2025年12月30日火曜日

小学校教育の重要さ

写生大会参加 昭和26年(1951年)彦根市護国神社前(※1)
 前回、同郷の誼(よしみ)である妻との会話を話題にしたが、この機会にふとしたことを75年ぶりに思い出した。それは高宮小学校一年生の時の担任の先生が二年生の時持ち上がらず(普通は一年、二年と持ち上がるのが通例であるのに、その先生は何と妻の入学する予定の隣の町の甲良東小学校へと転勤して行ったのだが)、そのために別の先生に変わったことである。その時の漠然とした不安を思い出したのだ。しかし、それが束の間に終わったことも同時に思い出した。いや逆に私はその新たに担任となった先生に二年どころか三年、四年と都合三年間受け持ってもらって、今にして思うが、終生の私の恩師となった。その先生とは森千恵子先生であった。

 母は一人息子の私を何とか一人前の人間として養育したいと考えていたのだろう。情操教育の一つとして絵画を選び習わせた(母は音楽がからきし駄目だったので、絵なら自分も何とか相手できるのでないかと考えて)。小学校に入る直前だと思うが、絵の先生のもとへ習いにやらせた。そこで初めて与えられた題材は高宮神社の境内の「森」を描くことであった。目の前に見える森の緑、一面緑一色の森、土や樹木の茶色を前にして私は一瞬どのように表現するか困った、しかしそれ以上に表現する楽しさに埋没していった記憶がある。そして、私が不安を抱いた二年生の担任が何とその森先生であった。

 森先生は私にとって名伯楽であった。二年生から四年生の間、私はこの先生の図工教室に放課後になると入り浸り、クレヨンではあるが、絵を一心不乱、無心に描いた(※2)。当時、郡展、県展とあり、その先、全国規模の絵の展覧会があったが、いずれも突破して入賞した。アンデルセンの童話をもとに、アヒルの絵や近くの牛小屋にいる牛の姿を描いてはそれぞれ入賞し、当時の小学校学年雑誌の後ろにもその作品が載せられたことがある。頂点は四年生の時、森永母の日を記念する展覧会で金賞をいただいたことだ。母が台所で井戸のつるべから水を汲み大根を洗っているシーンを描いた作品である(※3)。この時、その森先生と一緒に作品を送る荷造りを済ませたことは昨日の如くしっかり覚えている。

 この期間、母は教育熱心で、絵だけでなく、当時盛んに奨励されていた、「研究発表」にも私を駆り立てた。柿の種類ごとに異なる生育を調べる研究であった。この研究も県レベルまで行った。それやこれやで昔はその表彰式が全校集会で行われるが、その都度私の名前が呼ばれては褒美をもらうのであり、副賞が素晴らしかった。メダルはもちろんのこと本立てなどがあった。当然、皆に羨ましがられた。「ひいき」「ひいき」と同級生にも言われて、特に口さがない父兄からの声には正直参った。確かにその面があったからである。そのような中で母と森先生はそれぞれ、私を支えてくれた。母は生身の人間として様々な思いを私にぶつけてきたが、森先生はそんな母を上手に相手しながら、私の「人格」を擁護して感情的にならず導いてくださった。後年、母が亡くなり大学受験に失敗した私は、八百屋さんの店頭で、買い物かごをさげ、決して先生には見せたくなかった惨めな自分の姿を曝け出しながら、森先生と小学校卒業以来6、7年ぶりにお会いし、短い会話を交わさせていただいた。この時が先生との生前の最後の別れとなった。

 そのような私も五年六年と担任も森先生から別の先生に代わるだけでなく、私自身がそれまでの喜びをもって無我夢中で描いた絵から、何としても上手に描きたいという思いが高じてきたり、また新たな転校生がやってきて彼の描く宇宙人を思わせる空想画に太刀打ちができなくなった。ちょうどクレヨンから絵の具への転換時期が重なり、私はもはや絵を描かなくなった。辛うじて小学校卒業のおり、教頭先生が書いてくださった色紙の「浩さんは将来絵描きになりますか、それとも科学者になりますか」という命題が残るのみであった。

 私は絵の世界は無理、科学者の世界ならコツコツと努力すれば可能なのではないかと考え、中学、高校と一路その方面に舵を切り変えた。振り返ってみると教頭先生の過分な餞(はなむけ)の言葉はそれ以後の私の人生の指針になった思いがする。

 先ごろ東京新聞朝刊の12月9日の記事に「小学校教員離れが加速」というショッキングなニュースが報じられていた。日本政治の右傾化が急速に進む中、他方で子どもたちの未来の可能性を切り開く先生のなり手がいないというこの矛盾も看過できないと思う。私の五年六年の担任の先生は、お身体が悪かったこともあったのだろう、自由放任のスタイルで教室では生徒に学校放送を聞かせて、自習が多く、よく級長の私に同級生の勉強の様子を見るようにという指図があったことを思い出す。そのような中でも世の風潮は「再軍備反対」「教え子を二度と戦場に送るな」「ああ、原爆ゆるすまじ」と校外の声は自我意識の芽生えとともにその後の私の確かな判断力の指針であった。これは戦後民主主義教育運動の成果であったかもしれない。

※1 写生大会参加のため高宮小学校の派遣チーム(?)四年生から一年生になる混成集団。森先生は画面中央にいる先生。筆者は画面右端の少年。

※2 その図画工作室で私は画板に向かっていたが、疲れると床面に寝っ転がったりして、森先生のところに押しかけては、言い寄ってくる男先生の姿などを、自然に見聞きする中で、大人の心の機微にも触れざるを得なかった。もちろん森先生は無心に描いている少年の心にどのようなことが起こっているかはご存知なかったと思うが・・・。私にとってはその図画工作の部屋は密かな人生の学舎(まなびや)でもあった。

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_23.html
大根を洗うシーンも描いたが難しく、何個かの試作の末、このような絵になった。

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(旧約聖書 箴言22章6節)

2025年12月27日土曜日

窓外の景色を見遣る

山茶花の 満開目指す 寒中
 今朝は猛烈に寒い。それでもまだまだ序の口だろう。朝起きて、窓外のつばき(実は山茶花なのだが、妻は往年の識別力は失っており、こちらも何とも思わなかったが、別の北側に椿の花があり、こちらは今「つぼみ」だ。したがって俳句も変えた12/28追記)を見ながら、妻がつぶやいた。「よおー、咲いとるなあー、こんなに寒いのに」「『つばき』って、木篇に春って書くのね」互いにうなづきあった。妻が漢字を当てはめて、「つばき」を感じていることを知って心の中がほんのりと暖かくなった。

 このところ寒く、昨日などは風が強くとても古利根川にまで足を伸ばせないのだが、先日も妻がその古利根川で、鴨の群れを眺めながら、「よー、いとるわ。さむうないのかしら」と独言(ひとりごち)した。お互いに、同じ方言を使っての会話。何となく共に温泉に入っている心地だ。

 昨日、次男がパリから、その故郷の様子を記したyou tubeを送ってきた。その中に一枚の写真があった(※)。私の小学校一年の時の写真だ。教室をバックに左端に担任の先生が立ち、教室の内外にクラスの子どもたちが、それぞれ思い思いの表情・姿態でカメラマンの方を見て写っていた。昭和25年、75年前の写真だ。田舎の子どもたちの着ている服装にも戦後すぐの生活が色濃く滲み出ている写真だ。その中にもちろん私もいる。窓ガラスに顔を押しつけている。その気質は今の私とそんなに変わらない。

 後年、結婚してびっくりしたことがある。3歳下の妻の小学校一年の担任がまさしく私の一年の時のその担任の先生とまったく同じ先生だったからである。私の町と妻の町は互いに隣接しているが当然、互いの小学校は違う。確か、私が2年になる時、どこかに転勤なさった。転勤先が妻の町であったのだろう。私の町は宿場町で妻の町は完全な郷村である。だから若干言葉が違う(と、思い、私は妻を田舎者〈いなかもん〉扱いすることが多い)。しかし、「よおる」とか「いとる」とか、いずれも「居る」の変形言葉だが、他の地域の人が使う言葉とは明らかに違う方言だ。

 だから、二人で交わす言葉にはお互いにキリスト者である共通点がある上に、生まれが同じという親近感がいつもある。まして今妻は認知症が進行している毎日である。その妻が漢字を引っ張り出して窓外の景色を見遣りながら、田舎言葉で話しかける。75年前、クラスの半分近くが外に出て先生と一緒に並んでいるのに対して、室内に残った者は窓を開け、乗り出したりしているが、一方、顔を窓に押しつけて私のようにみんなの仲間入りをしようとしている者もいる。

 75年前の窓外を見やる私と、今窓外を妻と見やっている私は同じ私である。

※一月前であったろうか、次男が帰国し、私の郷里に入った。偶然市の出張所で出会った方と会話を交わしたようである。その方がパリに「故郷」の様子を描写したものをメールで送ってきてくださった。

主は羊毛のように雪を降らせ、灰のように霜をまかれる。主は氷をパンくずのように投げつける。だれがその寒さに耐ええようか。主が、みことばを送って、これらを溶かし、ご自分の風を吹かせると、水は流れる。(旧約聖書 詩篇147篇16〜18節)

2025年12月25日木曜日

クリスマスとルターの子どもたち(下)

つましいクリスマスの備え(※)
 突然、ハンスは、「あっ、見てごらん」と大声を出しました。木の間を動いている一つの影を見たのでした。「おとうさんだわ!」。レナは窓の所から飛び降りながら叫びました。そして壁に掛かっていたオーバーを取るなり、大きなとびらを思い切りあけて、おとうさんを迎えるために寒い戸外の、雪かきされた道に走り出しました。

 「まあ、おとうさん、よかったわ。手伝っていただきたいのよ」。おとうさんに抱き締められながら、レナは言いました。「どうしたんだね。何かぐあいの悪いことでもあったのか」とマルティン・ルターは尋ねました。彼は大きく、かっぷくのよい人で、あごの張った鋭い目の人でした。「おうちがクリスマスらしく見えないの」とレナは訴えました。「ほかのものはみんなクリスマスだけのものなの。あしたはみんなで教会に行くし、ごちそうもたくさんあるし、贈り物の箱もできているのだけれど、おうちだけがいつもとちっとも違っていないんだよ」と、ハンスも口を添えました。「外は、クリスマスのためにおけしょうしているみたいだね」。幼いマルティンは、星が一つずつ輝きはじめた暗い夜空を見上げました。

 子どもたちの物足りなさそうな顔をながめていたルターの額に、二つの深いしわが寄りました。そして、雪をかぶったもみの木と、またたく星をながめました。すると、急に額のしわが消え、「ハンス、早くおのを持って来なさい」と言ったのです。「はあい」とハンスは返事をしながら、家の方へ去って行きました。レナとマルティンは胸をわくわくさせて、「何をするの?」と尋ねました。「まあ、待て待て。黙って見ていなさい」。ルターは満足そうにひとりで笑いながら、回りの木を一つ一つ見て回りました。

 ハンスがおのを持ってもどって来た時、ルターは、小さいけれどまっすぐに立っている一本のもみの木の前に立っていました。そしておのをじょうずに使って、それを切り倒しました。それから、笑いはしゃいでいる子どもたちを従え、木をかついで家の方へ行きました。戸口で立ち止まり、枝の雪を振り落としながらレナに言いました。「レナ、おかあさんに、ろうそくを何本かもらって来なさい」。

 「はい、おかあさんも、もう起きていらっしゃるでしょう」レナは元気よく廊下を走って台所へ行きました。「おかあさん、おとうさんがおうちをクリスマスのためにきれいにするので、ろうそくをくださいって」。「それはいいことね」。明るい丸顔をしたおかあさんのケートはこう答えると、大きな戸だなをあけて、ろうそくを何本か取り出しました。レナはそれを受け取り、また元気よく居間に走って行きました。

 ルターはすでに、ほかの子どもたちといっしょに、かわいい木をへやのまん中に立たせていました。
「ろうそくを木につけよう」。
「はあい」。
子どもたちは声をそろえて返事をし、ていねいに木の枝にろうそくをつけました。ルターがろうそくに火をつけた時、子どもたちは思わずつばを飲みました。光は木のしっかりした緑の枝の間に、明るく光りました。

 「ああ、おとうさん、きれいだわ。おとうさんの考えは、世界でいちばんすばらしいわ」。レナは手をたたきながら言いました。

 ルターは、愛情をこめてレナをなでながら、「神さまがお造りになった木だね。イエスさまに対するわたしの信仰のように、冬でも生き生きしている木で、クリスマスにおうちを飾るのにいちばんよい木だよ」と言いました。

 「でも、おとうさん、ろうそくはなんのためなの」とレナが尋ねました。
 「それはね、最初のクリスマスの夜の星空と、はかせたちをキリストに導いたあの一つの輝く星を思い出させてくれるものだよ。さあ、おとうさんはね、新しいクリスマスの讃美歌を作ったんだよ。イエスさまのことを思っていっしょに歌ってみよう」。

 ルターは三人の子どもを前にして、彫刻のしてある、自分の大きなひじかけいすにすわりました。そして、一節ずつ、讃美歌を教えたのです。

 いずこの家にも  めでたきおとずれ
 伝うるためとて  天よりくだりぬ
 マリヤのみ子なる 小さきイエスこそ
 み国にこの世に  つきせぬ喜び

 子どもたちが歌っている間、もみの木の枝につけられたろうそくは、明るく燃えて、ルターの家を、いかにもクリスマスにふさわしく見せていました。

(『アルフレッドとベード先生』ドロシィ.C .ハスキン著有賀英子訳30〜34頁から引用)

※もうかれこれ5年以上前になるが、ベック宣教師宅で見かけた造作物。左側のオレンジ色のものはろうそくだろう。こうして、クリスマスはイエス様が我が心の中にいらっしゃるか、確かめ、かつ賛美する日。

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(新約聖書 ルカの福音書2章11節)

2025年12月24日水曜日

クリスマスとルターの子どもたち(上)

ブローニュの森 2006.11.28(※)
 クリスマスの前日、夕方近くのことでした。ルターの子どもの上の三人、ハンス、マグダレナ、マルティンは、ドイツのウイッテンベルクにある家の居間に集まっていました。三人は窓から外を見ながら、おとうさんの帰りを今か今かと待っていたのです。

 それは1538年、マルティン・ルターがカトリック教会と戦った時のことでした。「人は教会に行っていることによって天国に行けるというのではなく、ひとりひとりの心にキリストが生まれなければならない」というのがルターの主張でした。そのために、クリスマスの守り方も前と変わってきました。それぞれの家庭でクリスマスをどう過ごすか決めなければならなかったのです。

 ルターの三人の子どもたちは、貧しい人たちへの贈り物を箱に詰め終わったところでした。ハンスとマルティンは喜んではしゃいでいましたが、レナと呼ばれているマグダレナはゆううつでした。台所からはこうばしいにおいがただよって来ます。ハンスは鼻にしわを寄せながら、「なんてよいにおいなんだろう。きょうがクリスマスだといいんだがなあ」と言いました。「そうだね」。おとうさんと同じ名まえのマルティンはそう言いながら、ふと気がつき、「どうしてそんなにゆううつなの」とおねえさんのレナに尋ねました。

