この約束は単独では成り立ちません。約束は繰り返され、絶えず新しくされます。主は知っておられました。私たちにこの約束は絶えず続き、瞬間・瞬間に必要だということを。約束なしにはつまずきもし、倒れもするにちがいないことを知っておられました。つまずかないで一歩踏み出す力が少しもない、いやむしろ一人で前方へ歩みだす力は全然ないことを知っておられました。
さらにサタンの私たちをつまずかせようとするもっとも確実な策略は、助け出されないと信じさせるだろうことだと知っておられました。私たちは言わなかったとしてもそう思ったのです。
しかし「聖書は何と言っていますか。」(ローマ4:3)「あなたが走る時(もっともすべるのに似つかわしいところですが)」「あなたはつまずかない」「主はあなたの足をよろけさせず(詩篇121:3)」「主は聖徒たちの足を守られます(1サムエル2:9)。」「つまずくことなく・・・歩ませた方(イザヤ63:13)」
私たちはこのすべてのみことばに対して「神は、ほんとうに言われたのですか(創世記3:1)。」と言い切るのですか。そのことはサタンにまかせなさい。主の宝のような御約束を信ずる神の子どもにとっては一切論評なしです。もし私たちが信仰の力を用いないのなら、私たちは不信仰という無力さに陥るでしょう。
そうです 主は知っておられます
その道が 退屈であることを
知っておられます 私たちのからだの弱さを
知っておられます その手と心が疲れていることを
主は すべてにわたり 同じことを感じられました
主は近くにおられます 助け祝福するために
くたばらないで 前進しなさい
その道が 退屈であることを
知っておられます 私たちのからだの弱さを
知っておられます その手と心が疲れていることを
主は すべてにわたり 同じことを感じられました
主は近くにおられます 助け祝福するために
くたばらないで 前進しなさい
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-5-running-or-reeling/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97351です。
マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(9)
五歳から九歳までのできごと、それは父の訓練と私のしあわせなアストレーの日々をよみがえらせ、今もなお心のうちにあらわれてきます。
私たち子どもの平日の課業は母に教えられ、休日には学校から帰って来た背の高い一番上の姉ミリアムがそれに当たった。私たちは母がどんなに賢い人だと思ったことでしょうか。また母は私たちに書かせるためにどんなに苦労したことでしょうか。兄のヘンリーは学校に行っていた。やさしいエレンは、私の下の妹なのだが、私の心から愛する親愛な仲間だった。私たちはお互いに大変違っていた。「可愛い、いい子ちゃんのエレン」「パパのいたいけなハトちゃん」という表現が彼女にぴったりだ。当時でさえ彼女は趣味よく人形に着せ替えをさせ、静かに楽しんでいたものだ。しかし一方私の休むことのない活発さはニワトリにえさを与えたり、さわぐニワトリを抱いて眠らせ静かにさせたりした。私は様々なペットをかかえており、その中にはハツカネズミの巣もあった。その上、お茶の時間には必ずと言っていいほどパンやバターを求めてやって来るヒキガエルをことのほか可愛がった。
忙しく庭作りをし、母が庭床に種を播くのを手伝ったりした、そのうちに、かわいい昔からあったラークスパー、ヤグルマソ—、フウリンソ—、そしてマリーゴールドがうまくいっせいに大きくなった。それにこれまた昔からあるバラ、シナモン、コウシンバラが殉教者のように柵に結びつけられるのでなく、スイカズラやジャスミンと巻きつきあっていた。
※ハヴァガル家の庭園にははるかに及ばない、拙宅の庭。そこに三日がかりで訪れた蝶。さすがに昨日の時ならぬ雨でどこかへ行ってしまったのだろうか。)
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