2012年6月15日金曜日

なぜ、キリスト教反対なのか

ペンステモン
「キリスト教反対!」とはキリスト者にとって決して聞き捨てにできない言葉だ。そんな乱暴な、何ということをこの人は言っているのかと思うのが落ちだからである。しかしよく聖書そのもののメッセージに心の耳を澄ませて聞いてみるとまさしくそのものだと言うことが分かる。ロイドジョンズ氏の作品に「山上の説教(上)(下)」という名著がある。私はこの作品を完全に読んだわけではないが、今回彼の「御霊に満たされる意味」という別著を紐解いて初めて彼が「山上の説教」の遂行者は新生した人でないと不可能だということを強調していることを感じた。

 ロイドジョンズ氏は1981年に召されたイギリスの牧師・説教家であるが、「キリスト教反対!」ということばには眉をひそめるかもしれないが、彼が世界大戦、あるいは戦後の風潮の中でいつの間にか教会が福音を離れて行き、世の流れに飲み込まれて行っている現状を憂えてさかんに執筆活動を続けた中には決してそのように眉をひそめる思いだけではなく、心底では共鳴する思いがあったのではないかと思う。

 ひるがえって私の教会時代のプリンシプルはクリスチャンらしくあろうとする自らの行いに帰することがすべてであった。自らが罪人であることは熟知していた。しかし自らのうちに幾分かの良きものがあってそれを磨いてクリスチャンらしく生きようとしていた。到達することのない永遠の課題を重荷として背負っていた。果たしてそのような生き方は可能なのか。ベックさんの「なにものも私たちを神の愛から引き離すことはできない(上)」にははっきり次のようなことが書いてある。(同書124頁)

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(20節)しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。(21節)(ローマ3:20〜21)

 20節と21節とは、全くの対照をなしています。つまり20節では「律法」について、21節では、「啓示」について記されているのです。律法は要求し、判決を下します。人間は自分の力で律法を守ったり行おうとしますが、実際はそれをすることができないのです。あらゆる宗教は、律法を成就しようとする人間の試みです。しかし律法を成就しようとする努力の結果は、絶望以外のなにものももたらしません。律法の正反対のものこそまさに福音であり、神の啓示なのです。こういう理由から、パウロは21節で、「しかし、今は」という表現を使ったのです。

 失われた人間、滅びに定められた人間は、自分の力では自分を救うことができず、また逃れ道を見い出すことすらできないのです。ですから、上から神の啓示がなされたのです。第一の道は、律法によって義とされる道でしたが、人間の罪の無力さのゆえにふさがれてしまったのです。20節に記されているとおり「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないのです」。

 しかし、もうひとつの別の道は、神が拓かれた道であり、神の思いです。律法を守り、神の義を尊び、さばきをも軽んじないで、神の義を提供するのが第二の新しい道です。

 しかしながら、次の事実は変わることなく存続するのです。つまり、律法は聖なるものであり、すべての人間は罪を犯したゆえに神の前に義人として立てる人は一人もいず、神は罪人をそのままの状態で義と認めることはできません。もしもそうしたならば、それはご自身の律法に反するものであり、義も真理もくずれてしまうことになるからです。

 新しい道は、神の義であって、人間の義ではありません。それは神からくるものであって、神の義は、人間の義と何のかかわりもありません。神の義は、神の賜物であり、上からの啓示です。神の義は一つの人格です。すなわち主イエスです。主イエスを信じることによって、神の義が私たちのものとなるのです。

と、ローマ3:20と21はこのように宗教(キリスト教をふくむ)と啓示の違いを明確にする分水嶺としてベックさん、いやパウロは述べているのである。21世紀に処する私たちは、相変わらず「キリスト教反対」というこの革命的な言説に眉をひそめるだけで、自らの神の御前における真の姿に盲目であっていいのであろうか。

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