 レナは、鏡のはめ込んである高い壁、彫刻のある天井、あらい板の床を見回して、ため息をつきました。へやはきれいに掃除され、みがきたてられていたのですが、いつもと少しも変わっていません。「うちのどこを見ても、あしたがクリスマスだということを表わすものがないから悲しいのよ」とレナは言いました。「そんなことはないよ。あしたはみんなで教会に行くし、おかあさんは特別なごちそうを作っているじゃないか」。ハンスがこう言うと、マルティンも「それから、おとうさんはこの贈り物の箱をみんなにくれるよ」と、不服そうに言いました。

 「わたしが言っているのは、そんなことじゃないの。おうちにだれかが尋ねて来たとき、あしたがイエスさまのお誕生日だということを思い出させてあげるものがないということなのよ」。「じゃあ、どうすればよいかおかあさんに聞いてみよう」。そう言いながらハンスは立ち上がり、奥のへやの方へ歩き出しました。「でも、おかあさんは今、やすんでいらっしゃるから、心配かけては悪いわ」。レナは、一日じゅう忙しく働いていたおかあさんのことを考えて言いました。

 「おとうさんが帰って来れば、何か名案があるかもしれない」とマルティンが言いました。「そうだわ。きっと何か考えてくださるわ」。これを聞いたレナはうれしそうでした。おとうさんはなんでもできることをレナは思い出したのです!そして高い窓にのぼって、外をのぞいてみました。沈んで行く太陽の最後の光が、真っ白に雪でおおわれた庭にさし込んできました。家の回りには、これまた枝の一つ一つに雪を積もらせたもみの木が並んでいます。救い主をお迎えするために特別に整えられたような美しいきよい世界でした。

 まもなく、おとうさんが、雪に深い足跡を残しながら、木の間の小道を帰って来ました。おとうさんなら、クリスマスを完全なものにするのに、どうすればよいか知っていらっしゃる、とレナは確信していました。

 レナはおとうさんが大好きでした。そして、おとうさんが偉い人だということも知っていました。おとうさんは、だれでも読めるように、聖書をドイツ語に訳し、また、よい生活を送って天国に行くにはイエスさまを信じなければいけないと教えた人です。

 「ぼくは、一年じゅうで、クリスマスがいちばんいいと思うなあ」とハンスが言いました。「そうね。クリスマスは、神さまがわたしたちのためにしてくださるすばらしいことのいちばん初めだって、おとうさんがおっしゃったわ」。レナは相づちを打ちました。そして、最初のクリスマスについて、おとうさんのしてくれた楽しいお話を思い浮かべて目を輝かせました。弟たちもまじめそうにうなずきました。彼らもその話を聞いていたのです。

(『アルフレッドとベード先生』ドロシィ.C .ハスキン著有賀英子訳26〜30頁から引用)

※前々回から掲載した二枚の写真と今日の写真は同じところで撮ったものだが、二十年前のものでうろ覚えでリュクサンブール公園としたが、どうも「ブローニュの森」が正解のようだ。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(新約聖書 ヨハネの福音書3章3節)

2025年12月23日火曜日

一大ハプニングとその顛末

リュクサンブール公園で 2006.11.28※1
  12月になって最初の土曜日に、近江八幡からわざわざ東京まで同期会に出席するために上京した方と偶然ホテルに同時に着いたことはすでに”2025年の「東京36会」(上)”で触れておいた。その時、私は自分自身がすでに次週には近江八幡のキリスト集会の礼拝に出席すると決めていたので、その同期生の方には「来週、私は(逆に)近江八幡に行くんですよ」と言ったが、果たして、その方がどの程度心に留められたか。

 私の場合、その近江八幡に行くには、毎回郷里の彦根市高宮町の家に泊まってから翌日出かけることにしている。そのためには、先ず東京まで出て、そこから新幹線で米原に行き、あとは在来線で行くのが常である。ところで、不思議なことに、その一週間前には私の家から新橋に行くには電車所要時間が一時間とキリのいい時間であったが、今度、東京へ行く時間を調べたら、何と最寄駅を9:17分に出れば、10:17分に東京に着ける、これまた一時間きっちりなのだ。幸先良い前触れだと思わずにはいられなかった。

 ところが豈(あに)図(はか)らんや、前日の金曜日に、翌日の近江八幡行きを断念せざるを得ないと覚悟した一大ハプニングが起こってしまった。妻が午後4時ごろ近くのお店に自転車で買い物に出たが、中々帰って来なかった。道がわからなくなって帰るに帰れなくなったのだ。やむを得ず、警察に電話して大変お世話になり、最後は妻が午後7時ごろ道中のとある営業所に入り、道に迷ったことを告げ、自分の住所と電話番号を知らせた。そのことをきっかけにして一挙に居場所がわかり、警察の車で急行し妻と再会できた。

 当日日没が何時だったか、4時半ごろだと思う。暗い夜道で、元々方向音痴の妻に取り、大変だったに違いない。短期記憶ができない妻にとって瞬間瞬間の判断力だけが頼りだった。都合三時間あまり、どこをどう自転車を走らせたのか、その距離は直線距離にしておよそ12キロメートルの西方へと自転車を走らせてしまったが、今となってはわからない。とにかく無事だったのでホッと胸を撫で下ろし、翌日の近江八幡行きも妻を同道させて実行できた。

 その後徐々にわかってきたことは、妻がペダルを一足一足踏むごとに、「イエス様、助けてください!」と祈りながらの自転車走行であったということだった。当時、私は気も動転するばかりで、祈るどころか、(妻は携帯電話を所持していなかったため)唯一の手掛かりとなった財布内に忍ばせてあった「紛失物防止タッグ」(※2)のGPSが刻々と知らせてくれる、その情報を恨めしげに眺めては、止まらず走り続ける妻をどうすることもできず、地団駄を踏むばかりであった。

 妻が認知症を患っているため、ここ一、二年健康時に妥当することは一切通じなくなった。でも段々その行動に慣れてきた。認知症は徐々に進行するが治らない病気だと言うのが今日の常識のようだ(※3)。いかにそれを受け入れて周りの者が接するのかが大切であると自分に言い聞かせている。

 今回の騒動を通して慰められたのは、先ず、春日部から浦和方面に向かって三時間あまりの彷徨の中で、交通事故に会うことがなかったこと。次に当時、一切の記憶がない妻だったが、二、三日するうちに少しずつ自分の行動を語り出したことである。浦和方面に行くには、元荒川を越え、関越高速道路の下を潜らなければならないが、「高速道路の下をくぐった、まわりは田んぼだらけだった」と語ることができたこと。最後に長女から電話で「お母さん、不安でなかった?」と聞かれて、「イエス様、助けてください!」と祈り続けたと答えたことである。

 この最後のことばほど私にとって最大の慰めになったことばはない。そしてその背後に家族全員の取りなしの祈りがあったことも後に知る。私は小心者である。心配事は万と抱え込む。これからもどんな目に遭うかもしれない。しかし、下記のみことばはいつまでも忘れられない。これが一大ハプニングの顛末である。

※1 前回のイチョウの枯葉をリュクサンブール公園と記したが、本当はどこかわからない。念のためパリ在住の次男に問うたが、「枯葉」だけではわからない(笑)と返事を寄越した。今日のこの写真はとりあえずリュクサンブール公園としたが、「枯葉」と同じ公園である。その公園をサイクリングで颯爽と走っている人がいるのが印象的だった。ほぼ二十年前のフランス・パリで見聞きしたことだ。その方の肩越しに元気だった妻が少し顔を覗かせているのも面白い。

※2 何週間か前に三男が購入して妻に持たせておいたもの

※3 妻がお世話になっている先生の本に『認知症そのままでいい』(上田諭著ちくま新書2021年刊行)がある。同じく『「認知症」九人の名医』(東田勉著ブックマン社2024年刊行)という本には上田先生も九人の一人として紹介されている。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(新約聖書 1ペテロ5章7節)

2025年12月9日火曜日

2025年の「東京36会」(下)

パリ市内のリュクサンブール公園で 2006年11月28日
  現在、東京36会に登録されている同期生は合計で34名である。先週の土曜日に集まったのは16名だから、出席率は50%をすでに切り、47%である。年々この数字は低下していく一方であろう。今回も2名の方が亡くなられ、欠席の方々はいずれも体の不調や連れ合いの病気などで出席できない方々ばかりであった。

 私自身も妻が認知症を患い、外出にも気を配らねばならない日々を送っている。しかし、そのような試みのうちにも、主なる神様のことばである聖書を毎日、妻と輪読しては大いに慰めと励ましと将来への希望に満たされている。私自身、27歳に至るまでは、無神論者で「信仰」というものをもっとも忌諱していた張本人である。いや27歳と言わず、この数ヵ月前まで「信仰」に正しい位置を与えていなかった。

 その考えに大いなる訂正を求められたのが今回同期会の方々のどなたかにお渡ししたいと思い制作したこのブログの記事より構成した以下の四編だった。
 1 キリスト教とその疑問(私の宗教迷論)※1
 2 東京36会 ※2
 3 この日は我が自戒の日なり ※3
 4 救いの道 ※4
この1はかつての出身高校の新聞に当時高校2年生であった滝本さんが投稿された記事をそのまま抜粋して写させていただいたものである。滝本さんがその後どのように人生を送られたかは公の記事以外は知る由もないが、ここまで真剣にキリスト教を考えておられることに大変感嘆している。

それに対して、2、3は詰まらない私の雑文を載せたものであるが、最後の4「救いの道」こそ今回私が同期生の方々に是非読んでいただきたいと思い、編集した文章である。

 先に「信仰」に正しい位置を与えていなかったという私の述懐は偽らぬ私の気持ちである。形の上では信仰生活55年にわたる生活を送っていたにもかかわらずである。何も信仰生活に時間がかかると言おうとしているのでない。素直な幼児の心さえあればいつでも「信仰」は持てる。そのことを是非同期生の方々に味わっていただきたいと、今回長編になるが、この「救いの道」を加えさせていただいた。

 同期会は午後3時前には解散した。次回は40回目で早々と幹事の方も決まった。新幹事は浩君ともう一人の方に決まったが、この方は常連の方だが、まだ一度も個人的にお話ししたことはない。しかし互いに奇縁(血縁、地縁)がある。来年、互いに健康であれば、67年目にして交わりが許されることであろう。

 小冊子5冊は浩君と私の右隣に座られた方と、前々からその救いを祈っている方お二人と、新たにかつて同期会で「道中記」を紹介してくださった方にお渡しすることができた。

※1 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/05/blog-post_28.html
なお、文中に登場するマッソン宣教師は私よりも早く信仰を持った高校の同級生の方が公私ともにお世話になった方であった。

※2 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/12/blog-post_9.html

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/11/blog-post_30.html

※4 この文章は8回シリーズで長編だが、第一回目が、2013年の2月19日で、その後3月15日から3月21日まで合計7回連続して載せている。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/02/blog-post_19.html

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/03/blog-post_4889.html 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネの福音書3章16節)

2025年12月8日月曜日

2025年の「東京36会」(中)

オランジェリー美術館を前にして 2006.11.24
 果たせるかな、小冊子をとおして私は福音を届けることができるのであろうかと不安があった。けれども、私にとっては出発間際まで時間ギリギリいっぱい掛けて仕上げた作品であった。どなたにお渡しができるか、当てがあるわけではないが、取り敢えず五部だけ持参した。

 会場に着いたのは開始時刻の11時半少し前だった。ホテルに私が入るとほぼ同時に、駆け込むようにして入って来られた方がいた。田舎者の私にとってホッとした瞬間であった。と同時に彼女が近江八幡から来たことに思い至った。聞いてみると近江八幡を8時に出たということであった。彼女は何かと世話をしてくれている「東京36会」の常連である。

 高校時代、一度も一緒のクラスになったことはなかったが、数少ない女生徒として、通学途中に見かけることのできたスタイルの良い颯爽とした姿はいつも眩(まぶ)しい存在であった(※1)。会場入り口にはすでに幹事のお二人が案内がてら会費の徴収をしてくださっていた。結局、当日の参加者は16名(男性14名、女性2名)であった。

 いつもの立食スタイルとちがい、フランス料理のフルコースであり、私にとっては落ち着いて互いに歓談する絶好の機会となった。私の前には、一年、三年と同じクラスであり、名前が同じ「浩」君が座り、じっくりと話ができた。名前の由来を尋ねると、「浩然の気を養う」からだと言う。まったく我が両親が名づけた理由と同じだった。会社経営をなさっている浩君は高校時代そのままで若さいっぱいの好青年の趣を今になっても残している嬉しい存在である。彼が「趣味は何か」と問うので、「聖書、神のことばを毎日食べている、そればっかり」と申し上げた。全員の挨拶の中で、彼は何と「向上心を持ち続けたい」と言った。彼がいつまでも健康であれと願わずにはいられなかった。

 一方、私の右横の席に着かれた方からはズバリ「君はキリスト教徒と聞いているが、何派なのか」と直裁に聞いて来られた。私は、何派も、クソもない、イエス・キリストがすべてで信仰者にとってはそういうことは問題ではないと言おうとしたが、中々うまく説明はできなかった。ただ小冊子として作成した「キリスト教とその疑問」(※2)という表題の作品はその方の質問に答えるのにはうってつけだと思ったので、ああ、主なる神様はこのようにして、私の「東京36会」への出席を導いてくださっているのだと思わざるを得なかった。その方とはさらに共通の知人との話で盛り上がった(※3)。

 終わり頃になって、左横に座っている方が、一年の時、同じクラスであったことを朧(おぼろ)げながら思い出した。高校一年の時にも話したことはなかったが、66年目にしてお互いに話を交わすことができた。そのことだけでも齢80歳をとうに越えてしまった今、もっともっと命を大切にしなければならないと思わされた。

※1 彼女については一度、本ブログで書いたことがあることを思い出した。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/12/blog-post_6.html

※2 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/05/blog-post_28.html

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2020/05/blog-post_5.html 
この文章中に出てくる吉田精一さんのご子息が、私たちが存じ上げている共通の知人であった。もっともご子息とは言っても私どもより一回り上の先人で、人生の先輩にあたる方である。

私たちの齢は70年、健やかであっても80年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。それゆえ、私たちに、自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(旧約聖書 詩篇90篇10、12節)

2025年12月7日日曜日

2025年の「東京36会」(上)

オペラ座(パリ) 2006年11月22日(※1)
  昨日は一年ぶりに、原則として毎年12月の第一土曜日に開催される高校の同期会に出席できた。いったい何人の人が集まるのかわからなかった。年々少なくなっているのだが、前回は21名だった(※2)。その折り、すでに来年は来れないと言う方もおられたので、少ない人数であることは覚悟していた。

 会場は新橋の第一ホテル東京のレストランであった。11時半開始と案内にはあった。二、三日前から落ち着かず、何を着て行くか?から始まって、どのようにして行けば良いのか、昨年の経験は忘却の彼方にあり、面倒だと思い始めた。いっそのこと、電話で出席をキャンセルしようかと弱気になり始めていた。それでもお会いしたい方もおられるしと、気を取り直した。

