御霊に満ちた者ほど、キリストの苦しみにあずかる交わりを十分に経験するものは他にありません。御霊に満ちたキリスト者のように、世の苦しみを自分の苦しみとしてながめたり、感じたりする者は他にはありません。御霊に満ちた者は、何が責任であるかを知っています。彼は、この世の困窮が自分の肩にかかったように感じ、彼の目は、何をなしえるかを見きわめようとして開かれ、彼の愛は、機を逸することがないようにと彼を駆り立て、どのような障害にもとどまることのない力が、彼のうちに湧き上がって来るのです。(中略)
クリミヤ戦争は1858年に始まり、何千という傷病兵の恐るべき苦痛が、それにともなって始まりました。病院の世話は規律がなく、看護婦も無い状態でありました。その時、イギリスの陸軍大臣はフローレンス・ナイティンゲールに手紙を書き送り、看護の仕事の責任をとってくれないかと依頼して、野戦における病院服務の組織をつくる絶対的権限を彼女に付与したのであります。短時日のうちに、彼女は38人の看護婦とともに仕事を開始しました。彼女らはどこに行っても、苦しんでいる人々を救助し、傷を包帯し、まわりにいる人々に愛と光を与えておりました。彼女らがはいって行くところでは、空気も澄んできました。フローレンス自身もスクタリ病院で働いていました。夜中でも彼女は小さなあかりを手にしながら病床をみてまわることにしていたので、傷ついた兵士たちは、「あかりを持った婦人」をひと目でも見ようとして、彼女が来るまで目をさましていようと努力したほどでした。フローレンス・ナイティンゲールについてはまた、次のように言われています。「彼女はある宗派、しかもそれは全く小さなものなのだが、いわばよきサマリヤ人の宗派に属していたのである」(ウェレの「教会史」より)
夜中に、輝くあかりを手にしながら、病傷の兵士たちの間を歩いているこの自己犠牲に満ちた看護婦こそ、すべてのキリスト者の生き方をはっきりと示す模範ではないでしょうか。この世のたそがれに眠ってしまうことは、いとも簡単なことであります。人生の困難な戦いに傷ついて、輝くあかりと愛の手を待ち望みながら、横たわっているこの世の病床をよきサマリヤ人がめぐり歩いているという期待だけが、この世のたそがれにも人々を目ざめさせておくことができるのであります。
キリスト者の聖なる生活は、たそがれにおいてこの世が求めている輝くあかりのようなものであります(マタイ5:16)。神のみことばに従えば、聖徒の正しい行ないは、小羊の婚宴に招かれた時に装う神の教会の美しい麻布の衣にほかなりません(黙示録19:8〜9)。
きょうもこの世に夜が訪れてきています。数千の傷ついた兵士たちは光を待ちながら横たわっています。きょうこそ、主に属するわたしたちは輝くあかりを手にしながら、苦しんでいる者を愛と慈悲によって助けるために、出かけていかなければなりません。
(「聖霊を信ず352、354〜355頁 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」新約聖書 マタイ5:16)
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