次々と アゲハチョウの 花歩き※ |
「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」(雅歌2:10)
さらに深い謙遜と強い信仰をもって愛する方の声を聞きましょう。愛する方が理解できない謙遜と愛ある名前をささやかれる時。私たちはここで神の愛をもっともやさしく注ぎだしておられる神に反論し、「主よ滅相もありません」と言うのでしょうか。
私たちはむしろ崇拝の思いで聞き、主に全く無価値な深みの中にいる私たちにまで、「私の妹、私の連れ合い、私の愛、私の鳩、私の汚れなきもの」と言っていただき、驚きながら、しかし疑わず「私はあなたのもの」「私はあなたが私のものであると言って選ばれたすべてです。」と答えないでしょうか。こだまは変化し口ごもるかもしれないが(たとえそれが恐ろしく恩知らずで不信仰なものに他ならずとも)、主の御声は決して変わらず、口ごもらないのです。
主は今日「あなたは私のもの」と言って、明日は前言を取り替えたり弱めたりなさりません。私たちは「とこしえまでもあなたの民(2サムエル7:24)」でありますのに、なぜ主のことばを疑い、不信仰の最たる落ち着かない姿に道を譲って主の愛を悲しませるのでしょうか。とこしえに続く愛は一日限りのものではあり得ません。その愛はとこしえに続きます。私たちはこれ以上何を言うことができましょうか。
エホバの愛と恵みの無限のほとばしりゆえに
主の顔の輝きは果てしなく覆いなし
すばらしき主のご意志の果てしなき広がり
未だに限りある魂は最強の延長とひとつとされ
すばらしき主のご意志の果てしなき広がり
未だに限りある魂は最強の延長とひとつとされ
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-9-the-proper-answer/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97355です。
マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(13)
日曜日、祖母は教会の日曜学校の責任があったので、朝早く家を出た。祖母は英国の日曜学校教師の最初の一人であった。72歳になるまで午前九時きっかりに持ち場についていた。彼女はチャールズ・ブラッドレー牧師https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Bradley_(preacher)の光栄ある友人だった。この牧師は「説教家の王子」と言われた人であったが、十二人以上のブラッドレー家の子どもたちがやって来ては手に負えない世界となっていたが、年長の赤ちゃんたちは数日間も彼女の世話の下で駆け回ることができたのだ。後任の牧師のG.W.氏もまた同様に子供部屋の助けが必要だった。祖母がテーブルに配布するために大きなカゴに鶏肉やハムをつめているのを見た覚えがよくある。〈なぜ土曜日のカゴは大地主や金持ちからすべて私たちの作業する助祭にいたるまでその道を見つけてはいけなかったのだろうか〉
ナニーは良き老女中の典型であった。家族と六十年生活し、やめてからは救貧院の年金生活に入った。ナニーは私に「ウイリアム旦那さま」当時の私の父だったが、どのようにして「赤縮れ毛のウイリー・ハヴァガル」と呼ばれたかについて話をした。その縮れ毛は私にあるが、もっともぴったりなのは娘フランシスだ〈父の髪の毛は後年黒くなったが〉ナニーは「ウイリー旦那様がかつてなさった最大のいたずらは猫をベッドに連れ込んだことだった」と話した。その同じウイリーがウイコンベ教会の大オルガンを演奏したのはこれまたどれだけ驚くべきことであっただろうか。
部屋備えのオルガンは祖父Hの娯楽であった。祖父についての私の主な記憶は彼が歌いながらオルガンを弾いていたことだ。それから市の立つ日にはジンジャーブレッドを買うために私に数ペニーくれたことである。私は気位高く聞こえる「ハヴァガル参事会員」だと思っていた。一度彼は私をギグという馬車に乗せてウインドソ—にまで連れて行ってくれた。私の記憶は良いものであったにちがいない。なぜなら私は全部そのとおり説明することができたからである。銀製の応接間、テーブルそしてセントジョージ教会の旗がもっとも印象的であった。そこで私は初めて本格的なアンセム(聖歌隊による合唱曲)を聞き、「天国こそかくあれかし」とは私の子どもとしての判断であった。
