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20年ほど前にゴッホ終焉の地で手にした一枚の絵です。 |
2025年9月24日水曜日
こんぺいとう、まんじゅしゃげ、ゴッホ
2025年9月23日火曜日
I was born
”あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうして来たのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。”(イザヤ書46章4節)
私は昨日会った友人に、個展を開く友人のDMを紹介していました(もっとも、その友人も既にそのDMはもらっていたのですが・・・)。吉野弘はその「I was born」の作品の中で、彼のお父さんが、友人から蜉蝣(かげろう)の短い命とそれにもかかわらず、卵を抱える蜉蝣の雌の話を聞いて「そんなことがあってから間もなくのことだったんだよお母さんがお前を産み落としてすぐに死なれたのは。」と書いていました。
2025年9月18日木曜日
秋ぢゃ!秋ぢゃ!と歌ふなり
秋の日暮れに
蓑虫ゆらり
ぶらりぶらぶらしていても
なぜか心は侘びしくて
赤い夕日に願うても
やっぱりこの世は風まかせ
うろ覚えだし、自信がない。今流行りのAIでも明らかに引っ張り出してこないのだから、多分どこか歌詞が違っているのだろう。大学一、二年グリークラブに入っていたのでその頃教えてもらった歌に違いない。読者の方でどなたかご存知の方がおられたら教えていただきたいものだ。
その代わりと言っては何だが、当時盛んに練習させられた「月光とピエロ」(堀口大學作詩 清水脩作曲)を昨日は男声四部合唱でたっぷり聴かせてもらった。その折の、と言っても六十年ほど前のこの9月10月の何とも言えない寂しさを思い出した。
2025年9月11日木曜日
石破首相退陣表明
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ニラの花 たおやかにして 屹立す |
2025年9月7日日曜日
知る価値のあること
私たちの人生には思わぬことが起こります。そのような時に私たちはどのような態度を取るのでしょうか。次にご紹介するのはA.ドーフラーさんの「知る価値のあること」と題する文章です。お読み下さいますように。(『重荷も軽く』28頁より引用)
わたしたちの前に横たわっている将来のことは、わたしたちの視野からは隠されています。明日がどういう日か、明日になったら何が起こるか、わたしたちにはわかりません。しかし主は「神を愛する者たちには、万事が相働いて益となる」と約束なさいました。これは知っておく価値のあることです。
万事と言うのですから、私を骨の髄まで驚かすような人生の大事についても、言っているのです。一見すると、こういう大事がわたしたちを押しつぶすのではないかと思われます。しかし、神が益となるようにしてくださることができないような恐ろしい不幸などはないのです。
神は単に大事ばかりではなく、つまらない小事でも、わたしたちの益となるようにしてくださいます。人生には、つまらない事でいらいらしたり、悩まされたりすることが、よくあるものです。そういうつまらない小事が山ほど重なって、人生におけるせっかくの祝福がすべて奪い取られることも、しばしばあります。
神が万事をわたしたちの益となるようにしてくださるというお約束を、真実と心得ておくならば、どんなことがあっても失望の底に突き落とされるようなことはなく、じっと耐えて主を待ち望むことができるでしょう。
大事も、小事も、万事、現在だけを見るのでなく、永遠という見地から見れば、共に働いてわたしたちの益となるのです。神が万事を益となるようにしてくださる時、わたしたちの肉体的な平安と慰めをも考慮してくださっていますが、その上、特に私たちの魂の救いについて心にかけていてくださいます。ですから神は、時々、わたしたちが最もほしいと思うものを取り去られます。わたしたちが、神を愛する以上にそれらを愛し始めたことをごらんになるからです。わたしたちは自動車、パーティー、夜会、ゴルフ、商売その他のもののために神を忘れてしまうことがあります。そういう時に神は、わたしたちを窮地に追いやり、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」ということを悟るようにといましめるのです。
試練を受けつつ、人生を歩んで行かなければならない時、神は神を愛する者たちと共にいて、万事が相働いて益となるようにしてくださいます。この神のお約束に固くすがりついてまいりましょう。そうすれば希望に満ち、確信にみちて、明るく暮らしてゆけるでしょう。
祈り
恵み深い父よ、わたしの助けはあなたの所からまいります。あなたが、わたしの手を取ってお導きくださらなければ、わたしは一日も安全に過ごすことはできません。わたしの足もとはぐらつき、わたしの視界はかすんでいます。あなたが義の道へ安全に導き、永遠の生命をお与えくださることを信じて、わたしはあなたに従って歩んでまいります。主よ、わたしには理解できないことがたくさんあります。しかし、あなたがわたしを愛してくださっていることだけは、よく存じております。なぜならば、神は、わたしが永遠に生きることができるよう、あなたのみ子イエス・キリストを、死に送られたことを知っているからです。わたしの心からすべての疑いを取り去ってください。またあなたのお約束が、常に真実であると信じることができる信仰をお与えください。主よ、あなたの道はわたしの道とは異なります。しかし、あなたの道はあなたを愛する者にとって、あわれみと恵みの道であることをわたしは知っています。
主よ、わたしたちがいらだち、あなたにいろいろ不平を言う時がありましたら、いつもイエスのゆえにこれをゆるし、あなたのもとにもっと親しくお導きください。これらのことを、イエスのみ名によってお祈り申し上げます。
アーメン
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている。(新約聖書 ローマ人への手紙8章28節 口語訳)
2025年9月5日金曜日
待ち遠しい、彼岸花
人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、種のことばは、とこしえに変わることがない。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。(新約聖書 1ペテロ1章24〜25、23節)
2025年9月4日木曜日
カルガモさん、お子さん大切にね
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カルガモの 子引き連れるは 微笑まし |
実は長女も五人の子宝に恵まれている。日曜日の次女に続いて、今日は長女が大学生の息子・娘を連れて家の掃除に来てくれた、掃除機持参で。何の打ち合わせもなしに、今の私たちの求めている状態を察して来てくれるので、これまた助かる。台所・食卓をふくめて、居間、廊下など拭き掃除を三人がかりで綺麗にしてくれた。二時間ほどの滞在で昼食も共にしたが、長女の長男が「明日はお母さんの誕生日だよね」と突然言い出した。「51歳だよ」と私たち夫婦と子どもたちを前に、長女は、「照れ笑い」と言うべきか、何とも言えない嬉しい表情を浮かべた。
五羽の子連れのカルガモ一行は、こうして神様の生きとし生けるものに対する変わりなき愛と摂理をも示してくれた。
※ straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_25.html
さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(新約聖書 マルコの福音書10章13〜14節)
2025年9月2日火曜日
虹の御約束
わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。(旧約聖書 創世記9章13〜16節)
2025年9月1日月曜日
秋一番、ぶどうの成る季節
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ぶどうの実 我が子孫の数 示せり(※) |
さて、昨日は礼拝の後、次女が子どもを連れて、私たちの面倒を見に来てくれた。ありがたいことだ。家は散らかり放題。どこからも手がつけられない始末。次女にすれば何とも我慢のならない惨状だが、そこは我慢し、車で郊外にあるイオンでの買い物に連れて行ってくれた。自転車でしか移動手段のない私たちにとり大型店舗での買い物は難しい。おかげで念願のズボンが二着買えた。妻のスカートも買いたかったが、老妻向きの品物を用意している店舗はなかったのでこちらは諦めた。
その間、ひさしぶりに一歳半になる孫娘と行動をともにした。昔、湯川秀樹が孫の存在について、理性では説明しようもない、新たな感じを抱くと、素粒子論を展開した彼が述懐していたのを思い出す。孫娘はいつの間にか成長し、面白いほどによく歩き回る。こちらは座るのが使命みたいな生き方をしているのに彼女はそうではない。おまけに、「じいじ」「ばあば」と言っては適宜に擦り寄って来る。人の一生で幼年期の姿は独特のものがあるとの思いを我も抱く。
孫と言えば、昔ベック兄(1930〜2016)はよく神様には孫はいないよと言っておられた。これまた湯川秀樹とはまた違った述懐だ。私たち夫婦は孫娘が成人するまではとても生き延びているとは思えない。三食のたびに子どもたち孫たちのうちに主イエス様の平和が支配してくださるようにと祈る日々である。不思議と暑さを退散させてくださいとは祈ったことがない。
※ 昨日、次女がくれたぶどうの一部。ブログ用に食卓に載せ写真に撮ってみたら、五人の子ども、十一人の孫に思えた。
あなたがたは、・・・『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。わたしは誓って言う。・・・見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(旧約聖書 エゼキエル書18章2〜4節)
2025年8月16日土曜日
平和の使者、いちじく
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いちじくを味わい 心満ち足りる |
イエス様が言われるように、「平和をつくる者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:9)だろう。明らかに、知人・隣人の私たちに寄せてくださっているご行為もまた、小さくとも「平和をつくる」一里塚だと覚えさせられる。また、このようにもおっしゃっている。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:3〜4)
恩恵をひたすら受けている者が、あえて引用すべきみことばではないと思うが、引用させていただいた。冒頭のいちじくの贈り主は、突然現れなさったが、実はその数分前に、マルコの福音書10章を読んでいて痛く示されることがあり、その時、チラッとその方のことをも思い浮かべさせていただいていたのだ。主なる神様との以心伝心、父なる神様がこんな小さな者の思いも導いていてくださることを心から感謝する。
