんだ、ここを衝(つ)けばルーテルの立場はことごとくひっくりかえるのである。而してそのために最もよい方法は自分の得意な討論にルーテルをおびき出して公衆の面前において彼をわなの中に陥れることである、かくて有名なるライプチヒ論争は始まった。

 ルーテルはかかるたくらみがあるとも知らず、やむをえず引っ張り出されてライプチヒに向かった(1520年)。ライプチヒはサクソニー公国の首府であって、その王様のジョージ公はルーテルの大敵であった。ライプチヒに滞在中エックはあらゆる名誉をもって歓迎せらるるに拘(かかわ)らず、ルーテルは非常なる侮辱を受けた。彼はただはねのけ者として爪弾(つまはじ)きせられるばかりであった。礼拝のため教会に行けば、僧侶らはやあ異端が来た汚れる汚れるといって祭壇から聖餐用の品物を取りおろした。彼は不快の念禁じ難かったけれども、ただ聖書を恃みとし神によって慰められて、心の平和を保っていた。いよいよ討論の折にもエックは種々なる詭弁を弄(ろう)し、またルーテルの言をあるいは曲解しあるいは誤解し、無暗に圧服するような風があったが、ルーテルの態度は落ち着いておった。彼はいつも一束の菫の花を手にして討論の熱する時など度々その香りを嗅(か)いでいたという。その様子を実見したモゼルラヌスの如きは、特別むつかしき立場に置かれながらかかる態度を保ち得るからには、必ずや神彼と共に在り給うのであろうと信じたというておる。

 しかしながら討論の結果はエックの策略の成功であった。彼は歩一歩ルーテルを押しつめて、遂に予定のわなのところまで連れて来た。そしてルーテルのある言葉を捉まえて尋ねた、「それでは貴下の意見はフスの意見と似ているではないか」と。ルーテルは答えた、「そうです、フスの意見の中にも全然キリスト的かつ福音的のところがある」と。この一言に満場どよめき渡った。傍で聞いておったジョージ公の如きは憤然として頭をふって全聴衆に聞ゆるような大音声で叫んだ、「おお大変だ、この疫病め」と。喜んだのはエックであった。ルーテルからこの一言を聞けばもう目的を達したのである、この上はもはや何ら討論の必要がない。彼に異端の宣告を与えフスと同じ刑罰に処しさえすればよいのである。憐れむべきルーテルは遂に窮境に陥ったのであった。彼自身も意外の結果に陥ったことを驚いた。しかしながら「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません」(新約聖書 Ⅱコリント4章8節)、彼は決して失望しなかった。世界中が彼を異端扱いしても、彼にはなお恃むところがあった。法王は彼を焼き殺しの刑に宣告するとも、彼にはなお大なる慰めがあった。それは他なし、やはり聖書であった。ライプチヒの論争は表面より見てルーテルの失敗である。しかしながら実は彼をしてこの世のすべてに望みを失わしめ、ただ益々聖書にのみ頼らしめんとする神の摂理であった。神の摂理は度々人の失敗の形をもって現わるるのである。彼はひとしお心を込めて聖書を研究した。而してフスの意見のあるものも自分の意見も共に聖書に背かざることを知って、非常なる慰安を感じた。彼の心には前よりも大なる勇気が湧いた。彼は筆を執って盛んに自分の意見を公表した。その当時のルーテルの著述の盛んなること、実に驚くの他ない。ドイツ中で出版する本の半数もしくは三分の一は彼一人の書いたものであった。而してこの不思議なる力に動かされて、ドイツ全体が彼の著述を争い読んだ。何か彼の著述が出版せらるるという時には、その最初の版を手に入れたいとて群衆が印刷所の戸口に押し掛けてこれを待ち受け、しかも家までそのまま持って帰ることができない。途中でまた他の群衆が彼らを包囲して声高く読み上げさせたという。メランヒトンはいうておる、「何人もルーテルのように全国民の心を動かす者はない、貴族といわず農民といわず諸侯婦人小児といわず、みな彼の貴き言葉に動かされた」と。(『藤井武全集第8巻』615〜618頁より引用)

※ 文化の日の翌日(11/4)の古利根川沿いのコスモス畑です。私たちの散歩コースの折り返し点になる「人道橋」からはさらに上流部側に位置するので、私たちは圏外扱いにしておりますが、秋のこの時期には足を延ばして訪れるようにしています。さてどこからどのように撮ったら様(さま)になるか考えましたが、コスモス一輪一輪がそれぞれ思いのままに咲き誇っているのを眺めているうちに、いつしか、アメリカ国民の大統領選に臨んでいる姿を想起せずにはいられませんでした。
 本文中にルーテルとエックの討論の様子が描かれていましたが、ルーテルは自らの立場がたとえどんなに不利になってもその信仰は弱らなかったことが鮮明に描かれていたのではないでしょうか。「神の摂理は度々人の失敗の形をもって現わるるのである。」とは名言ではないでしょうか。
 ルーテルの信仰は世界をひっくり返しました。そのルーテルの申し子でもあるアメリカ大統領は果たしてトランプ氏なのか、ハリス氏なのか固唾を飲んで世界中の人々が注目しています.。