 電車時刻を調べてみると、私の最寄駅を10:07分に出れば、新橋へは何と11:07分につけることがわかった。ジャスト一時間で行けるとは覚えやすい時刻であった。前日の金曜日になり、「お前は何のために行くのか?」という内なる促しの声が聞こえてきた。もちろん、グッドニュース(福音)を届けたいという思いが強くあっての同期会出席である。神道の言葉を借りて言えば、そのことは、天地神明に誓ってそう言える。問題はそのために何ができるか、というのが大きな課題であった。

 ごく平凡に考えれば、福音に関する小冊子を持参して関心のある方にお渡しできれば、それで良しというのがこれまでのスタイルであった。ところが39回に及ぶ(伝統ある?)同期会にはこれまで5、6回しか出席していない。同期会の常連の出席者からすれば、極めてマイナーな部類に属し、私自身まだまだ良く存じ上げていない間柄の方が多い。

 そうした中で、このブログ(※3)でも書いたことのある、同姓同名の方の奥様から主人が4月に亡くなりました、という喪中のお葉書をいただいた。同君とは高校時代には全然面識がなく、少ない同期会の出席の中で、初めてお会いした間柄であったが、幹事を11年前の2014年に一緒にやらせていただいた。もちろん当時彼にグッドニュースを届けたつもりだ。しかしその後、互いに安否を問おうとはしていなかった。その彼が亡くなったのだ。自分が友の救いのためにどれだけ真剣であったか問われる思いだった。

 考えてみれば、10月には三男の舅さんが75歳で亡くなった。この折もほぞをかむ思いだった。イエス様の救い(罪・咎の死からの救い)を知ってその恵みの中にいるお前は何をしているのか、お前の肉声で「わたし(主イエス・キリスト)の救い」を語れないのか、という内なる思いが前日の金曜日に湧き上がってきた。そしてこのブログの存在に思い至った。

 何しろこのブログにはこの16年間の間に総数で1960件の投稿をしている。すべて書き殴りに等しく振り返っていない文章ばかりだが、
泉あるところ
とはどんなところかを案内しているのがこのブログの特徴である。そして思い立った。このブログから選んで同期生の方に読んでもらえないだろうかという気づきである。そうして36頁の作品に仕立て上げて、「東京36会」に臨んだ。

※1 今となっては懐かしいパリ・オペラ座の光景である。昨日第一ホテルの吹き抜けの間では、結婚式が行われようとしており、2階からその様子を、写真にも撮ったが、プライバシーの観点からブログに載せるわけにもいかず、遠い昔2006年のこの写真を思い出し、載せた。

※2 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/11/blog-post_30.html

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/11/blog-post_16.html

いのちの泉はあなた(主イエス・キリスト)にあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。(旧約聖書 詩篇36篇9節)

2025年10月31日金曜日

私の「神無月所感」

『アンデルセンから イブとクリスティーネ』 吉岡賢一作
 10月も今日で終わりだ。とうとう一度もブログを開かず仕舞いだった。このまま11月に突入しても良いのだが、一応その間何を考えていたか少し書いておこう。3日(金)には、朝、三男の義父が亡くなった。75歳であった。全く元気そのものだったが、5、6月ごろから体の調子が悪くなられた。あれやこれやで私がその詳しい病名を知ったのは7月になってからだった。日頃「死は終わりでない」と確信を持っている者として、何とかイエス・キリストにある永遠のいのちをお伝えしたく都合四回ほどお見舞いした。

 最初お見舞いした時には、何でも自分の思いを神様、イエス様にぶっつけてください、神様は必ず聞いてくださいますから、とお話しし、神様がイエス様を信ずる者に永遠のいのちを約束していてくださることをお伝えして辞去してきた。それから二週間ほどして再びお見舞いに行った時には、明るく、「祈ってましたよ」と言われた。嬉しくなった。しかし、その後病状は一層悪くなられた。あとの二回のお見舞いの時は声をかけるのがやっとだった。何とか「永遠のいのち」を確信されて死の門を潜っていただきたいと思い、別にお手紙も書いたりしたが、自分の心のうちでは十分伝えきれなかったという悔いた思いが、重く支配し続けた。しかし、最近やっと自分を責めるのでなく、このことも主は聞いてくださって、不完全な私を通して主ご自身が直接、語りかけてくださっていたのだと思うようになった。そして、重い鉛に押しつぶされるように、心を鬱屈させる思いから少しずつ解放されるようになった。

 このような理由の他、初旬には私も妻も大変な風邪にかかってしまった。それも長引いた。今では脱出したが、中々どうして大変だった。その間、政界の動きは急ピッチで展開し、出す出すと言っていた石破(前)首相の『戦後80年所感』は総辞職ギリギリの段階でやっと日の目を見た。そして、首相は高市早苗氏に代わり、連日のようにその様子が映像を通して茶の間に飛び込んでくる昨今になった。その上、大変な高支持率ぶりで、こちらとしては色々批判したいところもあるが、まずはお手並拝見とばかり、冷静に政治・経済の動きを見ているところで、意見を表すまでには至ってはいない。まあ、こんなわけでブログを休んでしまった。昨日だったか、ダニエル書の次の記事を読んだが、それに関してF.B.マイヤーが書いていた文章を通して考えさせられた。

私、ダニエルは、幾日かの間、病気になったままでいた。その後、起きて王の事務をとった。しかし、私はこの幻のことで、驚きすくんでいた。それを悟れなかったのである。(旧約聖書 ダニエル書8章27節)

 ダニエルは、重大な幻(雄羊であるメド・ペルシヤが雄ヤギであるギリシヤに打ち倒される運命が預言されている)を朝に夕に与えられながら、なお平常どおり引き続いて、ペルシヤ王朝に仕える家臣として、「王の事務をとる」のでした。私たちも朝に夕に幻を与えられねばなりません。しかし、それとともに、この世の職務にも携わらなければなりません。窓を開いて祈ることなかるべからずであるとともに、机の前に執務することもなかるべからずなのです。たとえ、そのわざが、やがての日には過ぎ去っていくものであったとしても、その時まで忠実に行なうのです。(『きょうの力』F.B.マイヤー著559頁より)

 このマイヤーの文章を読みながら、ルターの言った(?)とされる言葉を思い出した。

たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える。

それと同時に、今日10月31日は宗教改革記念日であることを端なくも思い出した。言うまでもなく、1517年10月31日、ルターはウイッテンベルヒ城教会の門扉に、「九十五ヶ条の論題」を貼り付け、当時の法王を頂点にいただく教会に、聖書に基づかない贖宥状発行の非を訴えたのであった。考えてみると先ごろ話題になった、自民党と日本維新の会の協議事項は十二箇条の項目に分かれていたが、数においてこの「論題」ははるかにそれを越え、しかもその内容たるや、一切の妥協を排した文書で、いかにそれが徹底的であったかを知る。まさに「宗教改革記念日」として、今日まで、その日が覚えられている理由である。

 10月最後の日、かろうじてブログの穴を埋めた気分である。読者、諒とせられたし。 

(冒頭の絵は、作者が今年度の二紀展に出品された作品である)

2025年9月24日水曜日

こんぺいとう、まんじゅしゃげ、ゴッホ

 秋の野原、いや川縁と言うべきか、可憐な花々が散歩のたびに目を楽しませてくれます。この写真もそのような花の一つでした。9月16日に撮った写真です。その折り、花の名前を言い当てることの名手である妻に尋ねたところ、「わからない」という答えが返って来ました。

 ところが、何と今朝のことです。この写真を見て、妻の口から「金平糖の花」だと即座に答えが返って来ました。うれしくなり、ネットでも調べましたが、やはり「金平糖の花」でした。昨日は今季初めて「曼珠沙華」の花に遭遇しました。二、三日目を離している間に忽然とこの花が目の前に出現した感じです。
 写真を見て「何と素晴らしい赤だろう」と妻は申します。確かに赤は赤でも見れば見るほどやはり独特の赤ですね。この曼珠沙華は昨日散歩のおり二人して見かけたものですが、そのことは覚えていないようです。しっかり彼女の記憶原野には残っているのでしょうが、それをうまく取り出すことができないのだと思います。

 私としたところで、この曼珠沙華の咲くところは毎年決まっているのに、つい先だっても、急(せ)いてしまって、妻の過去の絵を載せ『待ち遠しい、彼岸花』として投稿してしまいました。今年のいつ果てるとも知れない長い夏にうんざりしてとっくに曼珠沙華もダメになっただろうと勝手に決めつけてしまっておりました。しかし、曼珠沙華はきっちりほぼ同時期にいつもと同じところに芽を出し花を咲かせてくれたのです。

 テレビと言えば、ニュースしか見ない、それも午後9時台のものしか見ない日々ですが、昨晩は珍しく『ゴッホが日本にやって来た』〜名画の誕生と家族〜を題名に惹かれNHKプラスで視聴しました。ゴッホと言えば二人とも大のファンですが、見ていて、私のファンぶりは浮ついたもので、妻のファンぶりは地についたものだと思わされました。

 ゴッホのことについて、私は確かにその手紙や絵の存在を知っていて誰よりもゴッホを知っているものと自負していましたが、彼の37年の短い生涯のこともその画業を彼の家族がいかに受け継ぎ、後世の私たちに伝えようとしたかを知るに及んで大層考えさせられました。ましてゴッホの弟テオのひ孫の方が今回の東京都美術館の展示のため来られ、作品展示のアドバイスをなさっておられることを知り、今も生きている「ゴッホ」を思わずにいられませんでした。

 見終わって、妻が「ゴッホが好きだ」とポツンと申しました。このような発語は私にとって驚きでした。「金平糖」の発語と言い、「好きだ」と言う感情表現は、このところすっかり無口になっている妻の、何よりも生き生きとした健在ぶりを物語っていたからです。ゴッホ読みのゴッホ知らずよりも、ゴッホの絵を好きだと言える妻の真実な姿から一瞬多くを教えられました。私自身聖書読みの聖書知らずになっていないか、このことも思わされました。

 そんな今朝の東京新聞の『筆洗』欄は、聖書の言葉を正確に伝えて、トランプ大統領の態度、その結果及ぶアメリカ社会の分断を嘆いていました。その中で銃殺されたカーク夫人の言葉は福音の勝利が示されているもので感動しました。指導者がいかにあろうとも主なる神様のご判断・裁きは、私ども日本の政治家の上にもあることを思います。自民党の総裁選選びが始まりました。正しく自己の信念を語ろうとしない政治指導者が何人いようとも政治は変わらないと思いながらも、何とかふさわしい方が選ばれて欲しいと思う今日この頃です。

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(新約聖書 ローマ12章20〜21節)

20年ほど前にゴッホ終焉の地で手にした一枚の絵です。

2025年9月23日火曜日

I was born

 昨日は思い切って外出しました。ずっと家に引きこもりがちだった者にも(散歩を除いては)、秋風が、誘い水になりました。昔、「若者よ、書を捨て、町に出よう」と確か寺山修司だったかな、言ったという記憶があります。久しく親交のあった関西の友人が、関東へ引っ越して来て、いつでも会えると思っていたのに、10月には再び関西に戻ると風の便りに聞き、出かけました。

 その序でに妻も同道して、浦和の孫の家を訪問、午後は妻はそのまま次女の家にとどまり、私は友人と会いにバス・電車を乗り継いでスタコラ、スタコラと川越まで行って来ました。前日、1〜2時間のお交わりと約束した時は1時間が精一杯だと思っていたところ、話が弾んで二人とも時の経つのを忘れ、あっと言う間に2時間が経ち、妻のことが気がかりなので、渋々私は話を切り上げざるを得ず、再び浦和に戻り、そして春日部の家に二人して帰って来ました。

 友人は五年間関東に過ごしていましたが、私は彼が関東、しかも埼玉県内に来たとき非常に嬉しくなり、地続きの県内なのでいつでも会えると思っていたので、再び関西に帰ると聞いた時は泡を食ってしまいました。しかも、この間コロナ禍もあり、あっと言う間に、5年が過ぎてしまったのです。昨日の再会は、もちろん二人の間では時空の隔たりはなく、お互いに直ぐ胸襟を開いて話し合うことができました。いい秋のプレゼントをいただいた思いです。お土産に吉野弘の「I was born」「いのちは」「動詞・ぶつかる」などたくさんのお手製の作品をいただいて帰ってきました。

 「I was born」はもう一人の友人が今度京都で個展(※)を開くが、そのDMに共通する思想だと思いました。個展を開く友人は

「70年あまり自分の足で歩いてきたと思っていたけれど Be Carried いつも運んでもらっていた。生まれたときも I was born 受け身であった。 
”あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうして来たのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。”(イザヤ書46章4節)

と書きました。
※谷口幸三郎展 えをかくせいかつ Be Carried- 2025.10.3~15 CAFE GALLERY フクウチ 京都市東山区新門前通り大和大路東入切り通し上る西之町211番地2電話 075ー757ー7828

 私は昨日会った友人に、個展を開く友人のDMを紹介していました(もっとも、その友人も既にそのDMはもらっていたのですが・・・)。吉野弘はその「I was born」の作品の中で、彼のお父さんが、友人から蜉蝣(かげろう)の短い命とそれにもかかわらず、卵を抱える蜉蝣の雌の話を聞いて「そんなことがあってから間もなくのことだったんだよお母さんがお前を産み落としてすぐに死なれたのは。」と書いていました。

 産み落とす母の境涯も去ることながら、産み落とされたこどものその後も如何なる苦しみ悩みが訪れることでしょうか。しかし吉野弘は「I was born」と題したのです。そこには人知を越えた神様の愛があったのではないでしょうか。

 冒頭の写真は孫の家に並んでいた靴の数々でした。一人娘として小さい今からいかに愛されているかがわかると言うものです。一人っ子の私も82年前にこのような両親の愛を受けていたのだと思わざるを得ませんでした。顧みれば、主なるイエス・キリストは父なる神のひとり子でした。にもかかわらず、次のみことばどおり、私たちを愛するために敢えて私たちの罪の身代わりに十字架にかかられたのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネ3章16節)

2025年9月18日木曜日

秋ぢゃ!秋ぢゃ!と歌ふなり

 やっと秋が来そうだ。秋と言うと、人知れず口ずさむ歌がある。それはこんな歌詞だ。

  秋の日暮れに
  蓑虫ゆらり
  ぶらりぶらぶらしていても
  なぜか心は侘びしくて
  赤い夕日に願うても
  やっぱりこの世は風まかせ

 うろ覚えだし、自信がない。今流行りのAIでも明らかに引っ張り出してこないのだから、多分どこか歌詞が違っているのだろう。大学一、二年グリークラブに入っていたのでその頃教えてもらった歌に違いない。読者の方でどなたかご存知の方がおられたら教えていただきたいものだ。

 その代わりと言っては何だが、当時盛んに練習させられた「月光とピエロ」(堀口大學作詩 清水脩作曲)を昨日は男声四部合唱でたっぷり聴かせてもらった。その折の、と言っても六十年ほど前のこの9月10月の何とも言えない寂しさを思い出した。

