2013年12月25日水曜日

言が肉体となられた

言は肉体となられた。(ヨハネ1・14)※

キリストは、清浄、純潔なきよい誕生をされました。一方、わたしたちの誕生は、不純で、罪にみち、のろわれたものです。わたしたちは、キリストのきよい降誕によってのみ助けられます。しかし、キリストの降誕は、ケーキのように、分割して与えられることもできませんし、また、そういうことができたとしても、そのまま助けとはなりません。しかし、みことばがのべ伝えられるところでは、それは、どこでも、すべての人にむけて差し出されています。そして、これをしっかりと受けいれ、信じた人は、自分自身の罪にみちた誕生によって苦しむことがありません。

これが、みじめなアダムの誕生から、わたしたちがきよめられる方法であり、またこのゆえに、キリストは人となって生まれることをよしとされたのでした。それは、わたしたちがキリストにあって再び生まれるためです。「み旨により、彼は、真理のことばによりわたしたちを生んでくださった。それは、わたしたちが再生し、新しいものとなるためである」※。このようにして、キリストはわたしたちからわたしたちの誕生を取り去り、それをご自分の誕生の中に沈みこませ、そのかわりにご自分の誕生をわたしたちに与えてくださいました。それによって、わたしたちが新しくきよいものとされ、あたかもキリストの誕生がわたしたち自身のものであるかのようになるためです。ですから、すべてのキリスト者は、自分もマリヤから生まれたかのように、このキリストの誕生を喜び、栄光を帰さなければなりません。

これこそ、天使の語った大きな喜びです。これこそ、神の慰めであり、すばらしいめぐみです。もし信じるならば、この宝を喜び、マリヤが母となり、キリストが兄弟となり、神が父となるのです。そこで、この誕生があなた自身のものになり、キリストと交換したことを、おぼえましょう。信じるならば、あなたの誕生は捨て去られ、主の誕生を着ているのです。こうして、あなたは、たしかに、処女マリヤのひざにすわり、彼女の愛する子とされているのです。

(『ルターによる日々のみことば』鍋谷堯爾編訳12月25日から引用。の新改訳聖書の表現は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」である。※はヤコブ1・18のルター訳であろう。さて、赤子の誕生は無条件に普通、人は「おめでとう」と言って祝う。ところが、ルターは、その誕生がのろわれたものである、と言う。なぜだろうか、それは確かに肉体の誕生は喜ばしいが、人は神を認めない罪人として生まれたままであるなら霊的には死んでいるからである。しかし、そのような人間を見るに忍びない神様は2000数年前に処女マリヤの胎をとおして御子イエスを生まれさせ、私たち人間の救いの道を開いてくださった。こうして神の御子の誕生を信ずる者が罪と死から解放され、永遠に生きる新しいいのちにあずかれる道が開かれたのだ。将来は罪の結果である「死」しかなかった人類に、新しく永遠に神のいのちに生きる道が備えられた。だから「クリスマスおめでとう!」とキリスト者は心から言うことができる。Merry Christmas!)

2013年12月24日火曜日

大きな喜び

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2・10〜11)

「あなたがたに」というひとことは、わたしたちを喜びでいっぱいにします。このことばはだれに向けて語られているのでしょうか。木にですか、石にですか。いえ、これは人に向けられて語られているのです。ひとりにですか、ふたりにですか。いえ、すべての人に向けて語られているのです。では、わたしたちはこのことばをどのように理解すべきでしょうか。なおも神のめぐみを疑って、「ペテロやパウロならば、救い主のこられたことを喜ぶことができるだろう。しかし、わたしはできない。わたしはみじめな罪人で、これはあまりにもわたしのためにはもったいない宝である」と言うでしょうか。

兄弟たちよ。もし、あなたがキリストはわたしのものでないと言うならば、では、キリストはいったいだれのものですか。あひる、が鳥、牛などを救いにおいでになったのでしょうか。ここで、キリストがどのような姿か見なければなりません。もし他の被造物を救いにこられたのだったら、たしかに、その被造物のすがたをおとりになったにちがいありません。しかし今や、キリストは人の子となられたのです。

そして、あなたは、いったいなんですか。わたしはなにでしょう。わたしたちも人の子ではありませんか。たしかにそうです。では、人を除いてだれがこの幼な子を受け入れるでしょう。天使はキリストを必要としません。悪魔はキリストを嫌悪します。しかしわたしたちはキリストを必要とし、わたしたちのために、キリストは人となられたのです。こうして、ここで天使が、「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」と告げているように、わたしたちは心からの喜びをもって主を受けいれましょう。

(『ルターによる日々のみことば』鍋谷堯爾編訳12月24日より引用)

2013年12月23日月曜日

飼葉おけのイエスさま

クリスマスものがたりから ホフマン画
ベットがないので、飼葉おけの中で、
小さいイエスさまは、かわいい顔して寝ている。
晴れた空から、お星が見下ろすと、
小さいイエスさまは、まぐさの中で寝ている。(一節)

牛がモーとないて、赤ちゃんは目を覚ますが、
小さいイエスさまは泣かない。
わたしはイエスさまが大好き!
空から見下ろして、わたしの揺りかごのそばに、朝になるまでいてください。(二節)

現在、教会学校や礼拝で普通に行なわれている会衆による賛美が、どのような変遷をたどって今日に至ったかについては興味深い物語がある。四百年余り前までは、一般会衆はいかなる礼拝でも歌うことは決してなかった。音楽は司祭と特に選ばれた聖歌隊だけが演奏した。それどころか、歌だけでなく、礼拝は始めから終わりまで、会衆の大部分には全く意味のわからないラテン語がもっぱら用いられていた。

ヨーロッパにおける宗教改革と同時に、幾つかの日常語による賛美歌が礼拝用に作られた。しかし、一般会衆の賛美を推進し、またそれに表現力を与えるためには、才能に富んだ指導者マルティン・ルターの出現を待たなければならない。宗教改革の著名な指導者となったルターは、1483年貧しい鉱夫の子として、ハルツ山脈のふもとのアイスレーベンで生まれた、彼は音楽に天賦の才能を持ち、優れた声楽家であっただけでなく、自分でもフルートやリュートを演奏した。

フランシスコ会修道院の修道院付属の学校の生徒であった時、たびたび金持ちの家の窓の下で美しい声で歌い、施しを得ては貧しい人たちに分け与えた。クリスマスの季節には、友人といっしょにキャロルを歌いながら、近くの村々を回ったこともある。ルターにとっては、音楽は神の賜物であり、恵みであり、悪魔を追い払い、すべての人に怒りを忘れさせるものであった。

したがって、後年ルターが会衆賛美の奨励に最大の関心を示したのは当然のことである。「歌によっても、人々の間に神のみことばが定着するために、私は賛美歌を作りたいと考えている」と彼は語った。人々は自国語の聖書と同じように自国語の賛美歌を持ち、「神のみことばを読み、自分たちの歌によって神に語りかける」ことができるようになった。礼拝はもはやラテン語ではなく、一般民衆のことばによるようになったのである。

最初の賛美歌集は、ウイッテンベルクで1524年に出版された。載せられたのはわずか八曲だけで、そのうち四曲はルター自身の作品であった。小冊子ではあったが、民衆の要望に答えて、華々しい売れ行きを示した。

ひとたびルターの詩的才能が開かれると、後は堰を切った水のように次々と新しい賛美歌が誕生したので、世人は彼のことを「ウイッテンベルクのナイチンゲール」と呼ぶようになった。最初の賛美歌集が出版されてから二十年も経たぬうちに、少なくとも百十七冊がルターとその仲間によって出版され、ドイツは文字どおりの「歌の海」となった。このようにして、偉大な改革者は会衆賛美の父としても知られるようになり、彼の指導の下に急速に普及していった。1529年ごろに書かれた、かの有名な賛美歌「御神は城なり」(聖歌233番、賛美歌では267番「神はわがやぐら」)は、詩篇46篇から霊感を得たもので、今なお傑作の一つとされている。

ルターはまた、子どもにも彼の心を伝えようとして、子ども用に楽しい曲と、これにあった魅力的な歌詞を作った。最も優れたものの一つは、「わたしの心よ」(聖歌666番)と題するものである。世界中の子どもが喜びをもって久しく歌ってきたあの短い子守歌「飼葉のおけですやすや」は、息子のハンスのために1530年のクリスマス祝会用に書かれたものであろうと考えられている。この歌は、飼葉おけの中の御子イエスを実にやさしく、美しく描いているではないか。そして第三節は、私たちがいっしょに学び、いっしょに祈りたいと願う、主への祈りなのである。

どうかイエスさま、わたしのそばにいてください。
いつまでもそばにいて、わたしをかわいがってください。
どうかみんなの子どもをやさしく守って
わたしたちが天国で、
あなたのそばに行けるようにしてください。(三節)

(『賛美歌物語』セシリア・M・ルーディン著安部赳夫訳7〜10頁より引用、少し訳を省かせていただいたところもある。この賛美の曲は様々な形で聞くことができるが、私個人としてはhttp://www.youtube.com/watch?v=rLTvaw7lnIg が、落ち着いていて原歌詞のイメージに忠実だと思った。)

2013年12月19日木曜日

クリスマス、そは約束の成就

芦ノ湖畔 2013.12.2 by N.Y
神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3・14〜15)

救いの黎明は、蛇に下された宣告のなかに最も明瞭に現われている。この章節で、福音の最初の約束が明示していることは、陰惨な怒りを貫いて流れている恩恵が、蛇に対する呪詛を人間に対する約束に一変せしめているということである。罪人[アダム]が罰の宣告を待ちながら、被告として神の御前に立っていたときに、直接に約束が与えられることはもちろん考えられないことである。にもかかわらず、宣告を待ちながらふるえているアダムにとって、自分を罪におとし入れた者に対する断罪の宣告は、希望の光たらざるを得なかった。従って「最初の福音の表面は審判であったが、裏面は人類に対する約束を意味したもので」あった。

はじめには、その預言の意味がまだ漠然としている。なぜなら、もしもサタンが蛇によって代表されるならば、蛇の「子孫」は神に敵対する「まむしのすえたち」(マタイ伝3・7、12・34、23・33)としてすべての悪魔の側に立つ悪霊的なもの、人間的なものの全体にほかならない—従って一人の個人ではなくて、多くのものを指すのである。しかしその場合には並行的な対句と対句との調和の点から言って、女の子孫もまた単なるひとりの人ではなくて、やはり多くの子孫、すなわち信仰をいだきつつ女に与えられた約束の基盤の上に立つ人々全部のことでなければならない。

女の子孫もまた、いつかは一人の個人において頂点に達するであろうという観念を、原始の人類はただ間接的にしかもつことができなかった。なぜなら、預言の終句には、女の子孫が蛇の多くの子孫を砕くばかりでなく、その頭である蛇そのものを砕く、と書いてあるからである。このことから多分、女の子孫そのものもまた何時かは一つの頭、一人の人において頂点に達するであろうと認められるからである。

今日、ふり返ってみて、それ以後の預言や成就を解釈することによって(ことにイザヤ書7・14、マタイ伝1・21〜23、ミカ書5・2、ガラテヤ書4・4)、はじめてわれわれは、神がここで初めて—絶対的にではないが暗示的に、いな、主として—御子キリストのことを話されたのであることを悟る(ロマ書16・20、ヨハネ第一書3・8)。人類の中心であるキリストは、同時に、女の子孫の中心である。このことからのみわれわれは、神がなぜ男の子孫と言いたまわず、女の子孫と言いたもうたかを、理解できる。

イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。(マタイ伝1・18)

そしてそれと同時に、その頭を踏み砕き、かかとにかみつく、という預言によって、「メシヤの受くべき苦難」(「かかとにかみつく」を参照)及び「その後の栄光」(「頭を踏み砕く」を参照)を予告している、驚くべきほど多くの神の言明が始まったのである(ペテロ前書1・11)。それゆえに、これ以後のすべての預言のもつ二重性格—すなわちキリストの初臨と再臨とを一つの画像において見ること—が、すでにここに現われている。そしてこの意味において、原始福音はメシヤ預言の根源であるばかりでなく、原型でもあるのである。

このようにその最初の約束の言葉がまた最も包括的で最も深い約束の言葉でもあった。この言葉のなかに救拯史全体と、その順序とが秘められている。「一般的で、不定で、その太古のごとく漠然と、神秘的な宮殿の残墟の前に立つ厳かなスフィンクスのように、この最初の約束の言葉は、くすしく聖く失われた楽園の入口に立つ。遠からずしてイスラエルの預言のなかで、この約束の言葉の解決が明らかになり始める。われわれすべてのために蛇の頭を砕くために、われわれすべてに代わって蛇にかかとをかまれた処女マリヤの子、かれがはじめてこのスフィンクスの謎を解いた。それは聖徒にとっても預言者にとってもときがたい謎であったのである(マタイ伝13・17、ペテロ前書1・10〜12)。かれはこの謎を成就して、これを解いたのである。約束の絶頂—インマヌエルかれ自身—のみが、約束の意味の内容を明らかにしたのである。「新約のみが旧約のこの象形文字を解く鍵である。福音のみが原始福音の解答である。」

(『世界の救いの黎明』92〜93頁より引用。引用にあたっては一部ことばを変えたところがある。たとえば「子孫」とあるところは原翻訳では「苗裔(すえ) 」とある。)

2013年12月18日水曜日

永遠者を尋ねて

京都市美術館 2013.11.29 by N.Y
「永遠者について尋ねる人が幸福なのではない、永遠者尋ねる人が幸福なのである。」

世界の創造・救い・完成、これら三つの問題はさながら三つの際立った崇高な象形文字であるかのように、人類の精神史のなかに示されている。かつてどの民族も、これらの問題の前を不注意に素通りしたことがない。それどころか、あらゆる時代の最も偉大な人々が、これらの問題を解こうと努力して来た。

しかし解答は多種多様であり、矛盾したものでもあり、しばしば全く不可解なものでもあった。あとからあとからと、思想体系が考え出され、あとからあとからと、宇宙創成論は現われた。一人の人の思想や論説が倒れ去った廃墟の上に、他の人が自分の思想構造を建設する。そして今日でも人間はまだ、その精神の全精力を挙げて、解答を得るために苦闘している。

しかも、解答はすでに、あったのである。神御自身がそれを明確に与えられたのである。神の永遠の思いは決して、地上のすべての事柄の成り行きとかけ離れて流れていく単なる「観念」ではなく、創造的な行為であって、それは同時にすべての歴史のうちに直接結合し、歴史にしっかりと深く織り込まれており、すべての歴史の「なかに、と共に、下に」よく現われている。「あらゆる時代の歴史は人類の歴史である、そして人類の進歩は—神の歴史である。」

しかし神の与えたもう解答は、彼自身である。彼の御子のペルソナにおける彼御自身の存在である。永遠の「主」として、御子は、全宇宙におけるすべての神の啓示の中心であり、太陽である。

万物は神に由来する。ここに過去の原始すなわち、世界創造の本質が顕われている(コロサイ1・16、ヨハネ伝1・3)。

万物は神によって完成される。これが現在の問題、すなわち世界の救いの過程を、説明する(ロマ書11・36)。

万物は神に帰ろうとしている。ここにすべての未来の目標、すなわち世界の完成の本質的性格が、顕われている(コリント前書15・28)。

このように、キリストにおいて啓示された主なる神は、あらゆる時代の磐であり、あらゆる存在の人格的な、生ける第一の基礎である。

しかし、永遠の言は語られた言を通して啓示され、語られた言は書かれた言となり、書かれた言は聖書となった。かくて、聖書は世界の出来事を解く鍵であり、人類の書であり、歴史の唯一の書である。