2024年11月5日火曜日

ルーテルの恃み(6)

空と川 秋晴れやかに 流れ行く(※1)
三 聖書本位の生活

 このようにしてルーテルは生まれかわった。彼のたましいを圧しつぶすばかりであった煩悶の重荷はすっかり取れてしまった。ちょうど家をも樹をも吹き倒さずんばやまないような大嵐が収まって、澄み渡りたる秋の空に晴れやかな日の光が輝き渡るが如くであった。今や彼のうなだれたる首はもたげられた。その顔にあったいうべからざる暗い影は消えてしまって、歓喜と感謝と希望との光がこれに代わった。彼は今や元の如くに孤独ではない。彼には恃むところがある。彼には何よりも大なる伴侶がある、イエス・キリストがそうである。またいとも親しき父がある、父よと呼んで日々その面(おも)を仰ぎこれと物言い、その御心に従っては生きつつあるのである。而して彼にこのように神を示してくれたものは何であったか。それは友人でもなかった、教師でもなかった、法王でもなかった、もちろん儀式や制度ではなかった。それは唯一の聖書であった。聖書がありたればこそ彼は救われたのである。一巻の聖書なかりせば彼の霊魂は遂に破産したであろう。しかしながら幸にして聖書は神の姿をあからさまに教えてくれるのである、イエス・キリストの生涯とその教えとにおいて神の御心は隈なく現われているのである。ここにおいてか彼にとって聖書ほど大事なものはなかった。彼の恃むところはただイエス・キリストの福音である、すなわち聖書である。ゆえにその時以後彼の生活は全く聖書本位であった。ただ聖書と親しみ、聖書を守り、聖書のために戦うの他何でもなかった。

 彼は先ず全力を注いで聖書を研究した(※2)。彼は当時行われておったラテン訳の聖書ではもちろん満足しなかった。是非とも原語で読もうと思った。彼は既に多少ギリシヤ語ヘブライ語の素養があったけれども、なお一層その研究に努めた。1508年にウイッテンベルヒ大学の哲学教授に任ぜられてエルフルトから移って来たが、その後教団の用事でローマへ派遣された時、ローマ滞在の機会を利用してユダヤ人のラビからヘブライ語を学び、またコンスタンチノーブルから避難して来た人についてギリシヤ語を勉強した。ウイッテンベルヒに帰ってから、彼は神学博士の学位を授けられて神学の教授になった。しかしながら彼の講義ぶりは他の神学の先生とは全然趣を異にした。当時の神学は聖書を抜きにしてむしろスコラ学派その他哲学に基づいておるものであった。ルーテルは全然それらの神学に価値を認めなかった。彼にとってはすべてが聖書本位である。聖書に基づかない神学は神学ではない、神学が正しいか否かはただ聖書に照らして見てわかるのである。ゆえに彼はいうた、他の先生たちは神学の博士であるけれども自分はそうではない、自分は聖書の博士になればよいのであると。従って彼はもっぱら聖書を講義した。詩篇とロマ書とガラテヤ書と、これらの講義は実に驚くべき斬新なるかつ力のあるものであった。学生は未だかつてかかる注釈を聞いたことはなかった。さながら天の黙示を受くるがごとくに感じた。ドイツ全国から学生が集まった。学生のみではない、町の人々もまたこの神の言の新しき生きたる説明を聞かんと欲して、自ら学校に籍を置いて聴講したのである。