さて、いちじくがどんなに昔から用いられていたかを示す旧約聖書のことばを写しておく(※)。それは、ナバルという男が、当時王に追われて放浪せざるを得なかったダビデから飲食を求められたが、それまでにダビデから受けたご恩を忘れてしまったかのように、けんもほろろに追い返した時、妻アビガイルは夫と違い聡明な女で、かつてのダビデから受けた恩を忘れず、夫の非を詫びるため、糧食をもって赦しを乞い願う場面だ。
そこでアビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五頭、炒り麦五セア、干しぶどう百ふさ、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。私はあなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。彼女がろばに乗って山陰(やまかげ)を下って来ると、ちょうど、ダビデとその部下が彼女のほうに降りて来るのに出会った。(旧約聖書 1サムエル25章18〜20)
この結末がどうなるか、復讐に燃えるダビデがナバル討伐に向かう、片や、主の愛に動かされるが如くにナバルの罪をかぶってダビデのもとに急いで向かう、さて両者の攻防や如何に、興味津々たる思いがするが、聖書の続きの個所でご確認いただきたい。それにしてもこの執りなしに用いられている糧食の始めがパン二百個であり、最後にやはり二百個の干しいちじくであったとは、なかなかどうして「いちじく」とは味わい深い食べ物だ。
※聖書には旧約新約を問わず、いちじくに言及した個所がたくさんある。極めつきは、創世記3章7節、ヨハネの福音書1章48節、マルコの福音書11章12節以下などであろう。
2025年7月31日木曜日
三題噺(自然と世相を読む)
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炎天下 ヘクサカズラの 花負けじ |
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輝けり カルガモ家族 真っ赤なり |
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しがみつき 青味帯ぶ蝉 これからか |
さて、昨日の東京新聞の佐藤正明さんの一口漫画は「しがみつく」という題名で、セミが木に止まっている姿を描写し、木の下では捕虫網を持った二人の男がセミを見上げている様子が描写されていた。
もちろん、セミが石破首相、下の二人の男はどうみても麻生氏と茂木氏のように見える。その上、茂木氏らしき人物には「どのみち短命だから」と語らせている。その上、麻生氏は何やら言っているらしいが、それは音声とはなっていない。しかし、それにもかかわらず「辞ー」「辞ー」という声が木々の間から聞こえてくるという凝りようである。いうまでもなく、蝉の鳴き声は今や盛んになっているが、この一口漫画の「辞ー」「辞ー」はまさしくそれにあやかった揶揄のようだ。
2025年7月28日月曜日
叡明が初Vーー甲子園切符
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『創立20周年記念誌』(埼玉県立越谷西高校)1998年刊行の表紙絵 |
そして思いは自然と30年前へと引き戻された。30年前の日曜日、大宮公園球場で勤務校(越谷西高)の決勝戦が行われていた。当時常勝の勢いのあった大宮東高との試合だった。私は当日、神戸で福音集会のメッセージの御用があったので、残念ながら応援に行けなかった。
やむをえず帰りの新幹線車内で、その結果が出るのを注視していた。テロップが流れ、いよいよ埼玉県大会の結果を知らされる時が来た。私は、勤務校が決勝戦に進出したのは法外のご褒美で、大宮東には勝てないと思っていたので、てっきり「大」という字が流れると覚悟していたが、何と「越」という字が見え始めた時は、感激のあまり、その場で万歳と叫びたい気持ちだった。しかし冷房の効いた車内は当然だが、シンと静まり返っており、私一人だけが心の内側からその感動で熱くジーンと燃え上がっていて、その思いを体内にしまっておくのに苦労した。後にも先にもそのような思いをしたのは初めてであった。
甲子園行きが決まるや、それからが大変だった。何しろ全校生徒を、バスをチャーターして甲子園まで向かうのだから。しかも二回戦進出も果たした。26台の車に乗って昼夜敢行で出かけたのである。学校ぐるみで大変なエネルギーが資金面や組織面でも費やされた。それでも生徒、教員を越えた学校全体の一体感が醸成されたことは願ってもないプレゼントであった。
その時、参加したH君が「俺何もしていないのに皆んなからおめでとうと言われるんだぜ。困るよ。でも、少し鼻高くなったけどな」と率直に喜びを語っていたのを覚えている。それは野球部の一人一人が試合に苦労しながら勝ったその勝利は、同じ高校にいる者というだけで、自らは何もしていないのに、その勝利の栄誉を共にいただくという恵みを味わった喜びだったのではないか(※)。みんなも同じ気持ちだったと思う。今年の夏の暑さは格別で閉口するが、30年前のバスでの応援団の二往復もかなりな暑さの中での強行スケジュールで、もうその頃から今日の暑さは始まっていたのかとさえ思ったりする。
一方、30年前の甲子園行きは阪神大震災の爪痕がたくさん残っていて、バスで甲子園に入ることができず、途中電車に乗り換えてのアクセスとなった。生徒とともに具(つぶさ)に震災状況を知り、その後の地理の震災学習に活かそうと工夫したことも思い出した。なおエースピッチャーの鈴木功君は、「ドクターK」と言われていたが、私のクラスの生徒だった。ために甲子園球場で在阪の新聞社の方だったと思うが担任としてインタビューを受けた。「彼は野球部の猛練習の中にあっても、授業中惰眠を貪ることなく真剣で、成績も優秀です」と答えた。あまりにも面白みのない答えだったが、そうとしか言えなかった。
30年後、叡明高校の皆さんは果たしてどのような甲子園生活を経験されるだろうか。きっと甲子園出場を通して野球部だけでなく、共に新たな歴史を校史に刻まれることと思う。異常な暑さの中、応援団の派遣そのものも大変なご苦労だと思います。ご健闘をお祈り申し上げます。
※「喜び」にはこんな喜び方もあるんだと思いながら、私はこのH君のことばを同じバスの中で聞いていたが、その時なぜか私は自らの「救い」を言われているような気がしてならなかった。それは、私の「救い」は、自らの行ないによるのでなく、イエス様の十字架の贖いの死(私の罪の身代わりの死)にあずかるものであって、自らの功績でなく、あくまでもイエス様の功績によるからである。だから、彼が野球部の人々の功績が自分のものとなっていることを素朴に言い表していることに大変な親しみを感じた。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(新約聖書 エペソ2章8〜9節)
2025年7月27日日曜日
盛夏、亦、草刈りの時なり
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椋鳥の 餌豊かなり 草刈り場 |
2025年7月23日水曜日
続「紛失物語」ーーイクソスの鍵
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平和裡に イクソスの鍵 戻りたり※ |
この夏は暑いので、どうしても散歩時間は夕方の5時台、6時台になりがちである。そのあとで買い物をして夕飯の支度をする。昨晩は家に辿り着いたら、7時前になっていた。ほぼ日没過ぎて夕闇があたり一面を支配し始めている時だ。
「鍵」がなくては家に入れない。いくら家の主人であろうと入れない。恨めしいことこの上ない。やむを得ず、携帯で合鍵を持っている次女に電話する。一時間ほどで駆けつけてくれた。待っている間、妻は庭先でウロウロしていたが、私は自転車で再び、たどった道を抜かりなく確かめた。でも路上には見つからなかった。
念のため最後に買い物をしたスーパーのレジのあたりも確かめたが、やはりなかった。それでサービスコーナーにも尋ねたが届いていないと言われる。それでも藁にもすがる思いで、確信はなかったが、家の「鍵」を店内で落としたと言い、こちらの携帯番号を知らせた。
昔なら、失くした妻にガミガミ言うところだが、もう言わなくなった。それよりも遠くから車で合鍵を持って駆けつけてくれた次女に、感謝し、二時間遅れの夕食となった。夜9時半ごろ、スーパーから電話があり、「お宅の『鍵』でないですか」と問い合わせがあった。しかし、この時、先方の説明は私たちの「鍵」の状態と一致しなかった。
一夜経ち、私はどうしてもその「鍵」の所在が気になってしょうがなかった。暑い日盛りの時間だったが、ここは何としても捜すべしと決心し、妻を家に残したまま、再び念入りに昨日の自転車と散歩の全コースを丹念に捜した。捜しながら、イエス様の譬え話を繰り返し思わざるを得なかった。百匹の羊のうち一匹がいなくなったら、飼い主はいなくなった一匹のために念入りに捜さないだろうか、そしてもし見つかったら大喜びするだろう、そのようにわたしのもとから離れて失われた人がわたしのもとに帰ってきたら大喜びするんだという有名な話だ。
いったい「鍵」はどこにいるんだろうかと、自転車道はもちろんのこと、散歩道に入ってからは生い茂る草道もあり、捜すのは並大抵じゃないと思いながらも、私どもの手から離れてしまった「鍵」はいったいどこにいってしまったのだろうと繰り返し思わされた。イエス様もそのようにして罪人であり失われた者であった私を捜してくださったのだなと思いながら熱心に捜した。結局全行程捜しに捜したが見つからなかった。
最後に買い物をしたスーパーにもう一度立ち寄って、昨晩電話をしていただいた、「鍵」の実物を確かめさせてもらった。昨晩の方の説明によると「リングに二つの鍵が繋がっているものですよ」という話だった。私は「いや一つの鍵です」と言うので食い違っていた。
ところがご対面よろしく、係の方が持って来られた「鍵」はまさしく私どもの「鍵」であった。私はその瞬間、再びその「鍵」に巡り会えた喜びを味わった。無機物なのに、まるで人間のように愛おしい思いさえした。妻がどんなに喜ぶだろうかとも思った。係の方々も喜んでくださり、失くなったものがこうして見つかることは文句なしにみんなが喜べることなんだとさらに嬉しくなった。
日々の経験を通してイエス様はどんなに私たちにご自身の愛を示してくださっているのか、この日も改めて感じさせていただいた。
※上の写真がその「鍵」である。私どもは家の「鍵」の飾りとして魚の形をしたイクソスを用いていた。たまたまその「鍵」を落とし物として保管されたお店の方は魚の形をしたものも「鍵」だと思い、二つの鍵が一つのリングで繋がっていると思われたので、話がまったく通じなかったのである。「イクソスとギリシヤ語が書いてあるでしょう」と言えば、すぐお店の方にわかってもらえたのに、私は「青い飾りの一つの鍵です」と言うだけだったので話が全く通じなかったのである(平常、妻が用いる鍵でその程度しか認識していなかった)。なおイクソスとは「イエス・キリスト 神の子 救い主」を表わす頭文字を並べたもので、同時に「魚」を意味し、迫害下にあった初代キリスト者にとっては、大切なお互いの暗号のようなものだった。これからは「青い飾りの鍵」でなく、「イクソスの鍵」と言おうと思う。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(新約聖書 マタイの福音書6章7〜8節)
2025年7月22日火曜日
石破首相への退陣要求
