2016年7月22日金曜日

主のご命令のままに


私たち、あなたの家来どもは、王さまの選ばれるままにいたします。(2サムエル15:15)

 これが私たちが「神の宮の宝物倉(26:20)」であろうと「イスラエルに関する外の仕事(26:29)」であろうと 「すべての主の仕事、王への奉仕(1歴代26:30)」における揺らぐことのない落ち着いた喜びの秘訣です。この秘訣がすべてのものに違いをもたらすのです。

 もし私たちがまことの王なるお方が命じることはどんなことでもほんとうにいつも等しく行なう用意があるなら、大きなことであれ小さなことであれ、王の命令がどんなに変わっても、そこから生ずるすべての試みやいらだちは断じてありません。

 もし王が私にそこで働くように命令されるなら、私がここで働けなくなることを悲しく思うでしょうか。もし王が今日、室内で待っているように命令されるなら、私は戸外で働けないからというのでいらいらしていいのでしょうか。もし今朝王のメッセージを書くつもりがあったのなら、王が金持ちであれ貧乏人であれ、仕事を中断しなければならない訪問者を送られたからといっていらいらするでしょうか。その人たちに私は話をしたり、あるいは王のために親切を示したり、少なくとも王の命令「謙遜でありなさい(1ペテロ3:8)」という命令に従うのです。

 もし私の器官全部がほんとうに王なる方の意のままに行動するのなら、私は今日の命令が、頭や舌がなすもっと重要に思われる幾つかの代わりに、私の手を必要とする簡単な仕事であれ私の足を必要とする用足しであったとしたら、なぜ心を害するでしょうか。

 「どんなことでも」というのは必ずしも積極的な働きだけではありません。それは半時間であろうと人生の半時であろうと待つことであり、学ぶことであり、苦しむことであり、静かに座っていることであるかも知れないのです。しかし、敬愛する「王である主」のしもべであるみなさん。私たちはそれらの何かが今日の主のご命令であるなら、こういうことのために少し用意していないでしょうか。「王のしたことはすべて、民を満足させた(2サムエル3:36)。」

 「用意」というのは突然に奪われることのない準備のことをふくんでいます。そのように主に、主が私たちのために準備されているすべてのことのために準備してくださるように求めましょう。そして「神の御手が」臨み、私たちをして「心を一つにして、王の命令を行なわせてくださいますように(2歴代30:12)」

お話しください 私に名前で
おお主よ そのことを私に知らせてください
お話しください 私がもっと早くついていけますように
もっと力強く 自由に歩を進め
羊飼いが 群れを巌の陰のうちに 導かれるところへ 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-22-prepared-for-his-appointments/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97368です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(11)

 堅信礼の時がやって来た。私は志願者の一人だった。私は真心から身を低くして私のたましいにとって祝福の時となるように願った。私には赦しの確信がなく、ぼんやりとした望みと夢のような満足しかなかった。キリストに対する「飢え渇き」、みことばを喜ぶこと、主の御名にあることのときめき、祈りの交わりにおいて聖なる会話からくるほんとうの喜びを望んでいた。私の返答、私の堅信の書類はすべて満足のいくものであり、また私たちの善良なチャプレンとのインタビューでもあった。そう私はチャプレンの賢いまた聖なる助言を思い出す。それは彼と一緒に庭を歩いている時だった。不思議なことにその時でさえ私のごまかしの告白による信仰告白は決して思い浮かばなかった。
 私は再度いかなるうその表明もしなかったことに感謝した。そのように私はまったく正しいのは当然だと思われた。随分前、私は涙ながらにあらゆる罪の赦しを乞い願った。一つの願い、一つの善い意欲が私の心の内にあった。それは神の永遠に続く愛の実であったが、堅信礼において神様聖霊様によってまことに確信させられたいというものであった。
 大きな古い様式の馬車に乗せられて私たちはパディントンの聖ジェイムズ教会へ行った。ベールも帽子もかぶらないの当時の通常で唯一簡素な白のドレスとケープを身に着け、ちょうどほとんど現在の花嫁衣装のようなものだった。高いところにある信者席が効果的に私たちを遮断し、私は御霊を求めて熱心に祈り、心から「私は従います」と言ったのを覚えている。聖なるテーブルに向かって長い側廊を歩いて行き、そこに跪いたとき、一つの叫びが起こった。「今 、私に聖霊を与えてください。与えてください。」と。その時神の永遠に続く愛が私〈そこにいるすべての者のうち最も無価値な者〉を以前よりももっと近く引き寄せた。長くも静かな馬車に揺られながら、キャンプデン・ハウスに戻ったが、間違いなく聖霊は私に心強いみことば「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの〈雅歌2:16〉」を思い起こさせてくれた。)

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