 マルチン・ルーテルという一人の霊魂の小さき世界にかかる変化が起こって聖書本位の生活を進めている間に、教会という大なる世界には赦罪券の販売というようなことが益々盛んに行なわれつつあった。教会はもちろんルーテルの心中にそんなえらい革命のあったことなどに気が付かなかった。しかし実は面白い対照であった。この二つの世界が離れている間は無事であるが、これが相触れる時にはただで済むわけには行かなかった。ルーテルはもちろん始めから改革を企てたのでも何でもなかった。彼はまた法王が赦罪券を利用してどんな貪婪(どんらん)を働こうと、そんなことを一々干渉する気はなかった。彼はただ忠実に聖書を守った。聖書に関係なきことは彼にも関係なきことである。しかしながら事もし聖書の大事な真理に背く時には、彼は黙って見ているわけには行かなかった。赦罪券はただの商売ではない。これは馬券の売買や株の売買や富籤(とみくじ)の売買とは根本的に異なるものである。赦罪券は聖書の一番大事な教えを蹂躙するものである。罪の赦しが金によって法王によって与えられるというが如きは、ルーテルの耐え難きところである。しかもルーテルは我慢しきれるだけ我慢して見ておった。しかるにテッツエルは彼方此方を経巡りて、1516年の暮れより翌年春にかけウイッテンベルヒの近傍を行商しつつあったのである。そしてルーテル自身の教区に属する人々、いつも彼の許に来たりて信仰の告白を為す男女たちまでがこれを買って、ルーテルのところに持って来てその承認を求めるのである。火は既に彼の袂(たもと)についたのである。ここにおいて彼はもはや我慢し切れなくなった。彼は一巻の聖書に照らしてその非を訊(ただ)さざるを得なかった。その結果如何なる禍が彼の身に及ぼうと、そんなことは彼の知るところではない。彼は福音によって救われたのである、ゆえに今ただその福音を擁護するにすぎない。いわゆる九十五箇条の論題はこのようにして添付せられたのであった。(『藤井武全集第8巻』613〜615頁より引用)

※1 最近、古利根川散策はこの一角を一周することにしています。手前が「藤塚橋」、奥に「ゆりの木橋」(川の蛇行のため見通せませんが)、ちょうどこの二つの橋を渡って一周すると二キロ強です。「ゆりの木橋」の上流部にはさらに東武野田線(アーバンライン)が鉄橋を渡り、そのすぐ先に「人道橋 」があります。こちらの両橋は一周二キロ弱です。以前、セミを探しながら歩き続けたところです。
 今はもっぱらこの写真の川中の水鳥(鴨と鷺など)を見るのを楽しみにしています。川続きですから、上流部にも水鳥はいるのですが、なぜか上流部にあたる川より下流部にあたるこの川(写真)の方が数が多いのです。理由はどうも水位、水の深さにあるのではないかと考えています。上流部より下流部の方が浅く、たとえば鷺が歩くのに都合良さそうに見えるのです。あと、川の蛇行が関係しているのかも知れません。それに即応して、圧倒的な青が支配しているかに見える川には、直接は見えませんが、たくさんの魚が棲息しているはずです。その獲物に惹きつけられて水鳥たちは行動しているのではないでしょうか。夕空ではありますが、空の青を映し滔々と流れる古利根川に思わず敬意を表したくなりました。

※2 「聖書の研究」という言い回しを読んで、私は同じドイツ人であったベック兄の心を思い出します。兄は誰よりも聖書に精通しておられました(したがって聖書の研究に落ち度がない方でした)が、私たちのように「聖書読みの聖書知らず」の生活を続けてよしとしている者に向かって、「聖書は研究するものでなく、食べるものだよ」と言わんばかりによく次の聖句を示してくださったのです。
「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」(旧約聖書 エレミヤ15章16節)

イエス様も言われました。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(新約聖書 ヨハネの福音書5章39〜40節)

2024年11月4日月曜日

ルーテルの恃み(5)

福音は 継母にいのち 継がせたり(※)
 しかしながら、遂に煩悶の暗き夜の明ける時が来た。救いの朝がやって来た、彼の上役たるジョン・スタウビッツがある時彼に教えて、聖書には神の方から罪人の側へ来てくださると書いてあるというた。この一言は実に鋭い矢のようにルーテルの胸を貫いたのである。それから彼は熱心に聖書を研究した、ことにそのロマ書を研究した、而して驚くべし、彼の今日まで予想だにできなかったえらい福音が、彼の胸の隅から隅までを照らし渡ったのである。その昔使徒パウロの舐(な)めたる経験が、そのまま彼の胸に飛び火したのである。時は千五百年を隔て、ところはギリシヤとドイツとに離れながら、パウロの心臓を打ったと同じ鼓動が、今このエルフルト修道院内の一青年の心臓にも響いたのである。

「今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(新約聖書 ローマ3章21〜24節)

 人みな既に罪を犯したれば神より栄を受くるに足らず、人はみなかかる浅ましき者であれば自ら進んで神に近づくことはできないのである。たといいかなる善行をつみ苦行を重ぬるとも自分を清く義しき者として神の前に出ることは絶対に不可能である。そこまではルーテルが痛切にこれを経験して知ったのである。しかし、事はそれでおしまいではなかった。人は神に近づくことができない、しかしながら、神はそれでほっとき給わないのである。神はご自身進み出て下さるのである。神は我々の近づくを待たずして、自ら我々に近づいて下さるのである。神ご自身がその姿を我々の前に現わして下さるのである。見よ、イエス・キリストを、十字架の上のイエス・キリストを、あの愛は、あれは何であるか。

