2012年6月27日水曜日

大きな試練は大きな力を意味する(上) L.B.カウマン

飛騨高山の宮川の清流

 困難な苦しい立場—きびしい試練の場—に置かれた時、キリスト者はどのようであるべきでしょうか。キリスト者のとるべき態度はただ一つ、それは単純な、ゆるぐことのない神への信頼です! 困難な環境を見ることを拒否し、それを超越することです。このことをする唯一の確実な方法は、神に近く生活することです。ターボ過給器をつけることによって、飛行機のエンジンの出力は、10キロメートルの高空においても少しも低下しないように(普通のエンジンでは、このような高度において出力の5分の4が失われます)、神のみことばに耳を傾け、神に従いつつ、神とともに歩むキリスト者は、人生の最も困難な高空においても、強くあることができるのです。神は、どのような誘惑、どのような危険よりも、更に強くあられます。そして、神を心の中に持っている人は、征服されることがないのです。

 しかし、神はしばしばご自分の子供たちを、非常な困難の中に置かれるようです。彼らを、のがれる道のない窮地に陥れ、人知ではとうてい想像することもできないような境遇をつくり出されるのです。

 そのような時、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」(新約聖書 マルコ9:23)というイエスのお言葉が、更に深い意味を持ってきます。神に対するこのような種類の信仰こそ、人生の問題や試練を解決する最も実際的な道であるということを、はっきりと悟らなければなりません。それは感じではなく、視覚でもなく、理屈でもなく、神のみことばをそのまま信ずることです。私たちの経験は、そのような信仰が日の出を早めることはないが、夜の間を短く感じさせることを示しています。

 どのような下層社会の落後者も、信仰や信頼を失ってしまった人ほどには悲惨な状態にありません。フランシス・ブラウンは次のような物語を述べています。一団の巡礼者は、自分の家族全部の乗った船が沈没したことを語りました。またある巡礼者は、過ぎ去った青春時代の楽しい思い出を語りました。更に他の者たちは、消え去った黄金や名誉について語り、また当てにならない友人たちのことを語りました。すると、「あらゆる悲しみから解放されているように見える見知らぬ人」が言いました。

 あなたがたはいろいろの悲しい損失をこうむりました。
 しかし、私のこうむった損失は、
 あなたがたの損失よりも更に悲しむべきものです。
 信ずる心が私から去ってしまったからです。

 巡礼者たちは言いました。
「ああ、見知らぬかたよ、あなたの損失は、人生における最後の、そして最も悲しいものです」。

 この判断は正しいのです。人生における最大の損失は、信仰を失うことです。ある筆者は言ってます、「キリストがペテロの信仰を維持することに心を砕かれたことは、次のようにだけ説明することができる、『キリストはペテロが失敗しないように干渉することはなさらなかった。しかし、ペテロの信仰がなくならないように守られたのである』 と。人は名誉や名声を失う時、損失をこうむる。しかし信仰を失う時、最大の損失をこうむるのである」。

(『一握りの穂』L.B.カウマン著松代幸太郎訳86〜88頁より。昨日の火曜の学びは「平安を得るための苦しみ」という題で、出エジプト15:22〜27をテキストとして語られた。苦しみ、試練はキリスト者が予想しなければならないことであるが、そこにおいては避けるべき危険がある、それは神様へのつぶやきであると指摘された。そして何よりも取らなければならない態度は主に叫び求めることであり、そのとき万能薬であるイエスご自身が示されるのだと、モーセの故事に照らして語られた。結びのみことばは2コリント4:16〜18であった。主イエス様は試みある者を決して捨てられない唯一の神様であることを感謝したい。明日は引用文の後半を載せる。)

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