倫理的に生活すること、わたしの生活態度を変えること、外面の罪の習慣をやめることーこのことは、少なくともある程度までは、わたしの意志がなしとげることのできることです。しかし、聖なる態度で生きることは、はるかに大きなことです。それは生活態度だけでなくて、聖なる人の中で変えられる心の態度です。聖なる行為は、神から生まれるのです。人の意志が、倫理的要求をとらえるとき、その人の生活態度を変えることができます。しかし、それは人間的な身分以上に人を導いていかないのです。彼自身が倫理的生活の主体です。彼の生活を倫理的ならしめるものは、彼が主体であるという事実そのものです。生活の変化は、自分自身のはたらきなのです。
しかし人間が、みたす力をもたないことを自認するほど、強力に大きな倫理的要求が人間に直面する時、その時こそ要求が人間をキリストに追いやるのです。この要求を通して、人はその罪を知るようになり、こうして神は人間の心に救いのみわざをなしとげられるのです。だから、倫理的な要求が、人間に再三直面し、いつもいっそう強く、また深くある時、それは人間をたたえずキリストに追いかえすのです。再び彼は、その力の及ばないことを宣言して、勝利と聖潔とを与える神の力に向かって、その心を開くのです。ここでは人間の意志はあまりに弱く、創造の力が必要とされます。神のみが聖化することができるのです。
この点でキリスト者もまた、たやすく考えちがいをするのです。そして間違った聖化の見解が、神との生活にとって致命的となるのです。というのは、わたしたちは福音の自由から律法の下における束縛に、きわめて容易にみちびかれるからです。わたしたちは義とせられることを神からの賜物と考えますが、聖化せられることを義務とするのです。わたしたちはいつも「なんじすべし」と「なんじすべからず」という命令の下に生きています。わたしたちは、幼児のもつよろこびに生きないで、奴隷のもつ恐怖に生きています。釘のあとをもつみ手からの賜物として義認を受け入れつつも、しかも、聖潔への要求をきびしい怒りの神からの命令としてながめるのです。聖化せられることをまぬがれることができれば、そうしたいのですが、そうはできないのであります。ですから強制感をもちつつわたしたちは聖化の定めの下に身をゆだねて、規定されている重い苦役にはいっていくのです。
しかし、聖化の道について、このように感じるキリスト者の心には、きわめて重大なあやまりがあるのです。聖書はこのような人は、恵みから離れた道にあり、その結果、神から離れているというのです。この人は福音の自由から引き離されて、怒りの雷の下にあります。この人はゴルゴタからシナイへの道にいたるのです。
ガラテヤ人は、このような状態にいたのでした。ですから、パウロはその人々に言ったのです。「ああ、物分りのわるいガラテヤ人よ、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。御霊で始めたのに今になって肉で仕上げるというのか」(新約聖書 ガラテヤ3:1.3)「肉で仕上げる」という表現は、わたしたちの思いをでたらめの肉の罪ということに導いて行きやすいのですが、ことばはこういう意味ではありません。パウロはガラテヤ人に次のように言いたいのです。「あなたがたは恩恵の道において始めたのに、今になって行為の道において仕上げることを予期するのか。あなたがたはキリストの力において始めたのに、自分自身の力において仕上げようとするのか」。自分自身の人間的な力で仕上げようとすることは、肉で仕上げることを意味するのです。
また律法と恩恵に対するこの態度のうちで最も悲しむべき、また最も当惑させられる部分は、イエス・キリストが公けに啓示され、ガラテヤ人の目の前で十字架につけられたもうたということです。一歩一歩彼らは生きた血なまぐさい絵画で見るように、神の受難の御子を見ていたのです。だが、それにもかかわらず彼らは、自分自身の肉的な力で仕上げようとしました。このようなことが企てられることは何と悲しいことでしょう。十字架にかけられたもうたお方の姿をもう忘れたのですか。キリスト者の生活をすることが自分自身の力によるものであれば、その時こそ、わたしたちはイエスの十字架の下に「むなし」としるさなければなりません。「というのは、もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる」(ガラテヤ2:21)からです。
(引き続いて「聖霊を信ず」259〜261頁からの引用。私はかつて「福音自由」にいました。しかし、その私の生活は「福音自由」でなかったことを今日の個所を通して知らされるのです。真の「福音自由」にとどまり続けたいものです。)
0 件のコメント:
コメントを投稿