 神ご自身が我々のために苦しんで下さるのではないか。我々がどんな心をもって神に対しても、神は遥かにそれに勝るところの限りなき愛をもって、我々を抱いて下さるではないか。キリストを見る時に神の愛がどんな性質のものであるかということが紛う方なくはっきりとわかるのである。従って、また我々が何をなすべきかということがはっきりと分かるのである。我々は何にもしなくても宜しい、断食も要らない、修養も要らない。ただこのキリストにすべてをお委せすればいいのである。この身このまま、汚れたるこのまま、弱きこのまま、彼の足許にひれ伏して、この私をあなたに献げますといえば、それで足りるのである。その時に神は我々の心の中に住み給うのである。その時に我々はまったく生まれ代わるのである。その時に今まで知らなかった自由と平和との新たなる生命が我々に与えられるのである。ただそれだけ、お委せするだけである、それがすなわち信仰である。

「義人は信仰によって生きる」(新約聖書 ローマ1章17節)

 然り、ただ信仰のみによりて生くべし、信仰以外には絶対に何物も要らないと、これすなわちルーテルの救いであった。彼はこの大発見を為して躍り上がって喜んだ。彼は赤革の大きな聖書を両手で自分の胸に押しあてて、ああこれ我が書なりと叫んだ。後に至っていうておる、「余はその時たちまち新たに生まれたように感じた、ちょうどパラダイスの戸が目の前に開いておるのを発見したようであった、ロマ書は実に余にとってはパラダイスの門であった」と。

(『藤井武全集第8巻』611〜612頁より引用)

※ 継母が召されて三十年経ちました。今日の写真は、その継母の甥であるK兄がアメリカ出張のついでに、プレゼントとして持ち帰って来たものの一部、見開き2頁分のものです。私の書棚に大切なものとして仕舞い込んでいたにもかかわらず、これまで過去2、3回手にとり眺めたに過ぎませんでした。
 一昨晩私はダニエル書10章を家内と一緒に輪読していましたが、その12節を読むうちに、この本の存在をありありと思い出したのであります。浄土真宗の門徒であった継母は最晩年末期のスキルス性の胃癌で苦しみました。1994年の1月のことでした。急遽、故郷彦根から継母を引き寄せ、そのいのちの永らえんことを家族はもちろんのこと集会の皆さんにも祈っていただきました。
 その前年のクリスマスの日、甥であるK兄は救われ、洗礼を受ける恵みに預かっていました。そして、苦しんでいる継母の枕元にこのイギリスRandom House社発行(?)の『The GOSPELS BOOK of DAYS』をプレゼントしたのです。この冊子の日付頁に私は幾つかのみことばを書き加えていました。そのトップバッターがダニエル書10章12節でした。いうまでもなく、継母がイエス・キリストの前に頭を下げたことを喜んでのみことばでした。それだけでなく、その続きに今日の写真内のみことばも書かせていただいていたのです。これまたルーテルと同じ新生の喜びの帰結であります。
 三十年来真剣に見向きもして来なかったこの日付日記を兼ねた本は、四福音書からなる主の十字架にちなんだ聖句と絵を五十組載せていました。私は三十年前にはこのような構成に無感覚であった不明を恥じ、今よみがえってきた感謝(ピリピ4:10)の思いを、K兄にお伝えしたいと思わされております。

2024年11月3日日曜日

ルーテルの恃み(4)

濁り川 ルターならずも 我然り(※)
 世間ではこの原因について一つの物語を伝えている。すなわちルーテルがアレキシウスという友人と共に旅行をした時雷雨に出会い、アレキシウスは落雷のため即死した。而してルーテルの耳には「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」(新約聖書 マタイ16章26節)という声が響いた。そこでルーテルが叫んで「聖アンナよ、助け給え、私は僧侶になります」というた、というのである。しかしこれは事実ではない。これは別々にあったことを一つの物語にまとめたに過ぎない。すなわちルーテルが父母を訪ねての帰り道にエルフルトの傍で大雷雨に遭遇したこともある、またある時不意に親友を失うたこともある、また修道院に入った日は聖アレキシウスの日であった、これらは皆別々のことで、しかも大学の秀才ルーテルを修道院へ追いやるには余りに浅はかなまた余りに外側的の原因である。

 その真の原因は人の見えないところに、彼の心の中にあったに相違ない。それはどんな煩悶であったかルーテルは少しも発表しなかった。しかしながらそれを知ることは決して困難ではない。何となれば青年ルーテルに来たりし煩悶はまた我らすべてに来たる煩悶であるからである。ルーテルだけが苦しんだのではない、すべての青年が苦しむのである。ただそれをごまかすか、正直に受け取るかの相違のみである。永遠者を慕うその慕わしさである。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、・・・私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています」(旧約聖書 詩篇42篇1〜2節)というそのAspirationである、たましいの渇きである。この渇きは論理学や修辞学や文学や哲学をもってこれを潤すことができない、いわんや法律学をもってこれを満たすことはできない。ルーテルはしばらくこの渇きをごまかして法科大学の秀才として学校を継続すれば、世間からも賞賛せられことに親の心を満足させるのであった。彼はそのことを百も承知しておった。しかしながら世間が満足し親が満足しても、独り自分のたましいだけは満足せざるをいかんせん。彼は世間より笑われ親には失望をさしても自分のたましいをごまかすことができなかった。

