私たちは心の中で、あるいは他の人と一緒にであろうと、なぜなのかを論じたり理由を求め、「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」(ヨハネ3:9)と言っている間、少しでも約束の強力な成就を受け取った経験がかつてあったでしょうか。
私たちは自分の力を捨て、自分の考えに代わって、神の考え、方法を受け入れ、主が「おことばをいただかせて(マタイ8:8)」くださるように求め、ちいさな子どもたちが私たち大人の約束を信ずるように、信じなければならなかったのでなかったでしょうか。その時まで、決してその約束や恩恵は潜在的にだけでなく実際的にも私たちのものとならなかったのです。
「キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富(ピリピ4:19)」が神の約束の実現の基準になるものです。「あなたがたの信仰のとおりに(マタイ9:29)」というのが自分自身で受け入れたり利益を受けることのできる示されている手段です。「私たちの信仰を増してください。」(ルカ17:5)
すべてのはかりごとが優位を極める以前に、「さまざまの思弁や、さらに正確に限定すると論法を打ち砕く」(2コリント10:5)のです。私たちがひとつの約束について論じあう限り、私たちは決してそのことをほんとうに知ることはありません。そうでなくそれを耳にし喜ぶのが謙遜な人です。私たちはそうだということを知っていなかったでしょうか。
今なお遠くかなたに見ているに過ぎない約束や恩恵に対してことごとく同じ原理を理解し適用しないとはどういうことなのでしょうか。「信仰によって約束のものを相続する(ヘブル6:12)」というのが古くからある唯一の道であるのです。
理性は音楽が存在するところなら
どこにでも見るハープの弦を緩めます
信仰はハレルヤと歌います
そして
天からの喜びが高まります
理性は私たちの狭い岸辺に打ち寄せる
波しずくを数え上げるために努力します
それに対して
信仰はもっと良い地を探して
権能ある深みの向こうに錨を下ろすのです
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-3-the-old-way-the-only-way/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97349です。
マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(7)
楽しい浜辺で休日を過ごす宿泊人は「自分たちの道に注意し」料理をこしらえる可哀想なお手伝いさんたちが「私たちには一年中日曜日がないわ」と言わしめることになる熱い晩餐や昼食はよく控えたものだ。日曜日の午後はイチイの常緑樹の木の木陰の楽しい庭や私たちを効果的に隠すアービュタスや常緑樹のある低木のところに座ったりした。教会用地の庭も背後にお墓があり小さな隠れ場所があった。そこでは時には立っては開けっ放しになっている墓や棺を見た。幼い子どもの心にとっての気味悪さは、母が私たちに子どもが死の幸せな眠りについた話しをして、その思いは賢明にも霧散させられた。
だから、「イエス様は病んでいる子どもを黙って寝かせてくださる。そこは天国で薬もお医者さんもいらない、ただ美しい歌が歌われ、幸せな毎日です」というその話が、死というあらゆる恐怖に取って代わられていた 。夏の四時は私たちが母と過ごす「幸せな時」でした。聖書はワッツ博士の「Divine and Moral Songs」やアン・テーラーの最高の作品「Hymns for Infant」※で何度も繰り返された。それらには健全な神性があった。私の全人生の旅路を養い、時には福音の真理を鳴り響かせてくれた美しい慰めの数々の細片がある。私は今でもこれらの御本を端から端まで口に出すことができる。
※読者で興味ある方はさらに以下のネットをご利用されるといいと思う。https://archive.org/stream/hymnsforinfantmi00tayluoft#page/46/mode/2up
彼らの背景がよりくわしくつかめる。かつイギリスがかつてこのような福音の宝庫を持っていることを忘れてならないと思う。と同時に、国が一度高慢になれば、主なる神様はそれをも一挙に奪われることを例証しているようにブログ氏には思えてならない。)
マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(7)
楽しい浜辺で休日を過ごす宿泊人は「自分たちの道に注意し」料理をこしらえる可哀想なお手伝いさんたちが「私たちには一年中日曜日がないわ」と言わしめることになる熱い晩餐や昼食はよく控えたものだ。日曜日の午後はイチイの常緑樹の木の木陰の楽しい庭や私たちを効果的に隠すアービュタスや常緑樹のある低木のところに座ったりした。教会用地の庭も背後にお墓があり小さな隠れ場所があった。そこでは時には立っては開けっ放しになっている墓や棺を見た。幼い子どもの心にとっての気味悪さは、母が私たちに子どもが死の幸せな眠りについた話しをして、その思いは賢明にも霧散させられた。
だから、「イエス様は病んでいる子どもを黙って寝かせてくださる。そこは天国で薬もお医者さんもいらない、ただ美しい歌が歌われ、幸せな毎日です」というその話が、死というあらゆる恐怖に取って代わられていた 。夏の四時は私たちが母と過ごす「幸せな時」でした。聖書はワッツ博士の「Divine and Moral Songs」やアン・テーラーの最高の作品「Hymns for Infant」※で何度も繰り返された。それらには健全な神性があった。私の全人生の旅路を養い、時には福音の真理を鳴り響かせてくれた美しい慰めの数々の細片がある。私は今でもこれらの御本を端から端まで口に出すことができる。
※読者で興味ある方はさらに以下のネットをご利用されるといいと思う。https://archive.org/stream/hymnsforinfantmi00tayluoft#page/46/mode/2up
彼らの背景がよりくわしくつかめる。かつイギリスがかつてこのような福音の宝庫を持っていることを忘れてならないと思う。と同時に、国が一度高慢になれば、主なる神様はそれをも一挙に奪われることを例証しているようにブログ氏には思えてならない。)
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