あなたの議官は滅びうせたのか。(ミカ4:9)
若いキリスト者にとって、その準備の時は全く終わってはいないし、恐らくその時はひどく制限されているのだろうが、何がもっとも学ぶに値することなのか、また何がほんとうに黄金の時間の最善の投資なのか知ることほど実際的に困惑するものは何物もない。それに反して時は活動的な働きの分野が完全に参入されるためにやって来ないし、心が「十分に整えられる(2テモテ3:17)」のは現在の義務の明らかな道である。
主の名前は「 助言者」と呼ばれないだろうか。そして主は他のすべてのことにおいてはむろんのことこのことにおいても主の名前の約束に忠実なお方ではないのか。同じことがあらゆるそれに続く局面に適用される。
私たちの知性は、育てるためにも、使用するためにも、楽しむためにも、私たちのものでなく、イエス・キリストが私たちの真の変わることのない助言者であるという原則について完全に明確にするだけにしよう。そうすれば何を読もうか、どれだけ読むべきか、人が教養や言葉遣いや「主義」を持ち続けるかどうかをもうそれ以上悩むことはない。
もし主がそれらを必要とされるなら、私たちに示されるだろう。もし主が必要とされないなら、どんな必要を私たちはそれらのうちに持っているのだろうか。もし私たちが主の導きなしに進むなら私たちはいくつかの能力を投げ捨てるかもしれないし、あるいは使用するためにはあまりにもすり減らし過ぎにするかもしれない。その使用は他のできごとが起こったり異なる働きが与えられた時、もっとも価値あるものとなったであろう。私たちは「守る(1コリント7:19)」は全然不使用を意味すると思ってはいけない。私たちが求めることはあらゆる私たちの力が主の御用のために用いられることである。
ここにおいてそれらはおそらく、いかなる他の種類の使用においてよりもはるかに高い進展を見出すことだろう。私は様々な場合を知っている。その場合、単なる精神的な発展における真の聖別の効果ががあらゆる面で明白であり驚くべきことであった。しかしそれは私が偉大な原則であると信じていることの確認に過ぎない。つまり、主は主に対して率直に引き渡されるものはどんなものでも最高のことをなさるということだ。私たちが自分自身のために取り除こうとすることには必ずたくさんの無駄遣いがあるだろう。しかし主は一物と言えども決して無駄にはなさらない。
私たちの初期の課題は
どこにあるのか
私たちの若い日の教えは
無数のことばは
知識・真理について
忘れらた
しかし何も失われていないのだ
なぜなら
それらは今も生きている
考え
実行し
意欲する力のように
どこに
どこに
あらゆる神の課題はあるのか
主の教えは暗いのか明るいのか
何も失われていない
けれども
隠されているだけだ
永遠の光の中で
主の足もとに膝を屈して
すべての理由(わけ)と
すべての結果を
私たちが見るまで
私たちの若い日の教えは
無数のことばは
知識・真理について
忘れらた
しかし何も失われていないのだ
なぜなら
それらは今も生きている
考え
実行し
意欲する力のように
どこに
どこに
あらゆる神の課題はあるのか
主の教えは暗いのか明るいのか
何も失われていない
けれども
隠されているだけだ
永遠の光の中で
主の足もとに膝を屈して
すべての理由(わけ)と
すべての結果を
私たちが見るまで
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-19-our-ever/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97365です。今日の箇所は何度読んでも意味がわからない。訳し方に問題があるのだろう。読者が原文に直接当たられたい。
マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(8)
私は海上でもやを報せる鐘が鳴り、真夜中ふるえる旅人を静かにさせた時、途方に暮れて聖書を読んだ。荒れ地で人っ子一人いないアイルランドの沼地で司祭かスパイにあとをつけられた時、スイスの山の中で向こう見ずにも足跡を見失ってしまった時、さびしい城内ですさまじい雷が落ち、光とともに松を引き裂いた時、聖書のことばはいつも力であった。エレミヤ書にそれらの聖句を見つけるまで長くかかった。
しかし、私に最初に聖書が与えられた時、私は聖書に注意しなかった。家に着いて、過ぎ去ったことを忘れた。依然として体が弱かったので、看病を受け大事にされた。尊敬するテード夫人は私に美しい手紙を下さった。手紙には私が神の子どもである幸せに触れてあった。
私はその手紙を姉のミリアムに見せた。ミリアムは私に賢明に厳しい話をした。あなたにはどんな良い変化も見えないし、「あなたが聖書を読んでいるのを見たことがない」とも言った。そのことは全く真実であった。神様の聖なることばで養われているか、それとも無視しているかのテストほど確かなものはどこにもない。聖ペテロは同じテストを与えている。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです〈1ペテロ2:2〉。」たとえは完璧であるのだ。)
マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(8)
私は海上でもやを報せる鐘が鳴り、真夜中ふるえる旅人を静かにさせた時、途方に暮れて聖書を読んだ。荒れ地で人っ子一人いないアイルランドの沼地で司祭かスパイにあとをつけられた時、スイスの山の中で向こう見ずにも足跡を見失ってしまった時、さびしい城内ですさまじい雷が落ち、光とともに松を引き裂いた時、聖書のことばはいつも力であった。エレミヤ書にそれらの聖句を見つけるまで長くかかった。
しかし、私に最初に聖書が与えられた時、私は聖書に注意しなかった。家に着いて、過ぎ去ったことを忘れた。依然として体が弱かったので、看病を受け大事にされた。尊敬するテード夫人は私に美しい手紙を下さった。手紙には私が神の子どもである幸せに触れてあった。
私はその手紙を姉のミリアムに見せた。ミリアムは私に賢明に厳しい話をした。あなたにはどんな良い変化も見えないし、「あなたが聖書を読んでいるのを見たことがない」とも言った。そのことは全く真実であった。神様の聖なることばで養われているか、それとも無視しているかのテストほど確かなものはどこにもない。聖ペテロは同じテストを与えている。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです〈1ペテロ2:2〉。」たとえは完璧であるのだ。)
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