 彼は小さき自分のたましい一つをもてあましたのである。何処かにこれを救ってくれる者を探し当てるまではどうすることもできない。しからばその救いはどこにあるか。彼は周囲を顧みて何処にも行くべき道を発見しなかった。唯一あの修道院の壁の内側だけには何かあるのではあるまいかと疑った。昔からまじめな信者が幾たりかあそこの門を潜って入った。果たして修道院中に自分の求めるものがあるかないかは分からない。しかしながら他に行くべき道が一つもない以上はこの門を叩くより他ないのである。彼は早くからその決心をしていたのであろう。それがここに至りて火のつくように彼を促したのであろう、我がこの世の生涯もいつ終わるかも分からない、もし光を見ない前に死んだらば如何、彼はこれを思ってもはや一刻も躊躇ができなかった。彼は断然決心した。かくて憐れむべき青年ルーテルはその年7月無量の煩悶を抱いて漂然アウガスチン派の修道院の門を叩いた。

 院長は先づ新来の青年に尋ねた。「我が子よ、汝は何を求むるか」と。ルーテルは答えていうた、「私は神のいつくしみとあなたの友情とがほしいのであります」と。いかに温かき心にあこがれていたであろう!彼は果たして修道院でそれを得たか。否、彼の得たものは冷たき規則であった、死したる習慣であった、機械的なる形式であった。朝から晩まで唱歌を歌い、祈祷の言葉を繰り返し、断食をなし、起ったり座ったり、手足を動かしたり、頭を動かしたりする生活である。もちろん求めるものは得られなかった。しかしながら彼にとっては行くべき道は他に一つもないのである。この僧侶生活において光を得ずんば死するより他ないのである。

 ここにおいてか若きルーテルは命がけの生活を始めた。彼は飲食を廃し、鞭をもって身体を打ち、夢中になってひたすら修業をした。ある時は一片のパンをも一滴の水をも口にせずして三昼夜を過ごしたこともあった。ある時はいつもの礼拝に彼の姿が見えない、どうしたろうといって同僚が探して見たら、自分の小さな部屋の床の上に卒倒しておった。然り、青年ルーテルは人生問題に悶えてついに卒倒したのである。今日の青年にしてかくまで真面目に煩悶する者果たして幾人かある。わがルーテルは正直であった、彼の煩悶は真剣であった、彼は現代の青年の如く慰み半分冗談半分の生温かい煩悶をしなかった。彼にとりては all or nothing 全部かしからずんば無であった。救いかしからずんば死であった。彼にとりては煩悶は確かに命がけであったのである。

 このようにルーテルはその生命をも賭して、救われんがために必要なるすべてのことを為した。彼はのちに至っていうた、「もし僧侶がその僧侶生活をもって天国に入り得るならば余はとっくに天国に到着しておったに相違ない」と。しかしながら彼の外側の行を積めば積むほど彼の内側のさびしさは募るばかりであった。彼は少しも神に近づいたような気がしなかった。彼は神に近づこうとするけれどもどうしても近づくことができないのである。神は余りに聖く、余りに義しく、余りに偉大であって、どうしてもその親しさを感ずることができない。神と自分との間には超ゆることのできない深い谷がある。

 ことに彼は神の怒りについて教えられておった。神は人の罪を怒りこれを罰せずしては措(お)き給わないと教えられておった。ゆえに我々は自分の罪を清め過去において犯したるすべての罪を償うだけの善行を積まねば救われないと教えられておった。ゆえに彼の神に対する心持ちは畏敬または恐れであって少しも温かい感じが出て来ない。彼は修道院において僧侶の為すべきすべての勤めをことごとく果たしたらば、自分の罪が償われ従って神の救いを受け得るのであろうと思った。然るにそれを果たしてみても少しも自分の罪が清まりたる感じがしない、相変わらず汚れたる、みじめなる、弱き浅ましき自分ではないか。彼はもちろんかかる姿をもって神の前に立つに忍びなかった。彼が初めてミサの儀式を司った時、「我はこの献物を汝永遠に生ける神にささぐ」という言を発しようとして、たちまち恐れとおののきのため胸が一杯になり、祭壇から転げ落ちようとしたことがあった。彼の如くに自分の良心に忠実なる者もまた少ないのである。

