薔薇展 in Paris by Nobuo |
ああ、それはなんという悲劇でしょう! 私たちの愛する天の父は、私たちがあらゆる必要に対処できるようにして下さっています。なるほど信仰は超自然的なことを取り扱うものです。しかし神は、私たちひとりびとりに、その超自然的なことを理解する能力を与えようとして、心を砕いておられるのです。
パットン博士は、新約聖書をある島の言葉に翻訳していた時、「信仰」という語に当たるその土地の言葉がなくて、非常に苦心しました。ある日、博士が書斎で翻訳に熱中していた時、土着民の教師のひとりが、長い道のりを歩き疲れて、博士の書斎にはいって来ました。彼は籐椅子に身を投げかけ、足を別のいすの上に置き、額の汗をぬぐいながら、「私は自分の全体重をここにかけている」という意味の言葉を口に出しました。その瞬間、パットン博士は探し求めていた言葉を見いだしたのでした。あなたはただ、日々、神に「あなたの全体重をかけ」ればよいのです。信仰は、神の聖なるみことば以外のどのようなものにも、より頼むことをしません。「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか」(新約聖書 ヘブル10:23)。
この点において、非常な注意が払われなければなりません。感情に基づく、うわべだけの「見せかけの信仰」が、しばしば真の信仰に取って代わっています。楽しい情緒や深い満ち足りた経験は、キリスト者生活の一部です。しかし全部ではありません。試練や戦いが前途に横たわっています。それらは私たちにとって不幸なものとみなされるべきではなく、必要な訓練の一部とみなされるべきです。こうしたいろいろの経験のすべてにおいて、もし私たちがキリストの前に従順に歩みたいと思うなら、私たちの感情がどのようであろうとも、内住のキリストにより頼むべきです。多くの人々はこの点で失敗しています。彼らは信仰によるよりも、むしろ感情によって歩もうとしているのです。神のご臨在の事実と、その事実に伴う情緒を区別すること—ここに信仰の永遠の秘訣があります。
しかし、そのような信仰はどこに見いだされるべきでしょうか。それは、私たちが絶体絶命の状態に陥る時、私たちの心の中に生まれます。窮地に追い詰められる時、私たちは神以外に助けのないことを知らされるのです!
私たちの主は「神を信じなさい」と言われました。神に対する信仰は、聖霊によって私たちの心のうちにもたらされます。信仰の道において、私たちは、主の思いは私たちの思いとは異なり、主の道は私たちの道とは異なっていることを学びます。肉体的な領域においても、霊的な領域においても、大きな試練は大きな力を意味します! たとい環境が私たちを死に導くとしても、それは災害を意味しません。なぜなら、もし私たちが主に信頼し、忍耐強く待つなら、それは主のすばらしい御力が表わされる機会となるからです。信仰は魔法の薬でも、霊的な麻酔剤でもありません。それは、この世と戦い、この世を征服する勝利なのです。
信仰
力強い信仰は神の約束を見る、
そして、神だけを見つめる。
それは不可能を笑い、そして叫ぶ、
「それはなされるのだ」と。
(『一握りの穂』L.B.カウマン著松代幸太郎訳88〜89頁より)
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