それゆえに、すべてはこの書を理解することに懸かっている。聖書なしでは、全く光のない地下牢のなかで手探りで廻っているのにすぎない。しかし聖書の光の臨む人には太陽が、天とその栄光の輝きをともなって臨むのである。その人の歩む途には光明が射し、その人の生活は光となり、時は変貌して、神のものが勝ち、こうしてその人は「今が永遠である」というあの偉大な言葉をますます理解するようになる。

(『世界の救いの黎明』エーリッヒ・ザウアー著聖書図書刊行会1955年刊行、序より引用。ペテロは言っている。「私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです」2ペテロ1・19。一方ソロモンは「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」伝道3・11と言った。ザウアーの最後の数節を読みながら、このふたつの聖書のみことばを想起した。)

2013年12月9日月曜日

東京三六会

滋賀・西明寺 2013.11.30 by N.Y
 先週の土曜日は卒業した高校の同期会に二年ぶりに出席した。卒業年次昭和36年にかこつけて「東京三六(さぶろく)会」※と名づけるこの会は、丸の内の某所で毎年12月の第一土曜日に東京在住者を中心に近辺に住む者が集まることになっている。今年は通算で30回目であったが、男子25名女子6名が集まった。私自身は過去5、6回ほど参加したに過ぎないから、あまり熱心な参加者とは言えないが、それでも常連の人たちが皆暖かく迎えてくださるのでありがたい。

 このような集まりがどのようにされているのか寡聞にして知らないが、多分そんなに大差はないのではないか。配膳された寿司などを一緒につまみ酒を汲み交わし、互いに旧交をあたためあうのがその要諦ではないか。古希を迎えただけに恐らく30年前と異なり、酒量も減り皆穏やかになってきているのではないだろうか。いつもは元気なM氏が病気のため欠席だからなおさらのことだった。

 幹事役が二名で会費徴収と司会進行役をつとめられる。終始落ち着いた雰囲気で会は進行する。この日は幹事の願いを受けて一人の方によるレジメを使っての「道中記」(「めいぶつの くうが無筆の 道中記」)の「講義」があった。江戸時代にはこのような日記がたくさん物されたようだ。当時の各地方の町人たち(昭島、鶴岡、熊谷、安中、世田谷)がお伊勢参りなどを目的に日本国内を歩き回っての見聞記録は一つ一つ興味があった。その中でも焦点は近江路にあったので、東京くんだりに居て、ふるさとを通過された古人の足跡を想うことは、同期会でタイムトンネルをくぐり抜け青春に帰る所作に通じて不思議な感慨を覚えた。

 そのあと参加者が与えられた一人二分の持ち時間を利用してこもごも互いの近況報告を皆の前でマイク片手にする時が来た。これがメインイベントであろう。二分などとっくにオーバーして司会者をひやひやさせる御仁もいるにはいるがそこは大目に見て会は進む。 ほとんどの人がリタイアしているので仕事の話はなく、病気や趣味の話が中心であったように思う。私も三、四人目に順番がまわってきて話をしたが他愛もない話になった。幸い座について落ち着いて他の方の話に耳を傾けることができた。後半の方で一人の方が、今年は初めて病気になって入院し、心細さを覚え、人生について真剣に考えるようになりました。大学はミッションでしたが、神様を「礼拝」することなどについて考えて見たい心境になりました、という意味のことを話された。

 内心驚いた。私はこの同期会に出席するにあたって、「主を求める方に出会わせてください」と祈っていたからである。31人で都合三時間余りではお互いに交流を深めることは不可能だが、古希を迎えて忍び寄る死、限りない生を思うから、若いころと違ってどなたのどんな一言も傾聴するに価すると思った。しかし、私自身としては主イエス・キリストについて旧友に個人的に語る機会はついぞ与えられず、不満を残したままの帰宅となった。家に帰り、今回は病で出席することの出来なかった京都在住のいとこに早速電話で見舞いを兼ね、会の様子を少し報告できたのが、責めてもの慰めとなった。

 一日経ち、果たして、私はこのような同期会に出席する意義があるのかと考えざるを得なかった。ついでながら今の話とは矛盾するが、私は来年の幹事をもうひとりの方と引き受けることになった。しかも片割れは同姓同名の方であった。入学の呼名の時、私が並んでいるクラスに来る二、三クラス前に、私の名前が呼ばれ、名前を呼ばれて立った人がいた。その人が立つまでは自分はそそっかしいから列を間違えたのかと思いもしたし、それともほんとうに合格したのだろうかと自分の呼名がなされるまでは心が落ち着かなかった記憶がある。結果は姓名のまったく同音の方がもうひとりいたのだ。高校在学中はその方とは一緒にならなかったのでどんな方か知らなかったが、まさかその方と来年の幹事をすることになるとは。だから元々意義があるやなしやの次元の話ではないのだが・・・。

 しかし、昨日の日曜日の福音集会で一人の方のメッセージをお聞きするうちに、私が同期会を軽視しようとしている考え方が間違っていることに気づかされたのである。諄々と語られるメッセンジャーはもちろん私の土曜日の同期会出席のことなど皆目ご存じないのは言うまでもない。しかし、まるで私が心の中で同期会出席の是非を求めて煩悶していることを諭すかのように静かに語られたのであった。その方のメッセージの中で「人は人として知らなければならない大切なものを知らなければ真の心の安息を得られない」という意味のことをしきりと語られていたからである。

 人は同期会になぜ集まるのだろうか。それは少しでも互いが生きていることを励まし合いたいのではないだろうか。そしてその心の希求するところは真の生き甲斐を求めてのことではないだろうか。だとすれば、私はそれらの方々に直接主イエス様のことを伝えられないからと言ってどうして忌避する理由があるのだろうかと思わされたからである。

 そのメッセンジャーの方は臨終を迎えた一人の若い女性のことを紹介してくださった。彼女は死を前にした全くの孤独の中で、病室の窓外にたたずむ裸木ではあるが生きているマロニエの木を見つけ、「わたしはここにいるよ」という声、「永遠のいのち」の語りかけを聞いたと言うことだった。「こんなひどい運命に会わせた運命に感謝しています」とも彼女は語ったということであった。同期会のつぶやきこそ、主イエス様ご自身が一番聞いておられる人間の悲痛な叫びでないだろうか。だとしたら、私のような罪赦された罪人がどうして忌避する理由があるのだろうか。来年は幹事として備えたい。そう言えば、現幹事の一人は別れ際、私への引き継ぎを念頭においてであろう、「キリストの精神でやってくれるんだろうな。ちゃんとやってよ!」と言い置き、足早に立ち去って行った。

 最後に昨日のメッセンジャーがメッセージの中で引用された聖句の一つを以下に掲げておこう。

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119・71)

(※どこかで書いたように思ったら、このブログですでに書いていた。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2010/12/blog-post_08.html

2013年12月7日土曜日

備えあれば憂いなし(下)

イエス様の「再臨」の日のカーテンの後ろにわれわれの信仰の現われがあります。イエス様はわれわれに見えるようになるのです。私たちはイエス様はすべてのもののすべてであるという目標を持っています。

イエス様のこの「再臨」の日は、われわれの生活におけるもっとも大きなたいせつな日です。ですから、私たちの生活にとって、この日が力強い原動力となるべきです。イエス様の「再臨」はわれわれに道を示してくれます。この目標の偉大さが考えられないほど重要なのであります。私たちがあらゆる認識を信仰の中にはっきりと自分のものとすれば、その認識がわれわれの生活に意味を持ち、役に立ちます。すなわちイエス様の将来、私たちのイエスと会う日(が)、信仰によって自分のものとならなければならない。「再臨」の日が自分にとって事実とならなければなりません。そして、この事実がわれわれの日ごとの生活に役割を演ずるのです。もしもイエス様と会うことに向かって急ぎたいならば、私たちはイエス様のものとならなければならない。なぜなら、イエスに属する者だけがその日に空で主と会うようになるからです。

パウロはロマ書の中で、8章9節

キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

ですから、キリスト教に入ることによって、ある教会の会員によって救われるのではない。キリストの御霊を持たない者はキリストのものではない。結局、聖霊の宿になることがまことの救いそのものである。パウロは書いたのであります。同じく5章5節

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

「私たちに与えられた聖霊 」これこそもっともたいせつなのではないでしょうか。コリント第一の手紙の12章、主な内容とは結局、教会とは人間の造ったものではなく、イエス様のからだのものです。イエス様はかしらであり、このかしらとつながっている者は本当の教会です、12章の13節。

私たちはみな、・・・一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

と、あります。イエス様の「再臨」は、イエス様の死と復活と五旬節と実に密接なつながりがあります。私たちがこれらすべての救いのための事実を自分のものとすれば、私たちは「再臨」の日に燃えることのない金や銀となって耐え通すことができます。イエス様の十字架においてイエス様とともに変えられた者がイエス様に属するのです。私たちはイエス様に、われわれ自身より、われわれの持てるものすべてを、われわれの罪、悩み、病、困難などすべてをささげるのです。するとイエス様はそれらすべてを受け取り、われわれの罪の結果を担ってくださるのです。すなわち、その現われは十字架の死です。けども私たちがイエス様を、主のいのちを、そしてイエス様が持っておられるすべてのものを、すなわち、罪の赦し、イエス様の義、また主のいのちを受け取るのです。いのちのやりとり、それは完全にお互いに与え合うことです。イエス様はわれわれの罪の罰を十字架で担い、イエス様のよみがえりのゆえに、主のいのちはわれわれのうちによみがえっているのです。これが信ずる者の一番たいせつな経験です。すなわち、イエス様がわれわれの救い主となり、私たちがイエス様のからだの肢体となるのです。

イエス様は信ずる者すべてに与える聖霊によってわれわれのうちに生きておられます。私たちはこの最初の経験を体験的に知っているでしょうか。イエス様の「再臨」の日を考えると、もっともたいせつな、そして個人的な質問がそこにあります。すなわち、私はほんとうに永遠のいのちを持っているのでしょうか。私たちはイエス様をわれわれの救い主としてほんとうの意味で経験しているのでしょうか。

もし誰かが、ある若い娘さんに「あなたは結納を済ませましたか」と尋ねれば、その娘さんは「ハイ」または「イイエ 」と答えることができます。けど彼女があなたに「そんなことがどうしてわかりましょうか」と答えたら、あなたは何かおかしいと思うのではないかと思います。これと同じように主のものであるかどうか、または今日からイエス様のものになりたいなのかどうか、人々は本当にはっきりと確かに知ることができます。この決定をする者がイエス様に属し、その時からイエス様とともに歩むのであり、その人のいのちは全く新しい内容、すなわちイエス様は私たちのいのちであるということを知るのです。もし私たちがこの最初の経験をしたのなら、イエス様はわれわれに新しい歩みのために、奉仕するために必要な力を必ず与えてくださいます。

イエス様は五旬節の時、弟子たちに与えられた力、また装備をわれわれにも与えたいのです。聖書は簡単に言っています、「一同は聖霊に満たされた」(使徒2・4)と。この装備なしには私たちはその「再臨」の日に主の前に耐えることが出来るような生活をすることがもちろんできません。聖霊の力なしにはだれも聖霊による生活を送ることはできない。 すなわちイエス様の光に耐えたいと思う者は聖霊に満たされなければなりません。

私たちが自分の生活に聖霊がつく貢献をいかに十分持っているか※、また私たちが聖霊は主であるとどれだけ良く知っているか否かはわれわれの意志の決定にかかっています。もし私たちが聖霊にわれわれのすべてをささげるならば、聖霊はすべてを受け取り、私たちを完全に満たします。もし私たちが本当に主イエス様のものであるならば、聖霊は私たちのうちに宿っているはずです。その私たちのうちに住まれる聖霊の第一の働きの結果は、聖霊が私たちをイエス様とのより深い交わりに導くということです。

聖霊はわれわれを祈りに追いやります。聖霊は私たちに主の前にあって正しい道を指し示すのです。聖霊はただ一つの願い、すなわち、私たちがより良く、より深くイエス様を知るという要求を持っています。聖霊に満たされている人々は、平安を好む人々であり、祈りの人です。聖霊は信者をイエス様の姿に立ち帰らせるという大きな使命を成し遂げるために(働いてくださいますが、私たちにとって)主の前に過ごす時間が何と必要なことでありましょうか。ヨハネは簡単に当時の信ずる者を励ましたのです。

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(1ヨハネ3・3)

もう一ヵ所読んで終わります。コロサイ書3章の3節と4節、360頁です。

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ3・3〜4、1〜2)

イエス様は近い。来られます。 このことばこそ初代教会にとって考えられないほどたいせつでした。「イエス様はすぐ来る」このことばは口から口へ語り伝えられ、そしてこのことばは当時の証し人たちに迫害の最中において絶えず力を与え、喜んで死の旅路につかせたのでした。彼らは欺かれたのでしょうか。それとも彼らは空しく待っていたのでしょうか。イエス様が「わたしは再び来る、しかしその時と場合は父が定めておられる」と語られましたから(そんなことはありません)。と言うのも、このことばは生き生きとした信仰の本質をなすものであり、イエス様の「再臨」の事実が目の前に生き生きと認められるのです。すなわち多分今日かも知れない。「再臨」を待ち望むことこそが考えられないたいせつなのではないでしょうか。思い煩い、心配、恐怖、孤独から解放されるからです。その時は近い、と主は呼びかけておられます。イエス様はすぐ来られるという事実を信じましょう。

(※この箇所は何度聞いてもそのようにしか聞こえないが、日本語としてはわかりにくい表現になっている。前後関係から類推するに「私たちが聖霊に支配されるために自分をどれだけ明け渡しているか」という意味でないかと推察する。次回の家庭集会は来年の1月15日午後2時からです。)

2013年12月6日金曜日

備えあれば憂いなし(中)

イエス様のからだの肢体である者が確実に明らかになります。 パウロはエペソにいる兄弟姉妹に書いたのです。ひと文章だけですが、エペソ5章の30節(です。)

私たちはキリストのからだの部分だからです。

有機的に主と結びついているのです。イエス様は信者たちを呼び、そして彼らはイエス様の方に向かって急ぎます。すなわち、墓場から、海から、または信ずる者のからだのある所どこからも、信ずる者のからだはこの偉大な第一の復活の日をともに祝うためによみがえるようになります。また、その日にこの地上に永遠のいのちを持っている救われた人々は特別な特権を持っています。すなわち彼らは死を見ず、墓を知らないのです。すなわち彼らは一瞬にして変えられ、一瞬にしてよみがえりのからだを得るのです。

すべての本当に救われた人々のために、その救われた人々がその日に死んだにしろ生きる者に数えられるにしろ、この日は死に対する勝利です。救われた人々は新しいからだをもって、会うようになります。このからだとはイエス様がよみがえりの日に身につけたと全く同じよみがえりのからだです。この事実について、いわゆるよみがえりの書に書かれています。よみがえりの書とはコリント第一の手紙15章なのではないかと思います。311頁です。コリント第一の手紙、先ず15章23節

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 

それから、51節52節

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、・・・一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

とあります。その日にはまた多くのことが起こります。私たちがキリストにあったということが明らかになります。そしてキリストにおける新しく造られた者は一瞬にして完全になると聖書は言っています。よく引用される箇所ですけど、428頁です。ヨハネ第一の手紙、428頁、3章の2節。