 メランヒトンの言うところによれば、彼が自分の心の浅ましさを思い、而して神の怒りとか罰とかを思う時には、実にたまらくなってとても生きていることができないほどであったという。彼自身ものちに至って白状している、「私の心は砕けてしまった、私はただ悲哀の中にあるのみであったーーもしその時福音の慰めによって救われなかったら、あと二年は生きることができなかったろう」と。同僚の坊さんたちもかかる様子を見て非常に同情した。ある老僧は彼に使徒信経を読ましめ、「我は罪の赦しを信ず」という句のところへ来たら、ちょっと止めさせて、そこへ「我が」という字を入れて読んでご覧なさい、「我は我が罪の赦しを信ず」と、神は我がすべての罪を赦し給うのであると。しかし彼はそれを信ずることができなかった。またある人は曰うた、悔い改めさえすれば赦されるではないかと。しかし我は果たして我が罪の全部を悔い改めることができるか、自分で知らない罪もあるではないか、完全なる悔い改めそのことがまた一つの不可能事ではないかと思った。しからば一体どうしたらよいのか。どうすることもできない。自分は神の許に近寄ることのできない人間である、近寄りたくても進むことができない、ああ、しかしながら神が恋しい、神にすがりたい。ここに至ってルーテルの煩悶はその絶頂に達したのである。(『藤井武全集第8巻607〜611頁より引用)

※ 一週間前の日曜日、この長野県御代田町の濁り川ベリのレストランに入って昼食を取りました。上述の文章を読み、その題材にふさわしいものはないかと思案している時、この事実を思い出しました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%81%E5%B7%9D_(%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C)

2024年11月2日土曜日

ルーテルの恃み(3)

イナゴ殿 汝恃むは 叢(くさむら)か(※)

 そもそも人は誰でも恃(たの)む所が欲しいのである。それがなくては生きることができない。人は強そうに見えて実は弱い。もちろん多くの場合において自分の弱いことを忘れている、またはごまかしている。この世の煩わしき刺激を受けながら齷齪(あくせく)と暮らしている間は、自分の弱いことを考える暇もない。しかし誰でも一生のうちに少なくとも一度はしみじみと自分の弱さを自覚せしめられる時があるのである。それがなしにこの世を終わる人はない。而してその最も普通の機会は青年時代である。

 人は子供の時代には単純な空想の世界に遊んでいる。壮年以後は目前の現実世界のみに捕われる。ただ何人も青年時代に一度だけある無限の世界の幕を一寸上げて彼方を覗くことを許されるのである。その時から彼は自己の弱さを自覚せしめられて、如何ともすることのできないさびしさがひしひしと胸の底に湧き返るのである。そしてこの広い天地の中に何処にも自分を慰めてくれるもののないことを感ずるのである。然り、その時のさびしさは何物よりも大きい、宇宙よりも大きい。ゆえに何をもって来てもこれを満たすことができない。

 友? 親しい友は我がために泣いてくれる。しかし友の熱き涙も我がさびしさをどうすることもできない。恋? 恋は甘い、かつ強い、しかしその恋をもってもなお酔うことのできないある深い要求がある。音楽も駄目、文学も駄目、哲学も駄目、どうすればよいか。人以上この世以上の何かに頼るより他ないのである。ゆえにこの時何人も宗教的の要求を抱く、神を求める、然るに悲しいかな我らの眼は曇って神を見ることができない。したがって神に頼らんと欲してこれに頼ることができない。

 神に頼る能わず然れども神以下のものをもって満足する能わず、これ人類の大多数の真相である。この矛盾を調和せんがために姑息なる安心が始まるのである。すなわち神を信ずると思いながら実は神以外の者に頼るのである。あるいは人に頼る。あるいは制度に頼る、あるいは儀式に頼る、あるいはその他何か不思議な力を有するものに頼る。ローマ法王というえらい人がある、教会という大制度がある、サクラメントという立派な儀式がある、赦罪券という不思議な切符がある。これらのものに頼って自分の霊魂を慰めていたのがすなわちルーテル当時のキリスト者の状態であったのである。赦罪券の売買はこの誤りたる信仰を一つの型に表したものに過ぎない。而してただにドイツ全体の信者のみならず、全欧の信者がことごとくかかるごまかしの信仰を抱いていたのである。

二 ルーテルの煩悶とその解決

 このようにキリスト教会全体、すなわちローマ法王を頭にいただき欧州全体の何千万という霊魂をもって成り立つ大なる世界がかかる信仰をもって安んじておった時に、ここに一つ別の世界があった。それは極めて小さき世界であった。そはただ一つの霊魂に過ぎなかった。しかも決して人の目につくほどのものではなかった。否、むしろみすぼらしきものであった。それが世に出たのは貧しき坑夫の家庭においてであった。しかも流浪中アイスレーベンの旅宿においてであった。彼は貧乏の間に育てられた。その母は度々自ら松林に赴き枯枝を拾いこれを肩に担うて帰って来たのである。父はもともと百姓の出であった。ゆえに彼は常に言うた、「余は百姓の子である。余の父も祖父も曾祖父も皆純粋の百姓であった」と。

