2016年7月23日土曜日

いのちあるところによみがえりあり


私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。(申命記32:2)

 時々神の露は夜通し降り続けます。けれどもそのうちの何も失われません。あるものはすでに隠された働きをなします。ちょうど私たちの存在のまさしく根のまわりに落ちるように。またあるものは夜が終わる時に朝日の光のうちにあらわれるように用意されています。物影の間で学ばれた訓練は日の光のうちに生き延びられるのです。露の目的は乾いた地と季節の中でいのちを維持することにあります。露は石のために何もしません。もしあなたが砂利道を見さえするなら、かつて何か少しでもあったと知ることはなかったでしょう。

 そして死んだ葉にとっても全然異ならないのです。しかし、もし七月の日の光の日々を通じてほとんど生きられなかった小さな朽ちていく植物の上に露が降りるなら、弱い小さな茎は強くせられ、葉はいのちをよみがえらせる水分を吸収し、閉じていた花は再び以前よりさらに新鮮な芳香をもって花開かせることができます。そのように神様は私たちの弱い霊のいのちにご自身のことばを染み通らせてくださるのです。さもなければすぐにしぼんでしまうことでしょう。乾きは暗黒よりもはるかに恐ろしいものです。
  

主よ お話しください たとえどんなに少しでも どんなに低くても
私が軌道から離れて 聞こえないことがないようにしてください
主よ お話しください あなたは私の心が願っていることをすべて 
もっとも真実な必要をすべて  ご存知ですから
お話しください そして私を祝福してください
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-23-where-theres-life-theres-renewing/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97369です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(12)

 私が初めて聖餐に連なったのはベイズウォーターのC.スマレー牧師の教会だった。私はそのことについての特別な記憶はないが、長年の間私の聖餐の時は涙にあふれる願いであり、多くの喜ばしい経験よりもむしろキリストに従いたいという強い渇望であった。そのように今日でも私は、主イエス・キリストとの聖餐を主のテーブルよりもむしろ主のみことばにあって、もっとも生き生きとした大切な時として振り返る者である。
 ある時期、キャンプデン・ハウスはヴィクトリア王女のマスターが教えてくれると言うのでダンスで注目された。学校の休暇中の夜の舞踏会は優雅な人々に私たちの地方の貴族とともにある学校の人気を高める機会を与えた。
 しかし、主がこの学校の校長自身を引き止められる時が来た。私は彼女の方針転換を明確に記録することはできないが、死からいのちへのもっとも完全な変わり目となった。古いものが過ぎ去りすべてが新しくなる。この新生活の試練は生徒の救いにとって当然の心配となり、学校の魅力であり呼び物であった芸事を捨てるという決定となった。なぜなら、校長はその潜んでいる悪とダンスが世的なわき道に導くに違いないと知ったからである。それは学校を分断するリスクを伴っていたが、勇敢な決断はその完全な報いをもたらした。しばらく人数は減ったが、高い志を持つ両親の要望の内省的な動きが始まった。神様は楽しみと平和の道を自分自身で選び、キリストのうちに豊かな喜びと人々のいのちを満足させる喜び〈その喜びは主の臨在に帰し、そこには喜びの満たしがあるのだが〉を見出す多くの若い人々の歩みにさらに輝かしい祝福をお与えになった。
 なぜなら、それはあきらめることでなく、自分のものにすることである。あなたのたましいを愛されるお方を喜ばせることは決して自己否定することではない。婚約者であればどんな課題、目的であれ、婚約指環や微笑みを失くすことになりかねないのであれば喜んで見送るものだ〈※このところの原文はA betrothed one joyfully foregoes any pursuit that would risk the loss of her engagement ring or the smile of approval.で当初当方のぎこちない訳婚約者は婚約指環か賛同の微笑みを失う危険を冒すかもしれない、いかなる追求にも喜んで先んじるものだであったが、一読者である知人よりうれしい改訳をいただいたので全面的にこのように改めた。これで文章はすっきりする。
 おお、その両親たちと学校の責任者たちはこのことを永遠の光のうちに見た。これまで「私の家庭教師が賛同した、彼女はキリスト者であるが、踊ることは何の害もありえない」というまさしくその事実がこの世の玄関口に入る人生の蝶番の役割を果たしてきた。それに反して「私の両親と家庭教師は賛同しなかった。私は神の栄光のために踊れない。私は舞踏会で死にたくないのだ」という単純な事実が予防手段となる。「感謝なことに私は踊りを学ばなかった」が多くの美しい足を誘惑の罠から解放する。
 同じジェンキンズ氏によって教えられた、私たちの立ち居振る舞い、私たちの歩行、私たちの規則的なお辞儀、健康体操はぎこちない動きやのろのろとした姿勢に対抗する十分な防御となった。
 時々私たちは全員が代わる代わるテード夫人やお嬢さんとの朝食に招待された。私はボサンケットによる大きなMS本から、こういう時のテード夫人の古風な趣のある、ピリッとした役に立つ多くの所見を書き写した。

※訳者注 途中から読まれる読者のために。長い長い伝記ですが、これは本主テーマである日々の霊想の著者フランシス・リドレー・ハヴァガルの15歳年上の姉のマライア・ハヴァガルの伝記です。この学校生活には当然のごとくフランシスが登場するはずはありませんが、彼女たちがどのような生活を送ったか、当時の事情を知るためには有益かと思います。我慢してお読みくだされば感謝です。)

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