そのくせ、家に戻ってからは夜8時の各テレビ局の報道に釘付けになっておりました。選挙結果は各メディアの事前の予想通りで、国民民主党、参政党の大躍進で、自公は参議院で過半数を獲得できず、47議席で終わりました。あっと言う間の勝負でした。時あたかも大相撲名古屋場所が開かれていますが、強いと思っていた力士が呆気なく負けると、様々な原因が分析され、なるほどと合点するものです。当然、選挙結果の分析が今それぞれの立場で語られています。
選挙は日本全国中の有権者がそれぞれ投票した結果です。これには従わざるを得ませんね。私にとっては理不尽と思われる参政党の躍進も民意がもたらしたものですから、それなりに尊重せざるを得ないと今は思わされています。もともと「参政党」というネーミングから受け取れた「政治参加」というニュアンスゆえに人々の注目を得ているのだろうというのが漠然とした私の印象でした(「三権分立」を解することのない「政治参加」を標榜する素人集団ゆえの魅力、それゆえに「危なっかさ」があるのではいか、いずれ馬脚をあらわすのでないかという危惧)。しかし、それが外国人排斥の運動を進めていることを知り、これは良くないと思いました。もちろん今もそう思っています。
ただ現実に私たちの地域社会に外国人の方々が身近に住み、プラス・マイナスをふくめて日々様々な思いを持たせられていることはおそらく全国津々浦々の日本人のすべてが経験している事実です。そこに光をあてたことは参政党の功績だと思います。排外主義は望みませんが・・・。一方で痛切な物価高生活の中で経済をどう立て直すかの対策も与野党それぞれの主張が並行したままで決着がつかず終わってしまいそうです。
このような政治状況で石破首相がどのような政治判断を下すか注目されましたが、「続投表明」がなされました。それに対して「石破首相への退陣要求(※)」が内外から日毎に奔出しているようです。そのような中で一昨日の20日、すなわち投票日の東京新聞の『首相の一日』記録の記事が私の目を引きました。
【午前】9時38分、東京・丸の内のパレスホテル東京、理容室「ヒロ銀座パレスホテル東京店」で散髪。10時30分 東京・富士見の富士見町教会、主日礼拝に参加。11時55分、公邸・・・
首相は何と、私とほぼ同じ時間に場所は違いますが、礼拝していたのです。いったい、そこでどんなメッセージを聞かれたのか、知りたく同教会がyou tubeで配信していましたので聞かせていただきました。ここでは詳しく語れませんが、私にとっては実にタイムリーなメッセージでした。果たして首相にとってはどうだったのでしょうか。ここ数日間の首相の表情は何とも言えない苦渋に満ちた顔つきとなっていますが、主日礼拝の中で聞かれた聖書のことばが石破首相の霊の糧となっていることを信じます。
そして、日本の政治が漂流しないで民主主義の王道を歩めるように祈りたいです。ちなみに富士見教会の主日礼拝で開かれた聖句を最後に書き加えておきます。
※なお、この一人に京都選出参議院議員の西田昌司さんがおられ、もちろん一切面識はありませんが、私より14年後に同じ学窓を巣立った人です。石破首相については昨年の10月30日のブログで「石破首相の舵取り」という題名で書かせていただいています。よろしかったらそちらもご覧ください。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/10/blog-post_30.html
イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16:24〜25)
2025年7月18日金曜日
今時の世相を憂う
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こぞの夏 蝉の抜け殻 早や見つく※ |
ところが、あれから65年、世の中はすっかり変わった。第一、高校生にも選挙権が与えられた。その若者たちは、新聞でなくSNSがその情報源だと聞く。そのような中で、根拠のない(と思われる)排外主義が大手をふって世の中を席巻していると聞く。いつの時代も高校生の純真な心はそんなに変わらない(と思いたい)。今、踏みとどまって、何が正しいのか考えてほしい。遅まきながら、私の購読している東京新聞も多方面からその現象にメスを入れて報道している。外国人受容の方策について、日本人同士の様々な差別(感情)を放置したままで一足飛びに、議論がなされても決してためにならない。
参議院選挙の結果、どのような政治世界が待っているか予断を許さないが、たとえどのような結果が出ようとも、一人一人の議員の方々が、政治家として歩む使命をまっとうして現実的で意味のある国会討論が活発になされ、政策が決定されることを期待したい。
※いつの間にか、蝉の声が樹木の梢の茂みから静かに聞こえて来る季節になった。蝉は地中からはみ出て、木々を登り、抜け殻を残し、巣立って行ったのだろう。栄枯盛衰、人の一生をモノの見事に体現させてくれる通過点の姿である。もはや我も抜け殻を残すのみ。一方、白粉花の可憐な次の姿もある。
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河岸に 白粉花の 紅映ゆる |
ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。(旧約聖書 申命記24:21)
2025年7月16日水曜日
モンシロチョウに寄せて
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風そよぎ モンシロチョウ 舞い飛べり |
辛うじて、笹の葉につかまって一休みする姿を撮ることができた。写真で見ると、笹の葉にしっかりと2本の足(?)を伸ばし、つかまっている(側面で見ているだけだが、反対側にも他の足があり、しっかりと伸ばしているのだろう。そうしないとバランスが崩れる)。全部横向きだから仔細はわからない。しかし、これまた口から出ているのか、頭の先にあるのか、2本の鋭角とも言うべきものが見える。あたり一面、圧倒的な緑が支配する中で、黒い触覚のようなものが見える。このような表現しかできない、昆虫をまったく知らない私の戯言(ざれごと)だ。
モンシロチョウではないが、小学校一年か二年の時、学芸会で、「ミツバチ」の役柄を与えられて、舞台の上で、女の子たちが演ずる花の間を、次々と飛んでまわったことを思い出した。何かセリフを言ったはずだが、そのセリフはとんと覚えていない。幕の袖の下の向こう側の観客席では多くの父兄の方々が見ておられた。その学芸会が終わると、決まって評が下されていた。中には口さがない評もあり、それを母から聞くのも嫌だったが、母が丹精込めてつくってくれた羽をバタバタひらめかせながら、飛んで行った時、それまでの緊張から解放された気分を味わったことも確かだった。
モンシロチョウに限らず、今やさまざまな蝶が目まぐるしく飛びまわっている。もちろん花の蜜を求めてだろう。暑さ一点張りのこの季節、彼らにとってはさぞや無限とも言える草花の間を今日も飛びまわることだろう。どんなセリフを口走っているのだろうか。そう言えば、ここ4、5日の間だが、静かな蝉の声が樹木の間から、集団の声となって聞こえ始めている。なぜか、静かな蝉の声に私は安堵の思いを覚える。生きとし生けるものの盛んな季節へと確実に世界は進んでいると思うからだ。
狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(旧約聖書 イザヤ11:6〜9)
2025年7月14日月曜日
ハンゲショウの花
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妻発す ハンゲショウと 口ずさむ 2025.6.29 |
今も咲いている。ある時、そのあたりを再度見てみたら、その折には気づかなかった、木標が立てかけてあり、はっきり「ハンゲショウ」と墨字で記されていた。その時、思い出した。そうだ、この湿地の植生をくわしく観察しながら、その生態を明らかにしていた職場の同僚がいた、と。彼は生物の先生であった。五十年前のことである。その頃から彼はすでに生態系の変化に注意しながら観察を続けていたのであろう。
昨今の温暖化のもたらす気候の変動、果ては住宅地まで山から降りてくる熊の出没が連日のように報道される現在、古利根川の川縁がいつまでも健在でいてくれと願わずにいられない。そう言えば、昨日の写真には載せなかったが、下の二枚も今夏覚えたカルガモの姿の一つである。
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目を凝らし 鴨の車列 見る幸よ 2025.7.7 |
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相見互う カルガモ二羽 何語らう 2025.6.24 |
2025年7月13日日曜日
運のいい「チェーン錠」
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二年越しのカルガモ君 2025.7.7(※) |
そんな私が筆を取ったのは、他でもない、「運のいい」チェーン錠に再び出会うことになったからである。6月11日に「妻の失くした『チェーン』に寄せて」という題で投稿したばかりだが、またしても、妻がチェーン錠を失くした。どこでどうなったか覚えがないと言う(これも短期記憶ができない彼女にとってはやむを得ないことなのだが)。前回とほぼ同じシチュエーションだった。礼拝を終えて二人で自転車で帰って来たが、玄関についても中々家の中に入って来ない。どうしたのかと思ったら「チェーン(錠)」がないと悄(しょ)げているのだ。
またかと思いながら、やむを得ず、今回は私一人で帰り道をたどりながら探した。元々、帰り道は私の用事に妻までも付き合わせた負い目も私にはあった。しかもインクカートリッジを求めて、文房具店二軒(駅の東口のペンヤというお店と地下道を潜り抜けての駅西口の光文堂というディスカウントストア)を訪ねたが、どちらの店も日曜日ゆえに開いていず、結局足を棒に振るばかりで、ついていないことこの上もなかった。その上での「チェーン(錠)」紛失である。
チェーン錠は図書館の駐車場で外して、家まで乗って来たのだから、その間のどこかにあるはずだ。妻は前回もそうだったが、「誰かが外して、それだから無いのではないか」と言う。もとより、そんなはずはない。どこでどうなったかわからないのだから、どうせ見つからないだろう。その場合は100円ショップで買い求めてやろうと、覚悟を決め、暑い盛りではあったが、図書館まで戻り駐車したあたりを念入りに探したが、果たして、「チェーン(錠)」はなかった。やはり無理だわいという思いに支配されていた。
ところが、何と図書館から次の訪問先であるペンヤさん(あいにく休みのお店だったが)に向かったところ、お店の前の道路の真ん中に堂々と「チェーン(錠)」が「寝っ転がって」いた。まさか、こんな風にして見つかるとは我ながら不思議な思いがした。もはやわざわざ線路を踏み越えて西口の100円ショップまで行かなくっていいし、その上、最近開店したばかりのCOOPのお店が近くにあるので買い物も出来るしで、途端に心が軽く、陽気になった。その時、二度も持ち主に落とされてしまった「チェーン(錠)」が、またしても私に見つけられたことを思わずにはいられなかった。
