2012年6月8日金曜日

とりなしの祈りの確信とその根拠(下)


先週金曜日のあの長い一日の帰り道で買い求めたゴールデン・ウィング

 F.B.マイアー博士は、かつて英国の北部のカンバーランド丘陵地帯を一人歩きながら次のような祈りを口にされたという。

 「父なる神様。この丘陵地帯にあって、ペンテコステの賜物をだれよりも必要としている者がいるとすれば、それはこの私です。私は聖霊をいただきとうございます。しかし、どのようにして聖霊をいただくか、私には分かりません。それに、私はもう疲れきっております。一生懸命になって考えたり、思ったり、祈ったりすることができません。」

 すると、内なる御声が答えられたという。「十字架に死なれたキリストの御手から赦しをいただいたのとちょうど同じように、生けるキリストの御手から聖霊をいただきなさい。そして、結果としての喜びがあるかないかに全く関係なく、聖霊の賜物が信仰によってあなたのものとなったと認めるのです。あなたの信仰のとおりになれ!」

 これに対する博士の応答は次のようなものであった。「『主よ、私が暖かな夕べの空気を呼吸するように、私は自分の体全体にあなたの祝福に満ちた御霊を吸い込みます』と答えましたが、私はだれの手も感じませんでしたし、燃える炎も、天からの激しい響きもありませんでした。ただ信仰によって、感情の動きも、興奮もなしに、私は初めての経験として聖霊を受け入れたのです。以来、聖霊をいただき続けています。」

 さて、喜ばしいことに、平静な心の秘訣は、一世紀のパウロに限定されているものではない。それは、どの世紀に生きるクリスチャンにも当てはまるものである。神の豊かな備えの中に「御霊の豊かな供給」があるのであり、それはクリスチャンの友人たちの忠実な祈りと一つになって、人生経験の圧力のもとにくずおれることなく、緊急事態にぶつかってもパニックに陥ることのない堅固さを私たちに与える。くずおれてしまうどころではなく、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」(21節)と確信をもって言わせるのである。

 かの有名な講解説教者マクラレンが指摘しているように、この確信こそは、「『病をも、いさぎよく笑って受け止めさせ』、いのちから死に移る最後で最も大きな変化さえも何とも思わなくさせる真正の麻酔薬」なのである。

(昨日に引き続く『私を強くしてくださる方によって』の引用文である。 このポーロ・S・リースの文章を読むまではF.B.マイヤーのこの証しは知らなかった。後年オズワルド・チェンバーズはそのF.B.マイヤーズからダヌーン大学で「聖霊」について話を聞く。その時、オズワルド・チェンバーズがまさしくF.B.マイヤーズの霊的状態であった。御霊なる神様はこうしてご自身の聖徒を差別なしにそれぞれのとりなしの祈りを通してパウロ以来導かれることを私たちは知ることができる。そして今突然の事故に会い、いのちの危機とひどい痛みを耐え忍びつつ、ご家族の愛のうちに守られている方のうちに、主の大いなる御霊の満たしがあることを知って、一方ならず慰めを得るものである。さらに我ら、御霊なる神様とともにとりなしの祈りを続ける者でありたい。)

0 件のコメント:

コメントを投稿