梅雨入りだが、集会時には晴れ間が見られた。 |
メッセージは、昼はエペソ2:15〜17から「まことの平安の土台」と題し世を支配する君である悪魔に対してイエス様がいかに勝利なさったお方かを解き明かしてくださり、私たちがそれにあずかる必要性を促された。夜は夜でローマ8:15〜30から「主のご目的」と題し、天国への道は決して散歩道ではないとして、主のご計画は試練のうちにそれぞれが主の御姿に変えられることにあるということを軸にして7つの大切な主のご計画の意味を語ってくださった。
あともう一つはこの一両年来られるように祈っていた方が遠くから初めて来てくださったことがある。その上、朝通りかかられたご近所の方に集会のお誘いをしたら快くこれまた初めて集われた。また、これまで祈られてきた方々がそれぞれその重荷を主イエス様に下ろし喜ばれたことなどもあった。もちろん私自身がメッセージを通して内なる霊が強められたことが大きい。
ところでベックさんは昭和61年(1986年)に「ローマ人への手紙——なにものも私たちを神の愛から引き離すことはできない——」(上巻)を出版しておられる。その序には次のようなことが書いてある。
私はこの本に、次のような革命的な題名を付けたいという気持ちを持っています。すなわち、「キリスト教に対する反対!」と。
なぜなら私たちは、現代のキリスト教のためには宣伝をしたくないからです。現代の組織されたキリスト教というものは、主なる神の望んでおられるようなものではなく、人間が作りあげた産物、一般的な宗教組織になりさがってしまっているからです。
万物の創造主は、人間が作った宗教とは何の関係もないお方です。神の目から見ると、人間が作りあげた宗教なるものは、子供の遊びのようなものであり、犯罪よりもひどいものであり、無意識のうちに神を冒瀆するものであり、そして真の救いを拒むものです。現代の多くの宗教は、うまみのある商売にすぎません。
「宗教」は、人間の罪の債務の問題を解決することができません。人間はみな悩んでいます。そして数えきれないほどの多くの人は、いわゆる宗教としてのキリスト教に対して反発します。いったいどうしてでしょうか? 人は束縛されたくないからです。人は自由になりたいからです。生けるまことの神は、人間に向かって、次のように約束してくださっています。
もしわたしがあなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(ヨハネ8:36)
それでは人は、どのようにして自由になることができるのでしょうか? 一つの宗教を持つことによってでしょうか? 教会の会員になることによってでしょうか? または洗礼を受けることによって、毎週礼拝に出席することによって、十分の一を献金することによってでしょうか? 決してそうではありません。たしかにそれらによって、人は「宗教的」になるでしょう。しかしその結果は、自己満足、間違った思い込み、そして盲目に陥ることになります。
あなたは、精神的な拠り所、すなわち生ける真の神を、永遠なる岩として必要としているのではないでしょうか。
多くの教会は、文字通り「教える会」になってしまっています。そこでは、いわゆる「教え」が宣べ伝えられ、そうして人はその「教え」を良しとして認め教会の会員になれば「クリスチャン」になれる、つまり救われる、と信じ込んでしまっています。こういう風に洗脳された人は、惑わされています。この考え方は間違っています。なぜかというと、どんな人でも、単なる頭の知識を持つことによっては救われることはないからです。
主イエスは、この地上におられたとき、多くのことを語られました。しかし、いろいろなことを語られたあとで、ただの一度も「どうですか、理解できましたか? 大切なことが分かりましたか? もう一回ゆっくりと説明しましょうか?」とお聞きになったことはなかったのです。どうしてでしょうか? それは大切なことではないからです。重要なのは、次のことだけです。「一つの教えを勉強して、理解し、肯定するようになることではなく、聖書の中心であられる天と地の創造主を個人的に識り、その創造主と交わりを持つこと」です。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)
わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6:37)
今回の家庭集会も結局はこのことの再確認であった。このような家庭集会こそすべての人が真理を知るように望まれている主の良き媒介手段だと思う。そこでは真理は一人の人の独断でなく、互いが神のことばである聖書を生活の現実に検証するようにと、相互の交わりが与えられるからである。
ふりかえって、あの痛ましいオウム真理教の事件が起こる以前に、キリスト教をふくめて一切の宗教批判のもとにこのような集いが人知れず地道に持たれていたことにどれほど多くの日本人が気がついていたことであろうか。(かく言う私自身がそのころ教会内でせっせと「教え」にどっぷり浸かり、「啓示」を知ろうとはせず、自らの哲学を構築し、「教会ごっこ」をしていたのだから、決して他人事とは言えないが・・・)
改めて、社会の汚れの自浄作用はキリスト教という宗教の神でなく、生けるまことの神である御子イエス様の御手の中にのみあることを覚えたい。
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