 一方、週末帰省して結婚前に妻と互いに交わし、段ボール箱に仕舞込んでいた手紙を宅急便で送り、こちらで今朝これまた六十年ぶりに紐解いてみた。ほとんど封印していた書簡だが、1965年から1970年結婚するまでの五年間にわたる往復書簡である。双方とも福音を受け入れていない時の往復書簡から、もちろん、結婚前の妻が1967年に福音を受け入れ、私に勧めるが私は頑強に拒んでいた往復書簡が中心だ。たとえばこんな調子だ。

 やはり残念ながら信仰できそうにない。今日は吉本隆明『マチウ書試論ーー反逆の論理』を読んだ。これはマタイ伝について書いた評論である。大学時代から四、五回は読んでいるものである。そこにこういうことが書いてある。「すべて信仰によることは悪ではあるまいかとさえ考える。それは人間の思考をでなく、思考の意味を奪うからである」君がどんなに信仰の正当性を強調しようとも、僕には信仰というものは自己愛に過ぎないのじゃないかという懐疑がある。君にとって信仰が大事であるのは認める。それは科学、真理をも包む絶対的な真理であると君はよく言う。しかし僕はあくまでも科学者ーー論理の立場に立ちたいと考える。僕は絶対に聖書は熱心に君と一緒に読める。しかし信仰は別だ。どうかそのような僕を愛してくれないか。愛が魂の問題であることは同感なのだ。そしてそれが祈りになることも知っているのだ。僕は僕なりに謙虚に君を愛してゆける自信をもっている。こういう自信を持つことさえ神への冒瀆だと君は思うのだろうが、そこに僕は自己の責任を回避した人間の卑怯さを自戒するのだ(後略)(1969年1月22日)

 結局、このような私に対して主なる神様は私に上よりの愛の鉄槌を下された。以下はその記録の一つである。

 現在、その私は妻と聖書の輪読を日夜行なっている。もちろん、信仰があっての輪読である。全く、苦にならない。それどころか、日々聖書から多くの励ましをいただいている。妻が病を得ていて、先のことを考えると絶望することもある。しかし、主なる神様が妻を私を天の御国に受け入れてくださると確信でき、すべてを主におゆだねできる幸いを日毎に味わわせていただいている。

 例年にない暑い夏に閉口していたが、秋の到来とともに沈思熟考の日々としたい。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(新約聖書 エペソ2章8〜9節)

2025年9月11日木曜日

石破首相退陣表明

ニラの花 たおやかにして 屹立す
 とうとう、石破首相が辞意を表明した。再び佐藤正明さんがセミにあやかって早くも自民党の総裁選選びを一口マンガにまとめ上げていた(9月10日東京新聞朝刊)。題名は「次は短命に終わらないように」となっている。画面は地下と地上に分かれ、地下が7割くらい、地上が3割で樹木が覆う中で、敢えなくも蝉に扮した一人の男が仰向けに倒れている。その男に聞かせたいのか、「ジージー ミンミン」と長いこの夏に今まさに消えなんとして鳴いている蝉の声が擬音として描かれている。言うまでもなく倒れているのは石破氏である。

 前回印象的であった同氏の一口マンガは7月30日の発表(※)だったから、この作品で言うなら40日の期間になる。しかし、この作品の真骨頂は、何と言っても地下深く出番を求めて、蝉の幼虫さながらそれぞれの姿で待機して地上に出ようとしている五人の面々である。中央の蝉が倒れたのだから、地下にいた五人がそれぞれ地表に姿を現すべく、動き出したのだろう。昔少年の頃、神社の境内に蝉の幼虫探しに地面の穴ボコを探し回り、見つけては小さな小枝を差しれては幼虫を誘導し、引きあげに成功しては喜んだものだが、その穴ボコに通ずる地下深くに進次郎、高市、茂木、林、小林の諸氏がそれぞれ正座した状態で特徴深く描かれている。


 40日前の一口マンガでは作中で木にしがみついているセミ(石破首相)を虫網を手にして捕えようとしている人(麻生氏、茂木氏)を描き、彼らの口を通して、「どのみち短命なのだから」と言わせていたのだから、随分石破氏は粘ったことになる。

 首相の辞意表明が日曜日にあったが、東京新聞の主張は、早速月曜日、50日間に及んだ辞意表明の遅さに、「遅きに失した『投了』」と政治空白をつくったことの非を唱えていた。さて、斎藤美奈子氏は何と書くだろうかと、水曜日の『本音のコラム』を注視した。果たせるかな、斎藤氏は『50日間の攻防』と題し、冒頭、「石破氏が退陣を表明した。残念である」と書いた(図書館で拝見した朝日の『天声人語』にも同趣旨のコメントが載っていたように記憶する)。何か救われた気持ちになった。余りにも旧態依然たる自民党の姿(石破おろし)には、正直言って辟易していたからである。石破氏がダメなら、他に誰が解党的出直しができると言うのか。

 ジージーとミンミンと蝉の声はこの夏最後の足掻きとも思える声で今日も鳴いていた。ジージーの「自由」と、ミンミンの「民主」。自由と民主を生かす新総裁が選ばれることを期待したい。もっとも斎藤氏は最後にこう書いた。「総裁選が始まれば、またウンザリの日々が戻ってくる。党内の権力争いと安倍時代を懐かしむ勢力の暗躍。政局好きのメディアのお祭り騒ぎ。予想されるのは政治に対する無気力だ。これでますます自民党離れは進むだろう。」

 創世記から始まる歴史叙述をずっと聖書にしたがって毎日読み続けて、第二列王記17章にまで至ったが、間(あい)も変わらぬ人の罪の姿を見せつけられて唖然とする。我が人生もご多聞にもれず、そうだと思う。主なる神様の前に嘘偽りは許されない。まして政治の世界には権力を求める浅ましい戦い、駆け引きが絶えない。こんな時だからこそ、次のイエス様の言葉は珠玉の言葉だと思う。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(新約聖書 マルコの福音書10章42〜45節)

2025年9月7日日曜日

知る価値のあること


 私たちの人生には思わぬことが起こります。そのような時に私たちはどのような態度を取るのでしょうか。次にご紹介するのはA.ドーフラーさんの「知る価値のあること」と題する文章です。お読み下さいますように。(『重荷も軽く』28頁より引用)

 わたしたちの前に横たわっている将来のことは、わたしたちの視野からは隠されています。明日がどういう日か、明日になったら何が起こるか、わたしたちにはわかりません。しかし主は「神を愛する者たちには、万事が相働いて益となる」と約束なさいました。これは知っておく価値のあることです。

 万事と言うのですから、私を骨の髄まで驚かすような人生の大事についても、言っているのです。一見すると、こういう大事がわたしたちを押しつぶすのではないかと思われます。しかし、神が益となるようにしてくださることができないような恐ろしい不幸などはないのです。

 神は単に大事ばかりではなく、つまらない小事でも、わたしたちの益となるようにしてくださいます。人生には、つまらない事でいらいらしたり、悩まされたりすることが、よくあるものです。そういうつまらない小事が山ほど重なって、人生におけるせっかくの祝福がすべて奪い取られることも、しばしばあります。

 神が万事をわたしたちの益となるようにしてくださるというお約束を、真実と心得ておくならば、どんなことがあっても失望の底に突き落とされるようなことはなく、じっと耐えて主を待ち望むことができるでしょう。

 大事も、小事も、万事、現在だけを見るのでなく、永遠という見地から見れば、共に働いてわたしたちの益となるのです。神が万事を益となるようにしてくださる時、わたしたちの肉体的な平安と慰めをも考慮してくださっていますが、その上、特に私たちの魂の救いについて心にかけていてくださいます。ですから神は、時々、わたしたちが最もほしいと思うものを取り去られます。わたしたちが、神を愛する以上にそれらを愛し始めたことをごらんになるからです。わたしたちは自動車、パーティー、夜会、ゴルフ、商売その他のもののために神を忘れてしまうことがあります。そういう時に神は、わたしたちを窮地に追いやり、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」ということを悟るようにといましめるのです。

 試練を受けつつ、人生を歩んで行かなければならない時、神は神を愛する者たちと共にいて、万事が相働いて益となるようにしてくださいます。この神のお約束に固くすがりついてまいりましょう。そうすれば希望に満ち、確信にみちて、明るく暮らしてゆけるでしょう。

 祈り

 恵み深い父よ、わたしの助けはあなたの所からまいります。あなたが、わたしの手を取ってお導きくださらなければ、わたしは一日も安全に過ごすことはできません。わたしの足もとはぐらつき、わたしの視界はかすんでいます。あなたが義の道へ安全に導き、永遠の生命をお与えくださることを信じて、わたしはあなたに従って歩んでまいります。主よ、わたしには理解できないことがたくさんあります。しかし、あなたがわたしを愛してくださっていることだけは、よく存じております。なぜならば、神は、わたしが永遠に生きることができるよう、あなたのみ子イエス・キリストを、死に送られたことを知っているからです。わたしの心からすべての疑いを取り去ってください。またあなたのお約束が、常に真実であると信じることができる信仰をお与えください。主よ、あなたの道はわたしの道とは異なります。しかし、あなたの道はあなたを愛する者にとって、あわれみと恵みの道であることをわたしは知っています。

 主よ、わたしたちがいらだち、あなたにいろいろ不平を言う時がありましたら、いつもイエスのゆえにこれをゆるし、あなたのもとにもっと親しくお導きください。これらのことを、イエスのみ名によってお祈り申し上げます。                  
                            アーメン

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている。(新約聖書 ローマ人への手紙8章28節 口語訳)

2025年9月5日金曜日

待ち遠しい、彼岸花

 今日は生憎の雨になった。いつも続けている古利根川の散歩もさすがに出来そうにない。それにしても、各地から連日流されてくる、線状降水帯の恐ろしさ・被害に身の縮む思いがする。神様のご計画はどこにあるのだろうかと、主を恐れる。

 今年は「暑さ」にしてやられ、朝顔やひまわりのような季節を彩る草花にも何となく縁が薄かった気がする。九月になり、いつも今頃は緑の中に一点注目を引く赤い花が見られるはずだが、まだお目にかかっていない。その赤い花の名前は言わずと知れた「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」であるが、より身近な俗名を久しく妻も私も思い出せないで散歩のたびに互いに困っていたが、二、三日前、私は夢の中で、妻は私との会話の中で「彼岸花」であることを突然ほぼ同時に認識した。

 短期記憶のできない妻との生活を通して、色んな不便を感じるが、人の体が頭脳をふくめていかに精巧に作られているかを思う。夢の中で「彼岸花」と認識するのも不思議だが、妻が突然会話の中でそれまで発することの出来なかった「彼岸花」という名称をごく自然に口の端にのぼせた不思議さである。妻の記憶領域にはたくさんのものが横たわっていて、その原野からある瞬間「ひがんばな」と言う一語が浮かび上がってきたと推測する。

 妻は二十数年前、まだ父母が健在のおり、せっせと絵葉書を作成しては、みことばを添えて出していた。その絵がチリも積もるも山となる形で随分たくさんの花の絵の集成となった。上掲の絵はそのうちの一枚で「彼岸花」を描いたものである。素人の絵であり、スキャンしたもので申し訳ないが、雨の中、一日も早い彼岸花にお目にかかれることを期待しつつ載せてみた。

人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、種のことばは、とこしえに変わることがない。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。(新約聖書 1ペテロ1章24〜25、23節)

2025年9月4日木曜日

カルガモさん、お子さん大切にね

カルガモの 子引き連れるは 微笑まし
 久しぶりにカルガモ親子に出会った(※)。雨が降り、自転車で買い物をするわけにも行かず、傘を差して徒歩で出かけた。途中、まだ目的地の生協店までは20分近くはかかると思い、急遽すぐ近くのスーパーへと行き先を変え、会之堀川沿いに後戻りした。途端に川中に生き物が動くのが見えた。ゾロゾロと子どもを連れてのカルガモ一行だった。五羽とは良くぞ連れ立ったものだと思う。どうしても我が身に照らし合わせて感じてしまう。

 職場で五人誕生のたびに同僚からお祝い金をその都度いただいた。すでに始まっていた(?)少子化の時勢の中、「また、吉田さんか」と言われながらも皆さんに祝福していただいたのを思い出す。ところで買い物は長女が来るというので、妻がどうしても昼食のご馳走にと言っていたので代わりに出かけた。どんなになっても、母親の子どもを思う気持ちがあるのは嬉しい。

 実は長女も五人の子宝に恵まれている。日曜日の次女に続いて、今日は長女が大学生の息子・娘を連れて家の掃除に来てくれた、掃除機持参で。何の打ち合わせもなしに、今の私たちの求めている状態を察して来てくれるので、これまた助かる。台所・食卓をふくめて、居間、廊下など拭き掃除を三人がかりで綺麗にしてくれた。二時間ほどの滞在で昼食も共にしたが、長女の長男が「明日はお母さんの誕生日だよね」と突然言い出した。「51歳だよ」と私たち夫婦と子どもたちを前に、長女は、「照れ笑い」と言うべきか、何とも言えない嬉しい表情を浮かべた。

 五羽の子連れのカルガモ一行は、こうして神様の生きとし生けるものに対する変わりなき愛と摂理をも示してくれた。
※ straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_25.html

さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(新約聖書 マルコの福音書10章13〜14節)

2025年9月2日火曜日

虹の御約束

 昨日、一人の知人の方から残暑お見舞いの葉書が送られてきた。文面もさることながら、上掲の一枚の写真が印刷されていた。途端に嬉しくなった。言うまでもなく、見事な虹を目の前にしたからである。送ってくださった方に早速お電話して、いつのお写真か確かめた。2019年の8月ごろらしい。お住まいは茨城県の境町である。境町のご自宅の西側(写真で言うと手前側)2キロほど離れたところに利根川が流れており、虹はその反対側東側(筑波山の方向)に見えたと言うことだ。

 虹ができあがるためには、三つの条件が必要で、その三つとは「雲」と「雨」と「日光」だ。1996年の10月、日本からスイスへ二百二十余名の方々と旅したことがあるが、ある時、宿舎に入るバスの車中から雨上がりの虹を見た。皆、一斉に歓声を上げて喜んだ。中でも同行したTさんは人一倍喜んでおられた。「神様は私の今までのわがまま、背きの罪をイエス様の身代わりの十字架の死で全部赦してくださり、『もうあなたの罪は忘れた』とこのように虹を見せてくださったのですね」とおっしゃった。

 降って、2016年8月28日、同月23日に召されたベック兄の葬儀の帰り道、長野県の佐久インターに近づく谷間の雲間に光が差し、虹が出現した。つい一二時間前にベック兄と地上でのお別れを経験し、寂しさを禁じ得なかった時だけに、私たちの心に神様だけが語りかけてくださる一条(ひとすじ)の希望の光となった。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/08/blog-post_28.html

 今まで八十余年の人生の中で、幾たび虹を見せられてきたことか。F.B.マイヤーは『きょうの力』と言う本の中で次のように呼びかけている。

空を仰いで虹を眺めたならば、あなたと(神様が)結ばれた契約を思い出しましょう。その滅びの洪水が再び地をおおうことはないとの御約束は、同時に御慈愛と恵みの洪水が地をおおうという宣言でもあったことを!(同書12ページより引用)

