2016年7月25日月曜日

何事にもふさわしいお方キリスト

その名前 長老喜と呼ぶ 草花よ※

私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:13) 
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(使徒17:28)
 
 こういうことばは励ましを必要としているあらゆる種類の要請にぴったり合うようにみえる。もし、私たちが物事を見通すことができないで、どうしたらよいか困惑したり、厳しい問題を抱えているなら、あるいはもし他の人たちにあなた自身を説明できなかったり、このことから生ずる試みや困難な事態を説明できなかったら、「私たちが弁明する」方、その目にはすべてが裸でさらけ出されている方を当てにせよ。神はあなたの導き手である。なぜ、戸惑う必要があろうか。彼はあなたの盾である。なぜ、自分自身を説明したり正当化するために一生懸命に試みたり、意欲を示す必要があろうか。


 もし、あなたに愉快になれない罪意識があるなら、ただちに向きを「あなたが弁明する方」へと変えよ。覚えていよ。あなたがしなければならないことはサタンとともにでなく、またあなたを非難する良心と一緒でもなく、イエス様と一緒であることを。イエス様はあらゆる安息をもってあなたに対して下さるだろう。あなたはイエス様と事を構えさえすれば良い。そして彼はあなたの偉大な大祭司である。彼はあなたのために十分な罪滅ぼしをなさった。それは今あなたの上に重荷となっているまさしく数々の罪のためだった。

 もし、あなたを休ませないような誘惑があるなら、そのまさしく最中から抜け出て来い。それはあなたを突き刺す火の投げ矢を伴うものかもしれない。まるであなたがそうであるかのように、あなたが弁明するお方にあなたが憎む忍び寄るすべての考えをもって来い。あなたは他の誰にもその誘惑を話したくないし、話しすることもできないであろう。しかし、その時あなたはそのことのために他の誰かと一緒ではいけない。ただイエス様とだけ一緒であるべきだ。主は「試みを受けて苦しまれた(ヘブル2:18)」からだ。

 もし、肉体上の弱さや病や苦痛であるなら、私たちが「私たちの弱さに同情できる(ヘブル4:15)」イエス様と一緒にいることを知るのはどんなに大きくすばらしいことであろうか。(infirmitiesということばはほかのところではsicknessと訳されているものと同じだ。ヨハネ11:2〜4)時々あなたのお医者さんにさえ痛みがどんなようであるかを理解させることはたいへんむつかしいと思わないか。そしてあなたができるだけベストを尽くし試練や弱くなっている感情を説明したあとで、そう感じなかった人はあなたは理解していないと確信するだろう。しかし、主は理解してくださるのだ。

ただ主の愛する御手のうちに小さな事どもをまかせ
すべてを私たちは理解できない 刺のささることもすべて

ひどくのしかかってくる心配をただ主にしてもらい
私たちが主に負わせるすべては祝福に変えられることを知る

これが全部だ 

しかしあなたをもっとも良く愛される主によって印された道だ 
これこそ幸福な日の秘訣 主のお約束くださった安息の秘訣だ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-25-the-adequacy-of-christ/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97371です 。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(14)

 私が一人で散歩する特権は依然として私のものだった。それで私はイエス様に今私のたましいをにらみつけているすべての罪を泣きじゃくり叫び声を上げながら告白することができた。その半年間の残りは非常に悲しい時となった。私は神様の御霊が私に自分自身の心には悪の根しかないことを示して下さったと信じている。ただ依然としてかつての偽りの信仰告白をテード夫人に打ち明ける時は来なかった。しかし私はますます友を愛するようになった。私は私の庭にテード夫人のために咲く最初の薔薇がないか捜し求めていたのを覚えている。そしてノートに次のように書いたことを。「 私は全く無価値な者であなたを悲しませましたが、私はあなたの愛する子どもマライアです」
 私の罪意識は一つの厳粛な一人の友の死という警告によって深められていった。級友の一人で、この半年間愛する両親としぶしぶ別れて学校に入ってきていた一人っ子のM.Lであったが、彼女が病気になった。その彼女の回復のために祈りがなされた。年長の少女たちはこの女の子のたましいの救い、いのちのために熱心な祈りに集まった。ある真夜中のこと、馬車の軋みが聞こえた。翌日、年長の者たちはロンドンの医者が到着したことを知った。あの当時は大きな印刷された文書はなかった。死に向かっているその子は生ける救い主、イエス様だけを必要としていた。「御父が御子を世の救い主として遣わされた〈1ヨハネ4:14〉」というみことばが大きい文字ではっきり書かれ、そのカードはメリーがその喜びのメッセージを読みとることのできるところにすぐ置かれた。さらにテード夫人の信仰に導かれた祈りは主ご自身のみことばによっていのちと光が子どもの心を照らしますようにというものだった。
 「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持つ〈ヨハネ5:24〉」は主ご自身が「まことに、まことに」と言われたことであり、ご自身による「タリタ・クミ〈マルコ5:41〉少女よ。あなたに言う。起きなさい。」であった。そしてそのように薄明かりの中で喜ばしくも自発的にすすんで信仰告白がなされた。「メリーは救い主を求めます。イエス様は私の救い主です。神様は私を救うためにイエス様を遣わしてくださいました。そうです。それは全部ほんとうです、全部私のものです。」
 両親がやって来た。再びその死にかけている子どもはその聖書箇所を示して、熱心になって父にも信じてくれるように懇願した。再び神様はそれらのみことばを確証された。これまで眠っていた耳が開かれ信じられた。両親の一人娘と別れねばならないというあらゆる苦しみとともにイエス様が両親にとってもまた大切なお方であるという新しい喜びがやって来た。娘のために開かれた御国への真珠の門と同様に両親にもそうなったのだ。
 全員が静かに彼女の臨終の床のまわりに跪いた。そしてもう一人のお方は静かなうちにより近くへより近くへと人々を引き寄せられた。世の救い主でもあるお方はご自分のみわざを完成なさったのだ。それはご自身のうちに娘を受け入れ、ご自身の羊飼いの御腕に安全に集め、ご自身のふところにいだき天国へと連れて行かれた。迷える羊のための「肩」は今やくずおれた子羊のための「ふところ」となられた〈イザヤ40:11〉。The "shoulder" for the straying sheep-the "bosom" for the folded lamb.

※昨日、珍しく二人で古利根川を散歩した。目ざとくも見つけた家内を助け、川縁に降りて撮影。家に帰り、早速『牧野図鑑』を探索、数十分の後この草花が「イヌゴマ」別名「チョロギ(長老喜)」http://www.ootk.net/cgi/shikihtml/shiki_80.htmと知る。家内は幼いとき両親に連れられてよく植物採集に行ったと言う。そのお陰で野辺に咲くどんな花にも愛を寄せる。絵も描く。パリ在住の美術史専攻の嫁がその花の絵をほめてくれ今回持って帰ってくれたと喜んでいる。豊かな人生は両親の教育の賜物。ひるがえって、私たちははたしてどれだけ子どもたちに豊かな人生を与えたかと越し方を振り返ってみる。けれども、私たちにはなくてならぬイエス様を子どもたちに紹介するのが今もって最大の責務だと思う。上述のマライア・ハヴァガルの証言は時代を越えて民族を超えて私の胸を打つ。なおこの伝記の前々回の誤訳を読者の指摘により改訳した。その文章を読んでいただくとうれしい。)

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