「このようにして、信仰によって義と認められた(ローマ5:1)」あとはどうなのでしょうか。1、私たちは神との間に平和をいただきます。2、私たちは主をとおして天罰から救い出されます。3、私たちは永遠のいのちの世嗣ぎとされます。4、私たちは主によって主とともにとこしえに栄光を受けます。
この事実にあって私自身の役割とか何かしなければならないことがあるのでしょうか。神はこのようにして誰を義とされるのですか。私はそのような人の間にいられると、望みをもっていいのでしょうか 。
主はまことに誰も閉め出される者のいない、もっとも低い深みのところから始められます。なぜなら、主は「異邦人をその信仰によって義と認めて(ガラテヤ3:8)」くださり、「不敬虔な者を義と認めて(ローマ4:5)」くださるからです。
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください(ルカ18:13)。」と叫ぶことしかできなかった取税人が義とされました。私は何があってもこの分け前にあずかりたいです。しかし、今どのようにして私は実際にそして効果的に義とされるのでしょうか。神様に話していただきましょう。そして耳を傾けましょう。
「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません(ローマ3:22)。」「信じる者はみな、この方によって、義と認められるのです(使徒13:39)。」「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです(ガラテヤ2:16)。」
そして、今や「私を義とする方が近くにおられる(イザヤ50:8)。」のです。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです(ローマ8:33)。」
神に愛されているイスラエルよ 目をさましなさい
キリストの教会よ 立ち上がり光り輝きなさい
喪服や汚れた衣服は もはやあなたのものではない
なぜなら主であるあなたの神が あなたに
新しい栄光ある着物を 着せてくださったからだ
それは救いの衣服 義のローブをまとったものだ
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-6-four-results-of-justification/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97352です 。
マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(10)
その時でも母は私たちが役に立つように導いた。私たちは卵をケーキとカスタードのために泡立て、パイのために果物をつぶし、今になっては見ることのない「アストレー製のアップル・ターンオーバー」のためにりんごの皮を剥いたりした。私たちは貧しい人々のために気を使い、スープやミルクを缶に満たしてあげ、病気の人々にはプディングを小さなかごに取るように母から教えられた。しょっちゅうではないが、私たちは時々父と一緒に慰問に出かけ、父がどのようにやさしく握手をしたり、どのようにその方法が親切であり、病人の脈に触れ、薬を調べたかを目にした。
父は有能であり、教区のお医者さんは父が訪問の手助けをしてくれることに感謝した。その時は、父は病人に聖書を読んであげ祈った。猫や犬でさえも父が近づくのを知っているので、父は何匹かの可哀想なベティーやモリーの猫のためにたくさんのゲームの紙や小さな骨を揃えていた。
父の早起きときちょうめんさはすべてのやりかたや趣味においても型にはまったものだった。私たちの家の呼び鈴は時計と連動しており、食事の時間はきっかり決まっていた。そのためいらだちや時間を救ったほどだった。整頓とこぎれいさがそれぞれの部屋を支配していた。父の大きな机は時々内蓋を開けると驚異的であった。私は今もそれを見ることができる。「聖餐式の施し物」のある箱や覚え書きのための隅っこや日曜日のためのナツメのドロップの入った箱。時にはすばらしいsensitive fish〈生きのいい魚?〉やC.M.Sの珍しいものが見られた。
※知人から、グロキシニアという花をいただいた。確かに「栄華を極めたソロモンもかくほどに装ったか」と主イエス様はおっしゃった。だとすれば私ども罪人が義の衣を着せられるのはこれ以上なのだろう。美しい紫色とその花びらを見るにつけ、人間にはできないと改めて悟らされた。)
キリストの教会よ 立ち上がり光り輝きなさい
喪服や汚れた衣服は もはやあなたのものではない
なぜなら主であるあなたの神が あなたに
新しい栄光ある着物を 着せてくださったからだ
それは救いの衣服 義のローブをまとったものだ
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-6-four-results-of-justification/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97352です 。
マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(10)
その時でも母は私たちが役に立つように導いた。私たちは卵をケーキとカスタードのために泡立て、パイのために果物をつぶし、今になっては見ることのない「アストレー製のアップル・ターンオーバー」のためにりんごの皮を剥いたりした。私たちは貧しい人々のために気を使い、スープやミルクを缶に満たしてあげ、病気の人々にはプディングを小さなかごに取るように母から教えられた。しょっちゅうではないが、私たちは時々父と一緒に慰問に出かけ、父がどのようにやさしく握手をしたり、どのようにその方法が親切であり、病人の脈に触れ、薬を調べたかを目にした。
父は有能であり、教区のお医者さんは父が訪問の手助けをしてくれることに感謝した。その時は、父は病人に聖書を読んであげ祈った。猫や犬でさえも父が近づくのを知っているので、父は何匹かの可哀想なベティーやモリーの猫のためにたくさんのゲームの紙や小さな骨を揃えていた。
父の早起きときちょうめんさはすべてのやりかたや趣味においても型にはまったものだった。私たちの家の呼び鈴は時計と連動しており、食事の時間はきっかり決まっていた。そのためいらだちや時間を救ったほどだった。整頓とこぎれいさがそれぞれの部屋を支配していた。父の大きな机は時々内蓋を開けると驚異的であった。私は今もそれを見ることができる。「聖餐式の施し物」のある箱や覚え書きのための隅っこや日曜日のためのナツメのドロップの入った箱。時にはすばらしいsensitive fish〈生きのいい魚?〉やC.M.Sの珍しいものが見られた。
※知人から、グロキシニアという花をいただいた。確かに「栄華を極めたソロモンもかくほどに装ったか」と主イエス様はおっしゃった。だとすれば私ども罪人が義の衣を着せられるのはこれ以上なのだろう。美しい紫色とその花びらを見るにつけ、人間にはできないと改めて悟らされた。)
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