 ちなみに残暑お見舞いの葉書をくださった方は次のみことばを書いてくださっていた。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず高慢になりません。(新約聖書 1コリント13:4)

このみことばを通しても、主イエス様の愛がいかに大きなものか、改めて思わされる。最後にノアの大洪水後に虹を通して神様がくださった約束を今一度振り返りたい。

わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。(旧約聖書 創世記9章13〜16節)

2025年9月1日月曜日

秋一番、ぶどうの成る季節

ぶどうの実 我が子孫の数 示せり(※)
 「長い、長い夏が過ぎた!」と言いたいところだが、未だ未だ夏は続きそうだ。いい加減に涼しくなってくれと誰しも思うところだろう。おかげで、8月の投稿はわずか一回にとどまった。でも、投稿が一回しかないのは暑さのせいではない。昨日は今出席している集会でお話しすることになっていて、そのために全神経は集中しているので、書けなかったと言うのが真相だ。9月の第二週の日曜日には近江八幡でのご奉仕が待っているので、これまた難物だが、不完全でも昨日の話で一段落着いたので、これからは自由にこの場でお出会いできると思いますので、よろしくお願いします。

 さて、昨日は礼拝の後、次女が子どもを連れて、私たちの面倒を見に来てくれた。ありがたいことだ。家は散らかり放題。どこからも手がつけられない始末。次女にすれば何とも我慢のならない惨状だが、そこは我慢し、車で郊外にあるイオンでの買い物に連れて行ってくれた。自転車でしか移動手段のない私たちにとり大型店舗での買い物は難しい。おかげで念願のズボンが二着買えた。妻のスカートも買いたかったが、老妻向きの品物を用意している店舗はなかったのでこちらは諦めた。

 その間、ひさしぶりに一歳半になる孫娘と行動をともにした。昔、湯川秀樹が孫の存在について、理性では説明しようもない、新たな感じを抱くと、素粒子論を展開した彼が述懐していたのを思い出す。孫娘はいつの間にか成長し、面白いほどによく歩き回る。こちらは座るのが使命みたいな生き方をしているのに彼女はそうではない。おまけに、「じいじ」「ばあば」と言っては適宜に擦り寄って来る。人の一生で幼年期の姿は独特のものがあるとの思いを我も抱く。

 孫と言えば、昔ベック兄(1930〜2016)はよく神様には孫はいないよと言っておられた。これまた湯川秀樹とはまた違った述懐だ。私たち夫婦は孫娘が成人するまではとても生き延びているとは思えない。三食のたびに子どもたち孫たちのうちに主イエス様の平和が支配してくださるようにと祈る日々である。不思議と暑さを退散させてくださいとは祈ったことがない。

※ 昨日、次女がくれたぶどうの一部。ブログ用に食卓に載せ写真に撮ってみたら、五人の子ども、十一人の孫に思えた。

あなたがたは、・・・『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。わたしは誓って言う。・・・見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(旧約聖書 エゼキエル書18章2〜4節)

2025年8月16日土曜日

平和の使者、いちじく

いちじくを味わい 心満ち足りる
 「いちじくを食べて元気になってください」とばかりに、知人から三個のいちじくをいただいた。わずかと言うなかれ、たっぷりと妻と二人で味わうことができた。その前は、ご主人を今年亡くされ、今やご長男と同居されている隣家の方から美味しいスイカをいただいた。「二人では食べ切れませんので、持って来ました。食べてください」と。今は見渡す限り高齢者ばかりの世帯となった巷の交流の一端である。また、週一のペースで何かと差し入れてくださる方もいらっしゃる。このような有り余る御好意を周りの方から受けるばかりで、お返しに何もできないのが悩みの種である。

 イエス様が言われるように、「平和をつくる者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:9)だろう。明らかに、知人・隣人の私たちに寄せてくださっているご行為もまた、小さくとも「平和をつくる」一里塚だと覚えさせられる。また、このようにもおっしゃっている。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:3〜4)

 恩恵をひたすら受けている者が、あえて引用すべきみことばではないと思うが、引用させていただいた。冒頭のいちじくの贈り主は、突然現れなさったが、実はその数分前に、マルコの福音書10章を読んでいて痛く示されることがあり、その時、チラッとその方のことをも思い浮かべさせていただいていたのだ。主なる神様との以心伝心、父なる神様がこんな小さな者の思いも導いていてくださることを心から感謝する。

 さて、いちじくがどんなに昔から用いられていたかを示す旧約聖書のことばを写しておく(※)。それは、ナバルという男が、当時王に追われて放浪せざるを得なかったダビデから飲食を求められたが、それまでにダビデから受けたご恩を忘れてしまったかのように、けんもほろろに追い返した時、妻アビガイルは夫と違い聡明な女で、かつてのダビデから受けた恩を忘れず、夫の非を詫びるため、糧食をもって赦しを乞い願う場面だ。

そこでアビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五頭、炒り麦五セア、干しぶどう百ふさ、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。私はあなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。彼女がろばに乗って山陰(やまかげ)を下って来ると、ちょうど、ダビデとその部下が彼女のほうに降りて来るのに出会った。(旧約聖書 1サムエル25章18〜20)

 この結末がどうなるか、復讐に燃えるダビデがナバル討伐に向かう、片や、主の愛に動かされるが如くにナバルの罪をかぶってダビデのもとに急いで向かう、さて両者の攻防や如何に、興味津々たる思いがするが、聖書の続きの個所でご確認いただきたい。それにしてもこの執りなしに用いられている糧食の始めがパン二百個であり、最後にやはり二百個の干しいちじくであったとは、なかなかどうして「いちじく」とは味わい深い食べ物だ。

※聖書には旧約新約を問わず、いちじくに言及した個所がたくさんある。極めつきは、創世記3章7節、ヨハネの福音書1章48節、マルコの福音書11章12節以下などであろう。

2025年7月31日木曜日

三題噺(自然と世相を読む)

炎天下 ヘクサカズラの 花負けじ
 昨夕散歩中、足元に小さな花の花弁が見えた。すかさず、同行者に聞く。「ヘクサカズラ」と返って来た。草花の名辞がまたしてもスラスラと口をついて出てくることに驚くと同時に感謝する。それにしても余りの暑さに青息、吐息の私たちだのに、どうしてヘクサカズラはびくともしないでこんなにたくさんの花をつけているのだろうと、今日の午前中今一度確認を兼ねて行ってみた。茎がつる状に伸びているのであって、根はしっかりと河岸に近いところに根ざしていることがわかった、
輝けり カルガモ家族 真っ赤なり
 日没寸前、カルガモ家族が、夕陽に向かって泳いで行く。思わず、「真っ赤に燃えた・・・」という美空ひばりの歌唱を思い出した。昭和42年(1967年)のことだ。こんなに暑いと、今や太陽を恋の燃える象徴としてだけで歌い込むことはできなくなったのでないだろうか。それとも・・・
しがみつき 青味帯ぶ蝉 これからか
 今夏、初めて蝉の成虫を見つけた。まだ一部青味がかっており、脱皮してまもないかも知れない。この成虫の寿命は極めて短い。

 さて、昨日の東京新聞の佐藤正明さんの一口漫画は「しがみつく」という題名で、セミが木に止まっている姿を描写し、木の下では捕虫網を持った二人の男がセミを見上げている様子が描写されていた。
 もちろん、セミが石破首相、下の二人の男はどうみても麻生氏と茂木氏のように見える。その上、茂木氏らしき人物には「どのみち短命だから」と語らせている。その上、麻生氏は何やら言っているらしいが、それは音声とはなっていない。しかし、それにもかかわらず「辞ー」「辞ー」という声が木々の間から聞こえてくるという凝りようである。いうまでもなく、蝉の鳴き声は今や盛んになっているが、この一口漫画の「辞ー」「辞ー」はまさしくそれにあやかった揶揄のようだ。

 なお、同じ日の『本音のコラム』欄では斎藤美奈子氏が「石破おろしの傲慢」という題名で注目すべき論考を書いていた。自民党だけでなく、大手新聞紙(東京新聞をふくめ)が一様に石破おろしに走っているのは「石破やめるな」運動が市民から起こっていることの意味を顧み確かめずそのような結論に至っているとすれば、それは新聞紙の在り方として「傲慢」に他ならないと言っている。

 参院選の結果については、30日の夕刊『論壇時評』欄で中島岳志氏が「参政党躍進の背景は?」と題して、参政党の支持者が無党派層であったことを指摘し「既成政党は真摯に分析を」と呼びかけている。同時に隣の『大波小波』欄では「ディストピアの空気感を読む」という題名で匿名氏「木春菊」氏が参政党の政見はナチス政権の手法と同じ轍を踏むことになるのでないかと案じている。

 以上、7月にして暑い夏が連日続きますが、その中での自然を眺め、一方、参院選の結果あらわれた民意をいかに考えて良いか、能う限りの識者の論評に耳を傾ける日々です。明日から始まる8月は何が待っているのでしょうか。

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。(旧約聖書 エレミヤ17章7〜8節)

2025年7月28日月曜日

叡明が初Vーー甲子園切符

『創立20周年記念誌』(埼玉県立越谷西高校)1998年刊行の表紙絵
 夏たけなわ、全国高校野球の出場校が次々決まっている。我が母校「彦根東」も一頃、甲子園出場が続いたが、このところすっかり駄目だ。そんな今朝、埼玉県の代表校が決まったニュースを新聞で知った。表題の通りだったが、縦書きの副見出しには「越谷から30年ぶり」と続いていた。同校は越谷市内にあるのだ。

 そして思いは自然と30年前へと引き戻された。30年前の日曜日、大宮公園球場で勤務校(越谷西高)の決勝戦が行われていた。当時常勝の勢いのあった大宮東高との試合だった。私は当日、神戸で福音集会のメッセージの御用があったので、残念ながら応援に行けなかった。

 やむをえず帰りの新幹線車内で、その結果が出るのを注視していた。テロップが流れ、いよいよ埼玉県大会の結果を知らされる時が来た。私は、勤務校が決勝戦に進出したのは法外のご褒美で、大宮東には勝てないと思っていたので、てっきり「大」という字が流れると覚悟していたが、何と「越」という字が見え始めた時は、感激のあまり、その場で万歳と叫びたい気持ちだった。しかし冷房の効いた車内は当然だが、シンと静まり返っており、私一人だけが心の内側からその感動で熱くジーンと燃え上がっていて、その思いを体内にしまっておくのに苦労した。後にも先にもそのような思いをしたのは初めてであった。

 甲子園行きが決まるや、それからが大変だった。何しろ全校生徒を、バスをチャーターして甲子園まで向かうのだから。しかも二回戦進出も果たした。26台の車に乗って昼夜敢行で出かけたのである。学校ぐるみで大変なエネルギーが資金面や組織面でも費やされた。それでも生徒、教員を越えた学校全体の一体感が醸成されたことは願ってもないプレゼントであった。

 その時、参加したH君が「俺何もしていないのに皆んなからおめでとうと言われるんだぜ。困るよ。でも、少し鼻高くなったけどな」と率直に喜びを語っていたのを覚えている。それは野球部の一人一人が試合に苦労しながら勝ったその勝利は、同じ高校にいる者というだけで、自らは何もしていないのに、その勝利の栄誉を共にいただくという恵みを味わった喜びだったのではないか(※)。みんなも同じ気持ちだったと思う。今年の夏の暑さは格別で閉口するが、30年前のバスでの応援団の二往復もかなりな暑さの中での強行スケジュールで、もうその頃から今日の暑さは始まっていたのかとさえ思ったりする。

 一方、30年前の甲子園行きは阪神大震災の爪痕がたくさん残っていて、バスで甲子園に入ることができず、途中電車に乗り換えてのアクセスとなった。生徒とともに具(つぶさ)に震災状況を知り、その後の地理の震災学習に活かそうと工夫したことも思い出した。なおエースピッチャーの鈴木功君は、「ドクターK」と言われていたが、私のクラスの生徒だった。ために甲子園球場で在阪の新聞社の方だったと思うが担任としてインタビューを受けた。「彼は野球部の猛練習の中にあっても、授業中惰眠を貪ることなく真剣で、成績も優秀です」と答えた。あまりにも面白みのない答えだったが、そうとしか言えなかった。

 30年後、叡明高校の皆さんは果たしてどのような甲子園生活を経験されるだろうか。きっと甲子園出場を通して野球部だけでなく、共に新たな歴史を校史に刻まれることと思う。異常な暑さの中、応援団の派遣そのものも大変なご苦労だと思います。ご健闘をお祈り申し上げます。

※「喜び」にはこんな喜び方もあるんだと思いながら、私はこのH君のことばを同じバスの中で聞いていたが、その時なぜか私は自らの「救い」を言われているような気がしてならなかった。それは、私の「救い」は、自らの行ないによるのでなく、イエス様の十字架の贖いの死(私の罪の身代わりの死)にあずかるものであって、自らの功績でなく、あくまでもイエス様の功績によるからである。だから、彼が野球部の人々の功績が自分のものとなっていることを素朴に言い表していることに大変な親しみを感じた。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(新約聖書 エペソ2章8〜9節)

2025年7月27日日曜日

盛夏、亦、草刈りの時なり

椋鳥の 餌豊かなり 草刈り場  
 古利根川は、今や青草がそれぞれ伸び放題である。歩道以外は笹を始めとする草木は、丈高く、散歩者の頭を越す勢いである。真夏ゆえ、散歩者は少ない。そんな人間様とはちがい、蝶々、トンボ、蝉、鳥たちが、その草木の間を、それぞれ忙しく立ち働いている(飛び回っている)。

 私たちの散歩は平々凡々たる散歩だが、時折、妻が私より先に自然風景の異変に気づくことがある。今回もそうであった。今日の写真は、その妻が最初に見つけた椋鳥の集団である。遠くから見ると黒雲のように密集している椋鳥であった。私は写真を撮るのに夢中だったが、妻は数を数えていた(事実をおさえるのに二つの目だけではなく、四つの目が知覚するのは幸いである)。百十数羽だと言う。大変な数である。この間にも椋鳥はじっとしていない。さっさと餌を啄んでは外敵(近寄る私たち)を恐れてすぐ飛び立ってしまう。ゴッホの作品にカラスが翔び立つ絵があったように記憶するが、そのようであった。辛うじて撮影したのが上の写真である。川は画面上部の草地の向こう側に、流れており、手前が土手であるから、河川敷が意外に広いことに改めて気づかされる。

 この「草刈り場」について書く気になったのは今朝の東京新聞の投書欄の「私のイラスト」(清野百合子さん【埼玉県久喜市在住】作)を目にしたことによる。そこには
 どっこい さっさと 刈れ刈れ 栗橋草刈り唄 だって
と書かれ、襷姿の人々が鎌などを持ちながら、踊る姿が上手に描かれていた。