訳者注:初めて姉のマライアが自らの伝記に妹フランシス、すなわち今年の一月から連載している霊想の作者フランシス・リドレー・ハヴァガルについて記した個所である。注意を引くために青色で際出たせた。
※何物かが目の前を緑の茂みの中へと飛び行った。果てはとかげか、鳥か。辺りを見まわすが何もいない。そのうちあらぬ方からふと立ち現れたのがこのアゲハチョウであった。アゲハチョウのように薄い胴体を持つ者も老人である当方の目には大変な存在感を持ってあらわれたのだ。暑さの中、花から花へと飛び歩く。見るとアゲハチョウだけでなく、他の名も知れぬ蝶も様々な昆虫が行き交っている。あわててiPhoneを取り出し、狙いを定めて撮影した。考えてみると、青息吐息の人間様の向こうを張って花は開き、昆虫はせっせと行き交う。「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。」〈箴言6:6〜8〉と聖書にはあった。)
マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(13)
日曜日、祖母は教会の日曜学校の責任があったので、朝早く家を出た。祖母は英国の日曜学校教師の最初の一人であった。72歳になるまで午前九時きっかりに持ち場についていた。彼女はチャールズ・ブラッドレー牧師https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Bradley_(preacher)の光栄ある友人だった。この牧師は「説教家の王子」と言われた人であったが、十二人以上のブラッドレー家の子どもたちがやって来ては手に負えない世界となっていたが、年長の赤ちゃんたちは数日間も彼女の世話の下で駆け回ることができたのだ。後任の牧師のG.W.氏もまた同様に子供部屋の助けが必要だった。祖母がテーブルに配布するために大きなカゴに鶏肉やハムをつめているのを見た覚えがよくある。〈なぜ土曜日のカゴは大地主や金持ちからすべて私たちの作業する助祭にいたるまでその道を見つけてはいけなかったのだろうか〉
ナニーは良き老女中の典型であった。家族と六十年生活し、やめてからは救貧院の年金生活に入った。ナニーは私に「ウイリアム旦那さま」当時の私の父だったが、どのようにして「赤縮れ毛のウイリー・ハヴァガル」と呼ばれたかについて話をした。その縮れ毛は私にあるが、もっともぴったりなのは娘フランシスだ〈父の髪の毛は後年黒くなったが〉ナニーは「ウイリー旦那様がかつてなさった最大のいたずらは猫をベッドに連れ込んだことだった」と話した。その同じウイリーがウイコンベ教会の大オルガンを演奏したのはこれまたどれだけ驚くべきことであっただろうか。
部屋備えのオルガンは祖父Hの娯楽であった。祖父についての私の主な記憶は彼が歌いながらオルガンを弾いていたことだ。それから市の立つ日にはジンジャーブレッドを買うために私に数ペニーくれたことである。私は気位高く聞こえる「ハヴァガル参事会員」だと思っていた。一度彼は私をギグという馬車に乗せてウインドソ—にまで連れて行ってくれた。私の記憶は良いものであったにちがいない。なぜなら私は全部そのとおり説明することができたからである。銀製の応接間、テーブルそしてセントジョージ教会の旗がもっとも印象的であった。そこで私は初めて本格的なアンセム(聖歌隊による合唱曲)を聞き、「天国こそかくあれかし」とは私の子どもとしての判断であった。
訳者注:初めて姉のマライアが自らの伝記に妹フランシス、すなわち今年の一月から連載している霊想の作者フランシス・リドレー・ハヴァガルについて記した個所である。注意を引くために青色で際出たせた。
※何物かが目の前を緑の茂みの中へと飛び行った。果てはとかげか、鳥か。辺りを見まわすが何もいない。そのうちあらぬ方からふと立ち現れたのがこのアゲハチョウであった。アゲハチョウのように薄い胴体を持つ者も老人である当方の目には大変な存在感を持ってあらわれたのだ。暑さの中、花から花へと飛び歩く。見るとアゲハチョウだけでなく、他の名も知れぬ蝶も様々な昆虫が行き交っている。あわててiPhoneを取り出し、狙いを定めて撮影した。考えてみると、青息吐息の人間様の向こうを張って花は開き、昆虫はせっせと行き交う。「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。」〈箴言6:6〜8〉と聖書にはあった。)
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