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

なお私たちの身についている全ての汚いものは清めをし、私たちのうちにあるイエス様はすばらしき形のうちに姿をあらわされるのです。その時、次のことばは全く完成されます。すなわち『古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった』(2コリント5・17)蝶々がさなぎを脱ぎ捨て、つばさを広げると同様に、古きものはわれわれの中から取り去られ、そこにはただ新しいものがあるのです。この瞬間に、すなわちこの世でもっとも大きな悩みであったわれわれのうちにある罪がもはやなくなるとき、そして罪の因(もと)、すなわちわれわれの生活の最も深い悩みであるその因(もと)がなくなるとき、すべてが新しくなり変わり、われわれの願いは完全に満たされるのです。しかし、その偉大な日には、私たちの全生活もまたイエス様の光の前に現われるのです。心の中にイエス様の姿を宿している救われた一人一人は主の恵みの座の前に立つようになります。

パウロはこの事実についてコリント第二の手紙の中で次のように書いたのであります。コリント第二の手紙の5章、320頁です。5章の10節です。

私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。 

と。聖書には二つのさばきがありますが、これは栄光か、または破滅かを決定するさばきではありません。その日、この世における一人一人の救われた者の生活・働きが主の火によって明らかにされるのです。すなわち信ずる者の行なった結果によってイエス様は救われた人々に報酬、報償、王冠を分け与えるのです。コリント第一の手紙の中でパウロはこの区別について次のように書いたのです。結局二種類の信ずる者がある、239頁ですね。コリント第一の手紙3章11節から15節までお読み致します。

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

その火がわれわれの生活を明らかにします。すなわち聖い火が、金・銀・宝石と木、枯れ草、わら、すなわちイエス様から出たものか、または自分から出たものかを明らかにするのです。失われるいのちは何と悔やまれることか、それは取り返すことができません。永遠の実を結んだいのち、これは大きな喜びであり、勝利です。もしそのとき、主はわれわれに次のように言うことができれば本当に幸いです。マタイ25章の21節。

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

世の中の人々の目に大きく映り、そして多分信ずる者たちの前にも大きく見られる多くの人々は彼らの生活が木や枯れ草やわらのように火の中に消えるでしょう。それとは反対に人々から忘れられ、隠れた生活をした人々、そして信ずる者同士に語られなかった多くの人々は金(きん)を与えられるでしょう。われわれの生活に何が残るのでしょうか。私たちは本当にイエス様から出てイエス様のために生活したか、それとも自分から自分のために生活したか、どちらかでしょう。その火がそれを明らかにします。その日は真の救われた人々にとってすばらしい日です。聖書はそのすばらしさを表現するためにただひとつのことばで表現しています。すなわち、「栄光」ということばです。コリント第一の手紙2章9節を見ると次のように書かれています。292頁ですね。コリント第一の手紙2章9節。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

とあります。「栄光」ということばはロマ書8章の18節に出てきます。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

大いに悩んだ、何回も刑務所に入れられたパウロの告白です。今の時のわれわれの悩みはいかに重く深いことでしょう。しかし、この「栄光」はそれに比べると限りなく大きなものであり、この世の苦しみは将来の栄光に比べると言うに足りないとパウロは経験したから当時の信ずる者を励ましたでしょう。また13章ですね。ロマ書13章。パウロは結局今覚めるべき時刻だよと書いたのであります。13章11節から

あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

(今日のメッセージの後半に非常に印象的な言い回しがなされていることに読者は気づかれることでしょう。そしてこのように語れるということは、この方がいかに主の前に小さく小さくなっておられる存在であるかがわかるというものではないでしょうか。その秘訣はどこにあるのでしょうか。明日もこの項は続きます。ご期待ください。)

2013年12月5日木曜日

備えあれば憂いなし(上)

引用聖句 マタイ25章1〜13節

今お読みいただいた最後の13節「目を覚ましていなさい」、これこそが単なる提案ではなく、命令です。そして、われわれが覚えるべきは「もうちょっとで、イエス様が来られる」なのではないでしょうか。


ヘブル書の著者は書いたのです。ヘブル書9章28節

キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

とあります。また10章37節

もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。

とあります。「頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」と、ルカ伝の中でも言っています。イエス様を知るようになった人々は確かに輝くすばらしい将来を持っています。イエス様は彼らにとって道であり、真理であり、またいのちであるからです。イエス様なしの将来は真っ暗闇です。イエス様を知るようになった者は悩みながら喜ぶことができます。なぜなら、彼らは知って確信しているからです。すなわち、もうちょっとでイエス様はお出でになります。そして今日かも知れないと考えると嬉しくなります。どういう状況に置かれても、どういう問題があっても、私たちは希望を持って将来に向かうことができるのです。

今の世を見てもはっきり言えることとは、今の世界の歴史の夜の時と言えるのでないでしょうか。真っ暗な夜の時に向かって歩いています。 毎日のニュースを聞くと、今の世界を見ると、良くなる可能性はないと、誰でも認めざるを得ません。けれども、次の世界の大きな出来事は「再臨」です。すなわちイエス様の日です。すなわちイエス様は雲に乗って再びお出でになり、主の恵みによって救われた人々を再びご自身のもとに引き寄せ、空で彼らにお会いになる、その日のできごとです。聖書は将来のこの偉大な出来事について多くのことを言っています。いわゆる「空中再臨」のことを考えると、恐らく誰でもテサロニケの第一の手紙4章を覚えるのではないでしょうか。366頁になります。テサロニケの第一の手紙4章13節から。パウロはどうしてテサロニケの兄弟姉妹にこの箇所を書いたか。必要だったからです。彼らもいろんなことで悩んだり、どうして、なぜ?と考えた人々がいます。答えとしてパウロは書いたのです。13節から

眠った(すでに死んだ)人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(1テサロニケ4・13〜18)

この箇所に三つの事実が明らかにされていますね。第一番目、イエス様ご自身が天から再びお出でになる、ということです。二番目、イエス様にあって死んだ人々のからだがよみがえる、ということです。三番目、それから生き残っている主の恵みによって救われた一人一人が変えられ、よみがえった主のものになった人々とともに雲の中で主イエス様に会う、ということです。

イエス様はお出になります。私たちも準備をしなければなりません。もし準備がなければあとで後悔します。将来に備えるために、私たちは将来のことをもちろん知らなければなりません。イエス様の再臨の日は、大きな啓示の日です。すなわち第一番目、イエス様が信ずる者の前に姿を現される日です。二番目、イエス様に属する者がイエス様の前に姿を現わす日です。私たちはイエス様のまことの姿を見るのです。それは想像できない、すばらしい瞬間です。イエス様のまことの姿を見るということは考えられないことでしょう。目に見えない方は、その覆いを脱ぎ捨て、イエス様はわれわれの目の前に、深い愛と聖さに包まれて、またこの上もなく力強い神聖さと栄光に包まれて立たれるのです。マタイ伝17章1節に、三人の弟子は主の栄光を見たのである、とありますね。17章1節、2節。

それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

この山の上におけるイエス様の変容は来たるべき日に私たちが見るであろうところのものの単なる予感に過ぎません。イエス様は昇天なさったとき、弟子たちはすばらしい約束を聞くようになりました。使徒行伝の1章11節

「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」 

とあります。イエス様が再び来られます。この日は主が昇天された日と全く同様に確かであり、事実であり、歴史的な真実です。イエス様はあのとき、信者たちの目の前で消えたと同じように、現われます。けれども、「再臨」の日は信者たちの前にイエス様が姿を現す日だけではなく、今話したように、二番目、イエス様の前に信ずる者が現われる日でもあります。その日には本当に信じていた人々、すなわちイエス様との有機的な結びつきを持っていた者が明らかにされます。ただ口で『主よ、主よ。』と言っているなのか、あるいは本当にイエス様に、恵みによって救われ、永遠のいのちを持つようになったかが明らかになります。 次の二ヵ所を読むと分かります。両方とも厳しい箇所です。マタイ伝25章22節23節ですね。48頁。

二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 

本当にすばらしい褒め言葉なのでないでしょうか。今度はね、マタイ伝7章。全く逆のことが書いています。マタイ伝7章の21節から23節まで、お読み致します。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 

マタイ伝25章に出てくる五人の愚かなおとめと五人の思慮深いおとめの二つに分けられる、この大きな決定が行なわれるのです。この愚かなおとめたちはランプ、形式、外部の容れ物を持っていますが、彼女たちは油と中味と真のいのちを持っていなかったのです。すなわち、彼女たちはみことばを聞き、祈り、聖書も読みますけど、形だけだったのです。しかし思慮深いおとめたちは油、すなわち聖霊とまことのいのちそのものを、形もふくめて持っていました。その日は、愚か者と思慮深い者を分かち、その一方は「わたしはおまえたちを知らない」と言われ、もう一方は「お入りなさい」と言われるのです。

(昨日の家庭集会のベック兄のメッセージの聞き書きである。冒頭でベック兄は今日のメッセージの題名は「主の再臨と私たち」と言われ、他の題名としては「用意ができているの?」「備えあれば憂いなし」「愚かか賢いかのどちらか」が考えられると言われた。ここでは敢えて三番目の題を採用させていただいた。)

2013年11月19日火曜日

高き所へ向かって(完)

ユングフラウを仰ぎ見て 2010.10.8
彼女がこうして感情を爆発させている間、羊飼いは何か問いかけるような表情を見せていました。それから、ベールをかぶったふたりを見ながら静かに話し出しました。「そうか、喜(よろこび)と平安。それがおまえの選ぶお伴かね。私なら最高の案内人を選ぶと信じて、快く受け入れると約束してくれたのではなかったかね? 今でも私を信頼するかね、恐(おそれ)? このふたりと行くかね、それとも谷間の恐怖家の親族や脅多(きょうた)のもとへ帰りたいかね?」

恐(おそれ)は思わず身ぶるいしました。どちらにしてもぞっとしてしまいます。恐怖こそ彼女がよく知っているものですし、悲しみと苦しみこそは、彼女が最も恐れる体験なのです。どうしてそんな彼女たちと共に行けましょう。ふたりに振り回されてめちゃめちゃにされてしまってよいものでしょうか。彼女は羊飼いを見上げました。すると、彼を疑ったり彼に従って行くのをやめることなど、どうしてもできないと、急に思えてきました。ほかのだれをも愛せなくても、彼を愛していることは、みじめにふるえる小さな胸の中で、よくわかっていました。彼がどんな無理難題を言っても彼女は拒むことはできないでしょう。

一瞬つらそうに彼を見てから言いました。「帰りたいかですって? 羊飼い様、どこへですか?  私にはこの広い世界にあなたしかいないのです。どんなにたいへんでも、どうか私がお従いできるよう助けてください。あなたをお慕いすると同時に、本当に信頼することもできるよう、どうぞ助けてください。」

羊飼いは、このことばを聞くや顔を上げ、勝ち誇ったように喜びの笑い声を高く上げました。それはこの小さな谷にこだまして、山全体が彼といっしょに笑っているように聞こえました。こだまは岩から岩へとはね返り、どんどん高く上がって行き、頂上へ届いたかと思うと、最後には細いかすかな響きとなって天国へと吸い込まれていくようでした。

こだまがすっかり消えると、彼の声が優しく聞こえてきました。「愛する者よ、おまえのすべては美しく、おまえは何の汚れもない」(雅歌4章7節)。そしてつけ加えて言いました。「恐(おそれ)よ、恐れることはない。ただ信じなさい。決して辱められることはないと約束しよう。悲(かなしみ )苦(くるしみ)と共に行きなさい。今彼女たちを喜んで受け入れることができなくても、この先、ひとりではどうすることもできない困難に出会った時には、信じて彼女たちの手に任せなさい。そうすれば、私が望む方向へまちがいなく連れて行ってくれるだろう。」

恐(おそれ)はじっと立ちつくして、勝利と喜びに輝く羊飼いの顔を見上げていました。それは、救うことと、解放することに最上の喜びを見出す人の表情でした。ふと彼女の心に、羊飼いの弟子が書いたある賛美歌のことばが浮かび、小声で口づさんでみました。

憂き悩みも 何かは
主を愛するわが身に
ほむべき主よ 愛させたまえ
なれをば なれをば(※)

私の前にもこうして行った人たちがいるのねぇ。そして彼らは、あとになってそのことを歌うことさえできるようになったんだわ。私は弱く臆病だけれ ど、だからといってあの方が私には真実をつくしてくださらないなんてことはないと思うわ。あの方はとても強く、しかもお優しいのだから。それにあの方の最上の喜びは、従う者をすべての恐れから解放して、ついには高き所へ連れて行くことなのだもの。」恐(おそれ)はそう考えました。そして、それならこのふたりの案内人と早く出発しよう、それだけ早く栄光の高き所へ着けるのだと思いました。

彼女はベールのふたりを見つめ、今までになかった勇気にあふれて一歩前に進み出ました。「あなたがたとまいります。どうか道案内をお願いします。」それでもまだ、手を差しのべて握手するまでにはいきませんでした。

羊飼いは再び笑い声を上げてから、高らかに言いました。「私の平安をおまえに残していく。私の喜びがおまえに宿るように。私は必ず山頂の高き所へおまえを連れて行くこと、そして、決しておまえが辱められるようなことはないと固く誓ったことを覚えておきなさい。さあ、私は『そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに・・・・山々の上のかもしかや、若い鹿のように』なろう(雅歌2章17節)。」

そう言ったかと思うと、もう彼は道のわきの大きな岩の上に飛び移っていました。そこから次々に岩を駆け上がり、見る見る高みへ移り行き、あっという間に彼女たちの視界から消えていました。

彼の姿が全く見えなくなった時、恐(おそれ)とふたりのお伴は麓の道を登り始めました。足を引きずるようにして高き所目指して歩き出した恐(おそれ)は、ベールをかぶったふたりの差し出す手など見えないふりをして、できるだけ離れて歩いています。もしだれかが見たら、なんとも奇妙な光景だったにちがいありません。けれども、だれも見ている者はありませんでした。というのは、雌鹿の足を得るための過程は極秘であり、決して傍観者があってはならなかったからです。

(『恐れのない国へ』63〜66頁より引用。※この歌詞は聖歌263番「いのりまつる」の三番目の歌詞であります。作者や曲については下記サイトをご覧になるとよくわかります。http://www.cyberhymnal.org/htm/m/o/morelove.htm 以上5回にわたって同著から一部の作品である「4、高き所」を紹介しましたが、ここには全部で「高き所」を始めとする20の寓話が納められてあり、続編の『香り高き山々の秘密』にはさらに18篇があります。全篇を読み終える時に、恐(おそれ)の名前がいかにして栄恵(さかえ)と変えられるか、一方新しくされた栄恵(さかえ)の祈りを通して故郷屈辱谷に住む一人一人もまたいかにして主の救いにあずかるものと変えられるか、私たちひとりひとりに潜む罪の性質を明らかにしつつ、主の御名に頼ることのすばらしさを高らかにほめあげんとする著者の意図が伝わってきます。まさしくこの本は現代版『天路歴程』と言っていい作品でありましょう。)

2013年11月18日月曜日

高き所へ向かって(4)

『恐れのない国へ』挿絵より写し
ところが恐(おそれ)は、急にまた恐怖と不安に襲われて、周囲の歌声も耳に入らなくなりました。そしてふるえながら聞きました。「頂上まで行ったら、新しい名前を下さるんですね?」

「もちろんだよ。おまえの心の中で愛の花が開くばかりになったら、愛されて新しい名前も与えられる。」

恐(おそれ)は橋の上で立ち止まり、歩いて来た道を振り返ってみました。濃い緑の谷間はいかにも平和そうに見えましたが、それに比べ、眼前の山々は巨大な土塁のごとく、挑むように立ちはだかっています。遠くの震撼村を囲む木立を見つめていると胸がきゅっとして、羊飼いのしもべたちが楽しげに働く姿や、牧場に散らばる羊の群れ、住みなれた白い小さな家などが思い出されます。