ああ、これぞ「運のいい」チェーン錠そのものだなあーと思い至った(持ち主の妻の不注意により落とされたのだが)。先ごろの鶴保氏の無責任な発言「運のいいことに能登地震があった」は、あまりにも当を得ていず、瞬間彼が何を言おうとしたのか理解できなかったが、こういう失くなったチェーン錠に二度まで出会えた私の経験こそ「運のいい」と言うのだと思い、改めて鶴保氏の失言の重さを噛みしめざるを得なかった。それにしても政治家がいつの間に、こんなふうに劣化してしまったのか悲しい。他者の痛みに対する想像力がまったく欠けている政治家があまりにも多いのではないだろうか。
もっとも、主なる神様は、たとえその時は自分にとっては運が悪く思えても、そうとは限らないともおっしゃっている。運・不運に関する人間の価値観を越えた、主なる神様の深い愛(人のわがままな罪を赦すために、その身代わりとしてご自身を十字架に架け、父なる神様の命に従って、罰せられたイエス様の愛)が存在するからである。その愛を鶴保氏自身にも知っていただきたい思いがする。今回の彼の心ならぬ言葉であっても、同氏が「悔い改め」の心さえお持ちになるなら、新しく生きられる、それこそ「運のいい」希望の道は用意されていると思うからである。
さて、件のチェーン錠は、夜のお惣菜の買い物をしてから帰ったので、都合一時間は経ったであろうか、家に帰るや、びっくりさせてやろうと思い、お惣菜の買い物袋の下に密かに忍ばせていたが、今や妻はチェーン錠のことはすっかり忘れていた。やむを得ず、件のチェーン錠の発見の委細を説明せざるを得なかった。妻は「奇跡だね」と喜んだ。二度までも路上に置き去りにされたチェーン錠ではあったが、路上で取り上げる際に感じた、「運のいい」チエーン錠だなという思いは、今度こそこちらの不注意で失くしませんようにという思いに変えられた。妻の同伴者である夫としても今後は十分注意していきたいものだ。
※今年も散歩のたびにカルガモ君の動向に注意しているが、昨年の今頃は水田を利用して子育てをしている様をゆっくり観察したが、今年は水田に三羽のカルガモを時たま見かけただけで、このように水田から上がって側溝を歩いているカルガモ二羽を身近に見るのは久しぶりなので撮影したが、こちらの行動に危険を感じたのであろう、一羽はあらぬ方向に直ぐ飛んでいってしまい、見失ってしまった。一時、橋の下が子育ての場所かと思ったが、そうでもなさそうだ。
主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。ーー主の御告げ。ーー天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(旧約聖書 イザヤ書55:6〜9)
2025年6月21日土曜日
ピーター・マーシャルの祈り
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風そよぐ 薄野(すすきの)に蜘蛛 棲家あり(※1) |
その朝は寒々として冷たかった。湿っぽい肌を突き刺す風がポトマック川の鋼のような灰色の川面を波立たせていた。ペンシルバニア通りの広い立ち入り禁止の一帯は紙やがらくたのようなものが風で吹き飛ばされ、その風が連邦議会のドームに吹きつけ「ヒューヒュー」と唸っていた。
ワシントンの至るところで期待感がみなぎっていた。大通りに沿って何週間もかけて積み上げられてきた材木のかたまりはついに屋根付きの観覧席へとしつらえられていった。街角という街角にはネービーブルーの制服に身を固めた特別区の警官が彩りを添えていた。灰色の街灯には小さなアメリカ国旗やトルーマン(大統領)とバークレー(副大統領)の写真が飾られた。赤、白、青の旗が至る所にあった。数時間もすれば合衆国大統領を祝って4万人の行進者や40以上の山車が7マイルの長さで縦列をつくることになろう。この日は1949年1月20日、大統領就任式の日だった。
両翼を広げた重厚な連邦議会の建物の前で、私は12万人の他の人たちとともににわか仕立てにつくられたベンチに座って、前の貴賓席に場を占めている政府高官を眺めていた。ラジオ、テレビ、映写技師たちは新しく造られたひな壇で器具を調整したりテストしたりするのに上がったり降りたりして大わらわであった。昼の12時に全米の耳目はこの瞬間に吸い寄せられることであろう。
私はプラム色の革掛け椅子や緑色のカーペットの敷かれた通路を備える旧上院会議場で、ピーター・マーシャルがその瞬間祈ることを知っていた。彼は多くの新聞記者に「上院の良心」と呼ばれていた。彼の簡潔で真摯な地についた祈りは上院議員たちに次第に深い影響を与えつつあった。しかし祈りは親密なものであり、決して人が手軽に話すようなものではなかった。私は何度か見てきたようにその場面を描くことが出来る。ピーターが祈ると、人々は突然静まり返り、うやうやしく頭を垂れた。
「父なる神様、私たちはあなたを信頼しています。また、この国はあなたのお導きとお恵みにより誕生させられました。どうか合衆国の上院議員を歴史上のこの重要な時に祝福し、その義務を真摯に遂行するのに必要なすべてのものをお与えください。
私たちは今日特に私たちの大統領のためにお祈りします。そしてまたこの議会を主宰する大統領のためにお祈りします。彼らがその務めを果たすために、精神的肉体的緊張に耐え得る健康をお与えください。またしなければならない決定に対する正しい判断力をお与えください。また彼ら自身の力を超える叡智とこの困難な時期の問題に対する明確な理解力をお与えください。
私たちはあなた様に心からへりくだり信頼できますことを感謝いたします。どうか彼らが恵みの御座に絶えず行くことが出来ますように。私たちも彼らに対するあなた様の愛あるご配慮とあなた様のお導きの御手におゆだね出来ますように。
私たちの主イエス・キリストの御名を通して、アーメン。」
※1 日々大変な暑さである。この暑さの中で生きとし生けるもの様々な工夫をして生き延びている。土手を歩くと彼方此方にミミズの屍が見える。この暑さで地中から出ざるを得ず、出たは出たで熱にやられての結果であろうか、哀れでならない。一方、伸び放題の葦やススキが繁茂している。オオヨシキリはその豊かな自然環境の中で「ギヨッ ギヨッ」と囀るに遑ない。そしてそのススキには蜘蛛がご覧のようなシェルターにこもっては餌を狙っている。写真では一つしか示さなかったが、もちろんたくさんの蜘蛛のシェルターがある。よくも彼らはこうして「家」を作るものだと感心せざるを得ない。
※2 2008年当時、この本を読んで痛く感動した覚えがある。原本はアメリカで戦後間もなくベストセラーになった本である。典型的なアメリカンドリームの体現者がイギリス・スコットランドから移民としてやってきたピーター・マーシャルその人の人生であった。その人生を妻であるキャサリンが描いた「夫の肖像」とも言うべき本である。幸い、邦訳がある。村岡花子さんの訳である。当時私はこの本が手に入らないのでやむを得ず英書を購入して読んだ。ところが今回探して見たら、今や国会図書館デジタルライブラリーで自由に引き出せ、プリントアウトして読むことが出来ることがわかった。だから村岡さんの名訳を拝借してもいいのだが、私訳を載せた。村岡さんはピーターの祈りの言葉を載せておられない。不必要だと思われたからである。しかし、どっこい、その祈りこそ今私が必要としている祈りの一つであるので敢えて載せてみた。ついでに言えば、村岡さんはこの一連の叙述(20項目)の冒頭に必ず載っている聖句(下のイザヤ書の聖句)をやはり省略している。それらの祈りや聖句の省略が村岡さんにとって、その後どう言う意味・経過を辿ったかはその翻訳書の後書きで少し書いておられる。一読の価値があると思った。機会があれば紹介したい。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/11/blog-post_19.html
まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。(旧約聖書 イザヤ55章12〜13節)
2025年6月19日木曜日
帰心矢の如し(下)
さて、昨日の続きだが、結論を言えば、朝京都駅での待ち合わせに失敗した二人だったが、不思議なことに午後に会うことができたのだ。その間の事情を示す手紙が残っていた。それに語らせよう。
「ドストエフスキー覚書森有正著筑摩書房読んでいました。再び感激しました。そこには魂の問題が美しく描写されているのに感動しました。邂逅!出会いの問題。とくにそのなかの「コーリャ・クラソートキン」はぼくのこれまでの苛立ちを訣別させるべく頭を緩やかに打ちました。啓示!ぼくは一層神の問題に近づいていくのを覚えます。そしてぼくは再び、君が京都駅で幾分憮然とした、自失した状態で階段を降りてきたときに感じた霊感に深い存在感を確認しました。実はあのとき朝から苛立っていた精神が諦めの境地から、かえって透明になり完全にある心的状態に支配されていたので、君の姿を物欲しそうに探すのでなく、ーーそういうときはえてして心の中は空虚なものなのですーー、心の奥底で信頼したときーーこれも変な表現ですが、こうしか表現できませんし、事実ぼくの行動は二枚の葉書を投函することに清々しい悦びを感じていたときなのですからね、ーー君が視界に入ってきたのです」
今の京都駅(※1)は4代目、1997年に開設したようだが、1968年当時の駅舎は3代目にあたり、当時列車の時間待ちには2階にあった「観光デパート」をよく利用した。この時も私は散々労を尽くしたが、彼女と会えず、やはり失望感を抱いてだったと思うが、観光デパートの階段を上るところだった。ところが何とその彼女が上から降りて来たのだ。
その後、彼女の帰る時間も切迫していて、もはや一刻の猶予も許されぬ中、京都駅から東海道線で草津駅(滋賀県)まで移動し、柘植(三重県)行きの電車に乗り換える合間の時間を駅構内で過ごす短時間の「デート」となった。淡い草色をした草津駅の壁面をバックに私は彼女の横顔をじっと見つめているだけで、十分だった。
今回端なくも、二人の友人が待ち合わせに失敗したことをきっかけに57年前のこのことを思い出した(※2)。1964年から1968年のこの時まで不思議と私の彼女に対する片思いは細々ながらも維持され、京都駅での「邂逅」がなかったら、どうなっていただろうとも思う。友人の待ち合わせの失敗の原因は片方の方の朝寝坊であった。私たちの場合は、彼女が途中で友人に会い、その人と交わっていたために約束の時間に来れなかったことにあった。携帯電話がある今ではとても考えられないことだが、互いに連絡しようがなかった。私には彼女のその行為は許せなかったが、それこそ「無償」「無償」と自分に言い聞かせていた。
しかもそれから1969年の3月12日の「交通事故」(※3)に至るまでの一年間、さらに1970年3月の受洗、4月の同じ京都での結婚に至るまでの一年間。都合二年間、栃木県の足利と滋賀県の甲賀と相離れた遠距離恋愛ゆえに毎日のように交わさざるを得なかった二人の手紙のやり取りを通しての苦闘があった。そのはしりともいうべき、京都駅から草津駅へ移動しての「邂逅」のひとときのことを指しているのだろうか、その頃の手紙の中で次のように記している。
今度君と会って一番印象深い、あとあとまで残る君のセリフ「ほんでもやっぱりいづれは吉田さんは神さんのことがわかってくれはると思うわ」を大切にしようと思う。さようなら、ではまた。
もし当時携帯電話があったら、私たちの間の信頼関係の葛藤は表面化しなかったであろう。今回二人の方が経験された行き違いは、お二人の間の主イエス様への信頼が友人関係を打ち壊すものとはならなかったと想像する。もはや「無償」とは、私たちの単なる道徳律ではなく、とりも直さず、私たち罪人に対する主イエス様の十字架上での贖いの愛をお知りになっていると思うからだ。そのお二人の間の素晴らしい愛こそ、別の機会に稿を改めて、詳しく触れてみたいと思う。