 彼の学生時代にはその時代の習慣に従い乞食のごとく家々の前に立ち歌をうたうてはパンを乞い、もって生活を支えた。小学校より高等学校を経てこの貧しき一人の少年はついに大学に進んだ。エルフルトの大学である。その時分から父の生活は多少楽になったので、彼はようやく乞食書生の列から離れ、親の脛(すね)をかじって勉強することができるようになった。父は最初からして彼を法律家にしようと願っていた。このお父さんは僧侶が大嫌いで、「偽善の塊」であるといって心からこれを悪(にく)んでいた、えらいものは人民のためを計る法律家であると思うていた。それで自分の一生がつまらぬもので終わらねばならぬ代わりにこの倅(せがれ)には自分の取り逃した立派なものを得さしてやりたい、これは是非えらい法律家にしてやりたいとは倅が生まれた当時からの父の願いであった。さればこそその貧しい間にもできるだけ節約し、自分のための慰安はすべてこれをなみして、身分不相応の大学教育まで受けさしたのである。

 エルフルト大学といえばドイツ最古の大学であって、ルーテルの入った頃は最も有名であった。「良く学ばんと欲する者はエルフルトに赴くべし」という諺さえあった。ルーテルはお父さんのおかげで、1501年すなわち彼の満18歳の夏この有名な大学の予科に入学した。而して論理学、弁証学、修辞学、古典文学、音楽、医学、天文学などを学んだ。彼は勤勉なる学生であって、ことに実際的研究を重んじた。メランヒトンの言によれば、彼の非凡の才能は大学全体の怪しむところであったという。而して翌年の10月には早くも得業士(バチェラー)の称号を得、四年目の1505年には一先ず哲学科を卒業し十七人中第二番の好成績をもって学士(マスター)の称号を得た。これからいよいよ法律科に入るのである。お父さんは喜んだ。今日まで苦労した甲斐あって倅も今は大学の秀才ともてはやされ予て志望の法律家になるのももう遠くはない、ハンス老人定めし故郷にありて年老いたる妻を相手に祝杯を挙げておったであろう。

 然るに驚くべし、息子は親にも相談しないで突然大学をやめてしまった。何処へ行ったろう? エルフルトの修道院に入ってしまったのである。これから法律学をやろうというその大事な時に、何が原因かは知らぬがそれをやめてしまった、しかも選ぶ物もあろうにお父さんの何よりも嫌いな坊主になりにお寺へ入ってしまったとは、マンスフェルトの老夫婦の家庭における悲しみはとても想像することができない。思えば22年の昔、親族故旧から離れてアイスレーベンの木賃宿に寒い11月の中頃辛い思いをして産み落として以来、母はやせた腰を曲げては枯枝を拾ったり父はわずかな楽しみをも皆やめたりしてこの一人の子供の大法律家に成る日を今や遅しと待ち焦がれておったのに、それがみなあの坊主、あの詐欺師偽善者の仲間入りをさせるためであったろうか、実にこの時の両親の心中は同情に余りがある。我々から考えてそうである、いわんや当人のルーテルにおいてをや。彼は父や母の心情を察して定めし断腸の思いがしたであろう。彼はそのために幾たびか泣いたであろう。幾度か躊躇(ちゅうちょ)したであろう、しかしながらどうしても思いとどまることができなかった。なぜ?

(『藤井武全集第8巻』604〜607頁より引用)

※ 古利根川はいつの間にか鴨が数十羽、鷺が数羽現れる季節になりました。そのような中にあって、叢に小さいながらもイナゴが目の前で飛びました。二匹だったのですが、一匹はどこかへ飛んで行きました。さて、イナゴについての描写は意外に聖書に何度か出てきます。以下の聖句は上記の藤井武の本文とは直接関係がありませんし、この聖句の意味するところを私はまだよく理解していませんが、今日の聖句としてご参考のために転記しておきます。

その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。・・・そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。(新約聖書 黙示録9章3〜7節)

2024年11月1日金曜日

ルーテルの恃み(2)

時ならぬ 入道雲 時おもう(※)
 しからば、法王が宣言したる赦罪とは何であるか。それは法王が人の罪を赦すことである。人の罪を赦すということは実に大問題である。罪とはもちろん法律上の罪悪ではない。また必ずしも道徳上の悪行ではない。罪とは人の心の深いところに横たわっているある大なる力である。自分でいかにこれを逃れようと焦っても逃れることのできないある暗い影である。この暗い影は誰にでもつきまとっている。正直に自分の心を見る人は何人もその経験をごまかすことができない。自分に対し人に対しせねばならぬと思うことまたしたいと願うことがどうしてもできない、何者か自分をつかまえて強いてその意思に従わしめようとする者がある。かのパウロが 