そんなことを思い浮かべていると涙がにじみ、心の中ではあのとげがチクリと感じられるのでした。でも、すぐに彼女は羊飼いのほうに向き直り、心から言いました。「私はあなたを信頼して、あなたのおっしゃる通りいたします。」

見上げると、彼はこの上なく優しいほほえみをたたえながら、初めてこう言いました。「恐(おそれ)、おまえにはひとつの本当に美しいものがある。信頼の目だ。この世で最も美しいもののひとつが信頼だ。どんなに多くの美しい女王たちと比べても、おまえの目にある信頼のほうがずっと美しいと私は思う。」

まもなく橋を渡りきり、山の麓のゆるやかな勾配を行く道に出ました。大きな石がごろごろしています。恐(おそれ) は、道のわきの石に、ベールをかぶったふたりの女性が腰かけているのに気づきました。羊飼い恐(おそれ)がやって来るのを見ると、ふたりは立ち上がって、彼に向かい黙って頭を下げました。

羊飼いは、穏やかな調子で言いました。「おまえに話しておいた案内役だよ。今から、急で険しい困難な所を通り抜けるまでずっと、このふたりがおまえのお伴であり助け手となる。」

恐(おそれ)は不安な気持ちでふたりを見やりました。確かにふたりとも背が高く丈夫そうでしたが、なぜベールをかぶっているのでしょう。なぜ顔を隠しているのでしょうか。見れば見るほど不安になりました。ふたりは無言で、しかも強そうで、神秘的でした。なぜ何も言わないのでしょう。なぜ彼女にあいさつのひとこともしてくれないのでしょうか。

彼女は羊飼いに、小声で聞いてみました。 「おふたりは何ておっしゃるんですか? お名前を教えてください。なぜ私に声をかけてくださらないんですか? しゃべれないんですか?」

「もちろんしゃべれるよ。彼女たちは、おまえがまだ知らないことばで話すのだ。この山の方言とでも言おうか。でもいっしょに旅するうちに、少しずつ彼女たちの言うことがわかってくるだろう。ふたりは実に良い教師だ。彼女たちにまさる者はちょっといない。ふたりの名前だが、おまえのわかることばで教えよう。あとになれば、彼らのことばで何というのかわかるだろう。」彼は無言のふたりをそれぞれ指して、「こちらが悲(かなしみ)という。そしてあちらは双子の妹で苦(くるしみ)という。」

ひどい! 恐(おそれ)のほおは青ざめ、からだ中がふるえ出しました。気を失わんばかりにふらふらしてしまい、羊飼いに寄りかかりました。そして苦しそうに言いました。

「彼女たちとは行けません! いやです、いやです! ああ私の主、羊飼い様、どうしてこんなことをなさるのですか?  どうしてあの人たちとなどいっしょに旅ができましょう? 耐えられません。山道は険しく困難で、私ひとりでは登れないとおっしゃったではありませんか。それなのに。それなのになぜ悲(かなしみ)苦(くるしみ)などを私のつき添いになさるのですか? 喜(よろこび)平安を私といっしょに行かせることはできないのですか? そうすれば困難な道を行く時、私を強め励まし、助けとなってくれるではありませんか。ああ、あなたがこんなことを私になさるなんて!」彼女はどっと泣きくずれました。

(『恐れのない国へ』60〜62頁より引用。聖書にはイエス様の有名な次のおことばがあります。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ヨハネ13・7) 

2013年11月17日日曜日

高き所へ向かって(3)

秋菊 談笑する 声聞こゆ
次に恐(おそれ)に感じられたのは、鳥たちの歌声でした。チュンチュンさえずったり、元気よく鳴くその声にはさまざまな変化があるのですが、やはり一貫してあるコーラスが聞きとれます。

翼持つわたしたち
空を行くわたしたち
わたしたちの喜び
愛するということ
愛せるということ

「知らなかった・・・・この谷間がこんなに美しい所だったなんて。こんなに歌声があふれているなんて・・・・。」恐(おそれ)は感動していました。

羊飼いは朗らかに笑ってからこう言いました。「愛だけが、すべての造られた物のうちに植えつけられている音楽や美や喜びを本当の意味で理解することができるのだよ。二日前、おまえの心の中に愛の種を植えつけたね。おまえが前には気づかなかったことが聞こえたり見えたりし始めているのは、そのせいだ。

愛がおまえの中で育っていくにつれて、前には思ってもみなかったようなことを理解するようになる。未知のことばがわかるようになり、愛の特別のことばも話せるようになる。しかしその前にまず、愛の基本レッスンを学び、雌鹿の足を持つようにならなければならない。高き所への旅でその両方とも学ぶことになる。さあ、川へやって来た。向こう岸は山々へ続くすそ野だよ。そこではふたりのお伴がおまえを待っている。」

こんなに早く川まで来てしまって、もう山々に近づいているのが、恐(おそれ)には不思議でもあり、感激でもありました。羊飼いの手に支えられ、その力に助けられ、彼女は疲れも弱さも感じずにやって来ました。ここからも、ほかの人と行かせずに彼自身がずっとつき添ってくれればよいのですが。

彼女はそう思うと言ってみました。「これからもあなたが連れて行ってくださるわけにはいかないのですか? あなたがいっしょにいてくだされば私は力強いし、あなたこそが私を高き所へお連れくださる唯一の方ですもの。」

彼はこの上もない思いやりをもって彼女を見ながら、静かに答えました。「恐(おそれ)、私は何でもおまえの望むようにしてあげることができる。高き所までずっとおまえを抱きかかえて行くこともできる。しかしもしそうするなら、おまえは決して雌鹿の足を持つことはできないし、私の友となって共に歩み行くこともできない。たとえ長い困難な旅でも、おまえのために選んでおいた案内役といっしょに登って行くなら、必ず雌鹿の足を持つことができるのだよ。本当だ。

そして私といっしょに山々を駆けめぐることができるようになる。登ったり降りたりを瞬間にしてやってのけるようになる。それに、もし今おまえを抱きかかえて高き所まで連れて行っても、おまえの心の中の愛の種は小さ過ぎて、愛の王国に住むことはできないだろう。王国の外の低い所にしかいられないだろう。しかもそこはまだ敵の手の届く所だ。

彼らの中には、山のそうした低い所までやって来る者もいる。おまえがこれから登って行く時、彼らに出会うだろう。だからこそ私はおまえのために、力強い最高の案内人を厳選したのだよ。でもよく覚えておきなさい。たとえ私の姿が見えない時にも、私はおまえのそばを片時も離れないし、助けを求めて叫べば、私はすぐに来る。目には見えないけれど、常におまえと共にいるのだよ。今出発しようとしているこの旅を通して、おまえは必ず雌鹿の足を持つようになる。これは私の、真実な約束だ。」

(『恐れのない国へ』56〜60頁より引用。聖書には次のような約束がある。「わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。」エゼキエル34・13〜15

2013年11月16日土曜日

高き所へ向かって(2)

『恐れのない国へ』挿絵写し
ちょうどこの歌を歌い終えた時、ふたりの歩んでいた小道が激しい流れと交差する所へ出ました。流れは、反対側で滝のようになって流れ落ちています。勢いよく歌いながら流れるその水音は、まるで笑い声のように谷全体に響いています。

すべりやすい石の所では、羊飼いが彼女をかかえてくれました。恐(おそれ)は言いました。

「流れる水が、いったい何を歌っているのかわかったらなあと思います。静かな夜、床についてから、庭の裏を流れる小川のせせらぎに耳を傾けることがあるんです。なんだかとても楽しそうな情熱的な音色で、素敵な意味を秘めているように聞こえます。水の流れる音というのは、大きくはっきりしていても、小さく低くても、いつでも同じ歌を歌っているような気がします。流れはいったい何を語っているんでしょう。海や海水の立てる音とは違うんです。でもやっぱりわからない。私たちには理解できないことばなんですね。羊飼い様、あなたにはおわかりなんでしょう、水が勢いよく流れて行く時、いったい何を歌っているのか。」

羊飼いはにっこりほほえみました。ふたりがその勢いよく流れる小川のふちにたたずむと、一段と大きな力強い水音になりました。まるでふたりが話を中断して耳を澄ませるのを待っていたかのようです。恐(おそれ)羊飼いのそばに立っていると、耳と理解力が急に敏感に働き出すように感じました。そして少しずつ、水のことばがわかるような気がしてきました。水のことばで書き表すことなどもちろん無理ですが、できるかぎり、ここに訳してみました。でも、なかなかうまくいきません。水の歌を音符で表すことならできるかもしれませんが、ことばというものは全く性質の異なるものですから。

       水の歌

行こうよ行こう 低きへ行こう
毎日いっそう 低きへ行こう
最も低きへ きそって行こう
きそって行くのは 何たる喜び

われらが慕うのは 楽しきおきて
低きへ下るは われらの幸い
心はせき立つ 心は躍る
まだまだ低きへ 下って行こう

招きの呼び声 夜昼聞こえる
われらを呼んでる 行こうと呼んでる
駆け降り行こう 流れて行こう
高きを降りて 谷間へ下ろう

呼び声聞こえる お応えしよう
最も低きへ 下って行こう
心はせき立つ 心は痛む
もいちど高きへ 登り行くために

恐(おそれ)は、しばらくの間じっと耳を傾けて聞き入りました。さまざまな違った音色を混じえて、このように繰り返し歌われているようでしたが、恐(おそれ)には不可解でした。「何だかわからないわ。『まだまだ低きへ下って行こう』なんて、水は楽しげに歌っているようですけれど、あなたは私を最も高き所へ連れて行こうとなさっています。どういうことですか?」

「高き所は、この世の最も低い所への旅の出発点なのだよ。雌鹿の足で山々を駆け回り丘を飛び歩くことができるようになれば、私のように喜んでみずからを捨てて、高い所から下って行くことができるようになる。そして再び高い山々へ登れるわけだ。鷲よりも素早く登って行ける。自分を全く捨て去る力は、愛の高嶺にだけ存在するのだから。」

このことは神秘過ぎて、よくわかりませんでしたが、とにかく彼女の耳は敏感になっていて、小道を横切って流れるせせらぎが、繰り返し歌うのをすっかり聞きとることができました。野の花々もまた同じように歌っているようです。色彩のことばで歌っているのですが、やはり水のことばのように、知的にではなく心で理解されるのでした。幾千ものさまざまな違った音符が重なり合っていて、それがひとつのコーラスをなしているようでした。

与え 与え 与えること
何と甘美なことでしょう
これがわたしたちの人生です

(『恐れのない国へ』52〜57頁より引用。今朝、旧約聖書のエゼキエル書33章34章、新約聖書ヘブル書13章を読んでいて共通することが書いてあることに気づいた。それは私たちの見張り人である羊飼いと私たちとの関係についてである。その聖書は次のように語っている。「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。――神である主の御告げ。――」エゼキエル34・31。「恐」がどのようにして高きところへ向かうのか、その出発点の描写を明日も続けたい。)

2013年11月15日金曜日

高き所へ向かって(1)

吾亦紅(ワレモコウ) 高峰高原 2009.8.3
すばらしい一日の始まりです。谷はまだ眠っているかのように静かに横たわっています。聞こえるのは、軽やかな小川のせせらぎと、陽気な鳥のさえずりだけです。草の露がキラキラし、野の花は宝石のように色鮮やかです。中でも、紫、ピンク、真紅と色とりどりのアネモネの美しさは格別です。野原一面に散らばって、いばらの間にそのかわいい顔をのぞかせています。羊飼い恐(おそれ)は薄紫の小さな花がかたまって咲いている所を、いくつか通り過ぎました。ひとつひとつは小さいけれど、すき間なくびっしりと咲いていて、どんな宮殿のじゅうたんも及ばないぜいたくさです。

 羊飼いは、腰をかがめて優しく花にさわり恐(おそれ)に言いました。「自分を低くしなさい。そうすれば、足の下には愛の花の敷物が広げられているのがわかるだろう。」

 恐(おそれ)は真剣なまなざしで言いました。「野の花のことでよく不思議に思うことがあるんです。地上のほとんどの花は人に見られることもなく、やぎや牛に踏まれてだめになってしまうだけだというのに、ちゃんと咲いています。どんなにかわいらしく、美しくても、それを与える相手もいないし、それを鑑賞してくれる人さえいません。」

 その時羊飼いは、とても美しい表情を見せて静かにこう語りました。「私の父と私の造った物は、何でも決してむだになることはないのだよ。小さな野の花もすばらしいことを教えてくれる。見てくれる人、ほめてくれる人がいなくても、優しく、一心に、喜んで自分自身を差し出している。たとえ愛してもらえなくても、愛することは本当に幸せだと謳歌しているのだよ。

 恐(おそれ)、多くの人々には理解されない偉大な真理を教えよう。人間の魂の最も美しい面や、すばらしい霊的勝利や成果の数々というものは、だれにも気づかれず、はっきりとは認められないものなのだよ。真の愛に対する心の応答と、自己愛の克服のひとつひとつが、愛の木に新しい花をつけるのだ。

 世間には知られない静かで平凡な、隠れたような人生が、実は愛の花とその実の完成する本当の庭なのだよ。その庭は、愛の王ご自身が歩まれ、その友と喜び合う歓喜の場だ。目に見えるはっきりとした勝利を得、多くの人に愛され尊敬された私のしもべが何人かいるが、彼らの最高の勝利というものは、実はいつも野の花のように人に知られないものだった。恐、今、この谷にいる間にこのことを学びなさい。山の険しい所へ行った時にはきっと慰めになるだろうからね。

 ほら、鳥がうれしそうに歌っている。私たちもいっしょに歌おう。花々を見ていると心に浮かぶ歌があるね。」

 ふたりは、羊飼いの本にある古い歌を歌いながら、川に向かって谷を降りて行きました。

われはシャロンのばら
野のアネモネ
いばらの中にゆりのあるごとく
わが愛する者は われにあり

雑木林にりんごの木あり
わが愛する者は近くあり
われその陰に座す
その実は わが喜びなり

われを宮へ携え行き
宴の間に入れたまえり
大いなること分かたんため
最も小さきわれと

われを助け慰めたまえ
われ 恥により痛みわずらう
彼のともにはふさわしからず
その名を受けるにふさわしからず

娘らよ われは請う
木々の間のかもしかよ
ことさら起こすなかれ
わが愛する眠れる者を
愛のおのずから起こる時までは (雅歌2・1〜5、7)

(『恐れのない国へ』ハンナ・ハーナード著津久井正美訳いのちのことば社1988年刊行49〜52頁より引用。この文章はという名を持つ少女が、どのようにして親族の恐怖家を逃れ、羊飼いとともに屈辱谷から「全き愛は恐れを締め出す」1ヨハネ4・18高き所へ旅したかを物語る全文244頁よりなる寓意物語の抜粋です。著者ハーナードは最晩年その信仰は変節したようであります※。それがどのような理由によるのか私にはわかりませんし、残念に思いますが、この本ともう一冊の『香り高き山々の秘密』は良書だと思います。※Despite this awesome witness, later in her life Hannah showed the ever-lurking danger of trusting inner voices. She veered away from sound doctrine, embracing universalism (denying God's wrath), pantheism (God is everything) reincarnation and many new age ideas.http://www.christianity.com/church/church-history/timeline/1901-2000/miserable-hannah-r-hurnard-was-converted-11630738.html) 

2013年11月13日水曜日

お題目であってはならない「兄弟愛」

主にある兄弟姉妹が織り成す歩みは決して個人のスタンドプレーでなされる歩みではない。それぞれが自発的に助け合ってなされる共同作業だ。ましてや家庭集会はその実践の場ではないだろうか。かつてウオッチマン・ニーがどこかで「集会は語る者だけが中心になるのでなく、聞く人の心が主に向いて、語る人から主のおことばを聞こうとしているかどうかにかかっている。そのようにして聞く人もまた語る人を助けているのだ。」という意味のことを言っていたことを思い出す。

