アート きょうしつ すたじお ダ・ヴィンチ 2012展 |
雨がやや緩やかになったとは言え、早く目的地に着きたいと二人とも必死になる。ところがこれが一向に見つからないのだ。東海大学の東京病院の近くにあると言う、その展示会場を前にして、両人とも敢えて討ち死に寸前であった。iPhoneは私の武器。家内はアナログ派である。目的地は目の前にあっても、計器を頼りに何とか行き先を探そうとするのが、私。そこへ行くと家内はゲリラ派である。不思議な嗅覚を使う。ほんの一瞬、家内がわずかの隙間、谷間とも言っていい入り口を見つけた。Yellow Vanilla という画廊と特徴ある案内が目の前に現われた。
崖下とも思える小さな一角には、すでに先客がおられたが、作品が数点展示されているようだった。主催者の方に名前を名乗る。前から孫が一方ならぬお世話になっていることは聞いていた。もちろんお会いするのは初めてであった。早速作品を見せていただいた。二人の作品がお友達の作品を中にして展示されていた。孫は二人とも石を描いていた。もっと造形のある絵かと期待していたのに拍子抜けがした。しかしよく見ると石を描き切っているのだ。石を絵に描かせる凡庸ならざる指導者を思いもした。
さらに良く聞いてみると、二人はうちでは(アート教室では)絵を描きたがらないのですよ、絵はばあばの家で描いているから、ここでは工作がいいと言って、いつも粘土などの造型をやっていますよ、と言われて、さらに孫の作品を二点見せ褒めてくださった(上掲の作品は妹のもの)。奥様もご一緒にアート教室を開いておられるようで、孫の教室での活動をふくめ丁寧に作品を解説してくださる。もともと芸術に目のない家内はもうその場から離れられなくなっている。うどん派の私はただその彼らの会話を聞くばかりだった。窓枠が緑に彩られ、窓外の庭の緑と色よく調和していて、こんな素敵な空間があるのかしらと一人考えていた。
そして次から次に繰り出される展示作品(そこには子どもたちだけでなく、シニアの方の作品もあり、主催者の方の作品もあった)の説明を聞いているだけで造型の奥深さを感ぜざるを得なかった。人とは何者なのでしょうという詩篇の作者の感想が自然と頭をよぎる。神様が創造された人間ならではの世界である。心豊かな表現を求めて愛情を持って子どもたちに接しておられるご夫妻に言い知れぬ尊敬の念を覚えさせられた。しかも午前中偶然のごとく出会うことのできた孫たちの活動が生き生きと再現されたのだから感謝この上もなかった。
そしてこの夜、主を信ずる者同士で祈り合う会合にも出席できた。アダム以来の(罪ゆえの)働くことの苦悩、また病苦の苦しみが前面に出た祈り会であった。しかし不思議と昼間お聞きした召された方に働かれた主のみわざをともに覚えることができた。創造者である主は我らの罪の贖主であるからだ。この日経験したことはまだ他にも二三あるがそれはすべて省略した。結局この日、4月以来毎日続けていた聖書通読は残念ながら休まざるを得なかった。
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(新約聖書 マタイ6:33〜34)
0 件のコメント:
コメントを投稿