最後に、昨日、今日と掲載させていただいた写真を通して急行する鴨二羽の姿を追ったのだが、「帰心矢の如し」とは鴨に備わっている主がくださる家族愛の発露に違いないと思う。一方私も最近、やっと主の身許に立ち返った我が身を思う時、「矢の如し」とは主なる神様が私たちに示される愛のすべてだと思わざるを得ない。
※1 私の京都駅との出会いは2代目に遡る。火事で消失する以前の駅舎であった。1950年が火災の年、私が小学校一年の時のようだが、消失間もない駅舎を微かに覚えている。
※2 このことは今回初めて書いたと思っていたが、過去にすでに書いていたようだ。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/11/blog-post_30.html
※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/03/1969312.html
主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(旧約聖書 イザヤ書55章6節7節)
2025年6月18日水曜日
帰心矢の如し(上)
その旨、付き合われた方からの連絡で委細を知った私たちは祈らされた。結局一日の終わりとも言うべき夕方に、その方がたまたま朝寝坊し遅れたので、付き合ってくださる方に家から電話をしようとされたが、様々なことを考えて電話できなかったが、自分は一人で仙台に行き無事にお父さんにお土産も買って帰って来たことがわかり、ホッとした。
それにしても、付き合われた方の思いはどうだったのだろうか、と思ってしまう。「無償」という言葉がある。その方は、自身の犠牲を顧みず、現れない友のために様々なことに気を紛らわせ、心配されたのでないかと思う。昔、学生時代『対話』という題名で日記(ノート)を作ったことがある。次に作ったノートは『無償』にした。それは何が何でも見返りを求めないで行動しようと思ったためである。
実はこの日曜日の出来事を通して思い出したことがあった。1968年の3月5日のことである。京都駅で一人の女性と待ち合わせていた。ところが、時間が来ても一向に現れなかったのだ。何しろその二日前に、栃木県の足利から夜行を使って故郷彦根に帰ってきた。目的は彼女と会うためであった。どういう手違いか、その後何時間待とうが本人と会うことができない。
結局丸半日棒に振った。やむを得ず、岡崎の美術館に行って、青木繁、黒田清輝、浅井忠などの作品を見て回った。今なら携帯ですぐ連絡が取れるが、彼女と会うのは諦めざるを得なかった。その腹いせもあってか、彼女の勤務先・兼宿泊先(滋賀県甲賀町)に京都駅前の喫茶店で二通のハガキを書き、投函した。この機会にと思い、彼女(今は妻)の所持していた書翰を探してみたら、二通ともあった。そのうちの最初の一通は下記のものだ。
「今日は本当に申し訳なかった。と言っても会えなかったのだから何を言ってみても恨めしい。誰が悪いのやら、僕が悪いのか、君が悪いのか、いろいろ努力してみたんだ。今駅前のシャトウーという喫茶店で書いています。頭は支離滅裂で、なんとも口惜しい。それでも岡崎の美術館で明治美術展を一時間ばかり見ていただろうか。あとはもう駄目さ。駅へ一目散。もっとも確実な改札所をねらったのだが。あと5時57分発の柘植(つげ)行きがあるのみだ。なんとしても会って帰らなきゃ、帰って来た甲斐がないというもの。」
(今日の写真は、二羽の鴨が橋の欄干から見えたのを遠くからキャッチしたものです。二羽の鴨は脇目も振らず一目散に画面の左方向へ急いでいるのです。思わず「帰心矢の如し」だなと思いました。その到着点は明日掲載します)
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(旧約聖書 伝道者3章1節)
2025年6月11日水曜日
妻の失くした「チェーン」に寄せて
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その名も むらさき露草 映える色 |
いつになくしょんぼりしているので、私も一緒に自転車で探しに行くことにした。この時は思い出さなかったが、一年前私は水田に自転車もろともチェーンを投げ出してしまって、結局そのチェーンは見つからないまま、新しいチェーンに取り替えた。その時携帯で妻を呼び出して、急遽駆けつけてもらった覚えがある。考えてみると、私たちは年がら年中、このような「失くしもの探し」を繰り返している。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/06/blog-post_23.html
ところが今回、意外に早く見つかった。記憶の定かでない妻なので当てにならないが、とにかく、元来た道を辿らせ、私がその後を追うというスタンスだった。道々、「見つからなくっても、どっち道100円ショップで買えるわい、ここは妻の気が済むまで一緒に探してみよう」と腹を括っていた。しかし、意外や意外、家から7、800メートル先のコンビニエンスストアの駐車場近くの側溝の溝近くに落ちていた。見つけたのは私だった。路上に何やら銀色の物が見えたので近づいた。まさか、それが妻が失くしたチェーンだとは思えなかった。私の呼び寄せる声で近づいて来た妻に確認させるとまさにそのチェーンであった。
妻はどうして自分の自転車のチェーンがそこにあったのか今もってわからないと言う。しかし、結果オーライでめでたしめでたしであった。そこで思い出したことがあった。それはヨハネの福音書5章5、6節の中に書き記されている、三十八年間病に苦しめられていた男が、誰からも相手にされずにいたところ、イエス様に見出されその病から癒されるシーンだった。
明治期に日本人の救いのためにイギリスからやって来たバックストン宣教師(1860〜1946)はそのことを次のように語っている。
牧者(主イエス)は羊を求め給います。失われたる羊は牧者を求めません。善き牧者は失われたる羊を求め給います。(中略)主は私共を求め給います。度々私共の心中に主を求むる精神がありません時にも主は私共に近づき給います。私共は主を求めません。主が私共を求め給います。
このバックストン宣教師のことばをたまたま先週の土曜日、要するに妻がチェーンを失くした日曜日の前日読んでいて、我が身に照らし合わせて痛く感動していたからである。妻と結婚する以前、私は主を求めていなかった。結婚する前、妻も主を求めていなかった。しかし、主はその当時、まことの愛を知らずして苦しんでいた妻を見出し、救ってくださった。そしてその妻は、当時結婚を前にして、同じように苦しんでいるように思えた婚約者の私にイエス様を紹介した。けれども、私には全く求める気持ちがなかった。不思議なことに、その私(迷える羊である)を主イエス様ご自身が聖書のことばを通して、声をかけ見つけてくださったのだ。道の端っこに横たわっていて、自分では動くことができないで、そのまま置かれっぱなしになってしまう「チェーン」と同じだった私を。
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。(旧約聖書 詩篇23篇1節)
2025年6月10日火曜日
紫陽花の「つゆ」
東京新聞の連載マンガ『ねえ、ぴよちゃん』にはいつも慰められる。今朝の四コマ漫画は次のように描かれていた。
「宮司(ぐうじ)さん 梅雨だねえ」(ぴよちゃん)
「梅雨だねえ」(宮司さん)
「兄貴(あにき)「つゆ」ってなんですか?」(縁の下にいるネコの弟分)
「朝 花についとる「つゆ」は わかるやろ」(兄貴分のネコ)
「ええ」(ネコの弟分)
「雨は雲からたれる「つゆ」なんや」(兄貴分のネコ)
「へー」(ネコの弟分)
ぴよちゃんと宮司さんは傘を差して歩いている。そのお互いの会話が最初の場面である。次の場面は、その会話を縁の下で聞いていた二匹のねこ同士の最初の会話である。三つ目は兄貴分のねこが身近な「つゆ」について説明し始める場面である。その花にはちゃんと絵(朝顔?)が載せてある。最後の場面がクライマックスで、傘を差して歩行を進める、宮司さんとぴよちゃんの差す傘が示す後ろ姿、それに比べ縁の下であろうか、傘差さずに済み、にこやかに兄貴分のねこがする「梅雨」の説明に、弟分のねこが感心している場面だ。人間同士の会話が先行するが、兄貴分のネコの蘊蓄(うんちく)に読んでいる「私」も思わず納得させられた。
読むこと、わずか数秒で、人の心を和(なご)ませる。青沼貴子さんの2896回目の作品だということだ。ほぼ8年余り毎日物語をマンガ四コマに表現しておられる作者に敬意を表したい。迫田さんは、下記のサイトで紹介のあるように、珍しい赤い紫陽花をお載せになっている。https://sakota575.webnode.jp/%E6%97%A5%E8%A8%98/
私も、ぴよちゃんとみことばに励まされて、天から降ってくる「つゆ」を身にいっぱい受けたいと思う。そのような私に先駆けて、既に「つゆ」を受けている庭の紫陽花を載せさせていただいた。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(旧約聖書 イザヤ55:10〜11)
2025年6月3日火曜日
夜ふけの川辺に・・・
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中堀から望見する佐和口多聞櫓と天守(彦根城) 2015.5.27 |
夜ふけの川辺に
友らと別れて
ただひとり ものを思い居(お)りし時
この身に挑(いど)みて 組み打ち始めし
目に見えぬ人よ
名を証(あか)し給え
如何(いか)なるお方ぞ
この身の悩みと罪・咎(とが)
ことごと見抜き給いしか
この身は知らねど
祝し給わずば
汝(なれ)をば去らせじ 夜明けとなるとも
君は我がために
身代わりとなりて
数多(あまた)の悩みを
受けさせ給いしお方にあらずや
祝し給え
今、よしこの腰骨(こしぼね)砕かせ給うとも
腰は立たずとも
この手はゆるめじ
汝(な)が恵みなくば 生くる甲斐もなし
死力を尽くして 取り組むこの身を
いざ祝し給え
明け方来ぬ間に
闇夜は明け行き
朝(あした)は来(きた)れり
古きは過ぎ去り 新しくなれり
砕かれ尽くして 明け渡しし今
罪の力にも
この身は勝つを得ん
小鹿(おじか)のごとくに
ヤコブさえおどり
神の御力をほめたたえまつる
世にあるかぎりは
「ペヌエル」証(あか)しせん
げに「こころきよきものは神みる」と
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。(新約聖書 マタイの福音書5章8節)
2025年6月2日月曜日
「水無月」の始まり
今年も鴨家族の姿を観察できるのだと思うと嬉しくなった。ちなみに昨年のブログはどうだったのかと検索してみたら、次のようであった。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/06/blog-post.html
昨年は私にとって初めての体験であったから、興奮気味の文章を綴っているのが、何となく伝わってきた。あれから一年経つのだと思うのはやはり何となく寂しいし、辛い。自分はどこに座標軸を置いて生きているのだろうかと、改めて時の迫るのを覚えさせられるからである。