 この歌詞の文句は、久喜市栗橋の「坂東栗橋感懐」に詳しく書かれている。https://rkato.sakura.ne.jp/Chor%20Glanz/bando_kurihashi_kankai4.pdf 大変な労働歌である。「ドッコイ サッサト 刈れ刈れ」とは何と臨場感あふれる唄であろうことか。その草刈り場の跡をめがけて鳥たちが群がる。彼らはこうして食を得る。まさに主イエス様のおことば「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです」(新約聖書 マタイの福音書6章26節)の通りである。

 こうした草刈り場に残された各種草木の「穂ばらみ」こそ、椋鳥の格好の食べ物なのだろう。だから百十数羽の椋鳥が一斉に駆け付けたのである。しかし、この「穂ばらみ」を始めとする収穫の「穂」「実」の扱いについて、私たち人間に対する、天の父であり、主なる神様である方からなる、美しい勧めが、聖書には書いてある。最後にそのみことばを写してみる。

あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神。である。(旧約聖書 レビ記19章9〜10節)

2025年7月23日水曜日

続「紛失物語」ーーイクソスの鍵

平和裡に イクソスの鍵 戻りたり※
 またしても「紛失物語」である。昨晩、散歩、買い物を終えて、いざ家に入ろうとしたら、妻が「『鍵』がない」、と言う。そう言われてみると、何となく家を出る時に悪い予感がしていた。

 この夏は暑いので、どうしても散歩時間は夕方の5時台、6時台になりがちである。そのあとで買い物をして夕飯の支度をする。昨晩は家に辿り着いたら、7時前になっていた。ほぼ日没過ぎて夕闇があたり一面を支配し始めている時だ。 

 「鍵」がなくては家に入れない。いくら家の主人であろうと入れない。恨めしいことこの上ない。やむを得ず、携帯で合鍵を持っている次女に電話する。一時間ほどで駆けつけてくれた。待っている間、妻は庭先でウロウロしていたが、私は自転車で再び、たどった道を抜かりなく確かめた。でも路上には見つからなかった。

 念のため最後に買い物をしたスーパーのレジのあたりも確かめたが、やはりなかった。それでサービスコーナーにも尋ねたが届いていないと言われる。それでも藁にもすがる思いで、確信はなかったが、家の「鍵」を店内で落としたと言い、こちらの携帯番号を知らせた。

 昔なら、失くした妻にガミガミ言うところだが、もう言わなくなった。それよりも遠くから車で合鍵を持って駆けつけてくれた次女に、感謝し、二時間遅れの夕食となった。夜9時半ごろ、スーパーから電話があり、「お宅の『鍵』でないですか」と問い合わせがあった。しかし、この時、先方の説明は私たちの「鍵」の状態と一致しなかった。

 一夜経ち、私はどうしてもその「鍵」の所在が気になってしょうがなかった。暑い日盛りの時間だったが、ここは何としても捜すべしと決心し、妻を家に残したまま、再び念入りに昨日の自転車と散歩の全コースを丹念に捜した。捜しながら、イエス様の譬え話を繰り返し思わざるを得なかった。百匹の羊のうち一匹がいなくなったら、飼い主はいなくなった一匹のために念入りに捜さないだろうか、そしてもし見つかったら大喜びするだろう、そのようにわたしのもとから離れて失われた人がわたしのもとに帰ってきたら大喜びするんだという有名な話だ。

 いったい「鍵」はどこにいるんだろうかと、自転車道はもちろんのこと、散歩道に入ってからは生い茂る草道もあり、捜すのは並大抵じゃないと思いながらも、私どもの手から離れてしまった「鍵」はいったいどこにいってしまったのだろうと繰り返し思わされた。イエス様もそのようにして罪人であり失われた者であった私を捜してくださったのだなと思いながら熱心に捜した。結局全行程捜しに捜したが見つからなかった。

 最後に買い物をしたスーパーにもう一度立ち寄って、昨晩電話をしていただいた、「鍵」の実物を確かめさせてもらった。昨晩の方の説明によると「リングに二つの鍵が繋がっているものですよ」という話だった。私は「いや一つの鍵です」と言うので食い違っていた。

 ところがご対面よろしく、係の方が持って来られた「鍵」はまさしく私どもの「鍵」であった。私はその瞬間、再びその「鍵」に巡り会えた喜びを味わった。無機物なのに、まるで人間のように愛おしい思いさえした。妻がどんなに喜ぶだろうかとも思った。係の方々も喜んでくださり、失くなったものがこうして見つかることは文句なしにみんなが喜べることなんだとさらに嬉しくなった。

 日々の経験を通してイエス様はどんなに私たちにご自身の愛を示してくださっているのか、この日も改めて感じさせていただいた。

※上の写真がその「鍵」である。私どもは家の「鍵」の飾りとして魚の形をしたイクソスを用いていた。たまたまその「鍵」を落とし物として保管されたお店の方は魚の形をしたものも「鍵」だと思い、二つの鍵が一つのリングで繋がっていると思われたので、話がまったく通じなかったのである。「イクソスとギリシヤ語が書いてあるでしょう」と言えば、すぐお店の方にわかってもらえたのに、私は「青い飾りの一つの鍵です」と言うだけだったので話が全く通じなかったのである(平常、妻が用いる鍵でその程度しか認識していなかった)。なおイクソスとは「イエス・キリスト 神の子 救い主」を表わす頭文字を並べたもので、同時に「魚」を意味し、迫害下にあった初代キリスト者にとっては、大切なお互いの暗号のようなものだった。これからは「青い飾りの鍵」でなく、「イクソスの鍵」と言おうと思う。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(新約聖書 マタイの福音書6章7〜8節)

2025年7月22日火曜日

石破首相への退陣要求

 今週の日曜日(7/20)は参議院選挙の投票日でした。当日は私にとっては礼拝の日に当たりましたが、近くの施設が借りられず、電車に乗って隣の市へと出かけました。暑い最中、外出そのものが危険視される日でした。だから、礼拝を終えて、家に戻って再び投票会場に行くのはしんどいので、懐中にあらかじめ投票用紙を用意して出かけました。礼拝中には投票のことなどすっかり忘れていました。それでも帰りの道では家と駅の中間点に位置する投票所に行くことができました。投票の「秘密」で妻がどの党の誰に投票したかは聞かず仕舞でした。もちろん私自身の投票先も妻には話してはいません。

 そのくせ、家に戻ってからは夜8時の各テレビ局の報道に釘付けになっておりました。選挙結果は各メディアの事前の予想通りで、国民民主党、参政党の大躍進で、自公は参議院で過半数を獲得できず、47議席で終わりました。あっと言う間の勝負でした。時あたかも大相撲名古屋場所が開かれていますが、強いと思っていた力士が呆気なく負けると、様々な原因が分析され、なるほどと合点するものです。当然、選挙結果の分析が今それぞれの立場で語られています。

 選挙は日本全国中の有権者がそれぞれ投票した結果です。これには従わざるを得ませんね。私にとっては理不尽と思われる参政党の躍進も民意がもたらしたものですから、それなりに尊重せざるを得ないと今は思わされています。もともと「参政党」というネーミングから受け取れた「政治参加」というニュアンスゆえに人々の注目を得ているのだろうというのが漠然とした私の印象でした(「三権分立」を解することのない「政治参加」を標榜する素人集団ゆえの魅力、それゆえに「危なっかさ」があるのではいか、いずれ馬脚をあらわすのでないかという危惧)。しかし、それが外国人排斥の運動を進めていることを知り、これは良くないと思いました。もちろん今もそう思っています。

 ただ現実に私たちの地域社会に外国人の方々が身近に住み、プラス・マイナスをふくめて日々様々な思いを持たせられていることはおそらく全国津々浦々の日本人のすべてが経験している事実です。そこに光をあてたことは参政党の功績だと思います。排外主義は望みませんが・・・。一方で痛切な物価高生活の中で経済をどう立て直すかの対策も与野党それぞれの主張が並行したままで決着がつかず終わってしまいそうです。

 このような政治状況で石破首相がどのような政治判断を下すか注目されましたが、「続投表明」がなされました。それに対して「石破首相への退陣要求(※)」が内外から日毎に奔出しているようです。そのような中で一昨日の20日、すなわち投票日の東京新聞の『首相の一日』記録の記事が私の目を引きました。

【午前】9時38分、東京・丸の内のパレスホテル東京、理容室「ヒロ銀座パレスホテル東京店」で散髪。10時30分 東京・富士見の富士見町教会、主日礼拝に参加。11時55分、公邸・・・

 首相は何と、私とほぼ同じ時間に場所は違いますが、礼拝していたのです。いったい、そこでどんなメッセージを聞かれたのか、知りたく同教会がyou tubeで配信していましたので聞かせていただきました。ここでは詳しく語れませんが、私にとっては実にタイムリーなメッセージでした。果たして首相にとってはどうだったのでしょうか。ここ数日間の首相の表情は何とも言えない苦渋に満ちた顔つきとなっていますが、主日礼拝の中で聞かれた聖書のことばが石破首相の霊の糧となっていることを信じます。

 そして、日本の政治が漂流しないで民主主義の王道を歩めるように祈りたいです。ちなみに富士見教会の主日礼拝で開かれた聖句を最後に書き加えておきます。

※なお、この一人に京都選出参議院議員の西田昌司さんがおられ、もちろん一切面識はありませんが、私より14年後に同じ学窓を巣立った人です。石破首相については昨年の10月30日のブログで「石破首相の舵取り」という題名で書かせていただいています。よろしかったらそちらもご覧ください。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/10/blog-post_30.html

イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16:24〜25)

2025年7月18日金曜日

今時の世相を憂う

こぞの夏 蝉の抜け殻 早や見つく※
 「全学連は国際共産主義の手先である」1960(昭和35)年当時、高校生の私が耳にした当時の岸首相の言であった(と思う)。それに対して、私はまわらぬ舌で語るが如く、ペンパルとして紹介されていたカナダの日系二世の方に、「決してそうではない。みんな祖国に戦争の惨禍を二度と味わわせたくないから、反対しているのだ」と言う旨の英文を認めて送った。その返事はいただけなかったが、それが当時の高校生の一般的な風潮でなかったかと懐かしく思い出す。なぜそのような認識を持ったか、振り返ってみると、何と言っても新聞の力ではなかったかと思う。そんなに新聞をくわしく読んだ覚えはないが、少なくとも新聞が社会の公器としてその役割を十分果たしていた時であったと思う。

 ところが、あれから65年、世の中はすっかり変わった。第一、高校生にも選挙権が与えられた。その若者たちは、新聞でなくSNSがその情報源だと聞く。そのような中で、根拠のない(と思われる)排外主義が大手をふって世の中を席巻していると聞く。いつの時代も高校生の純真な心はそんなに変わらない(と思いたい)。今、踏みとどまって、何が正しいのか考えてほしい。遅まきながら、私の購読している東京新聞も多方面からその現象にメスを入れて報道している。外国人受容の方策について、日本人同士の様々な差別(感情)を放置したままで一足飛びに、議論がなされても決してためにならない。

 参議院選挙の結果、どのような政治世界が待っているか予断を許さないが、たとえどのような結果が出ようとも、一人一人の議員の方々が、政治家として歩む使命をまっとうして現実的で意味のある国会討論が活発になされ、政策が決定されることを期待したい。

※いつの間にか、蝉の声が樹木の梢の茂みから静かに聞こえて来る季節になった。蝉は地中からはみ出て、木々を登り、抜け殻を残し、巣立って行ったのだろう。栄枯盛衰、人の一生をモノの見事に体現させてくれる通過点の姿である。もはや我も抜け殻を残すのみ。一方、白粉花の可憐な次の姿もある。

河岸に 白粉花の 紅映ゆる

ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。(旧約聖書 申命記24:21)

2025年7月16日水曜日

モンシロチョウに寄せて

風そよぎ モンシロチョウ 舞い飛べり
「自由空間」という言葉がある。一匹のモンシロチョウが笹の葉や紫詰草やクローバーなど密生する空間を、自由自在に飛びまわっていた。その姿をキャッチすべくiphoneを片手に追いかけた。ところが、彼の描く航路には中々追いつけない。その航跡を描けるなら描いてみたい。せめてその羽を広げた優雅な肢体を撮りたいと思うのだが、これが中々どうして果たせない。

 辛うじて、笹の葉につかまって一休みする姿を撮ることができた。写真で見ると、笹の葉にしっかりと2本の足(?)を伸ばし、つかまっている(側面で見ているだけだが、反対側にも他の足があり、しっかりと伸ばしているのだろう。そうしないとバランスが崩れる)。全部横向きだから仔細はわからない。しかし、これまた口から出ているのか、頭の先にあるのか、2本の鋭角とも言うべきものが見える。あたり一面、圧倒的な緑が支配する中で、黒い触覚のようなものが見える。このような表現しかできない、昆虫をまったく知らない私の戯言(ざれごと)だ。

 モンシロチョウではないが、小学校一年か二年の時、学芸会で、「ミツバチ」の役柄を与えられて、舞台の上で、女の子たちが演ずる花の間を、次々と飛んでまわったことを思い出した。何かセリフを言ったはずだが、そのセリフはとんと覚えていない。幕の袖の下の向こう側の観客席では多くの父兄の方々が見ておられた。その学芸会が終わると、決まって評が下されていた。中には口さがない評もあり、それを母から聞くのも嫌だったが、母が丹精込めてつくってくれた羽をバタバタひらめかせながら、飛んで行った時、それまでの緊張から解放された気分を味わったことも確かだった。

 モンシロチョウに限らず、今やさまざまな蝶が目まぐるしく飛びまわっている。もちろん花の蜜を求めてだろう。暑さ一点張りのこの季節、彼らにとってはさぞや無限とも言える草花の間を今日も飛びまわることだろう。どんなセリフを口走っているのだろうか。そう言えば、ここ4、5日の間だが、静かな蝉の声が樹木の間から、集団の声となって聞こえ始めている。なぜか、静かな蝉の声に私は安堵の思いを覚える。生きとし生けるものの盛んな季節へと確実に世界は進んでいると思うからだ。

狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(旧約聖書 イザヤ11:6〜9)

2025年7月14日月曜日

ハンゲショウの花

妻発す ハンゲショウと 口ずさむ 2025.6.29
 面白い草花の名前である。まわり一面、葦が生い茂っている一角に、この草花が白く点々と広がっていた。ダメ元と思い、思わず、何の花?と妻に問うたら、「ハンゲショウ」という草花名が即座に帰って来た。記憶のままならぬ妻が時折、本人も無意識のうちに発する名辞の一つだった。その名前の由来は「半化粧」にあると教えてくれた。嬉しくなり、我が口の端にも思わず「ハンゲショウ」と上せてみた。

 今も咲いている。ある時、そのあたりを再度見てみたら、その折には気づかなかった、木標が立てかけてあり、はっきり「ハンゲショウ」と墨字で記されていた。その時、思い出した。そうだ、この湿地の植生をくわしく観察しながら、その生態を明らかにしていた職場の同僚がいた、と。彼は生物の先生であった。五十年前のことである。その頃から彼はすでに生態系の変化に注意しながら観察を続けていたのであろう。