 「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている・・・私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(新約聖書 ローマ7章15節、22〜24節)

と叫びしその深き悩み、これがすべての人を悩ましているのである。どうかしてこの鎖から逃れて、自由なる、清い、肩の軽い人間となりたい、とは実に万人の切なる願いである。これよりも深刻なる願いは人の心の中にあり得ないのである。罪から赦されるとはすなわちそのことである。

 しかるに、この真面目なる願いに対して、それを法王が叶(かな)えしめてやるというのである。法王がすべての人の罪を赦してやると。どうしてか。曰く金で売ってやるのである。若干の金を出せばどんな罪でもことごとく赦されるという不思議な効能を有する切符を与えてやるのである。それは法王の印を捺した一つの切符である。この切符を買いさえすればどんな罪でも赦される、おまけに神のお恵みにあずかり、また他人のなしたる善行の功徳がその身に及ぶというありがたい切符である。

 それをマインツの大監督アルバートが請負をした。すなわち法王に対して若干の金を納めるという約束をして、それ以上に売りさえすればあとは自分の利益となるのである。ゆえにこの監督さんは商売の上手なテッツェルという坊さんを委員に雇い入れて、ドイツの諸方へ赦罪券の行商に歩かした。もともと利益のための商売であるから、その販売の方法は今日市中を練り行く広告隊と少しも異ならぬ。すなわち先頭にはビロードまたは金色の布で作った赦罪の宣言書を押し立てて行く。その後ろから委員のテッツエルが進む。その傍には紅い十字架を捧げ、また法王の旗を翻して行く。その後ろにはあらゆる司祭、僧侶、議員、教師、学生、あらゆる男と女とが旗と蝋燭(ろうそく)を携え歌をうたい一大行列を成してついて行く。教会はガンガン鐘を鳴らしオルガンを弾いてこれを歓迎する、という風であった。そしてテッツエルは公衆に向かって叫んでいうた、「金の音が箱の中でチリンと鳴るや否や、霊魂は煉獄を飛び出すのである」と、また「赦罪の紅い十字架はキリストの十字架と等しき力を持っている」と、また「この切符は神の母を犯した者をも赦す力を持っている」と。

 それのみではない、この切符でも赦されない罪もあるという。それは何か。法王の身体に対する陰謀の罪とか、その他の高僧に対する暴行の罪とかである。なおその他に奇体なものがある。それは異教国から明礬(みょうばん)を輸入した罪も絶対に赦されないという。この当時法王領内のトルフアという山の中から明礬が出て、それを法王が全欧に一手販売をなして莫大の利益を得ておった。ゆえにこの利益を害する罪も絶対に赦されないというのである。以上をもってほぼ赦罪券とはどんなものかがわかると思う。

 このように、赦罪券はいずれの点より見ても奇怪千万な現象であった。そしてその直接の目的は法王の貪欲にあった。こんな怪しからぬものを、誰が見ても是認するはずがない。しかるにもかかわらず人々は争うてこれを買い求めたのである。テッツェルは到る所の町々村々で盛んな歓迎を受けた。而してある日彼がもはや売り物も残り少なくなったからやがて紅い十字架を取り下ろして天国の戸を閉めねばなるまい、もしこの機会を逸して赦罪券を買わざるにおいてはある罪の如きは永久に赦されなくなる、残る数日の売り出しの間は価格を割引するから何人も今すぐこれを買え、と勧めた時には一入(ひとしお)買い手が増したのである。

 このように多くの人の心に訴えるものである以上、赦罪券の販売は決してこれを単に一個の馬鹿げ切った商売とのみ見ることはできない。然り赦罪券は確かにそれ以上の意味を持っている。赦罪券は実はある人生の大事実を具体的にあらわすシンボルである。それはどんな事実であるか。曰く「誤りたる信仰」である。まことの「たのむべき所を知らざる人の心」これである。(『藤井武全集第8巻』601〜603頁より引用)

※ 先月30日の夕方の風景です。今の「時」がどんな時か気になります。500年前のドイツの姿を眺めていますが、我が日本は室町幕府が撰銭令を発したり、蓮如が石山本願寺を創建したりしています。彼我の違いや、時代の趨勢にかかわらず、聖書が指し示す真実に改めて目が開かされる思いがします。一方、この文章の著者藤井武は、この時30歳ごろであるが、「山形県理事官の職を辞して上京し、聖書研究および福音のために専心するに至った」とあり、自身の人生航路の選択がルーテルと重なる所があると編者矢内原忠雄は述べています。