けれども昨日はもう一つ嬉しいことがあった。それはKご婦人のオカリナ演奏のCDをYさんを介していただいたからである。昼間の礼拝の後にいただいたのだが、私はあまり関心を示さず、うっちゃっておいた。これも私のどうしようもない生まれながらの性質ではある。しかし、その後、Yさんから、なぜKさんがこのようなCDを私たちにくださったのかを、メールで知らされ、襟を正され、妻と二人で聞いた。
全部で67曲のオカリナによる演奏であった。聖歌、讃美歌、日々の歌、童謡、ショパンの別れの曲などが入り混じって次々と演奏されていた。Kさんは左親指が不自由だそうだ。そんなこととは想像もできない。試練の中でオカリナ演奏は、主イエス様への問いかけ、祈りの時ではなかったかとYさんは書き寄越して来てくださっていた。まさにその通りだと思わずにおれなかった。
その上、妻がこのオカリナ演奏を喜び、それぞれの曲目に私以上に歌詞を、全部ではないが、すらすらつけて歌っていることにびっくりさせられた。このまま回復するのじゃないかと錯覚させられるほどだった。「音楽」と「美術」は彼女の昔取った趣味の杵柄(きねづか)だのに、絵はここ数年とんと描かなくなった。しかし、歌は今も歌うが、このKさんのオカリナ演奏を通して伝わって来る息遣いは、私たち夫婦の魂を揺さぶるのに十分だった。
こうして、昨日は、私も遅ればせながら、そういう生き方、Kご婦人のような生き方ができればと思わされる、「水無月」の始まりの日となった。
神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(旧約聖書 創世記2章7節)
2025年5月30日金曜日
僕の大好きな「iPhone」
月曜日の夜、iPhoneが急に使えなくなった(※)。そのため、昨日木曜日の昼過ぎまでの都合二日間ではあったが、iPhoneなしの生活を余儀なくされた。言うまでもなく、日々の生活でいかに自分がiPhoneあっての生活を送っているか示された。
原因は今もって分からないのだが、何しろ電源に繋いでも、うんともすんとも反応しなくなったのだ。ネットで対処法を調べ、それでも解決せず、いつも相談する三男に助けを呼び求めたが、解決できず、週末に直に見てみようとの返事をもらった。
しかし、この先、三男が来るまで、まだ金、土と二日間も我慢しなければならないのか。それに復旧が保証されているわけではない。回復しない場合の修理費用は62,545円だとメーカー側のホームページで知り、それを思っては前途暗澹たる思いであった。
不便なのは一切iPhoneを通しての携帯電話の送受信ができなくなったことだった。また普段の生活では手首にApple Watchを装着していて、一切の通信は電話、メールなど即時に受けて行動している。朝起きてから寝るまでの、時とすると睡眠中もiPhoneとApple Watchのお世話になっている。その肝心のApple WatchもiPhoneがダメになれば、一切機能しなくなる。これには参った。
もちろん、逆にそのようなネット環境に左右されず、静謐な自分の時間を持てる。日頃の自分がいかに様々なネット情報の洪水にさらされながら生きているかを実感させられた。
私は決して新しもの好きではないが、振り返ってみると、これまで様々な情報機器の最先端の成果を享受して来たことに気づかされる。高校時代にはソニーのオープンリールの録音機を使っていたし、社会人になってからはやはりソニーのハンディーな録音機、ポケットに忍ばせることの可能な小型の録音機(カセットレコーダー、当時「宇宙船アポロが搭載した?」とか言っていた)、2003年に定年退職してからは、「iPhone」を駆使するようになった。
2010年だったか、ドイツ旅行で親しくなった方の経堂(きょうどう)にあったご自宅を訪問するため、iPhoneのGPS機能を利用して、その方の自宅まで一切どなたの説明も聞かないでiPhoneを使って電撃(?)訪問して、一人悦にいっていたこともあった。
ましてやその頃電車内では「ガラ携」こそ行き渡っていたが、iPhoneを操作している乗客は車両内で、私をふくめて二、三名いるかいないかの状態であった。電車内で様々な情報を選択し、ある時などは、スポルジョンの『M&E』という英文アプリを開き、窮地に陥っていた私に上よりの多大なる励まし「"Help, Lord." Psalm12:1」をいただいたこともある。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/06/help-lord.html
そのように私の生活にはiPhoneは欠かせない機器である。今回困ったことの一つには毎日通読を続けているyou versionというアプリの1日の聖書個所が一切判らなくなったことだった。外へ出たは出たで、やっと田んぼに水が張られて、田植えが始まろうとしている景色をキャッチしたくもiPhoneなしでは、写真が撮れないことだ。
第一、このブログそのものの文頭を飾る写真は、iPhoneを通しての賜物である。長距離の電車を乗り継いで行くのも、iPhoneあっての物種であることも思い出す。今回の変事は私にとって様々なことを省みる良い機会となった。
ただ、不思議なことに、昨日の木曜日長女が庭木の剪定に来ることになっていたが、朝の食事の祈りの時に私は長女が無事にこちらに来れるようにと祈ると同時に、iPhoneの復旧についても短く祈っていたことを今もって思い出す。
主よ。お救いください。(旧約聖書 詩篇12篇1節)
2025年5月25日日曜日
二人三脚の日々と主のご計画
家内は吉永小百合と同年だからだ。かつて吉永小百合の主演の「青い山脈」がロケ地として彦根を選んだので、家内はそのロケを見に行った。それがいつ頃のことだったか、高校の時だったのか、短大時代のことであったか、はっきりは思い出せないようだが、結構吉永小百合との同世代感覚は今もあるようだ。そこへ行くと私は橋幸夫さんと言っても別世界の住人のように思っていた。それだけに今回の告白は他人事とも思えなかった。ましてデュエットされたお二人と私たち夫婦は同世代だからだ。
母は胃癌で44歳、父は痴呆症を患って69歳、継母も胃癌で69歳で亡くなった。それぞれ、私の18歳、38歳、51歳の時だった。その私も今や82歳の歳を重ねている。家内は健康そのものだったし、母亡き後、2年して、父の後妻として嫁して来てくださった継母と私との複雑な間柄を良く受け止め、55年の結婚生活を通して終始一貫、私に仕えてくれている。その家内もここ3、4年めっきり弱くなってきた。特に記憶面でのハンディが目立ってきた。
それもあって、毎日「脳の活性化」と「健康」のため、古利根川沿いの散歩に家内を誘い出しては健康維持につとめている。実は我が家の庭は庭で、この季節たくさんの草花が咲き揃っているので今更出かけるまでもないのだが。これも1996年に家を新築したおり、家内のたっての希望で限られた敷地の中で庭面積を最大限取ったおかげである。
ところが、このところ庭が鬱蒼と生い茂ってきた。例年なら家内が率先して剪定作業に乗り出すのだが、今年は手を出さない。思い余って、家内を誘い、ベニカナメはじめ椿や山茶花などにまとわりついていた蔓(つる)を外しながらの剪定となった。二人とも疲れたが、家内は私以上に疲れたようだ。耳が遠くなった私と記憶がままならない家内との二人三脚はこうして、肉体面でも衰えが目立つ。
今日の写真は、そのような蔓の存在にもめげず、咲き誇っていた「アルストロメリア」である。もちろんこんな名前は知らない。家内が前からそう言っていたので覚えているだけだ。夫婦が健康で長生きするのも素晴らしいが、もはやそれは期待できない。互いに弱点を抱え、衰える一方だが、残された我が人生の中で、どのように助け合っていけば良いのか、日々試される毎日である。 特に私は長年の家内の愛に恩返しをしたい、「あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい」との主の勧めを実践したいと思うのだが、これが中々どうして自分の力ではできないで、困っている。
今日も礼拝後の福音集会で主にあって敬愛し、互いに「兄弟」と呼び合っている方から「主の計画」と題する貴重なメッセージをいただいた。最後に読んでくださった聖句(下記の聖句)は私の55年のキリスト者生活・結婚生活の中で危機に会うたびに、繰り返し味わされてきた聖句であった。また新たな思いと感謝の思いで、主イエス様の御業に信頼しつつ歩みたいと思わされている。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(新約聖書 ローマ人への手紙8章28節)
そう言えば、そのメッセージではもう一つ大切なみことばも示してくださっていた。すべての面で「へりくだる」ことこそ、今の自分に主が求めておられる一切なのだと合点する。
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(新約聖書 1ペテロ5章6節)
そして、そのメッセージには、今一つ紐解かれていたみことばがあった。下の聖句がそれだ。そのみことばにより、私たち夫婦の二人三脚の内にも、限りない「主のご計画」があることに改めて気づかされる。
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。ーー主の御告げーーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(旧約聖書 エレミヤ29章11節)
2025年5月12日月曜日
「シービービー」と私たち
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蛙啼き シービービーと 歩み居り |
最近同伴者は私に数歩遅れてついて来る。私としては同伴者と、飛び交う鳥や蝶々を眺め、会話を交わしながら歩みたいのだが、同伴者にはそれよりも大切なことがあるらしい。この一月たらずの間にたくさんの草花はあちらこちらで生い茂り、私たちの背丈に追い迫る勢いだ。同伴者はそのことが気がかりのようだ。雑草が蔓延(はびこ)るのが許せないようだ。
盛んに雑草の種が飛ばないようにと草をちょん切っているのだ。私は自然派で伸びるなら伸びていい、むしろ生態系を壊すから「やめろ」と言うのだが、一向に気にしない。使命感を感じているようだ。そんな同伴者が、散歩も最終地点に差し掛かったところで、写真のシービービーをまた見つけて草笛を吹いてくれた。
実は二、三日前に同伴者がシービービーを採って、試みに草笛を吹いてみたのだ。その時私はその所作を知らず、耳の側で何やら聴き慣れない音が聞こえて来たので、てっきり補聴器が壊れたのだと思った。が、そうでなく、同伴者が私を驚かせようと私の耳元で草笛を吹いたのであった。そう言えば、その時すれ違った、乳母車に赤ちゃんを乗せた若いお母さんが、何か顔を輝かせて私たちの方を見ていた。老夫婦が「シービービー」と草笛を吹いて楽しんでいる、微笑ましいと思ったのだろう。
その時、同伴者は実に何十年ぶりだと喜んで言った。私にとっても幼い時に女の子たちが楽しそうに草笛を吹くのだが、自分では出来ないので、それっきりだった代物であったので童心に帰って嬉しくなった。
だから同伴者に今日も草笛を所望したのだ。ところで、すぐそばには未だ田植えをしていない田が広がっていた。その田んぼにどれだけの蛙がいるのだろう。それこそシービービーの草笛の音、何のその、特有の啼き声を聞かせてくれた。今夜にでも雨が降るのだろうか。
家に帰ってこの記事を書くうちに二枚の写真を見せ、同伴者に写真はどちらが良いか尋ねたら、完全に意見が分かれた。最初の冒頭の写真が私の載せたい写真。下を良いと言うのが同伴者の考えだ。読者はどちらがいいと思われるだろうか?