今日の家庭集会は10時半から始まった。ところが私の頭には午後から始まるというイメージがいつの間にか刷り込まれてしまっていた。その上、いつもは8時ごろには清書し始める聖句書きが、他のどうしてもしなければならない用事にかまけて後になってしまっていた。9時半ごろだろうか、階下から家内が「何しているの、もう下では用意していてくださっているのに」と言われて、ハッとした。階下で用意をしてくださっているのはまもなく90歳になろうとするご老人である。申しわけない思いであわてて階下に降りて手伝う。この分で行くと、今日は看板聖句は無理だな、と心秘かに思いながら、作業した。

一段落したら10時過ぎた。さらに一人二人と人々が集まって来られる。いよいよもって看板聖句は駄目だと観念するが、手は自然と墨汁の準備と向かっていた。かくして筆運びは雑になってしまった。そのうちにあっという間にメッセンジャーの方や証しする方もお着きになり、集会は始まった。メッセージはヨハネの福音書13章34節〜35節からであった。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

「新しい戒め」は、イエス様が神様のたいせつな戒めである「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」をお題目として実行に移さない者のために「兄弟愛」としてお示しになったものだ。「兄弟愛(フィリオ)」は「神の愛(アガペ)」でも「人間的な愛(エロス)」でもなく、その中間に当たる。イエス様はなぜこの「兄弟愛」を「新しい戒め」としてお示しになったか考えて見たいと話し始められた。

そして、具体的な「兄弟愛」について、ルカ10・25〜37で示された隣人を愛する愛は、極めて「限定」的な人々、すなわち主の救いをいただいて御霊をいただいている人々に語られていると解き明かされた。それはお題目の「博愛の愛」でなく、具体的な「兄弟愛」なのだと聖書全体、特に主の愛された弟子ヨハネによりその福音書、手紙、黙示録を通して明らかにされているのではないかと噛んで含めるように語られた。

そのあと、別の方のお証をいただいた。お聞きするうちに、不思議な僥倖を思わされた。なぜならお二人が同年で、しかも証しする方が鬱で悩んでおられた時にともに祈ってくださり、助けてくださった方が今日メッセージされた方だと言われたからだ。お頼みした私は全く存じ上げてもいず、想像もしなかったことであった。主イエス様はいつも私たち人の思いを越えて案配されるお方であることを改めて思う。そう言えば、メッセージの中で

「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

というおことばも引用してくださっていた。こうして不思議な家庭集会は終わり、皆さん三々五々お交わりに入られた。私たち夫婦はその後、集会に出席されている方の奥様が最近ホームに移られたので、その方をお見舞いするため、集会を中座し、後はまだお残りになってお交わりを続けておられる方々におゆだねして、ご主人とともに一緒に行く方の車に乗せていただき家を出た。

ホームでのお交わりは、嚥下障害をお持ちで、中々思うようにお話しはされないが、何よりもきよらかな笑顔で答えてくださる奥様を中心に、ご主人をふくめて五人で心から賛美し祈る交わりとなった。皆さんと別れ、二時間ほどして二人して戻ることができたが、私たちは何とも言えない幸福感で満たされていた。果たせるかな、玄関に着き、鍵のかけられたドアを開け、家に入った途端、そこには全く綺麗に後片付けされ、掃除され、整然とした見違えるばかりの部屋があった。

 秋深し 兄弟愛 語りたる 集いのあとの 部屋のぬくもり

( 次回の家庭集会は12月4日(水)14:00からです。)

2013年11月10日日曜日

パゼット・ウィルクスの日本伝道日記から

Mount Asama in Eruption
1910年(明治43年)7月15日
 次の手紙を、私は今日受け取りました。ミスK・Wのことや、その帰国の事情について知らない人に、この美しい物語をよりよく理解してもらうために、説明を加える必要があると思います。この信仰の深い主のしもべは、イングランドの豊かな家庭に育ち、マスグレーブ・ブラウン師によってすばらしい信仰を持ち、バックストン師のもとで伝道に従事するため、日本に来て10年になります。彼女は主の教えをさらに美しく輝かせるような人柄でした。彼女ほど主イエスを信じることの深い者はほかにいないことを私は知っています。しかし青天の霹靂のように、思いもかけぬことが起こりました。医者は彼女の命があと6週間しかないことを宣告したのです。悪性のガンです。彼女の場合にもガンはその残酷さを少しも緩めることはなかったのです。

 この手紙は、死の宣告を受けた直後に、彼女が信仰に導いた人の一人に宛てて書いたものです。その透徹した文章を通じて、この世で最も崇高なもの—残酷な死に対する圧倒的な勝利—が宝石のように輝いています。死後の今でも、彼女はまだ語り続けています。

「お見舞いの電報と、優しい慰めのお手紙をいただきお礼申し上げます。あなたの言われるとおり、祝福の輪がますます広がっていくことを神がお許しになるように祈ります。『もし死ねば、豊かな実を結びます』(ヨハネ12・24)。私は喜んで小さい石になります。あなたが手紙に書かれたこのみことばは、何と美しい神のみこころでしょう。私はもう天国の階段を昇りかけています。まもなく神のお姿を見ることができると考えるだけでも非常な光栄です。天国への道をあなたが進んで行かれるのを妨げるものは、全部捨ててしまわれるように私は心からお願いします。

 それによってあなたの命が終わる時、あなたはきっと大きな喜びを受けることになります。もう一つ、罪の中で最も恐ろしい罪である、神を信じない罪を犯さないようにしてください。いつもイエスをじっと見つめてください。ペテロはイエスを見つめている間だけ、水の上を歩くことができたことをあなたは知っておられます。ペテロはイエスから目を離した途端に沈み始めました。道が険しいため、あなたが勇気を失った時は、イエスのことを思い出してください。心が疲れた時は、イエスは私たちよりももっともっと耐え忍ばれたことを思い出してください。ヘブル書13章1〜6節を、あなたへ贈り物といたします。

 まだ書きたいことは多いのですが、もうお別れしなければなりません。私がこの上なく愛した人々と別れを告げなければならないことは私にとっていちばん悲しいことです。しかし私はいつも喜びと平和とに満たされています。私が死ねば皆さんは驚かれることでしょうが、これはすべて神のご慈愛です。私はどんな場合も神をたたえます。たとえ悪魔があなたに全世界を与えても、またどんなりっぱな贈り物や高い地位を与えても、天国を失わないようにしてください。神はあなたを祝福し、あなたを守り、あなたを慰め、あなたを助けます。神はあなたが必要とするすべてです。温かいクリスチャンの愛と、ローマ書の『どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように』(15・13)というみことばを贈ります。そして、あなたに『永遠の腕が下に』(申命33・27)という保証を合わせて贈ります。終わりに、私は憩いと平和と喜びとに満たされていることをお伝えします。あなたと私とは、神の永遠の愛のきずなによって結ばれています。
                        M・K・W 」

”これからいつまでも、主のみ手の中に眠る者は幸いです。そうです。この人たちはこの世の労苦から解き放されて憩い、その良きわざは、いつまでもこの人たちのものです、と聖霊は言います。”

私たちと同じ罪人の一人が、自由を与えられるのは、
悲しむべきことでしょうか。
いいえ、親しい友よ、それは違います。
私たちは喜んであなたを、
地上の苦しみの多い教会から、
神の統べ治める天上の教会へ送ります。
あなたは見事に死に打ち勝ったのです。
あなたの頭には、命と愛の冠が飾られています。

(同書28〜31頁より引用。訳者は安部赳夫氏で、いのちのことば社から1978年に出版されている。英文では自由に以下サイトから閲覧できる。https://archive.org/stream/missionaryjoys00wilkuoft#page/n5/mode/2up 冒頭の写真はそのサイトから拝借させていただいたが、ウィルクス氏が日本滞在中に経験した浅間噴火の様子を撮影したものである。本国イギリスに日本人の救いのために祈って欲しいと要請するために、特に印象的なこの写真を用いたのではないだろうか。)

2013年11月9日土曜日

「赦罪」のことばに、我感謝す!

琵琶湖  2013.11.3
下記の文章はパゼット・ウィルクスの『贖罪の動力』第6章「血による赦罪」からの引用である。同書はほぼ百年前に出版され、大江邦治氏によって訳されたものである。同氏は詩篇32篇の以下のみことばを引用し、英明かつ信仰深きダビデが犯した殺人と姦淫の罪にも関わらず主なる神様から自らが経験した三つの赦し、すなわちそむきの罪の赦し、罪が覆われていることから来る赦し、そして最後に自らの罪が完全に主なる神様から忘れられていることを歌っていると指摘して次のように述べている(http://sacellum-chimistae.org/)。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32・1〜2)

赦罪! 実に幸いなる優しき語よ! 我ら急いで、頭を垂れ、信じ、驚き、礼拝しよう。しかして我らの愛のないこと、聖からぬこと、キリストに似ないこと、 すべてみな神に告げ、みな御耳に聞こえ上げ、いまひとたび主の最も貴き御血を敢えて信ぜよ。しかしてかく信ずるにあたり、我らの心中に何らの恐れも疑いもなからしめよ。断乎、極端まで信ずることを決心せよ。しかして言い難き喜びをもって喜ぶまで信じ続けよ。ただ、あなたの罪の告白が充分に、自由に、正直に、赤裸々にて、何ら自ら義とする精神なきものなることを確かにせよ。

     われは迷い出で道を失いぬ
     負い目は積もりて払うよしなく
     罪は言い解くすべもなし
     ただこのままを主に告げまつる

   かくて、我らは詩篇作者と共に『その愆をゆるされその罪をおほはれしものは福ひなり不義をヱホバに負せられざるものはさいはひなり』と言うであろう。しかして我らはこれに付け加えて言おう。何らの赦罪も要せぬと想像する者、赦罪なる語をただ徒な無意味な語と想像する者はわざわいなるかな。しかり、三度も重ねて言おう、わざわいなるかなと。かかる人はまだ人生の最上の喜びを決して経験せぬ。もしかかる人が平和を保つとするならば、それは赦罪の真の平和、すなわちインマヌエルの御血管より流れる御血を信仰をもって見上げる時に確信せしめられる、赦罪の事実より来る真の平和でなく、罪が忘れられ、無視せられたと想像する虚偽の平和のほかでない。

2013年11月8日金曜日

朝顔ももう来年ですね

ヘブンリーブルー
私の家は路地を挟んで二軒先の線路沿いに二本の小道が通っている。手前の道路と線路際の用水路にはフタが施され通行可能である。手前には金網の腰高程度のフェンスがあり、線路際には柵があるが、線路沿いに歩けばほぼ隣の駅まで行けるから、皆さん愛用されており、通行する人も多い。何を隠そう、以前一度だけだけれど、お天気ニュース(NHK)で、御馴染みの方と、自転車ですれ違ったこともある。そんな線路沿いには付近の住民の方が柵内やフェンスを利用して花を植えていらっしゃたりして、通り行く人々の眼を結構楽しませている。

拙宅に一番近い線路際の住宅寄りの道路にも、もう何年か前からか、家内がほぼ全長2、30メートルになろうとする線路沿いのフェンスを利用して朝顔の種を蒔いては育てて楽しんできた。水やりが中々大変で、夏の暑い時期に雨が降らない時など、遠出しようものなら、そのことを一番気にして外出するのは彼女だ。たくさんの住民の方がいるが、家内一人でせっせと水やりに勤しんでは、開花を楽しんでいる。私も一度くらいは水やりを手伝ったりするが、今年は全然手伝わなかった記憶がある。天候不順な今年はいつの間にか夏が過ぎ去り、秋になっていたからである。

そんな後ろめたさもあり、「種を集めるのを手伝って」と言われたので、今日はめずらしく一緒に精を出した。フェンス10スパンほどには朝顔の蔦が絡まっており、まだまだ現役の朝顔もいるなかで、枯れ枝になってしまった朝顔の実をもぎとっては種を取り出す作業だ。実には決まって種が4個だろうか、しっかり詰まっている。もぎとりながら、こうしてしっかり子孫を残し、枯れていくのだと感心する。

おびただしい種を取っていると、通りすがりの方が「私も取っていいですか」と寄って来られる。「どうぞ、どうぞ」とお勧めする。犬の散歩でいつも通る人たちも、全く見ず知らずの方だが、「きれいでしたね」とていねいに挨拶しながら通りすがりに声をかけて下さる。種を取り、絡まっている蔦をはがし、根っこを抜き、きれいに元通りにするのには、小二時間ほど、二人してかかった。久しぶりの野良仕事(?)である。たくさんの方々が行き来されるが、すべて皆さん「朝顔の存在」に感謝しておられることが何となく伝わってきて嬉しい。

大した土いじりではないが、花の持つ縁がこうして普段行き来のないお互い同士を結びつけてくれる。表題のことばはやはり普段は話すことのない男性が自転車で通りすがりにかけてくださったことばだ。「年々歳々花相似て、年々歳々人同じからず」とは学校教育の現場で陽春を迎えるたびに感じたことだが、朝顔が種を残して消えて行く、その「挽歌」を聞く思いがしてちょっぴり寂しかった。すっかり作業を終えて家に入るともうあたりはすっかり暗くなっていた。思わず何時だと時計を覗くと正五時だった。「秋の日は釣瓶(つるべ)落としの如し」とは、若い世代には馴染みのない常套句が浮かぶ。

それでも手にはしっかりと子孫を残した証である黒い特徴ある朝顔の種がたくさん残されて充実感を覚えた。そう言えば、昨晩、パゼット・ウィルクス氏のほぼ100年前の『信仰の秘訣』という本を国会図書館の近代デジタルライブラリーから引き出したが、その中に次のような文章があったのを思い出した。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906908

由来種子には生命があり、この生命が種子の中に驚くべき潜勢力として静かに伏在しておる。土と種子とはその本質において同一の元素であって互いに適合しているゆえ、種子が土の中に埋められ時にその中にある潜勢力たる生命が動揺し始め、鼓動し活動する。信仰もあたかもその如く、一度聖霊によりて霊魂の中に植えつけられれば直ちに活動し始め、鼓動し出し、奇しき力を表わして静かに働く。かくしてわれらの一切の願い、愛情、感情、思想、想像など、今まで自己中心のために神に対して無感覚となり、死にし如き睡眠状態にありしものが、それより覚醒し、あわれむべき罪深き人類に対する神の愛の光線の中に萌芽発育するのである。

文章の表題は「信仰は種子なり」と題して以下のみことばが引用されていた。

「からし種ほどの信仰」(マタイ17・20)

駄作一句 「朝顔の 黒き種子に 宿りたる 潜勢力 イエスのいのち」

2013年11月2日土曜日

永遠のいのち(下)

あるインドで働いた宣教師の夢を紹介します。この女宣教師は次のように見た夢について書かれました。

青草の生えている牧場に座っていました。足もとには果てしのない深い広い穴が大きく口を開けていました。私は下を見下ろしましたが、その穴の底は見ることができなかったのです。そこには雲のような黒いものが、また荒れ狂う竜巻のようなものだけが見えたのです。また死んだ人を包んだ布に似たよう大きなうつろ、測り知れない深い穴が見えました。私はこの穴を見たとき目がくらんで、うしろに思わず飛び退きました。長い列をつくって青草の上をあちらこちらを歩いている人々がいました。その人たちはみんなその穴に向かって歩いて行きました。そこに小さな子供を腕に抱いてもう一人の子供を連れていた母を見ました。その三人は穴の淵に向かって近づいているではありませんか。私はその母がめくらだということがわかりました。母親はまた一歩前に進もうとしましたが、足は穴のところを踏んだのです。子供たちと一緒に落ち込んでしまいました。落ちる時の叫び声は何という声だったでしょう。いろいろなところからたくさんの人々がやって来ました。みんなめくらでした。完全に目くらでした。みなが穴に向かって歩いて行きました。彼らは突然落ち込んで、恐ろしい叫び声をあげました。また他の者は黙ったまま深みに足を踏み入れ声もなく落ち込んで行きました。

