2016年7月27日水曜日

とこしえに続くきよめのわざ

王の顔の光にはいのちがある。(箴言16:15)

 「あなたは、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます(詩篇90:8)。 」このように、まず厳粛なおことばが下りました。それが私たちがみことばの輝きについて知ったことでした。ある人にとってはその啓示は大変恐ろしいので、主がどのように悪しき者を「来臨の輝きをもって」「滅ぼしてしまわれ(2テサロニケ2:8)」るかをさらに理解できます。

 けれども、私たちが「その目は、燃える炎のようであった(黙示1:14)」と感じても、私たちは私たちの「さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける(箴言20:8)。」ということもまた知ったのです。すなわち、私たちがイエス様、油注がれたお方の尊い血潮の力が私たちをあらゆる罪から聖めるためだと知ったのはその光の中に私たちが立った時でした。

 このことは「主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます(詩篇89:15)」という約束に新しい価値を与えるものです。なぜなら私たちがその力と尊さの満たしを経験し認識できるのは私たちがその光の中を歩く時だからです。それは決して気まぐれな不定期的なきよめではなく、あらゆる罪からの栄光ある永遠に続く現在のきよめなのです。

主の臨在のうちにとどまり 光のうちを歩み
神に喜ばれることを必ずなせる(1ヨハネ3:22)」ように求めて
私たちは主に目を向けます
私たちが「奥にいて栄華を窮め(詩篇45:13)」られますように
なぜなら 「イエス様の血こそあらゆる罪からきよめる」からです 
(今日の箇所はhttps://bibletruthpublishers.com/july-27-perpetual-cleansing/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97373です。

マライア・ハヴァガルの伝記 3章 家庭での生活(1)

 神様の「永遠の愛(エレミヤ31:3)」が幸せな日々の輝けるモットーであったろう。日常の誘惑からも守られ、美しい近隣のあらゆる魅惑を心ゆくまで楽しんだ。父は決して厳し過ぎるでもなく、かと言って甘過ぎもせず、母は私たちにつつましく優雅な装いを教え、自助の習慣、秩序、陽気さを身につけさせてくれた。私たちはほんとうに陽気で幸せな家族であった。

 私の寝室は白いディミティ生地のカーテンがつるされ、母の趣味のいい手でかわいいピンク色の縁取りがされていた。机用のテーブルもあり、私が大変楽しんだ本の奇妙な仕分けもされていた。窓はつるが巻き付き、下には幾つかの花床、草地、教会用地との仕切りのための簡単な柵の備わった母の庭があった。父によって植えられた小さな樅の木、今では私の最も近しい人、愛する人の眠っている聖なる墓を覆い歩哨のように立っている。向こう側には樅の木とニレの木に縁取られるようにして牧草地が起伏していて、道は急勾配のツート・ヒルにまで通じていた。渓谷と丘から離れてヤルーンにまで上るとエリザベス朝時代の農場、双子の丸い丘、そびえる石灰採石場があった。これらの向こうにはアバーレーの放牧場、樅の木の樹幹や古風なイギリス野営地を持つウッドベリーがあった。南方には教会の土手あるいは私たちがアッダー・バンクと呼んでいる、かつて若いロード卿が二匹の大きな爬虫類をアイルランド人の無垢さでもって見つけ生きたままで連れて来たところ、父にとっては幸運にも首根っこごとつかんでだったが、そのようなところもあった。アッダー・バンクは急な傾斜地で下には波立つ小川があった。

 私たちは古い厚板の側を横切ってグレーシャンプトン公園に入った。そこには未だにマツユキ草の木、ラッパ水仙、水仙畑があった。ただ一軒の大きな家畜小屋が残っていて、そこにはサイス未亡人がかわいい雌猫たちとともに生活していた。私の部屋の窓からはちょうど立派な樅の木が見えた。その樅の木は昔の貴族の館が完成直前に全部燃えて灰塵に帰したその廃墟に根づいたものだ。脱線するが、このグレーシャンプトン物語は神様の道と神様がどのようにして悪から善をもたらされるかに光を当てるものだ。)

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