さて、私がこの記事を書く気になったのは、二千年前のイエス様と弟子たちの牧歌的な記事が念頭にあった。そのくだりを以下に写しておく。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。(新約聖書 マタイ11章28節〜12章1節)
2025年5月8日木曜日
ゴールデン・ウィーク(下)
「ゴールデン・ウィーク」とはサラリーマンにとっては、大変な息抜きの期間であろう。それがあればこそ、日常の精魂尽き果てる仕事も耐えられるというものだ。そこへ行くと、年金生活者は毎日が日曜日だから、一年365日、身の回りのちょっとした風景にも魂が癒される瞬間を味わう恵まれた身分であり、現役の皆さんには申し訳ない思いがする。しかし、そうとも言い切れない。いかなる形を取ろうとも後述するように、ゴールデン・ウイークは魂の真の安息があって初めて味わえる境涯ではなかろうか?と思うからである。
さて、木内昇さんは『北越雪譜』を基礎資料とし、30近い文献をもとに『雪夢往来』(※1)という小説を書き上げられた。最初この本の題名は漠として意味が通じなかったが、二度読みだけでなく、じっくり考えてみると、良く考えられた作品名だと思う。第一、「往来」という言葉に万感の思いが込められている気がする。それは北方丈雪の越後の人である鈴木牧之が東南寸雪の暖地の人々と「往来」することによって、自らの経験を、すなわち「雪国」の生活を伝えたいという「夢」が如何にして実現したのかを丁寧に追っている作品だからである。
そもそもこの夢は江戸へ縮の行商に行ったことが端になっている。その辺の事情が次のように鈴木牧之の本名である「儀三治(ぎぞうじ)」(※2)として作中で語られている。
江戸とは絶えず繋がっておらねばならぬーーそれが、二十歳を過ぎた頃から儀三治にまとわりついて離れずにいる思量なのだった。縮は江戸にも卸すゆえ往き来を絶やさぬよう目配りをしておきたいという商売上の理由もあったが、かつて行商で江戸を訪れた折、人々が越後国についてあまりに無知であったことに落胆してからというもの、己の故郷をあまねく知らしめられぬかと、そんな希求が湧いて鎮まらぬのだ。雪深いこの塩沢を特段誇りに思うわけでもなかったが、始終空っ風が吹いて、少し表を歩くだけで髷から着物の中まで砂まみれになるあの江戸に住む者たちから、「越後・・・・ああ、山越えて裏っ側にある国だろう」と軽んじられるのもまた癪だった(※3)。(『雪夢往来』17頁)
商いの傍、書画に打ち込む儀三治については
話がまとまらぬまま会は夜半にお開きとなり、儀三治はひとり、自室に据えた文机に向かう。家中はとうに寝静まっている。燭台の小さな灯りを机脇に置き、誰にも邪魔されず書や絵を描く刻を、彼はなにより愛おしんでいた。不思議なことに、そうしていると本来の己に立ち戻れるようで、気持ちは凪いでいくのに総身の血道が躍るような昂揚を覚えるのである。(同書14頁)
著者木内昇さんが描く小説の出だし部分のほんの一端を写してみたのだが、抑制された文章はこのあと394頁ばかり続く。そして「本来の己」に立ち戻るための書画が、鈴木儀三治(鈴木牧之)の『北越雪譜』であったことが証されていく。寛政年間から天保年間に至る中央文壇の戯作者のそれぞれの生き方が、鈴木牧之の悲願と言ってもいい、『北越雪譜』の板行に至るまでのおよそ40年近い歳月の流れの中で語られて行く。
山東京伝(1761〜1816)、滝沢馬琴(1767〜1848)(※4)、十返舎一九(1765〜1831)など、この錚々たる中央の戯作者の伝(つて)を頼りに、版本刷りを手掛けてくれる版元の引き受けで『北越雪譜』は天保12年(1841年)にやっと陽の目を見る。しかもそのことが可能になったのは、山東京伝の弟である山東京山の助けがあってのことである。
本小説の最終頁(394頁)で、鈴木牧之が身罷(みまか)ったのちも安政5年90歳になるまで生を存えた山東京山(相四郎)の臨終の場面を作者は設定し、次のように語っている。
「わしは戯作に出会って、幸せだったのかのう?」
誰に言うでもなく、闇に向かって独りごちる。その様を見詰めていた猫は、相四郎に添うように床の上に横になると、やがて甘えた鳴き声をあげてから目を閉じた。猫に誘われたわけでもなかろうが、ひどい眠気が襲ってくる。相四郎は、ようやっとすべての枷が解かれた軽い身体で、深い眠りへと落ちていく。
これぞ、まさに「ゴールデン・ウィーク」の落とし所かも知れぬ。相四郎の眠りがそれを象徴するように思う。作家稼業は決して楽ではない。しかし「己」を取り戻すための作業であるとしたら、200年前の苦渋を極めた先人たちの歩みも間近に思えるのでなかろうか。著者がこの小説はあくまでも「フィクション」ですと帯で断っておられるように絶えざる問いかけがこの作品の良さであるように思う。「蔦重」がテレビ大河ドラマで話題になっているのを知っている。その蔦重は戯作者の思いが世間に伝えられるように道備えをする大切な役割を果たすこともこの作品を通して考えさせられた。
※1 『雪夢往来』の表紙絵は鈴木牧之の描ける「塚山嶺雪吹図」である。『北越雪譜』に示されている鈴木牧之の文意もさることながら、絵筆の巧みさを思わずにはいられない。その辺を『雪夢往来』はすでに表紙絵で表している。
※2 儀三治は俳句を嗜み、句会を催していた。父恒右衛門の俳号が「牧水」でそれを継いで「牧之(ぼくし)」と名乗っていた。
※3 関西人である私が初めて栃木県の足利に降り立った際に経験したのもこの空っ風と砂まみれになる生活であった。これは大いなるカルチャーショックで湿気のある温和な風土である近江の地を懐かしんだものである。儀三治さんの話される雪国の生活とは『北越雪譜』を知るまではついぞ知りえなかった。それこそ川端康成の創作『雪国』の都会人が見た雪国の姿でしかなかった。
※4 滝沢馬琴については山東京伝に比して、どちらかというと悪し様に描かれているように見えるが、同書326頁に渡辺崋山が馬琴の長男の宗伯が亡くなった時、弔問に訪れたことが書いてあった。にわかに、この小説が身近になった。私がその足利で下宿させていただいた『巌崋園(がんかえん)』はその崋山が逗留したお家であったからである。もっともその史実を確かめたわけではないが・・・
最後に昨日の伝道者の書の続きの部分を聖句として紹介しておく。
知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。わが子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(旧約聖書 伝道者の書12章11〜13節)
2025年5月7日水曜日
ゴールデン・ウィーク(上)
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草むらの ムラサキツメクサ 優雅に |
その本とは『雪夢往来』(木内昇著新潮社)である。2月初めにこの本のことが東京新聞に出ていた。早速図書館にリクエスト。ところがすでに私の前に六人ほどのリクエスト者がいて、私のところには当分回って来ないことがわかった。私だけでなく、「木内昇」ファンがいるのだと改めて思わされた。それから4月下旬になってやっと私の番が回ってきた。待望の本だが、今や興味は薄れていたので、すぐ読まずに放置してしまった。
2月当時北陸・東北・北海道など大変な豪雪だった。その時、私は『北越雪譜』を思わずにいられなかった(https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/search?q=%E5%8C%97%E8%B6%8A%E9%9B%AA%E8%AD%9C )。そのような折、東京新聞の「推し時代小説」の案内文に接した。私の好きな作家である木内昇さんが、『北越雪譜』の著者である鈴木牧之(すずき・ぼくし)について書いているということだった。だから是非読みたかった。
ところが、その冬も過ぎ、春の陽気とともに、いつの間にか興味が薄れてしまっていた。だから二週間の貸与期間も、他の私自身が3/16以来日夜取り組んでいる本(『聖パウロの生涯とその書翰』デーヴィッド・スミス著日高善一訳)の存在があり、打っちゃっておいた。ところが返済期限が間近に迫るにつれ、読まずに返すのも癪だという思いが沸々と湧いてきた。最後4日間がちょうどゴールデンウィークとぶつかったという訳だ。
しかも『雪夢往来』というこの本は結局、二度読みする羽目に陥った。人々が物価高の今日、様々な工夫をしながら、ゴールデン・ウィークを外に出かけて行く姿をTVを通して横目で見ながら、木内昇さんの筆にしたがってほぼ200年ほど前の鈴木牧之(1770〜1842)の越後での生き様を辿ることになった。あとで気づいたのだが、ほぼ一年前も木内昇さんの『かたばみ』という小説を読んでいた(https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/06/blog-post_14.html)。
伝道者は知恵ある者であったが、そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探究し、多くの箴言をまとめた。伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した。(旧約聖書 伝道者の書12章9〜10節)
2025年4月30日水曜日
『沢ぐるみ』という発語
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沢ぐるみ 春の勢い 川に満つ |
昨日も散歩のおり、しつこくこの木の名前をどうして知ったのか、聞いてみたが、あまり覚えていないらしい。しかし、「ひょっとして『さわ胡桃』でなく『鬼胡桃』かも知れない」とも言った。図鑑で調べてみると、どうも『鬼胡桃』が正解のようだ。
義父は大正6(1917)年生まれの師範出身の教師だった。実地体験よろしく、子どもたちに教えたのだろう。その親子関係が羨ましくなる。私の父は明治44(1911)年生まれで師範は落ちたが、教員養成所上りの教師だった。義父は旧制中学、父は農学校を経由しての教師生活であった。義父は教師一本で晩年は郷土史に集中した。一方、私の父は同時に教練の先生として配属将校でもあった。戦後教師を辞め、食糧事務所に勤め、検査官として定年まで勤め上げた。
父は戦争未亡人となった母が嫁いだ家に養子として入った。お家断絶の恐れを抱いていた母は凛々しい軍服姿の父を信頼しての再婚だったのだろう。一粒種の私は昭和18(1943)年に生まれた。父は後年私に一度も「戦争」の話はしなかった。ただ小学校低学年の時に、私の目の前で見せられたのはちゃぶ台をひっくり返しての夫婦喧嘩であった。その原因がどこにあったのかわからないが、大体において私の子育てをめぐっての意見の違いがあったようだ。しかし不如意な戦中、戦後の生活がもたらした互いの生活上の苦しみ悩みがあったのではないかと想像している。
私が妻の「さわぐるみ」発語で羨ましく思うのは、父からそのように教わる機会を持たなかったことにある。残念ながら、家族三人で撮った写真は一枚もない。父はカメラ愛好家でドイツ製のカメラ「ライカ」を持っていたと聞いている。それなのになぜ?とも思う。詳しいことは語れないが、そこにはやはり戦争というものがもたらした傷跡がある。
父は昭和56(1981)年痴呆症を患って、69歳で亡くなった。その父の無念を思うと一人息子として父を心から尊敬し愛さなかった己が無知を申し訳なく思う。できれば、母と一緒に伊吹山の麓で育った父の豊かな農学校上がりの知恵でもって、山々や野花の詳しい手解きを受けながら「さわぐるみ」の名前も覚えたかったと思う。
しかし、今は妻の案内で豊かな植物の花々や自然界の春の息吹を味わうことができるのは望外の喜びである。その上、妻と私の結びつきは、義父が教師として歩む中で、私でなく、私のいとこが二人も義父に教わった偶然性から発展したことにあり、より一層義父の存在が私には眩しく見える。また我が父もそれに劣らない含蓄の持ち主であったことを今は思いたい。6歳違いの父と義父の年齢差は戦争に対する加担の思いは自ずと違うことだろう。義父の最初の子である昭和20(1945)年生まれの我が妻の名前はそれこそ平和への希求そのものである「和子」であることに改めて思い至る。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(新約聖書 マタイ5章9節)
2025年4月26日土曜日
斯くて「この日」は去れり
これはまた何と素晴らしい花であろうことよ。昨日、病院の玄関先で家内が指し示した花だ。調べてみると「ヒトツバタゴ」とあり、モクセイ科とあった。改めて今朝写真を取り出して眺めてみた。今日の日にふさわしいと思った。
毎朝、食事のたびに私は「今日は何日、何曜日」と言うことにしている。そして『日々の光』という聖書のみことばを朗読し、お祈りする。今日はその言で行くと「4月26日」である。そう言った途端、家内が「26日?結婚記念日じゃない!」と言った。
ここ数年家内の方からこの日に気づくことが少なくなっていた。ところが今朝はなぜかこのような会話になった。感謝なことだ。改めてこの花を見つめてみると、純白のウエディングドレスに身を包んでいた家内を思い出す。よくぞ55年の結婚生活に耐えて今日にまで至ったか感謝に堪えない。
昨日は主にある友から『山路こえて』と題する歌集を贈っていただいた。千数百首から構成されていた。その歌を家内に読み聞かせた。四季折々の花々が巧みに詠み込まれている。その友とは10年近く親交があった。様々な事情があり、ここ数年交わりを閉ざしてしまった。
そんな私に友は屈せず便りを寄越してくださっていた。この数日その友に一言私の気持ちをお伝えしたいと思っていた。以心伝心と言うべきか、昨日この400頁近い歌集が送られて来た。急いで読み出した。そのうちに、読み方が分からず、声に出して読まずにおれなくなった。不思議なことに声に出して読んでみるとリズミカルに文意をとらえることができた。何より友の肉声に接する思いがした。
さらに驚いたのは家内が作者が詠み込んでおられる様々な花々に大変な関心を示して耳を傾けたことだった。いや、花に疎い私の方で家内にそれぞれの花の名前を挙げ、説明してもらう、そして再び歌に戻り、さらにその歌をしみじみと味わう余徳に預かることができた。
まだ全部読んだわけでないので、その作歌の感想を述べられないが、折角だから、この日の記念に二、三彼の歌を紹介する。
卯月の晦日(つごもり)にして奥美濃は青葉に絡む藤の花房
竹叢(たかむら)の葉陰に咲ける山吹の花ひそやかに季(とき)は移らふ
「行く春の」芭蕉の句など思ひつつ美濃の山路を過ぎ行きにけり
最後の歌は端なくも、前回の我がブログにそっと書き加えた芭蕉の句が引用の形で詠まれていた。不思議なことだ。
一方、ここ2、3年お会いすることのなかった家内の50年来の親しい方が久しぶりに訪ねて来られた。85歳になられると言う。その方との屈託のない会話に終始している家内の自然な姿に接し、友の作歌を私の朗読に合わせてともに味わった姿と重ね合わせ、静かな喜びを味わうことができた。
最後に今朝の『日々の光』の冒頭にあった聖句を紹介しておこう。これこそ主が気づかせてくださった、主が仲立ちとなって私たち夫婦を常に導いてくださる大きな愛の表出だ!