ここまで述べましたのが、その宣教師の夢なんです。前に言いましたように主なる神の目から見た人間は二つの種類に分けられます。それは精神的に死んでいる者と精神的に生きている者の二つです。この二つの種類の区別はどこにあるなのでしょうか。

精神的に死んでいる人々は自分が死んでいるということを知らないのであり、精神的に生きている人々は自分が「永遠のいのち」を持っていることを知っているのであります。そこに違いがあります。私たちのまわりに多くの人々は精神的に死んでいる、その人々は自分たちがめくらであり、穴、すなわち地獄に向かって歩いていることをもちろん知りません。今生きている人々は、みな永遠の地獄で、すなわち主なる神から遠ざかって永遠の死の中に生きるか、または、主なる神の家、すなわち栄光と「永遠のいのち」に生きるかのどちらかです。人間はこの世に生きていますが、その短い年月の間に、その人間の精神が、またその肉体に宿っている間に、「永遠の死」かまたは「永遠のいのち」が決定されるのです。

もしかすると、今日もまだ救われていない、「永遠のいのち」を持っていない方がおられるかもしれない。その方々は心の中でどうしたら「永遠のいのち」を持つことができるのでしょうか。「永遠のいのち」にいたることができるかと、思案していることでしょう。ただひとりの生きておられる主なる神だけがその道を指し示そうとしておられます。神のみことばである聖書は、主なる神はもうすでに与えられたと言っています。私たちは救いを買うことも、働いて儲けることもできません。救いは自由な贈り物であり、この救いは贈り物として受け取らなければならない。そうでなければ、救いを自分のものとすることはできません。ロマ書6章の最後の節ですけども、6章23節。二つのことば、やっぱり、「死」と「いのち」ということばが出てきます。274頁です。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

もう一回読みます。ヨハネ伝10章28節ですけども、イエス様のすばらしい呼びかけ、また約束です。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

このみことばは何とはっきりしていることでしょう。何と力強いことでしょう。「永遠のいのち」は贈り物です。贈り物であるから、働きや人間の手柄によっては自分のものにすることはできません。絶対にできません。主なる神は「永遠のいのち」を与えられるお方です。この「永遠のいのち」はもちろん物ではない、イエス様です。だから、ヨハネと言う弟子は次のように書いたのであります。ヨハネ第一の手紙5章の11節から13節、431頁になります。お読み致します。

そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

今まで一つの点について考えて参りましたが、すなわち聖書の中にふくまれているもっともたいせつな真理、すなわち「永遠のいのち」についてでした。

今から、主なる神の道、すなわちイエス様と一緒になることについて、ちょっとだけ考えて終わりたいと思います。「永遠のいのち」は私たちとイエス様の間の問題です。すなわち「永遠のいのち」とはイエス様との一致です。聖書によると「永遠のいのち」は主イエス様のうちにあると、はっきり言っています。ですから、もし私たちが「永遠のいのち」を持ちたいのならば、イエス様がわれわれの心に入らなければならない。イエス様ご自身がいのちそのものです。もし私たちはイエス様を受け入れようとしなければ、私たちは何にも持っていないし、けどイエス様を受け入れることによって私たちは満たされ、結局すべてを持つ者となります。イエス様は祈りの中で言いました。ヨハネ伝17章の3節

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

と、あります。 イエス様は当時の聖書学者たちにちょっと厳しい言葉を言わざるを得なかったのです。ヨハネ伝の5章の39節

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

しかし、どうしたら、イエス様は、いのちそのものであられるイエス様は、私たちの心に入ることができるのでしょうか。ただ生まれることによってのみ、それができるのです。ですから、ヨハネ伝3章3節に書かれています。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 

生まれることなしにいのちはありません。普通の体のいのちはこの世に生まれることによって得られます。と、同じように、霊的ないのちも、「永遠のいのち」も、そのようにして生まれます。「だれでも新しく生まれなければならない」とある通りです。「永遠のいのち」であられるイエス様はわれわれの心に入って来なければならないのであり、イエス様が入ると私たちはいのち、「永遠のいのち」を持つのです。

パウロは「キリストは私のうちに生きている」と言うことができたのです。だから、彼は幸せでした。だから、誤解されても迫害されても憎まれても、彼はこのイエス様を宣べ伝えざるを得なかったのです。主なる神の与えようとされたのは、一つの教えじゃなくて、いのちであると聖書ははっきり言ったのです。まことの救いは、死んで冷たい形だけの信仰じゃなくて、決まった形式でも儀式でもありません。立派な本でもないし、たくさんの戒めでもありません。まことの救いは人の心に住む神のいのちです。すなわち、イエス様ご自身です。このいのちは生きていて、実際にある真の個人的な経験です。「主なる神のいのち」は人間の心を通って流れ出るのであり、人間は主なる神のものとなっているわけです。

まことの救いはいのちそのものです。イエス様はそれを教えるために来られました。イエス様はご自分のいのちを与えるために死なれたのです。そのいのち、「永遠のいのち」とは彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることですとありました。もう一ヵ所読んで終わります。ヨハネ伝1章12節です。

この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

イエス様を受け入れることはしたがってたいせつです。ですから、私たちは誰にも言うべきです。どうか、この良き音ずれを信じ、イエス様のために自分の心のとびらを開く、イエス様を心に入れて下さい。イエス様はもちろん入ることを待っておられます。われわれの心に入ることを願っておられます。 黙示録の3章20節を読んで終わります。これは主イエス様の呼びかけの一つです

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

ともに食事をすることとは、結局親しい交わりを持つことです。神が私たちに「永遠のいのち」を与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。確かに「今は恵みの時、今は救いの日」です。自分をイエス様に明け渡し、あとで後悔するようになる人間は世界中どこへ行っても一人もいません。

(次回の家庭集会は11月13日10時半からです。)

2013年11月1日金曜日

永遠のいのち(中)

第二番目の理由として、今話したように「永遠のいのち」は主イエス様がこの新しいいのちを与えるために、この世に来なければならなかったのです。イエス様の証とは次のようなものでした。ヨハネ伝10章の10節

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

「永遠のいのち」を与えるために、イエス様は天から来られました。イエス様は人間が「永遠のいのち」を持つために、死ぬことのないために、すべての人間のために犠牲になり、代わりに死なれたのです。もしイエス様が来られなかったらどうでしょう。恐ろしい死を来たらす死を取り去って下さらなかったら、どうでしょう。「永遠のいのち」を罪人に下さらなかったら、すべての人間は「死」と名づけられる恐ろしい状態に永遠に留まらなければならなかったでしょう。

人間の種類は、ただ二つでしょう。人間は魂と体が生きていますから、生きているように見えます。けど、主なる神が人間を眺めた場合、人間をただ二つの種類、すなわち生きている者と死んでいる者と二つに分けています。私たちはこの瞬間にこの二つの種類のうちのどちらかに属しています。主なる神から見れば、私たちは生きているか死んでいるかのどちらかです。私たちはたとえば道を歩いている人を見て、この人は確かに生きているともちろん誰でも思います。私たちはそれを見て、その人の体が生きていることを考えるだけなのです。その人は肉体的ないのちを持っていますけど、その人の精神は死んでいるかも知れない。もし死んでいるなら、また生まれ変わっていなければ、主なる神の目から見るとその人は死んでいると(言っていいんです)。

また、ある事務所で熱心に働いている商人を見てみましょう。私たちはこの人は確かに生きていると言います。けど、私たちはただその人の魂のいのちが働いていることだけを考えています。すなわちその商人は考えること、感ずること、欲することができます。だから生きているとわれわれは判断します。けども、主なる神の判断は全く違います。主なる神に出会っていない人間、主との交わりを持たない人間は死んでいると主は言われます。われわれは限りあるいのちについて話しますが、主なる神は「永遠のいのち」について話されます。

また、今度イエス様を信じていて死んだ人の葬式に参加します。そしてその人の屍(しかばね)を見ます。その時、私たちはこの人は死んでいると思うかも知れない。私たちはその人の肉体の死を考えているから(です)。その人はもはや考えることもできないし、動くこともできません。けど、主なる神は「その人は生きている」と言っています。だから聖書の中で、「死んでも生きる」ということばとは本当にすばらしいことばです。主なる神の言われることがもちろん今わかります。なくなった信者の精神は生きているのです。「永遠のいのち」を受け、生まれ変わっていたのです。ですから、たとえ肉体は死んだとしても実際は生きている。なぜなら、その人は罪や死によって犯されることのないいのちを持っていたのです。そのいのちこそイエス様にあるいのちなのです。

こないだ一人の兄弟が召されまして、まだ比較的に若かったのです、70歳。高知のT・M兄弟なのですけど、その五、六週間前にやっぱり葬儀のために高知に行ったことがあります。けど葬儀のために頼まれたから行ったのですけど、私の気持ちは葬儀のためにだけに別に(行かなくってもいいのじゃないか、でも)。このM男、もう一回会いたいと思ったのです。末期のがんのために痛くって痛くってしようがなかった。会ったのは良かった。なぜなら全部主の御手から受け取ったからです。私はどうしてそんなに痛みを経験しなくちゃいけないのと一言葉も言わなかった。イエス様は全部知っている。イエス様は最善のことしか与えられない。ですから、彼の葬儀もほんとうに、葬儀よりもひとつの喜びの集いでした。遺された奥様、R子姉妹の証もほんとうに良かった。葬儀に出たいろいろな人々はやっぱり変わったようです。ほんとうに真剣になったのです。こういうふうに死ぬことができなければ、人生は無駄じゃないかと思うようになりました。

「永遠のいのち」を持つことこそがたいせつです。どうしてでしょうか。三番目の答えは「永遠のいのち」は人間の永遠の運命を決定するから、聖書の中のもっともたいせつな真理です。聖書の中でもっともたいせつな、たいせつと言うよりももっとも一番知られている箇所は、皆さんご存知です。ヨハネ伝3章 16節。15節から読みましょう。

それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 

と。「永遠のいのち」を持っている者は決して滅びません。反対に言えば、「永遠のいのち」を持っていなければ人間は滅びなければならないのです。けども、滅びるということはいったい何を意味しているのでしょうか。私はそれを知りません。けども、滅びるとはいのちの反対であり、またそれは非常に恐ろしいことだということだけは知っています。主なる神は永遠のいのちをいらないと言う人間のさばきを表わすために、このことばを使われたのです。ヨハネ伝3章36節

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

と、あります。一方にはいのち、他方には神の怒りがあるのです。主なる神の怒りとはいったい何でしょうか。私は知らないけど、ここに書いてあります。また私たちはこのことばを嘘だということができません。もし、私たちが「永遠のいのち」を受けたくなければ、主なる神の怒りを受けるのです。もう一ヵ所読みます。今度は同じくヨハネ伝の5章、5章の24節

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

このみことばは二つの面、二つの道、すなわち「いのち」と「滅亡」をみることができるのです。私たちが「永遠のいのち」を受け取りますと死に打ち勝ったことになります。死とは何でしょう。滅亡とは何でしょう。主なる神がそれをご存知です。私たちはそれを知ろうとは思いません。自分が「永遠のいのち」に向かって進んでいるのだということがわかればそれで十分です。「永遠のいのち」を持っていないことは、死、滅亡を意味しているのです。もう一ヵ所読みます。今度10章ですね。ヨハネ伝10章の28節。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

イエス様はこういうふうに約束してくださいました。すなわちいのちの贈り物を拒めば大変です。滅亡するだけです。人間はどちら(か)に決めなければならない。自分の将来を決めます。人間は自分の運命を決定する権利を主から与えられています。ですから、いつ死んでも「永遠のいのち」を持っている、行き先は決まっている、と確信できる人は幸せです。この確信がなければほんとうの意味で前向きに生活することができません。

(この日、私は昨日お話した未亡人の方に依頼されてご主人の召される二日前の様子を記録し、みことばを添えた小冊子を集会の始まる前15部ばかり作成した。そしてそのあとこのメッセージをいただいたのである。何とタイムリーな学びであったことであろうか。ここには死といのちの違いが聖書を通じて存分に語られているからである。 )

2013年10月31日木曜日

永遠のいのち(上)

今の読んでもらいました箇所をもう一回読みます。ロマ書5章の18節(です)。

こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

このいのちとは単なる生命ではない。言うまでもなく、「永遠のいのち」です。21節を見るとわかりますね。

それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

言うまでもなく、「永遠のいのち」は聖書の中で、もっともたいせつな真理なのではないでしょうか。どうして(でしょうか)。三つの答えがあります。第一番目、「永遠のいのち」を持っていない人は誰でも天国に行くことはできないからです。第二の理由として「永遠のいのち」はイエス様がこの新しいいのちを与えるために、この世に来られなければならなかったから、たいせつです。三番目に「永遠のいのち」は、人間の永遠の運命を決定しますから、聖書の中のもっともたいせつな真理です。この三つの点について簡単に一緒に考えて見たいと思います。

先ず第一番目、「永遠のいのち」を持っていない人は誰も天国に行くことはできません。天国には主なる神のいのちがあるだけです。そのほかのいのちは天国にはありません。この「永遠のいのち」すなわち、「主なる神のいのち」を持っている人だけが天国へ行きます。そうでない人は天国へ入れません。ですから、「永遠のいのち」が聖書の中で一番たいせつにされていることなのではないでしょうか。どんな人間も「永遠のいのち」を持たなければならない。ですから、これは欠くことのできないものです。

聖書によると、すべての人々は、「永遠のいのち」を持っていないから死んでいるのです。すなわち、霊的に死んでいるのです。一ヵ所読むとわかります。エペソ書2章、342頁になります。エペソ人への手紙の2章1節から3節までお読みします。パウロのエペソの兄弟姉妹に書き送った文章です。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

ロマ書6章の最後の節23節に、皆さん何回もお読みになった箇所ですが

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

「永遠のいのち」とは、勉強した結果、努力した報いではなく、賜物です。最高の宝物です。ここで 「罪から来る報酬は死である」と言っています。死ぬであろう、なのではなく、「死んで、現在(いま)死んでいる」と言っています。この死は将来のことでなくて、今ある死です。この死はわれわれの葬式を意味しているのではなく、罪に死んでいる人間の今の状態を言うのです。

人間は三つの要素から成っています。それは精神と魂と肉体です。創造主が人間をそのようにお造りになったのです。けども、主なる神がエデンの園に人間を置き、その園を耕し守らせられた時、主なる神は、人間に「善悪を知る木」を注意するようになさったのです。主なる神は、人間に、(創世記2章17節を見ると)次のように言われました。

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。

けども、3章を見るとわかります。人間は主なる神の言うことを聞こうとしなかった。聞く耳がなかったから、取って食べました。その第一の人が罪を犯したとき、その人の何が死んだのでしょうか。「食べると死ぬ」と言われた。彼は取って食べた。けど何が死んだのでしょうか。体でしょうか。もちろん、そうじゃない。アダムの体は以前と全く同じように生きていました。それともその人、アダムの魂が死んだなのでしょうか。アダムの理解力が死んだのでしょうか。感情が死んだのでしょうか。決してそうではない。アダムはまだ考えることができたし、感ずることもできたし、計画することもできたんです。前と全く同じです。そしたら、何が死んだのでしょうか。聖書によると、精神が死んだんです。