 昨今の温暖化のもたらす気候の変動、果ては住宅地まで山から降りてくる熊の出没が連日のように報道される現在、古利根川の川縁がいつまでも健在でいてくれと願わずにいられない。そう言えば、昨日の写真には載せなかったが、下の二枚も今夏覚えたカルガモの姿の一つである。

目を凝らし 鴨の車列 見る幸よ 2025.7.7
 六、七羽の鴨がまるで貨物列車の連結車両よろしく、あるいはボートに群がる人々の姿のように、川中を全速力で駆け抜けて行った。残念ながら土手からは大分離れているのでその詳細はうかがうことはできなかったが、この一団を見ることができたのは幸いであった。

相見互う カルガモ二羽 何語らう 2025.6.24
 実はこの水田にはもう一羽がいた。画面右奥にその姿が映っている。その一羽はさぞ寂しかろうと同情する。以後、この水田には二羽の鴨が時折姿を見せる。昨日のカルガモの姿は二羽のうち、その水田から画面手前の側溝に上がっていた二羽のうちの一羽を辛うじてとらえたものだが、姿からして画面左側のカルガモだと思われる。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(新約聖書 ローマ8:22〜25)

2025年7月13日日曜日

運のいい「チェーン錠」

二年越しのカルガモ君 2025.7.7(※)
 このところ、ブログからすっかり遠ざかってしまった。この間、何も思わなかった訳ではない。ただブログ作成は所詮己が存在の誇示に過ぎないのではないかと思うと、嫌になった。「世の動き」を見ていると、あれやこれや言いたくなるが、それも億劫でしょうがなくなってしまっていた。

 そんな私が筆を取ったのは、他でもない、「運のいい」チェーン錠に再び出会うことになったからである。6月11日に「妻の失くした『チェーン』に寄せて」という題で投稿したばかりだが、またしても、妻がチェーン錠を失くした。どこでどうなったか覚えがないと言う(これも短期記憶ができない彼女にとってはやむを得ないことなのだが)。前回とほぼ同じシチュエーションだった。礼拝を終えて二人で自転車で帰って来たが、玄関についても中々家の中に入って来ない。どうしたのかと思ったら「チェーン(錠)」がないと悄(しょ)げているのだ。

 またかと思いながら、やむを得ず、今回は私一人で帰り道をたどりながら探した。元々、帰り道は私の用事に妻までも付き合わせた負い目も私にはあった。しかもインクカートリッジを求めて、文房具店二軒(駅の東口のペンヤというお店と地下道を潜り抜けての駅西口の光文堂というディスカウントストア)を訪ねたが、どちらの店も日曜日ゆえに開いていず、結局足を棒に振るばかりで、ついていないことこの上もなかった。その上での「チェーン(錠)」紛失である。

 チェーン錠は図書館の駐車場で外して、家まで乗って来たのだから、その間のどこかにあるはずだ。妻は前回もそうだったが、「誰かが外して、それだから無いのではないか」と言う。もとより、そんなはずはない。どこでどうなったかわからないのだから、どうせ見つからないだろう。その場合は100円ショップで買い求めてやろうと、覚悟を決め、暑い盛りではあったが、図書館まで戻り駐車したあたりを念入りに探したが、果たして、「チェーン(錠)」はなかった。やはり無理だわいという思いに支配されていた。

 ところが、何と図書館から次の訪問先であるペンヤさん(あいにく休みのお店だったが)に向かったところ、お店の前の道路の真ん中に堂々と「チェーン(錠)」が「寝っ転がって」いた。まさか、こんな風にして見つかるとは我ながら不思議な思いがした。もはやわざわざ線路を踏み越えて西口の100円ショップまで行かなくっていいし、その上、最近開店したばかりのCOOPのお店が近くにあるので買い物も出来るしで、途端に心が軽く、陽気になった。その時、二度も持ち主に落とされてしまった「チェーン(錠)」が、またしても私に見つけられたことを思わずにはいられなかった。

 ああ、これぞ「運のいい」チェーン錠そのものだなあーと思い至った(持ち主の妻の不注意により落とされたのだが)。先ごろの鶴保氏の無責任な発言「運のいいことに能登地震があった」は、あまりにも当を得ていず、瞬間彼が何を言おうとしたのか理解できなかったが、こういう失くなったチェーン錠に二度まで出会えた私の経験こそ「運のいい」と言うのだと思い、改めて鶴保氏の失言の重さを噛みしめざるを得なかった。それにしても政治家がいつの間に、こんなふうに劣化してしまったのか悲しい。他者の痛みに対する想像力がまったく欠けている政治家があまりにも多いのではないだろうか。

 もっとも、主なる神様は、たとえその時は自分にとっては運が悪く思えても、そうとは限らないともおっしゃっている。運・不運に関する人間の価値観を越えた、主なる神様の深い愛(人のわがままな罪を赦すために、その身代わりとしてご自身を十字架に架け、父なる神様の命に従って、罰せられたイエス様の愛)が存在するからである。その愛を鶴保氏自身にも知っていただきたい思いがする。今回の彼の心ならぬ言葉であっても、同氏が「悔い改め」の心さえお持ちになるなら、新しく生きられる、それこそ「運のいい」希望の道は用意されていると思うからである。

 さて、件のチェーン錠は、夜のお惣菜の買い物をしてから帰ったので、都合一時間は経ったであろうか、家に帰るや、びっくりさせてやろうと思い、お惣菜の買い物袋の下に密かに忍ばせていたが、今や妻はチェーン錠のことはすっかり忘れていた。やむを得ず、件のチェーン錠の発見の委細を説明せざるを得なかった。妻は「奇跡だね」と喜んだ。二度までも路上に置き去りにされたチェーン錠ではあったが、路上で取り上げる際に感じた、「運のいい」チエーン錠だなという思いは、今度こそこちらの不注意で失くしませんようにという思いに変えられた。妻の同伴者である夫としても今後は十分注意していきたいものだ。

※今年も散歩のたびにカルガモ君の動向に注意しているが、昨年の今頃は水田を利用して子育てをしている様をゆっくり観察したが、今年は水田に三羽のカルガモを時たま見かけただけで、このように水田から上がって側溝を歩いているカルガモ二羽を身近に見るのは久しぶりなので撮影したが、こちらの行動に危険を感じたのであろう、一羽はあらぬ方向に直ぐ飛んでいってしまい、見失ってしまった。一時、橋の下が子育ての場所かと思ったが、そうでもなさそうだ。

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。ーー主の御告げ。ーー天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(旧約聖書 イザヤ書55:6〜9)

2025年6月21日土曜日

ピーター・マーシャルの祈り

風そよぐ 薄野(すすきの)に蜘蛛 棲家あり(※1)
 ピーター・マーシャルという人物が昔いた。アメリカ上院付きの牧師である。以下は 『A Man Called Peter』(ピーターという男)という題名で妻キャサリンが夫ピーターの1949年のトルーマン大統領就任式でお祈りした状況・場面をその本の中で叙述しているものである。(同書11〜12頁より訳出※2)

 その朝は寒々として冷たかった。湿っぽい肌を突き刺す風がポトマック川の鋼のような灰色の川面を波立たせていた。ペンシルバニア通りの広い立ち入り禁止の一帯は紙やがらくたのようなものが風で吹き飛ばされ、その風が連邦議会のドームに吹きつけ「ヒューヒュー」と唸っていた。

 ワシントンの至るところで期待感がみなぎっていた。大通りに沿って何週間もかけて積み上げられてきた材木のかたまりはついに屋根付きの観覧席へとしつらえられていった。街角という街角にはネービーブルーの制服に身を固めた特別区の警官が彩りを添えていた。灰色の街灯には小さなアメリカ国旗やトルーマン(大統領)とバークレー(副大統領)の写真が飾られた。赤、白、青の旗が至る所にあった。数時間もすれば合衆国大統領を祝って4万人の行進者や40以上の山車が7マイルの長さで縦列をつくることになろう。この日は1949年1月20日、大統領就任式の日だった。

 両翼を広げた重厚な連邦議会の建物の前で、私は12万人の他の人たちとともににわか仕立てにつくられたベンチに座って、前の貴賓席に場を占めている政府高官を眺めていた。ラジオ、テレビ、映写技師たちは新しく造られたひな壇で器具を調整したりテストしたりするのに上がったり降りたりして大わらわであった。昼の12時に全米の耳目はこの瞬間に吸い寄せられることであろう。

 私はプラム色の革掛け椅子や緑色のカーペットの敷かれた通路を備える旧上院会議場で、ピーター・マーシャルがその瞬間祈ることを知っていた。彼は多くの新聞記者に「上院の良心」と呼ばれていた。彼の簡潔で真摯な地についた祈りは上院議員たちに次第に深い影響を与えつつあった。しかし祈りは親密なものであり、決して人が手軽に話すようなものではなかった。私は何度か見てきたようにその場面を描くことが出来る。ピーターが祈ると、人々は突然静まり返り、うやうやしく頭を垂れた。

「父なる神様、私たちはあなたを信頼しています。また、この国はあなたのお導きとお恵みにより誕生させられました。どうか合衆国の上院議員を歴史上のこの重要な時に祝福し、その義務を真摯に遂行するのに必要なすべてのものをお与えください。

 私たちは今日特に私たちの大統領のためにお祈りします。そしてまたこの議会を主宰する大統領のためにお祈りします。彼らがその務めを果たすために、精神的肉体的緊張に耐え得る健康をお与えください。またしなければならない決定に対する正しい判断力をお与えください。また彼ら自身の力を超える叡智とこの困難な時期の問題に対する明確な理解力をお与えください。

 私たちはあなた様に心からへりくだり信頼できますことを感謝いたします。どうか彼らが恵みの御座に絶えず行くことが出来ますように。私たちも彼らに対するあなた様の愛あるご配慮とあなた様のお導きの御手におゆだね出来ますように。

 私たちの主イエス・キリストの御名を通して、アーメン。」

※1 日々大変な暑さである。この暑さの中で生きとし生けるもの様々な工夫をして生き延びている。土手を歩くと彼方此方にミミズの屍が見える。この暑さで地中から出ざるを得ず、出たは出たで熱にやられての結果であろうか、哀れでならない。一方、伸び放題の葦やススキが繁茂している。オオヨシキリはその豊かな自然環境の中で「ギヨッ ギヨッ」と囀るに遑ない。そしてそのススキには蜘蛛がご覧のようなシェルターにこもっては餌を狙っている。写真では一つしか示さなかったが、もちろんたくさんの蜘蛛のシェルターがある。よくも彼らはこうして「家」を作るものだと感心せざるを得ない。

※2 2008年当時、この本を読んで痛く感動した覚えがある。原本はアメリカで戦後間もなくベストセラーになった本である。典型的なアメリカンドリームの体現者がイギリス・スコットランドから移民としてやってきたピーター・マーシャルその人の人生であった。その人生を妻であるキャサリンが描いた「夫の肖像」とも言うべき本である。幸い、邦訳がある。村岡花子さんの訳である。当時私はこの本が手に入らないのでやむを得ず英書を購入して読んだ。ところが今回探して見たら、今や国会図書館デジタルライブラリーで自由に引き出せ、プリントアウトして読むことが出来ることがわかった。だから村岡さんの名訳を拝借してもいいのだが、私訳を載せた。村岡さんはピーターの祈りの言葉を載せておられない。不必要だと思われたからである。しかし、どっこい、その祈りこそ今私が必要としている祈りの一つであるので敢えて載せてみた。ついでに言えば、村岡さんはこの一連の叙述(20項目)の冒頭に必ず載っている聖句(下のイザヤ書の聖句)をやはり省略している。それらの祈りや聖句の省略が村岡さんにとって、その後どう言う意味・経過を辿ったかはその翻訳書の後書きで少し書いておられる。一読の価値があると思った。機会があれば紹介したい。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/11/blog-post_19.html

まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。(旧約聖書 イザヤ55章12〜13節)

2025年6月19日木曜日

帰心矢の如し(下)

(急行する鴨二羽の動きは、私にただならぬ思いを抱かせて、橋の上を走らせた。そして了解した。二羽の鴨は橋の下の人目に触れぬ場所で子鴨を育てているらしかった。昨年の今頃はたっぷりと、水田の中で子育てをする鴨家族を観察させていただいたが、今年は橋の下か?という思いだった。それにしても、二羽の鴨の急行ぶりの先に家族があったとは・・・。この曖昧ではっきりしない画像からは想像していただけないかもしれないが。) 

 さて、昨日の続きだが、結論を言えば、朝京都駅での待ち合わせに失敗した二人だったが、不思議なことに午後に会うことができたのだ。その間の事情を示す手紙が残っていた。それに語らせよう。

「ドストエフスキー覚書森有正著筑摩書房読んでいました。再び感激しました。そこには魂の問題が美しく描写されているのに感動しました。邂逅!出会いの問題。とくにそのなかの「コーリャ・クラソートキン」はぼくのこれまでの苛立ちを訣別させるべく頭を緩やかに打ちました。啓示!ぼくは一層神の問題に近づいていくのを覚えます。そしてぼくは再び、君が京都駅で幾分憮然とした、自失した状態で階段を降りてきたときに感じた霊感に深い存在感を確認しました。実はあのとき朝から苛立っていた精神が諦めの境地から、かえって透明になり完全にある心的状態に支配されていたので、君の姿を物欲しそうに探すのでなく、ーーそういうときはえてして心の中は空虚なものなのですーー、心の奥底で信頼したときーーこれも変な表現ですが、こうしか表現できませんし、事実ぼくの行動は二枚の葉書を投函することに清々しい悦びを感じていたときなのですからね、ーー君が視界に入ってきたのです」

 今の京都駅(※1)は4代目、1997年に開設したようだが、1968年当時の駅舎は3代目にあたり、当時列車の時間待ちには2階にあった「観光デパート」をよく利用した。この時も私は散々労を尽くしたが、彼女と会えず、やはり失望感を抱いてだったと思うが、観光デパートの階段を上るところだった。ところが何とその彼女が上から降りて来たのだ。
 その後、彼女の帰る時間も切迫していて、もはや一刻の猶予も許されぬ中、京都駅から東海道線で草津駅(滋賀県)まで移動し、柘植(三重県)行きの電車に乗り換える合間の時間を駅構内で過ごす短時間の「デート」となった。淡い草色をした草津駅の壁面をバックに私は彼女の横顔をじっと見つめているだけで、十分だった。

 今回端なくも、二人の友人が待ち合わせに失敗したことをきっかけに57年前のこのことを思い出した(※2)。1964年から1968年のこの時まで不思議と私の彼女に対する片思いは細々ながらも維持され、京都駅での「邂逅」がなかったら、どうなっていただろうとも思う。友人の待ち合わせの失敗の原因は片方の方の朝寝坊であった。私たちの場合は、彼女が途中で友人に会い、その人と交わっていたために約束の時間に来れなかったことにあった。携帯電話がある今ではとても考えられないことだが、互いに連絡しようがなかった。私には彼女のその行為は許せなかったが、それこそ「無償」「無償」と自分に言い聞かせていた。