あの方(=主イエス・キリストのこと)の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださる。(旧約聖書 雅歌2章6節)
2025年4月24日木曜日
下戸の春
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花の香に 酔って候 下戸の春 |
今から考えてみると、家から近江電車で彦根まで行き、彦根から京都まで東海道線で行くだけでも大変だったと思う。当時は電車じゃなく汽車であった。特に大津から山科に入るまでの逢坂山トンネル、山科から京都に入るまでのトンネルは、煙除けのため、夏の暑い最中など窓の開け閉めで苦労した覚えがある。京都に着いたは着いたで、市電に乗り換えて、最寄りの駅『熊野神社』まで出かけた。
だから、この持病の所為(せい)で田舎者だが、市電の河原町線、東山線の車窓から見える神社仏閣をはじめとする京都の風物には馴染まされた。大学卒業前に再び大学病院で鼻の手術をした。それ以来それほど気にしなくなった。ところが、10年ほど前から『後鼻漏』に悩まされるようになった。お医者さんによると加齢に伴う『血管性鼻炎』だと言われる。
長々と「鼻」につきあっていただいたが、そんな私は意外と敏感な「鼻」の持ち主でないかと思った。今日の写真、俳句がその証拠である。いつも通り、自転車で古利根川に向かったが、道路脇に植っているツツジが発する「芳香」を胸一杯(鼻いっぱい?)感ずることができたからである。
古利根川に着いたは着いたで、桜並木の袂に写真のようにツツジが街路樹よりさらに伸び伸びと花を咲かせていた。桜が散ってすっかり人通りの絶えたかに見える川縁だが、ゴールデンウイークを間近に控え、ゆっくりと落ち着いた春を過ごしたい。
「行く春を 近江の人と 惜しみける」(芭蕉)
主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、野のすべての獣に飲ませられます。野ろばも渇きをいやします。そのかたわらには空の鳥が住み、枝の間でさえずっています。主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。人が地から食物を得るために。また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。油によるよりも顔をつややかにするために。また、人の心をささえる食物をも。主の木々は満ち足りでいます。(旧約聖書 詩篇104篇10〜12、14〜16節)
2025年4月23日水曜日
二三人我が名により集まる所、我も在り
毎週月曜日は長男と私たち夫婦とで祈り会を持っている。もちろん長男は現役の働き人である。様々な用事がある中で、時間を工面するのは中々大変だと思う。案の定、今週は会社の会食があり、昨日22日(火曜日)に延期してくれと、21日(月曜日)に連絡があった。
ところが昨日九時過ぎに待機していたが、電話はかかって来なかった。多分疲れて眠ってしまったのだろうと思っていた。ところが二、三十分経って携帯でなく、家の電話にかけてきた。どうしたのだと聞くと、いつも通り携帯に電話するが通じなかったのだと言う。
このような携帯電話を通して三人で祈り会を持つのはいつからか覚えていないが、10年くらいは続いているのじゃないだろうか。その中で通じないという経験は今回初めてだった。原因は私のiphone設定にあることがわかった。
普段、子どもたちから、5年前に『金婚記念』にといただいたApple Watchに励まされて散歩を欠かさず行っているが、1日の終わりにはその充電量が残り10%を切り、毎日困っていた。それを改善すべく操作をしたが、その際、外部からかかって来る電話が繋がらないようにしてしまった(ようだ)。『集中モード』と言うシステムだ。
結局昨日はこのためあたふたとし、祈り会は行なえなかった。予定通りであれば、昨日は『ローマ人への手紙』2章の輪読と互いの祈りで終わるはずだった。何となく、泡の抜けたビールのような感じがしないでもなかったが、そのまま二人とも休んだ(普段、ビールは全然飲まないので、この表現は間違っているかもしれないが・・・)。
さて、2000年前のキリスト者の書翰を通しての交わりについて、今せっせとパソコンに打ち込むという書写に勤しんでいる。『聖パウロの生涯とその書翰』がその本の題名だが、その本に次のような記載があった。以下にコピペする。
2025年4月21日月曜日
懐旧談(1960年前後の高校時代)
今朝は新聞休刊日だった。こんな時、私の唯一の頼りはTBSの『森本毅郎スタンバイ!』である。八時台の話題では、名だたる「短大」が次々姿を消し、短大生の数が現在は最盛期の六分の1程度に減って来ていることを扱っていた。一昔前の時勢と今日では人々の価値観も変わって来たことを感じないわけには行かなかった。
そのことがきっかけで、久しぶりに家内と高校時代の話をした。私たちは三学年違うが、同じ高校なのでお互いに共通の教師を知っている。しかも大抵、教師のあだ名で話が通ずるのだ。そんな私にとって、高校時代はまさに『春爛漫』の時代だった。
元々、その高校には、中学2年生の時の担任は、進学は無理だと宣った。保護者懇談会を終えて帰ってきた母はその担任の言にぷりぷり怒って帰って来た。母としては息子の学力がそのような判定をいただいたことが不満だったのだろう。それは私に対するぼやきでもあった。
そんな私がその高校に進学できたのだから、それだけでももって名誉とすべきだろう。だから、英語の時間、私の前の席に座っていた同級生は同じ姓なのだが、隣町から通って来た人だったが、恐ろしくその英語の発音が流暢で滑らかであった。私は嫌が上にもとんでもないところに迷い込んできたものだわいと思った。しかし、中間テストの折り、成績発表があったら、何と私がその人より好成績で、しかもクラスでトップだった記憶がある。
それは英語だけに留まらず、化学でも好成績であり、苦手の数学も高評価をいただいた。途端に自信を持ち、あくなき好奇心に任せ、様々な本を読んでいった。高校の図書館だけで満足せず、市立の図書館、町の公会所などの図書など手当たり次第手にした。その頃ポーリングというアメリカ人だと思うが、ノーベル化学賞を受賞したと記憶するが、その彼の化学書があった。湯川秀樹の『理論物理学講話』という本も見つけた。
高校は『東高』でなく『短付(たんぷ)』がふさわしいと中学の担任が宣ったにしてはエライ飛躍ぶりであった。とうとう一年の担任から、私の大学進学の相談のおり、彼の口から、京大理学部は、現役では無理だが、まあ、一年浪人すれば受かるだろうと、望外のお墨付きをいただいた。
その教師の口調、態度を思い浮かべながら、この話をしたら、それ『コロンブス』でしょう、と家内は言った。私は、目を剥き出すようにして喋るその先生の姿を思い出しながら、どうしてコロンブスと言うのか、と聞いたら、「だって、顔が似ているもの」と言った。そう言えば、英語リーダーの教師は『暁月の君』だと、結婚してから家内を通して知った。「垢つきの君」と言って、いつも同じワイシャツを着ていらっしゃったからだと言った。さすが女生徒は観察が鋭いと思った。
もう一人の英文法の教師は『てんこち』と在学当時から互いの間で呼び合っていた。口の両側に髭がピンと伸びていて、ヘアースタイルも斬新そのものであった。この先生はユーモアある教師でbuyの過去分詞を言わせ、生徒が答えられないと、「ボーっとしているな!」と喝をつけられた。今から考えると私のレベルにあった授業を各先生から受けたと思う。
藤倉巌先生は『巌(がん)』と言うあだ名で呼ばれ、『徒然草』を読まされたが、その講義はまさに徒然草を通して語られる、人生訓で古文の学びを超えた真実の世界を垣間見させられた思いがした。一方、東大のインド哲学出身だと言われた先生からも英語の授業を受けたが、大変な博識で英語の授業より、三十三間堂の弓矢の射掛け話など余談ばかり聞いていた記憶がする。
こうして中学時代に私に『短付(短大附属工業高校)』を勧めてくださった担任は、『東高』に進んだ私をどのように見ておられたのだろうか。ひょっとして、私に発奮を促す意図があったのかも知れない。そのお灸が功を奏したからこそ、私はこのような『春爛漫』の高校生活を手にしたのだ。一方、高校一年の担任の先生の言にもかかわらず、私は2年浪人をして、しかも当初の希望大学に入れず、その後の『疾風怒濤』の生活を経験する。こちらの方は恐らく担任の先生が私を励ますために言われたに過ぎないのに、私はこの時はそれ以上努力せずとも合格できると高を食ってしまったのだった。人生ってわからないものだ。
なお、中学の担任の先生にはその後、私たちの結婚の際に、仲人をお願いした。その時、母は亡くなっていた。ぷりぷり怒って帰って来た母がそのことを知ったら、どんな表情をしたであろうか。今となっては全て懐かしい思い出である。
主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。(旧約聖書 箴言21:30〜31)