アダムは自分の精神によって主なる神との交わりを持っていたんです。罪を犯す日まで主との交わりを持っていました。しかし、罪を犯したその時、主なる神とつながりが消えてしまいました。交わりがなくなったのです。ですから、人間の精神は生き返らなければなりません。生まれながらの人間の体は生きています。魂も生きていますけど、精神は死んでいます。そしてその精神を新しいいのちで新しくされなければなりません。生まれながらの人間は主なる神によって永遠のいのちを精神にもらわなければなりません。さもないと、永遠に死ななければなりません。「永遠のいのち」がなぜ聖書の中でそんなにたいせつな真理であるか、そのわけは、どんな人も「永遠のいのち」を持たなければ、永遠に死んでしまうという点にあります。

(昨日の昼間行なわれた家庭集会の聞き書きである。二年前の10月一人のご高齢の方が病床で息を引き取られた。しかしその二日前やはり家庭集会に来られたベック兄から慰問を受けみことばを聞かれた。もはや会話はできなくなっていたが、意識の朦朧としている中で、奥様からペンをもぎとるようにして手にされ、「これで十分だ」と書かれた。主イエス様を受け入れることによって「主なる神のいのち」をいただかれたからだ。)

2013年10月30日水曜日

「宗教」と「啓示」(最終回)

再び浅間山 2013.10.12
神は第一に自然界の被造物を通して、第二に御子イエス・キリストを通して、第三にみことばを通して、ご自身を「啓示」して下さいました。第三にみことばを通して、ご自身を「啓示」して下さいました。しかしこの神の「啓示」も人間がそれを信じなければ、何の意味も持ちません。信仰がなければ、神を知ることはできません。信じたいと願う人には、神は助け主である聖霊を送って信仰を与えて下さいます。この信仰によって私たちは被造物に現わされた創造主なる神を知ることができます。またこの信仰によって、私たちは御子イエス・キリストに現わされた、神ご自身の本質を知ることができます。またこの信仰によって私たちは聖書に現わされた神のみこころについて知ることができます。これらは、上から、つまり神の側から人間に与えられた三種類の啓示であり、人間はこの啓示を幼子のような素直な心で受け入れるならば、神ご自身を体験的に知ることができるのです。神の力は被造物に現わされており、神の愛は御子イエスに現わされており、神の義はみことばのうちに現わされています。

神を知りたいと思う者は、神に近づく必要があります。そして、神に近づくためには、自分が神の前に罪人であることを認め、その罪を悔い改めることが必要です。しかし、聖霊が働かれなければ、人は自分の罪を認めることも悔い改めることもできません。そして悔い改めには信仰が伴わなければなりません。罪を悔い改め、イエスを救い主として信じた者の心には聖霊が宿り、新しい生まれ変わり「新生」を体験するのです。聖霊は理性に光を与え、魂に喜びを与え、人間に正しい判断力を与えてくれます。こうしてイエスを救い主として受け入れた人は、今までとはまったく違う新しい人生を歩むようになるのです。そして、真理に対して心を開く者は、必ず次のように言うことができるようになります。

私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。(ヨブ40・4)

私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ42・3)

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。(ヨブ42・5、6)

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1・12)

しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3・7、8)

(「実を結ぶいのち」146〜147頁より引用。先週火曜学び会でKさんたちとお出会いする中で、この「宗教」と「啓示」の文章をもう一度確かめてみたい思いになって五回に分けて載せさせていただいた。ところが昨日の学び会によもやと思われたKさんが再び現われた。今回は前回と違って、集会開始時間11時に間に合い、メッセージも証も聞くことができたと言われた。そして再び、「啓示」のすばらしさ、みことばのすばらしさを賞賛された。ベック兄は人々には未来は不確かである、それゆえ不安・恐れが伴う。しかし主イエス・キリストを信ずる信仰者にとって未来は確かである。どこに根拠があるか、それは主のみことばである。そしてみことばは「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」と約束してくださっていると前置きしてテサロニケ第一4章から先週に引き続いて語られた。再びKさんは私は今まで集会の冊子を見る度に学歴の優秀な人ばかりが証をしていて、私には関係ないと思っていた。しかしそれは私が劣等感に囚われていただけで、そんなことは主の前には何の関係もないのだ、悔い改めさせられたと言われた。私は先週ベック兄が語られた主の怒りの日に主を信じないすべての人がその怒りから守られようと岩の間に身を隠すと紹介されたくだりを思い出した。黙示録6・15〜17である。「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」そして七という完全数が示すように、ここに出てくる7種類の人々はすべての人間を代表する者だと言われた。学歴があろうとなかろうと、善良であろうとなかろうと同じように主の怒りは燃えあがる。あだや啓示のみことばに不忠実でありたくない。)

2013年10月29日火曜日

「宗教」と「啓示」(4)

朝ぼらけ 秋明菊 輝けり
第二に、神は御子イエス・キリストを通してご自身を「啓示」して下さいました。私たちが自然界を通して知ることのできる神は、「全知全能なる神」、「裁き主としての神」であり、この神の前に私たちは畏れおののかなければなりません。しかし、一方で、神は、私たちの罪の問題を解決して恵みを与えて下さる方であり、主イエスの贖(あがな)いのゆえに、私たちの状態をのろいから祝福に変えて下さる方であり、私たちの霊の父となって下さる方です。ですから神がご自身を御子イエス・キリストのうちに「啓示」して下さることがどうしても必要なのです。

神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1・1〜3)

自然界は神の造られた作品ですが、御子イエス・キリストは、「神の本質の完全な現われ」です。これこそ、上から与えられた神の偉大なる啓示です。主イエスについて知ることによって、私たちは神を知ることができるのです。これこそ、神の側から私たち人間に与えられた「上から下へ」の道であります。主イエスは「ヨハネによる福音書」の中で、次のように語っています。

あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。(ヨハネ8・23)

神の本質がどういうものであるかということを、私たちは主イエスを通して知ることができます。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1・18)

御子イエスは神ご自身の完全な現われです。私たちはイエスを通して、主イエス・キリストの父なる神、愛と正義の神、生けるまことの神、また聖なる神を知ることができます。これは主イエスを救い主として受け入れた者だけに与えられる特権です。神の愛をとらえるのは、人間の理性ではなく、感情でもなく、霊です。この霊によって私たちは、御子イエス・キリストを通して現わされた神の愛を知ることができるのです。イエス・キリストを通して、主なる神は、私たちひとりひとりに、個人的にご自身を現わしたいと願っておられるのです。

神はこのように御子イエスを通してご自身を「啓示」しておられるのですから、人間にはこのイエスを受け入れるか拒むかという決断をする責任があります。イエスを受け入れる者は、新しい生まれ変わりを体験します。聖霊によって、その人には、新しい人生の目的と価値観が与えられます。またこの聖霊は、日々救いを受け入れた者と共にあって、真理に導いて下さいます。ところがイエスを拒む者は神の愛をも救いをも拒むことになり、その結果、自ら滅びの責任をとらなければならなくなります。私たちは、御子イエスを通して、贖いを成就して下さる方としての神をはっきりと認めることができるのです。

それでは、一体どうしたら私たちは主イエスを知ることができるのでしょうか。これはみことばを通してです。私たちはみことばを通して主イエスをはっきりと 知ることができます。これが第三の「啓示」です。主イエスはこの地上におられたときは人間の目に見えるかたちでご自身を現わしてくださいましたが、今日では、聖書を通してご自身が全人類の贖い主であることを明らかに示して下さっています。聖書は、聖霊によって記された神のみことばであり、私たちはこの聖書によって、主なる神のみこころを知ることができ、贖いの意味について知ることができ、万物の存在の目的について知ることができるのです。神が人間に望んでおられることはみことばを通して人間が神のみこころを明らかに知ることができ、自分のわがままな意志に従って生きる生き方を捨てて、神のみこころに従って生きるようになることです。神のみことばを拒む者は、神とのあらゆる交わりを閉ざしてしまうことになります。

(「実を結ぶいのち」143〜146頁より引用。「御子は神の本質の完全な現われである」とは上述のみことばが示すイエス・キリストである。古今東西様々の画家がイエス・キリストを何とか描きたいと作品にするが、どんな画家の力作をもってもあらわしえないのではないだろうか。映画『ベン・ハー』が成功しているのはイエス・キリストを俳優をもって表現しなかったところにある。しかし、私たちが素直に聖書の表現するイエス・キリストを受け入れ、信頼するとき、私たちの霊はイエス・キリストを体験できる。神のことばである聖書の「啓示」に心をしたがわせる時にまことの自由を人は体験できる。)

2013年10月28日月曜日

「宗教」と「啓示」(3)

海辺※ 2011.12.11
私たちは科学的な方法によっては、神を完全に把握することはできません。人間の理性には限界があり、無限の存在である神を百パーセント理解することは不可能なのです。人間の努力によって、すなわち、「下から上へ(地上から天へ)」という方法では、神に到達することは決してできないのです。それにもかかわらず、人間が有史以来試みてきたことは、何とかして人間の側からの努力によって神に到達しようとする試みでした。

人間が神に近づこうとするとき、ふつう次の三つの方法を試みます。第一の方法は、理性による方法で、哲学の目的はここにあります。第二は、感性によって、神をとらえようとする方法です。これは神秘主義と言われます。第三は人間の意志によって神に到達しようとする試みです。ところが第一の方法である「哲学」は必ず乗り越えることのできない大きな壁に突き当たり、第二の方法である「神秘主義」は方向性を見失った自己満足に陥ってしまい、そして第三の方法である「修行」は人間の尺度による間違った希望を目標としがちであります。つまりこれらの三つの方法によっては、神に到達することはできないのです。確かに人間はこのような方法をもって自分自身の神概念をつくりあげることはできるかも知れませんが、それでは生けるまことの神に到達したことにはなりません。

「下から上へ」すなわち人間の努力によって神に到達し、神を理解しようとする試みは、結果的には、人間を偶像礼拝へと導いてしまいます。偶像礼拝とは、唯一のまことの神以外のものを神とすることであり、偶像は人間が造り出したものにほかなりません。「下から上へ」という方法に基づく宗教や世界観は、私たちを真理へ導くものではありません。まことの神は人間によって造られたのではなく、人間が神によって造られたのです。ですから、人間が造った神は、まことの神ではなく、偶像にすぎません。偶像にはいのちがなく、私たちに永遠のいのちを与えることもできません。

これに対して、生けるまことの神は、ご自分のほうからご自身を「啓示」してくださり、人間に求める心さえあれば、神に出会うことができるように道を備えて下さいました。まことに神は人間がご自身に出会われることを切に望んでおられるのです。神が愛をもってご自身を現わしてくださること、これを「啓示」と言います。

この「啓示」には三種類のものがあります。第一に、神は自然界の中にご自身を現わして下さいました。

なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1・19〜20)

このように、私たちは自然界の中に創造主なる神を見出すことができるのです。いかなる人間も、自分から新しいものを創造することはできません。人間が発明・発見と呼んでいることがらは、すでに神によって創造されているものを発見すること、また、それを活用することにほかなりません。たとえば、今世紀になって発明されたとされている電気や原子力なども、この例にもれません。大自然を見て、私たちがなすべきことはただひとつです。すなわち自然界の個々の被造物を通して、それらを造られた創造主である神を認めるということです。神は被造物の中に、神ご自身、神の力、神の知恵、神の配慮、神の真実、そして神の限りない愛などを「啓示」しておられます。また一方、罪を決して見すごしにはされない神の峻厳さも、同時に「啓示」されています。被造物は罪のゆえにのろいのもとにあるということも事実だからです。被造物はこぞって神を証ししています。自然科学者は、自然を研究すればするほど、自然の背後にある創造主の存在について認めざるを得ないと言います。自然を知ることは、神を知ることにつながるのです。正しい自然科学は、私たちを神への礼拝へと導きます。

しかし人間は、この神からの「啓示」に対して、どのような反応を示してきたのでしょうか。大部分の人間は神の作品である自然を認めていながら、その造り主である神を認めようとはしませんでした。その結果、神に対する畏れも知らず、神を礼拝しようともしませんでした。神を認めないということは、神の裁きのもとにあるということを意味しています。

愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。(詩篇14・1)

つまり、神を認めないことは、自らを愚か者に定めていることにほかなりません。彼らに弁解の余地はないのです。人間は、神を認めることを拒否した結果、自らを霊的な盲目状態に陥れてしまい、神について何も理解することができなくなってしまい、その結果、「神はいない」と主張するようになってしまったのです。しかし人間は、この盲目の状態から回復され、霊的ないのちを再び与えられなければなりません。そしてそのための道をも、神は私たちに与えて下さっています。

以上でおわかりのように、神は自然界を通してご自身を「啓示」しておられます。

(『実を結ぶいのち』140〜143頁より引用。
※ニュートンは「世の人は私をどんなふうに見ているか知らぬが、わたしはただ真理の渺茫たる大海を前にして、めずらしい貝、美しい小石をひろいながら浜辺に遊ぶ子供たちのしているようなことをしてきただけだ」と言った。その墓石には次のように刻まれているそうだ。Nature and natural law lay hid in night! God said let Newton be! And all was light! 自然と自然の法則が暗夜の中にかくされていた! 神「ニュートン出でよ」とのたまい、かくてすべては光かがやいた!〈信仰偉人群像27頁より〉)

2013年10月27日日曜日

「宗教」と「啓示」(2)

浅間山             2013.10.11
また、インドでは、他の東アジアの国々(註1)と同様に偶像礼拝すなわち誤った祖先礼拝も広くおこなわれています。聖書は死者を礼拝したり、香をたいたりすることを固く禁じております。(死者を礼拝してはならない=出エジプト20・2〜6、申命11・16、17、26、27、28。死者に香をたいてはならない=出エジプト30・34〜38、レビ10・1、2)それらは、死者を葬っているのではなく、悪霊を礼拝しているのだと、聖書は警告しています(1コリント10・19〜22)。死者の霊は神のもとに帰っているのであり、私たち生きている者が死者の運命を左右することなどできません(伝道者の書12・7「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」)。それをあえてしようとすることは、神に対する冒瀆にほかなりません。人々はこうして、真の神から隔たった存在になってしまうのです。数々の、いわゆる宗教の特徴はそれを信じる人々をまことの救いから遠ざけ、さらには、人々が自分で気付かぬうちに、悪霊の支配下に置いてしまうところにあります。

ところが、現代の私たちの周辺には、宗教と名の付かない宗教がはびこっています。それは、仕事であり、趣味であり、慣習であります。仕事に関して言えば、聖書は怠惰を禁じています。「働かざる者は食うべからず」と最初に語ったのは、聖書です(2テサロニケ3・10)。しかし、仕事や会社が人生のすべてになり、それによって支配されてしまうなら、これは神の喜ぶことではありません。よき趣味を持つことは、すばらしいことです。しかし、趣味や遊びによって、自分が支配されるというなら、これも不幸なことです。また、自分の判断を持たずに、ただ、多くの人がするから自分も行ない、それで正しいと考えている人も不幸です。これらの人々は、私たちの身辺にも意外と多いものです。これらの人々の特徴は、人を恐れて神を恐れないということであり、その原因はまことの神を知らないところにあります。人々の顔色をうかがうことに一生懸命になっている人は、生けるまことの神との結びつきを持っていません。

主イエスは次のように言われました。

わたしは人からの栄誉は受けません。互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。(ヨハネ5・41、44)

