「お帰りなさい」とここを狭しと咲き乱れていた裏庭のあじさい |
神は、最も大きな仕事や、最も栄光に満ちた奉仕のために、十分な力を所有しておられます。神は彼の僕らが霊的な力の欠如のために弱り果てることを望みたまいません。サムソンは獄舎につながれて粉ひきをさせられました。これは大きな巨人が女奴隷のする仕事をさせられたのです。それでも彼はくたびれ果ててしまいました。このことは、不従順のゆえに、主の御霊の力を失ってしまった者にも同じように起こることです。
主の御霊によってのみ弱い者は強くなり、病的な野心を抱く者は神の家に対するほんとうの熱意に燃え始め、臆病者は勇気に満ちた者となり、沈んだ者は大胆になり、疑う者は信仰の戦士となることができます。
主の僕にとっては、天賦の才能などは十分な装備とはなりません。雄弁と知識とにひいでた多くの天才が、この世に生を受けたのでありますが、何の痕跡も残すことなく死んでしまっています。しかし、一方神は、人間の目からはとるに足りない者や、ほとんど名の知られていない者を用いたもうているのであります。この事実に関しては、教会の歴史が豊富な証拠を持っています。
決定的な原動力は、神の御霊の力であります。すべての生まれつきの才能は、神の賜物であります。しかし神は、まずそれをきよめるために、自分の力の中にそれをとりたもうのであります。最上の外科手術の道具でも、それを使用するためにはさびないようにしておかなければなりません。キリスト者の剣も、主の戦いにおいて役立てようとするには、御霊の油脂でよくふいておかねばなりません。いっさいは神の配慮にゆだねられなければなりません。他の人々に幸いとなるような生活を送ろうと思う者は、自分自身とではなく神と相談してみなければなりません。
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(2コリント4:7)「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)。
「 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました」(2コリント3:5〜6)。
「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです」(1テモテ1:12)。
こうして、ここに御霊の充満の強大なる逆説があります。すなわちキリストを信ずる者が、心に深く巣食っている罪に悲しみ嘆いている時に、神の目は勝利を得つつあるそのキリスト者の上に注がれているのです。鹿が谷川の水をあえぎ求めるように、心が神をかわき求める時に、その人は喜びと力の泉から絶えず飲んでいるのであります。御霊に満ちた者が、自分の貧しさのために深くうめいている時に、彼は死に瀕している世に向かって、力があふれている豊かないのちの生活を送っているのであります。
「神は最も小さいものの中において最も偉大である」(Deus maximo in minimo)との古いラテンのことわざは、この関連においても理解されるように、真実であることを証ししています。
(『聖霊を信ず』フレデリック・ヴィスロフ著名尾耕作訳358〜360頁より引用。 フレデリック・ヴィスロフ氏については大方の読者が知られないのではないか。かく言う引用者も知らない。本の紹介によると、1904年にノルウエーに生まれ、1956年には日本も訪問されたと言う碩学は「Rest a While」という八カ国語に翻訳され30万冊が売りつくされたと言う。残念ながら日本ではこの一書が翻訳されているに過ぎない。しかも1956年の訳書出版で、ほぼ半世紀前の書物となってはお手上げである。今回何気なく旅先で読み続けることになったこの本の中には紹介した文章以外にも真実がたくさん書き込まれていた。著者の信仰はこの一書をもって十分うかがうことができる。我らの人生もそのようなものであればどんなに幸いであろうか。)
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