昨日の家庭集会も沢山の方が集われた。久しぶりの方や、遠方から来られる方や、新しく初めて集われる方もおられる。昼間の集会は、大体女性が中心だが、それでも最近はリタイアされた方が徐々に多くなってきて男性が二・三割程度を占めるに至っている。
最近、お聞きした言葉の中で印象に残っている言葉の一つに「無から有を生み出す」という言葉がある。このことばは自分のうちに何の良きものがないことを知らされた方が、主なる神様から一方的に恵みを受け、そのことに感動して、自ずと発せられたことばである。
さしずめ、この家庭集会もその最たるものであろう。メッセージをお願いする方も、証しをお願いする方も二三週間前には決まっていない。ところが、祈りのうちに、それぞれふさわしいと示された方にお願いする。お願いされた方はもちろん断る自由がある。今回の場合、ぎりぎりではあったがそれぞれ快く引き受けて下さった。
それぞれ自らの予定や仕事のある中で都合して下さる。ところが予定は予定で、当然予期せぬことが見舞う。本来準備ができると思っていたのに、とてもその準備だけに専念する時間が持てない。そのような時に何で約束してしまったのかとほぞを噛む。しかし後の祭りである。これは私自身の経験なのだが、そのような時に不思議とふさわしいみことばが示される。その時に「無から有を生み出す」ということをしみじみと実感するものだ。
果たして昨日のメッセンジャーと証し人がどんな苦心・工面をされてその場で語られているかはわからない。聞く側では完成されたものとして伝わる。メッセージの引用箇所はルカ9:12〜17で「主の祝福のために」というのがその題名であった。人が浅ましくも目に見えるものに左右されて、いかに神のみことばに頼らない存在であるか、弟子と主イエス様の行動を対比的に語られ、あくまでも主を仰ぎ見られたイエス様の信仰にならうように語られた。結びの言葉としてエレミヤ15:16の以下のみことばが読まれた。
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。(旧約聖書 エレミヤ15:16)
ところが間をおいて証しをして下さった方は、今日、私がお伝えしたいと思ってやってきたのはこのみことばに尽きると言って話を始められた。12年間集会に集いながらも、義務的に集っているだけで喜びも何もなかった。しかし、ある時から主イエス様を頭で理解できたからでなく、自分のうちに生きておられる方だと心の大切な箱の中におられる方に気づいた。そしてそのお方の前ではありのままで良いのだと知った。爾来、3.11の恐怖も体験したが御霊なる神様にまかせて平安をいただくようになったと語られた。
そして聖書が万人の手に渡るために現在、主がどのようなみわざを進めていて下さるかを語って下さった。神のみことばはただである。そのために私たちがささげられるものは二匹の魚と五つのパンに過ぎない。しかし、何とかみことばをすべての人に伝えたいと持てる財を無駄にしたくないと言う信仰者の歩みに感動した様子を伝えてくださった。
渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(新約聖書 黙示22:17)
家庭集会は多くの人の祈りに支えられている。また多くの人々の必要に答えてなされる。今回の家庭集会も全く無から始まった。しかし、お二人のメッセージ、証しを通して、主に対する信頼を新たに体験できた。
主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。(箴言10:22)