2016年7月2日土曜日

イエス、いのち

幟(のぼり)立て 三勇士行く ルナリアを 主はあなたを 道にて守る

彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。(詩篇45:11)

 私のくちびるは「私の主。私の神。(ヨハネ20:28)」と言うでしょうか。私の人生は「私の主であるキリスト・イエス(ピリピ3:8)」と、そしてはっきり個人的に「私の主」と言えるでしょうか。主の弟子に対する最後の甘美な推奨のことば、神の威厳ゆえに私たちの告白のことばよりもっと貴重な物言い「あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。(ヨハネ13:13)」を自分のものとできますか。

 私は主の友の間にあって、あるいは敵の前で平易な言葉で私の忠誠を告白することを恥じたり、恐れたりしますか。私の額にはいつもどこでも主の配下として知られているという全くまごうことのない証印がありますか。「彼はあなたの夫である」と紋章に記されていますか。それはまるで私の生活の全巻物の照りだされている手紙がちょうど「すべての人に知られ、また読まれている(2コリント3:2)」ようにです。 

 「私を探り、私を調べてください。(詩篇139:23)」私に私の真の姿を示してください。そうして、あなたご自身の御名のために、過去の私のすべての不誠実を赦し、私をこの瞬間からあなたの権能ある恵みによって全面的に忠なる者としてください。

イエス様のために

主よ とこしえに
心に 証印を
生活に 刻印を
保たせてください

あらゆる喜びの鼓動
励む神経
休息の隠れ場所
戦う力 

それはあなたのゆえです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-2-only-for-jesus/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97348です。

マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(6)
 八時十五分きっかり全員が祈りのために集まった。もっとも幼い子どもは父の膝の上に座って。父はいつも日曜の詩篇、たとえば聖なる礼拝に関連するいくつかのものを読んだ。その時、膝の上にいる子どもに教会の宣教献金皿を与えた。これは1.5ペンスを求めてまわされた。訪れた人のシリングの銅貨がきらきら輝いていると喜んだ。そしてそれから父は宣教師と未信者への神様の祝福を求めて祈った。〈父のCMSでの最初の説教は1825年であった。そして父のその時の説教や話しの記録はデボン、コーンウォールやヨークシャーの開拓者の一人として関心が一杯つまっているものだ〉献金皿は銀のものに変えられ、宣教箱に置かれた。よく年間四、五ポンドがたまったものだ。
 私は幼なすぎたので一番上の姉のミリアムのように日曜学校に行けなかった。でも教会で母の側に座ることは喜びこそあれ、退屈ではなかった。土曜日にはビーフチキンやロースト、ポテト、アップルタルトやカスタードのすべてが用意された。お手伝いさんたちは私たちと同じように教会へ二回喜んで出かけた〈女主人にとっては大変な家庭的な幕間の一時だった。日曜日には皿が一枚も洗われていず、月曜の日の昇るころ全部整頓される。〉) 

0 件のコメント:

コメントを投稿