私たちは、あわれな「人間の奴隷」となるか、または、何物にも束縛されない「神の僕(しもべ)」となるかのどちらかの道を選び取る必要があるのです。

私の書斎にはかなり部厚い聖書大辞典がありますが、ある時思い立って「宗教」という項目を探してみました。この本には、聖書に出てくるすべての項目が網羅されていますが、「宗教」という項目はついに見出すことはできませんでした(註2)。つまり聖書は「宗教」と全然関係がないということがいえるのです。それでは、聖書はまことの神について、また、上からの「啓示」について何をいったい私たちに教えてくれるのでしょうか。このテーマで次に考えてみることにします。

(『実を結ぶいのち』ゴットホルド・ベック編著138〜140頁から引用。
註1 インドが東アジアの一員と考えられていることに抵抗を感ずる方もおられるであろう。これは編者がドイツ人であり、ドイツから見たインドの地勢観によるものと思われる。アジアに位置する私たち日本人から見るなら、インドは南アジアであるが、アジアを風土・文化を加味して大分類するなら西アジア〈乾燥アジア〉と東アジア〈モンスーンアジア〉の二大分類ができなくもない。そうするとインドも日本もやはり東アジアとして共通項にひっくるめることができる。
註2 私の手もとにある文語訳聖書語句事典1955年聖書図書刊行会版には「宗教」という一行項目があるのみだが、それにはsectと言う英語表記が併記してあり、使徒26・5、使徒28・22があがっている。むしろ「信心」という一行項目にreligionと英語表記の併記があり、新改訳聖書では同じみのヤコブ1・26〜27があげられている。だからこれも編者がここで言われていることと大差はないと言える。

2013年10月26日土曜日

「宗教」と「啓示」(1)

「風の歌Ⅰ」 吉岡賢一 二紀展より
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1・12)

人々は、いわゆる「宗教」と「イエス・キリストに対する信仰」とは同質のものであると考えていますが、これは大きな誤解です。「宗教」は人間が作り出したものであり、「イエス・キリストに対する信仰」は、上からの啓示によって与えられたものです。そこで、いわゆる「宗教」とイエス・キリストによって与えられた「啓示」がどのように本質的に異なるかということを、この章(註1)を通して明らかにしてみましょう。

ロシア革命の指導者、レーニンの有名なことばに「宗教は人民にとって阿片である」(註2)というものがあります。ここでレーニンは「宗教」ということばを使っていますが、彼はいわゆる宗教信者だけではなく、真の信者をも念頭においてこのことばを用いました。確かにレーニンは、心の支えを持っている人間は、まことの神を礼拝することや真理に従うということに関しては絶対妥協しないということを知っていました。まことの信仰を持っている人は、主イエスに不従順な道を歩むよりは、喜んで殉教の死を選ぶからです。レーニンは、革命を遂行するために、人間をあやつり人形のように自分の思う通りに従わせたかったのです。レーニンの必要としたのは、自分自身で考え、行動する人間ではなく、彼の指図通りに動く人間でした。ですからレーニンは心の支えを持った人間を憎まざるを得なかったのです。

同時にこのレーニンのことばは、いわゆる宗教信者に対しても当てはまることばであるとも言うことができます。仏教、神道、儒教、イスラム教などはもちろんのこと、キリスト教でさえ宗教としての側面を考えるとき、このレーニンのことばは、鋭く一面の真理を指摘していると言わざるを得ません。なぜなら、これらの「宗教」の特徴のひとつは、「阿片」のように、人々の判断を麻痺させたり、霊的に盲目にしたりしていることであり、この結果、人々は真の神から目をそらし、永遠の救いに至る道を見失い、本来神でない神、すなわち、偽りの虚しいものに、根拠のない希望を置くようにされてしまっているからです。

いわゆる「宗教」は、キリスト教、仏教、神道、儒教、イスラム教、その他種々の宗教も含めて、すべて人間が作り上げたものです。これに対して「まことの啓示」は、上から与えられるものです。「宗教」は人間を永遠のいのちに導き入れることはできません。「上からの啓示」だけが私たちを滅びから救い出し、他の何ものによってもゆるがされない「喜び」と「希望」と「平安」を与えることができるのです。聖書も語っているように、すべての人間には、例外なくまことの神を慕い求める思いがあり、(伝道者の書3・11註3)この思いを、多くの人々は、種々の「宗教」を通して満たそうとしています。人間の側から神に近づこうとすること、これが「宗教」の本質です。これに対して、「啓示」とは、まことの神が、ご自分の側から人間に対してご自身を現わしてくださり、人間が体験的に神を知ることができるようにして下さることを言います。このことを具体的な例をもって考えてみましょう。

インドは世界中で、最も貧しい国のひとつであると言われています。六億の人口をかかえ、子どもたちの50パーセントから70パーセントは、慢性的な栄養失調に陥っているのが実状です。インドは世界各地から毎年莫大な小麦を輸入しています。ところがある学者によれば、インドは本来十分な食糧を自給できる国であり、さらに、それを輸出することさえできるはずであるとのことです。それでは、一体何がインドをこのような貧困に陥れているのでしょうか。それはほかならぬ「宗教」なのです。インドには約50億匹のドブネズミがいます。つまり、インド人ひとりに対して8匹のドブネズミがいるという勘定になります。ですから、インドのドブネズミは、すべてのインド人よりもたくさんのものを食べていると言うことが言えるのです。インドの宗教によれば、ドブネズミは神聖なものであり、殺してはならないとされています。ですから、インドのドブネズミは撲滅されずに増える一方です。そしてその代償として多くのインド人の子供たちが餓死してゆくのです。私たちはここに「宗教は人民にとって阿片である」ということの一例を見ることができます。

(『実を結ぶいのち』ゴットホルド・ベック編著136〜137頁から引用。
註1この本は三部に分かれており、上述の文章は最後のⅢ光を見上げて—宗教から救いへ—の第二章からのものである。ちなみに第一章は「みこころに反する祈り」、第三章は「仰げ主を」である。
註2このことばは厳密にはマルクスのことばである。しかし、レーニンもこれに似たことばを用いているようだから大意としては差し支えないであろう。
註3「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」

2013年10月25日金曜日

刎頸の交わり(その1)

交わりに参加し、鳥かごから出て来たインコ Tさん宅で
表題は「ふんけいのまじわり」と読む。国語辞典によると「首を切られても悔いないほどの、生死を共にする親しい交際」とある。このような語彙はかつて田中角栄氏と小佐野賢治氏との交わりなどを表現する場合に使われていたように記憶する。

今週火曜日に定例の集会に出席して、そのあと二人の方とお交わりした。一人の方Kさんとは二回目、もうひとりの方Tさんとは三回目であろうか。KさんとTさんはお互いに初対面であった。私を介してのお交わりになった。ほぼ一時間ほどの昼食をともにするお交わりであった。お互いに主イエス様を若い時に信じ(Tさんは19歳、Kさんは25歳、私は27歳)、教会生活も送ったが、今は教会には集っていない。

あまりお互いの素性は知らない。ただ主イエス・キリストを救い主として信じ、永遠のいのちをいただいている確信のある者同士である。Tさんは1950年生まれ、Kさんは1947年生まれ、私が戦前だから一番年長になる。ここ二三年に集会に来られて知り合った間柄である。ところがいずれも教会を経由して来ているので、「宗教」の恐ろしさを体で体験している面々である。「宗教」にはだまされないゾという覚悟が互いにある。

談たまたま、その日の短いベック兄のメッセージの話になった。当日の題名は「もうちょっと」で第一テサロニケ4章13節から18節が引用聖句であった。「もうちょっと」とは主イエス様が再び来られるのは、もうちょっとという意味である。そのような話になったとき、Kさんが頭を抱え込んで言い出した。「ちょっと、待って。俺は毎日これは自分が正しいと思ってやっているけれど、ほんとうにそうでなかったらどうしよう。主に裁かれ、お前なんか知らないと言われるかも知れない。やはり『主よ、これはどうなんでしょうか、まちがっていないでしょうか、教えて下さい』と祈って行動しなければ」

あとでわかったのだが、Kさんは仕事が忙しく、やっとの思いで集会場に来たのだが、メッセージも証も聞いていない、私に会いに来たのだと言う(私が集会に来ているかどうかも分からないのに・・・)。その彼がすぐそのように反応したことに私は正直驚いた。メッセージをじかに聞いていても私はそうは思わなかったからである。彼の純粋な信仰に目を見張らされた。

Kさんも、Tさんも、今のご時世、年金生活を送るわけに行かず、毎日生活のために日曜日もなく働いている。たまたまご両人の時間が割ける日がこの日だったと言うわけだ。集会出席は年に数回ではないだろうか。そしてそれほど会う機会のある方々ではない。しかし、ひとりひとりその日は示されて集会場に集まって来たのだ。Kさんにいたっては前言したように、集会場をあとにしようとするとき、誰かがあなたのことを捜していましたよ、と言われて大ぜい集まる人々の中でやっとお会いできたのであった。

Kさんとは昼食のあと別れ、示されてTさんのお宅に急遽行くことにした。もちろん前もって決まっていたことではない。家には病気の奥様が伏しておられるとは聞いてはいたが。目的は彼にパソコンとネットを教えるためであった。でも、それだけでなく彼の純真な気持ちと交流をともにすることに喜びを覚えたからである。そして奥様ともお会いできた(普通、そのような訪問はすべきでなく、先方も突然の珍客はいくら何でもお断りしたくなるものだ、しかしそんな気配は感ぜず、そこでさらに一時間ほど豊かなお交わりになった)。

キリスト者とは不思議な民だ。「刎頸の交わり」とは主にある兄姉の交わりにこそふさわしい。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(第一ヨハネ3・16)

2013年10月24日木曜日

我は汝により、我が事業を為すを得べし

国王の宝
金銀珠玉に等しき、
多くのもの我が手に満ち
これらを貴しとして我は握りぬ。
主は来まして我が手に触れ、
(主の聖手には傷ありき)
我が財宝(たから)を聖足(みあし)もて
一つ一つに踏み砕き給えり。
「我れ空虚(むなし)き手を要す」と主は宣(のたま)いぬ、
「其を以て汝(なれ)により、我が事業を為す」と。

『我が手は労役に汚れ
泥土(でいど)に塗(まみ)れたり
しかも我が労作(はたらき)は往々穢(けが)れて
何らの価値もあらざりき。
主は来ませり、我が手に触れ給いぬ
(主の御手は紅に染みたりき)
しかも我が手を見れば驚きぬ、
見よ、汚れはことごとく我が手を去れり。
「我れ潔き手を要す」と主は宣いぬ、
「其を以て汝(なれ)により、我が事業を為す」と。

我が手は熱病のごとくなりまさり
多端のことに煩わされたり!
繁忙と噪急とに打ちわななきつつも
祈祷に支えられるること無かりき。
Trembling with haste and eagerness, Nor folded oft in prayer. 
主は来ませり、我が手に触れ給いぬ、
(その聖手に医治の力をもて)
かくて我が手はその聖旨をなすよう
穏やかにまた静まり—その熱は去れり。
「我れ柔和なる手を要す」と主は宣いぬ、
「其を以て汝(なれ)により、我が事業を為す」と。

我が手は空想を以て力あり、
しかも神のことには弱かりき。
神のためならず、己れのため
事業をするに甚だ大胆なりき。
主は来ませり、我が手に触れ給いぬ
(主の聖手には能力〈ちから〉ありき!)
かくて我が手は衰えたり、
ただ主の聖手はその手に置かる。
「かくのごとくしてのみ」と主は宣いぬ、
「我れは汝(なれ)により、我が事業を為すを得べし」と。
 I can work My works through thee.

(いささか古風だが、ほぼ100年前に日高善一氏をとおして訳された、S.D.Gordonの名著QUIET TALKS ON POWER〈邦訳著作名「能力に充つる生活」〉https://archive.org/stream/quiettalksonpowegsd00gord#page/n5/mode/2up中に載せられている詩である。なお、日高善一氏は「フランダースの犬」の本邦初訳を試みた人であると言う。)

2013年10月14日月曜日

三題噺(主の恵みは尽きない)

Bさんおめでとう! 2013.10.12
Aさんは1930年生まれだから、もうとっくに後期高齢者の域に達しておられる。ところが若い私たちの誰よりもその働きぶりは群を抜いている。先週土曜日の朝も某所でこの方のその日のスケジュールを思うて、ある方が、私に語るともなくおっしゃった。ある時、Aさんに、そのお体を気づかって「そんなに働いて大丈夫ですか」と問うたら、即座に「生きている証拠だよ」と答えが返って来たそうだ。間髪を入れずにその場で当意即妙に返って来た日本語の巧みさとその心の非凡さに舌を巻いたということであった。

ところが昨日日曜日、某所を離れ別の地に出かけた私は、遠くAさんのことを思って、私の見聞した土曜日の働きぶりや日曜日の働きを予想して別の方にそのことを話したら、今度はその方が「(とっくに)Aさんは死んでますよ」と言われた。私はその方には珍しい余りにも過激な言い方にびっくりしたが、簡潔なその表現ぶりに痛く感動し、「死んでますね、(確かに)Aさんは!」と相づちを打った。その方は笑いながら「そうですよ、Aさんは死んでますよ」と再び繰り返された。二人がすっかり意気投合して話す話を傍で聞いていた方が、「いったいAさんは病気持ちだと言うが、本当はどうなのですか」と問われる。「(自分に)死んでますよ」と先程言われた方は「三つの病気を持っておられるが治っていないでしょうね」と付け足された。

イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(ヨシュア14・10〜11)

Bさんは1978年生まれの女性だが、土曜日結婚された。中々の才女の方であった。その方が就職先の採用主と結婚された。その方の採用の面接を新郎となった雇い主の方がなさったのが機縁であった。ところが、その面接時に雇い主である新郎は採用するのに迷ったと言うより、採用する意志はなかった。それほどその女性の面接時の答えぶりはなっていなかった。何を聞いても不安気であり、自信に満ちた答えが帰って来なかったったことによる。しかし、新郎の方が言われるのにはペーパーテストの出来が抜群であり、応募者の誰よりも優れていたので採用せざるを得なかったと言うことだった。こんな彼女であったが交際して6年だったか、結婚のプロポーズを受けた。しかし彼女はキリスト者でことごとく主の恵みを体験して来た。ところが相手の男性はキリスト者でなかった。

迷いはあったが、祖母の召天に身近に接し、「折角、この方と結婚しても天国でこの方と一緒になれないなら何にもならない」と思い、それからこの方がイエス様を信じ救われるまで結婚を待とうという思いが明確に与えられ、必死になったと言うことだった。そして三ヵ月ほど前、新郎になる方がイエス様を受け入れ、この日のスピード結婚式となったと言うことであった。新郎は結婚式の日取りは10秒で決まったと言われた。しかし結婚の証の話の時、新郎は自らの人生を振り返り、随所随所にイエス様の導きがあったと繰り返された。ご両人が結婚にあたって選ばれたみことばは以下のものであった。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3・5〜6)

ご両人の証のことばに嘘偽りはなかった。昔、異邦人の女ルツは雇い主ボアズのもとに身を寄せた。ボアズとルツは結婚した。ご両人もまたこの古の人々の信仰の跡を歩まれるのだ。土曜日、日曜日とそれぞれちがったところではあったが、主は必要な恵みを私に与えてくださった。

そう言えば、日曜の夕方遅くなったが、延々と電車を乗り継いで都下の病院に入院しているCさんを見舞うことができた(Cさんは次男の妻であり、今日月曜日でちょうど入院生活も150日を数える)。結婚4年目にして訪れた最大の試練である。前途に希望と不安の交錯する病室で、私たちは詩篇119・73〜76を開き、ともに祈ることができた。主のあわれみ・恵みは尽きない。

どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、あなたの恵みが私の慰めとなりますように。(詩篇119・76)