御霊の充満の隠れた力は、日常生活のいろいろな仕事の中に見いだされます。御霊の充満の力は、わたしたちの日常生活においては、キリストの心をもって喜んでなされる、義務に対する聖なる忠実さにかわってしまいます。御霊に満ちた者は、より高い地位を追い求めて、そこで御霊の生活をしようとは思いません。否、むしろ彼はたとえそれが大きくても小さくても、すべての仕事のさ中に両足をしっかりと地につけて、神のみ心に従いつつ日々の生活を送るのです。真に御霊に満たされた者にとっては、作業の場所は聖所であり、作業衣は牧師の礼服にほかなりません。御霊によって目を開かされている者は、日常の小さな事がらの中にも永遠の価値を見る人であります。何となれば、彼にとってキリスト者のなすべきことの中には、とるに足りないものなどは存在しないからであります。
ほんとうの御霊の充満を経験した者は、自分の義務や任務をほうり出したままで、自分の室に閉じこもったりすることは決してしません。彼にとっては、神の国は積極的に義務を果たす聖なる生活の中にあるのであって、そのためには何よりもまず、自分の義務に奉仕しようとするのであります。御霊に満ちた者が行なうすべての事がらの特徴は、それが御霊に満ちているということです。
主の宮が建てられた時、すべての個々の部分が小さなものに至るまで、正確に注意深く製作されなければなりませんでした。工人たちは、「工夫をこらして細工をし」、宝石を切りはじめ、「木を彫刻するなど、諸種の工作をし」なければなりませんでした。しかも神は、これらすべてのことを遂行するために、神の御霊に満たされた人々を指名されたのであります。(出エジプト31:1〜6、35:30〜33)。人が御霊に満たされているということは、このようなごく小さな、最も無意味な、ちょっとした仕事の部分においてさえも、重要なことであります。御霊に満ちた人にとっては、たとえ小さなことであっても、それが主のためになされるのですから、偉大な事なのです。
「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように」(新約聖書 1テサロニケ5:23)。ここで「全く」と訳されているギリシャ語は、それぞれ違った国語でいろいろに訳されていますが、おそらく最もよい訳は、ルターの「徹底的に」でありましょう。すなわち、御霊に満ちた者は、単によいわざを遂行するばかりではなく、自分自身がきよい存在であるのです。御霊は彼の全存在を浸潤して、あますところなく彼をきよめるのであります。
「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)。この対比の主眼点は、次のところにあります。つまり、酒に酔っている者は、徹底的に酔っぱらいの刻印を身に帯びるということであります。彼の歩みも、彼の仕草も、全存在も、それを証明するのであります。しかし、御霊に満ちた者の場合も同様に、彼は御霊の刻印を身に帯びるのです。彼の態度も、ことばつきも、服装も、一連の考え方も、興味も、彼が行なったり、語ったり、存在するすべての事がらが、神の刻印を帯びるのであります。御霊に満ちた者は、人間に対する神の計画の一つの具現ということができるでしょう。
グスタフ・イェンセンは、次のような祈りを捧げています。「神よ、わたしに力と堅忍不抜の心をお与えください。それによってわたしが、心の律法にしたがって確固たる性質をつくることができ、永久にわたしのうちに住むべき新しい人が、わたしのことばや行為をとおしてますます輝くことができますように。また、わたしのからだをきよめて、神に受け入れられる捧げ物としてください」と。
キリスト者であるということは、ひとりの人間であるということです。御霊に満ちたキリスト者であるということは、調和のある人間の生活、つまり豊かな生活を送るということであります。それは、彼自らきよく、そして、すべての清い事に、喜びを見いだすことができるからであります。感覚的な人間は、すべてのことばの端々についても何か淫蕩なものを聞き、すべてにおいて何か不潔なものを見るのであります。聖なる者はきよく美しいものを見、またその中にあって喜ぶ者であります。美しい調和、美しい色、りっぱな釣り合いのとれたかわいい小さな花を見る時に、神に満たされている者ほど、純粋な喜びを喜ぶことができるのは他にはありません。目で直接に太陽をながめた者は、かなり長い間は何を見詰めても、太陽の黒い点が目から離れないものです。同様に、キリストを深く見つめた者は、その後彼の見るすべての事がらの中にも何かしら天からのものを見るものであります。「純な小さなこけバラの花でさえ、天上の会堂である」とはっきり言うことのできる者は、キリストを見た人以外にはありません。
(「聖霊を信ず」343〜346頁より)
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