 しかもそれから1969年の3月12日の「交通事故」(※3)に至るまでの一年間、さらに1970年3月の受洗、4月の同じ京都での結婚に至るまでの一年間。都合二年間、栃木県の足利と滋賀県の甲賀と相離れた遠距離恋愛ゆえに毎日のように交わさざるを得なかった二人の手紙のやり取りを通しての苦闘があった。そのはしりともいうべき、京都駅から草津駅へ移動しての「邂逅」のひとときのことを指しているのだろうか、その頃の手紙の中で次のように記している。

 今度君と会って一番印象深い、あとあとまで残る君のセリフ「ほんでもやっぱりいづれは吉田さんは神さんのことがわかってくれはると思うわ」を大切にしようと思う。さようなら、ではまた。

 もし当時携帯電話があったら、私たちの間の信頼関係の葛藤は表面化しなかったであろう。今回二人の方が経験された行き違いは、お二人の間の主イエス様への信頼が友人関係を打ち壊すものとはならなかったと想像する。もはや「無償」とは、私たちの単なる道徳律ではなく、とりも直さず、私たち罪人に対する主イエス様の十字架上での贖いの愛をお知りになっていると思うからだ。そのお二人の間の素晴らしい愛こそ、別の機会に稿を改めて、詳しく触れてみたいと思う。

 最後に、昨日、今日と掲載させていただいた写真を通して急行する鴨二羽の姿を追ったのだが、「帰心矢の如し」とは鴨に備わっている主がくださる家族愛の発露に違いないと思う。一方私も最近、やっと主の身許に立ち返った我が身を思う時、「矢の如し」とは主なる神様が私たちに示される愛のすべてだと思わざるを得ない。

※1 私の京都駅との出会いは2代目に遡る。火事で消失する以前の駅舎であった。1950年が火災の年、私が小学校一年の時のようだが、消失間もない駅舎を微かに覚えている。
※2 このことは今回初めて書いたと思っていたが、過去にすでに書いていたようだ。
   https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/11/blog-post_30.html
※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/03/1969312.html

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(旧約聖書 イザヤ書55章6節7節)

2025年6月18日水曜日

帰心矢の如し(上)

 この日曜日、友人の二人の方が仙台に行く計画を立てられた。元々この話は一人の方が「父の日」に父親に感謝のプレゼントをしたいこともあって、前から行きたいと思っていた仙台行きを決行されたのだ。ところが残念なことに出発駅の大宮駅での待合場所、待合時間にその方が現れなかった。その方に付き合われた方は携帯電話を持っておられたが、肝心のその方は普段から携帯電話を所持しておられない。為す術がなかった。

 その旨、付き合われた方からの連絡で委細を知った私たちは祈らされた。結局一日の終わりとも言うべき夕方に、その方がたまたま朝寝坊し遅れたので、付き合ってくださる方に家から電話をしようとされたが、様々なことを考えて電話できなかったが、自分は一人で仙台に行き無事にお父さんにお土産も買って帰って来たことがわかり、ホッとした。

 それにしても、付き合われた方の思いはどうだったのだろうか、と思ってしまう。「無償」という言葉がある。その方は、自身の犠牲を顧みず、現れない友のために様々なことに気を紛らわせ、心配されたのでないかと思う。昔、学生時代『対話』という題名で日記(ノート)を作ったことがある。次に作ったノートは『無償』にした。それは何が何でも見返りを求めないで行動しようと思ったためである。

 実はこの日曜日の出来事を通して思い出したことがあった。1968年の3月5日のことである。京都駅で一人の女性と待ち合わせていた。ところが、時間が来ても一向に現れなかったのだ。何しろその二日前に、栃木県の足利から夜行を使って故郷彦根に帰ってきた。目的は彼女と会うためであった。どういう手違いか、その後何時間待とうが本人と会うことができない。

 結局丸半日棒に振った。やむを得ず、岡崎の美術館に行って、青木繁、黒田清輝、浅井忠などの作品を見て回った。今なら携帯ですぐ連絡が取れるが、彼女と会うのは諦めざるを得なかった。その腹いせもあってか、彼女の勤務先・兼宿泊先(滋賀県甲賀町)に京都駅前の喫茶店で二通のハガキを書き、投函した。この機会にと思い、彼女(今は妻)の所持していた書翰を探してみたら、二通ともあった。そのうちの最初の一通は下記のものだ。

「今日は本当に申し訳なかった。と言っても会えなかったのだから何を言ってみても恨めしい。誰が悪いのやら、僕が悪いのか、君が悪いのか、いろいろ努力してみたんだ。今駅前のシャトウーという喫茶店で書いています。頭は支離滅裂で、なんとも口惜しい。それでも岡崎の美術館で明治美術展を一時間ばかり見ていただろうか。あとはもう駄目さ。駅へ一目散。もっとも確実な改札所をねらったのだが。あと5時57分発の柘植(つげ)行きがあるのみだ。なんとしても会って帰らなきゃ、帰って来た甲斐がないというもの。」

(今日の写真は、二羽の鴨が橋の欄干から見えたのを遠くからキャッチしたものです。二羽の鴨は脇目も振らず一目散に画面の左方向へ急いでいるのです。思わず「帰心矢の如し」だなと思いました。その到着点は明日掲載します)

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(旧約聖書 伝道者3章1節)

2025年6月11日水曜日

妻の失くした「チェーン」に寄せて

その名も むらさき露草 映える色
 日曜日の昼下がり、妻が浮かぬ顔をして外出先で礼拝を終えて帰って来た。「自転車のチェーンをなくした」と言うのだ。どこでなくしたかわからないと言う。いつもは一緒に礼拝をするのだが、この日私は滋賀県の近江八幡の礼拝にZOOMで参加していて、それも無事終わったのでホッとしていた時だった。

 いつになくしょんぼりしているので、私も一緒に自転車で探しに行くことにした。この時は思い出さなかったが、一年前私は水田に自転車もろともチェーンを投げ出してしまって、結局そのチェーンは見つからないまま、新しいチェーンに取り替えた。その時携帯で妻を呼び出して、急遽駆けつけてもらった覚えがある。考えてみると、私たちは年がら年中、このような「失くしもの探し」を繰り返している。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/06/blog-post_23.html

 ところが今回、意外に早く見つかった。記憶の定かでない妻なので当てにならないが、とにかく、元来た道を辿らせ、私がその後を追うというスタンスだった。道々、「見つからなくっても、どっち道100円ショップで買えるわい、ここは妻の気が済むまで一緒に探してみよう」と腹を括っていた。しかし、意外や意外、家から7、800メートル先のコンビニエンスストアの駐車場近くの側溝の溝近くに落ちていた。見つけたのは私だった。路上に何やら銀色の物が見えたので近づいた。まさか、それが妻が失くしたチェーンだとは思えなかった。私の呼び寄せる声で近づいて来た妻に確認させるとまさにそのチェーンであった。

 妻はどうして自分の自転車のチェーンがそこにあったのか今もってわからないと言う。しかし、結果オーライでめでたしめでたしであった。そこで思い出したことがあった。それはヨハネの福音書5章5、6節の中に書き記されている、三十八年間病に苦しめられていた男が、誰からも相手にされずにいたところ、イエス様に見出されその病から癒されるシーンだった。

 明治期に日本人の救いのためにイギリスからやって来たバックストン宣教師(1860〜1946)はそのことを次のように語っている。

牧者(主イエス)は羊を求め給います。失われたる羊は牧者を求めません。善き牧者は失われたる羊を求め給います。(中略)主は私共を求め給います。度々私共の心中に主を求むる精神がありません時にも主は私共に近づき給います。私共は主を求めません。主が私共を求め給います。

 このバックストン宣教師のことばをたまたま先週の土曜日、要するに妻がチェーンを失くした日曜日の前日読んでいて、我が身に照らし合わせて痛く感動していたからである。妻と結婚する以前、私は主を求めていなかった。結婚する前、妻も主を求めていなかった。しかし、主はその当時、まことの愛を知らずして苦しんでいた妻を見出し、救ってくださった。そしてその妻は、当時結婚を前にして、同じように苦しんでいるように思えた婚約者の私にイエス様を紹介した。けれども、私には全く求める気持ちがなかった。不思議なことに、その私(迷える羊である)を主イエス様ご自身が聖書のことばを通して、声をかけ見つけてくださったのだ。道の端っこに横たわっていて、自分では動くことができないで、そのまま置かれっぱなしになってしまう「チェーン」と同じだった私を。

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。(旧約聖書 詩篇23篇1節)

2025年6月10日火曜日

紫陽花の「つゆ」

 いよいよ梅雨に突入。雨が降る前の、どんよりした曇り空を見て、私の今の気持ちはこの空のようだ、と言った御仁がいる。いわゆる鬱状態にある人の偽らざる気持ちだろう。それに比すると、曇り空から、いざ雨がシトシトと降る梅雨はどのように人は感ずるのだろうか。

 東京新聞の連載マンガ『ねえ、ぴよちゃん』にはいつも慰められる。今朝の四コマ漫画は次のように描かれていた。

  「宮司(ぐうじ)さん 梅雨だねえ」(ぴよちゃん)
  「梅雨だねえ」(宮司さん)

  「兄貴(あにき)「つゆ」ってなんですか?」(縁の下にいるネコの弟分)

  「朝 花についとる「つゆ」は わかるやろ」(兄貴分のネコ)
  「ええ」(ネコの弟分)

  「雨は雲からたれる「つゆ」なんや」(兄貴分のネコ)
  「へー」(ネコの弟分)

 ぴよちゃんと宮司さんは傘を差して歩いている。そのお互いの会話が最初の場面である。次の場面は、その会話を縁の下で聞いていた二匹のねこ同士の最初の会話である。三つ目は兄貴分のねこが身近な「つゆ」について説明し始める場面である。その花にはちゃんと絵(朝顔?)が載せてある。最後の場面がクライマックスで、傘を差して歩行を進める、宮司さんとぴよちゃんの差す傘が示す後ろ姿、それに比べ縁の下であろうか、傘差さずに済み、にこやかに兄貴分のねこがする「梅雨」の説明に、弟分のねこが感心している場面だ。人間同士の会話が先行するが、兄貴分のネコの蘊蓄(うんちく)に読んでいる「私」も思わず納得させられた。

 読むこと、わずか数秒で、人の心を和(なご)ませる。青沼貴子さんの2896回目の作品だということだ。ほぼ8年余り毎日物語をマンガ四コマに表現しておられる作者に敬意を表したい。迫田さんは、下記のサイトで紹介のあるように、珍しい赤い紫陽花をお載せになっている。https://sakota575.webnode.jp/%E6%97%A5%E8%A8%98/

 私も、ぴよちゃんとみことばに励まされて、天から降ってくる「つゆ」を身にいっぱい受けたいと思う。そのような私に先駆けて、既に「つゆ」を受けている庭の紫陽花を載せさせていただいた。

雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(旧約聖書 イザヤ55:10〜11)

2025年6月3日火曜日

夜ふけの川辺に・・・

中堀から望見する佐和口多聞櫓と天守(彦根城) 2015.5.27
 昨日のKさんはCDと一緒に、聖歌558番、532番の歌詞・詩を是非味わってくださいと手書きでコメントされていました。それで手元にある1992年版の『聖歌』から558番の歌詞を写させていただきました。原詩はイギリスのチャールズ・ウエスレー(1707〜1788)のものです。どなたが訳されたのかわかりませんが、きれいな日本語に訳されていて感謝です。この場を借りてお礼申し上げます。

夜ふけの川辺に
友らと別れて
ただひとり ものを思い居(お)りし時
この身に挑(いど)みて 組み打ち始めし
目に見えぬ人よ
名を証(あか)し給え

如何(いか)なるお方ぞ
この身の悩みと罪・咎(とが)
ことごと見抜き給いしか
この身は知らねど
祝し給わずば
汝(なれ)をば去らせじ 夜明けとなるとも

君は我がために
身代わりとなりて
数多(あまた)の悩みを
受けさせ給いしお方にあらずや
祝し給え
今、よしこの腰骨(こしぼね)砕かせ給うとも

腰は立たずとも
この手はゆるめじ
汝(な)が恵みなくば 生くる甲斐もなし
死力を尽くして 取り組むこの身を
いざ祝し給え
明け方来ぬ間に

闇夜は明け行き
朝(あした)は来(きた)れり
古きは過ぎ去り 新しくなれり
砕かれ尽くして 明け渡しし今
罪の力にも
この身は勝つを得ん

小鹿(おじか)のごとくに
ヤコブさえおどり
神の御力をほめたたえまつる
世にあるかぎりは
「ペヌエル」証(あか)しせん
げに「こころきよきものは神みる」と

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。(新約聖書 マタイの福音書5章8節)

2025年6月2日月曜日

「水無月」の始まり

 昨日から6月に入った。古利根川の堤を降りて、果たして田植えは始まっているのだろうかと、目を凝らして見れば、遠くからではあるが、水田が前日までとは違い、うっすらと緑がかっていることに気づいた。近づくとつがいの鴨二羽が悠然と水田を屯しているではないか。慌てて、iPhoneをショルダーバッグから取り出し、二枚ほど写真に収めた。しかし、私のこの所作は彼らに警戒心を与えたのだろう。すぐに二羽して飛び立ってどこかへ行ってしまった。

 今年も鴨家族の姿を観察できるのだと思うと嬉しくなった。ちなみに昨年のブログはどうだったのかと検索してみたら、次のようであった。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/06/blog-post.html
 昨年は私にとって初めての体験であったから、興奮気味の文章を綴っているのが、何となく伝わってきた。あれから一年経つのだと思うのはやはり何となく寂しいし、辛い。自分はどこに座標軸を置いて生きているのだろうかと、改めて時の迫るのを覚えさせられるからである。

 けれども昨日はもう一つ嬉しいことがあった。それはKご婦人のオカリナ演奏のCDをYさんを介していただいたからである。昼間の礼拝の後にいただいたのだが、私はあまり関心を示さず、うっちゃっておいた。これも私のどうしようもない生まれながらの性質ではある。しかし、その後、Yさんから、なぜKさんがこのようなCDを私たちにくださったのかを、メールで知らされ、襟を正され、妻と二人で聞いた。

 全部で67曲のオカリナによる演奏であった。聖歌、讃美歌、日々の歌、童謡、ショパンの別れの曲などが入り混じって次々と演奏されていた。Kさんは左親指が不自由だそうだ。そんなこととは想像もできない。試練の中でオカリナ演奏は、主イエス様への問いかけ、祈りの時ではなかったかとYさんは書き寄越して来てくださっていた。まさにその通りだと思わずにおれなかった。

 その上、妻がこのオカリナ演奏を喜び、それぞれの曲目に私以上に歌詞を、全部ではないが、すらすらつけて歌っていることにびっくりさせられた。このまま回復するのじゃないかと錯覚させられるほどだった。「音楽」と「美術」は彼女の昔取った趣味の杵柄(きねづか)だのに、絵はここ数年とんと描かなくなった。しかし、歌は今も歌うが、このKさんのオカリナ演奏を通して伝わって来る息遣いは、私たち夫婦の魂を揺さぶるのに十分だった。

 こうして、昨日は、私も遅ればせながら、そういう生き方、Kご婦人のような生き方ができればと思わされる、「水無月」の始まりの日となった。

神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(旧約聖書 創世記2章7節)